ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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有馬記念(前)

 一年を締めくくる夢の祭典、年末のグランプリ――有マ記念。

 

 底冷えする冬の寒さなど微塵も感じさせないほど、中山のスタンドは異様なまでの熱気と大歓声に包まれていた。

 

 今年の顔ぶれは、まさに伝説と呼ぶにふさわしい。

 

 秋の盾を制したオフサイドトラップ、春の天皇賞ウマ娘であるメジロブライトをはじめとする古豪たち。そこに、グラスワンダーやセイウンスカイといった、底知れない実力を持つ『黄金世代』の猛者たちが牙を剥いて参戦してきている。

 

 だが、ファンのボルテージを最も跳ね上げている要因は、なんといってもあの『異次元の逃亡者』の出走だった。秋の死闘を無傷で乗り越え、さらに洗練されたスピードを引っ提げてグランプリの舞台に降り立ったサイレンススズカ。

 

 しかし、運命というやつは本当に意地悪にできている。

 

 彼女が引き当てたのは、無情にも『大外枠』。トリッキーでコーナーが6つもある中山の2500メートルにおいて、ハナを切りたい逃げウマ娘にとって大外は致命的なまでの不利を強いられる、最悪のゲートだ。

 

 対するボク、ステイゴールドは『3枠5番』。内側のバ群に潜り込み、息を潜めて終盤の差し込み(スパート)を狙うには、これ以上ないほど絶好のポジションだった。

 

 パドックでのお披露目を終え、冷たい空気が張り詰める地下通路へと足を踏み入れる。

蹄鉄の音がコンクリートに反響する薄暗い通路の中で、スッと、白緑の勝負服がボクの隣に並び掛けてきた。

 

「……楽しみですね」

 

 前を向いたまま、透き通るような声がボクの鼓膜を揺らす。

 

 横目でチラリと見ると、サイレンススズカは静かな、けれど内側に青白い炎を煌々と燃やすような、素晴らしい闘気を纏っていた。大外枠という絶望的な逆境すら、今の彼女にとっては自分の走りを極限まで高めるためのスパイスでしかないらしい。

 

「ああ」

 

 ボクは低く応え、ニヤリと深く口角を吊り上げた。

 

「大外から飛んでくる異次元の逃亡者……。またお前を差せると思うと、武者震いが止まらないよ」

 

 おじさんの魂が、そしてボクの心臓(シリンダー)が、歓喜のあまりにガンガンと音を立てて早鐘を打っている。このヒリヒリとするような極限のプレッシャーこそが、たまらない。

 

 ボクの好戦的な言葉に。スズカはふっと口元を綻ばせ、揺るぎない意志の宿った瞳で、薄暗い地下通路の先――光の差し込むターフへと視線を向けた。

 

「私もです」

 

 そして、彼女は一切の迷いがない、澄み切った声で宣言した。

 

「先頭の景色は、貴女には絶対に渡しません。……下から突き上げてくる、あの黄金世代にも」

 

 それは、秋の天皇賞で運命をねじ伏せた絶対的な逃亡者からの、最高に誇り高き宣戦布告だった。

 

「へっ。言ってくれるじゃないか」

 

 ボクは軽く首を鳴らし、気合いを入れるように小さく息を吐き出した。

 

 待ち受けるのは、黄金世代の怪物たちと、不沈の逃亡者。

 

 ―――最高だ。この熱苦しくて泥臭い旅路の総決算として、これ以上ない舞台が整っている。

 

 

 カシャンッ!

 

 中山に轟くゲートの開く音と同時に、地鳴りのような大歓声が空気を震わせた。

 

 飛び出したのは、白緑の勝負服。

 

 大外枠という圧倒的な不利など端から存在しなかったかのように、サイレンススズカは誰よりも早くトップギアへ入れ、第1コーナーに向かって斜めに切れ込みながら、強引に先頭の景色をもぎ取っていった。

 

「相変わらず、バカみたいに速いね……」

 

 バ群の好位、インコースの絶好のポジションを確保したボクは、前方を孤高に駆け抜けていくスズカの背中を見つめながら、心の中で一人ごちた。同室の芦毛なら「アホみたいに速え!」とでも叫ぶだろうが、ボクは冷静に彼女の走りを分析していた。

 

 ハナを奪われる形になったセイウンスカイは、スズカの狂気的なスピードに無理に付き合うことはせず、クレバーに2番手に控えてマイペースを保っている。彼女のその判断は正しい。スズカの逃げを真正面から追いかければ、確実にオーバーペースで自滅するからだ。

 

 ボクはバ群の中で息を潜め、ターフを蹴る感触と風の抵抗から、体内時計で精密にタイムを測る。

 

(……なるほど。スズカのやつ、ただ無鉄砲に飛ばしてるわけじゃないな)

 

 秋の天皇賞、あの2000メートルの舞台で見せた「1000メートル57.4秒」という狂気の逃げ。しかしここは、中山の2500メートル。コーナーが6つもあり、最後には強烈な急坂が待ち構えている過酷なコースだ。

 

 ボクの体内時計が、先頭の通過タイムを弾き出す。

 

(1000メートルの通過、おそらく58秒台後半……いや、59秒フラットか?)

 

 秋天の時より、ほんのわずかに――コンマ数秒の世界で、ペースを落としている。

 

 彼女のあの圧倒的なスピード感覚からすれば、これは明らかな「スタミナ配分を考慮した逃げ」だ。大ケヤキの向こう側を知り、肉体の限界を理解したからこそできる、洗練された狂気。

 

 ただの大逃げなんかじゃない。最後まで先頭の景色を譲らないための、緻密な計算に基づいた最高速の逃亡劇が既に、開演しているのだ。

 

(やるじゃないか、サイレンススズカ……!)

 

 ボクが口角を吊り上げたのと同じタイミングで。

 

 前方に位置するベテランのオフサイドトラップ、そして後方で構えるメジロブライトも、この「わずかに遅い、だが異常に速い」ペースの真意に気づいたのが、空気の揺らぎでわかった。

 

『このままスズカを逃がせば、後半にスタミナを残された状態で逃げ切られる』

 

 それが意味するのは、一つ。後続のウマ娘たちは、常識的なタイミングよりもずっと早く、スズカを捕まえるための早仕掛け、狂気のロングスパートを打たざるを得ないということだ。

 

 

 第3コーナーが近づくにつれ、バ群の中の空気が急速に張り詰め、激しい位置取りの争いが勃発し始めた。

 

「……ッ!」

 

 隣でバチバチと火花を散らす気配を感じ、ボクは横目で視線を送る。

 

 そこには、静かな闘気を纏ったアメリカ帰りの怪物――グラスワンダーが、ボクの動きを完全にマークするように、不気味なほどピタリと張り付いていた。

 

(ボクを基準にして、仕掛けのタイミングを計る気か。……いい度胸だ)

 

 そして後方からはメジロブライトの斜め後ろ、最後方からの強襲を狙う絶好のポジションで、虎視眈々と牙を研ぐ一流の気配。

 

 ボクの愛してやまない、あのキングヘイローが、不屈の闘志を燃え上がらせて前を睨みつけていた。

 

 中山の短い直線と、急なカーブ。

 

 それぞれのエゴイズムと戦略が複雑に絡み合う中、レースは勝負の分岐点――運命の第2周目、第3コーナーへと突入していく。

 

 

 勝負所の第3コーナー。

 

 中山の短い直線へ向けて、バ群全体がうねりを上げるようにして一気に動き出した。

 

「行くぞッ!」

 

 ボクの合図に呼応するように、外からメジロブライトが、内からオフサイドトラップが、一斉にエンジンの回転数を限界まで引き上げてスパートを仕掛ける。当然、ボクをマークしていたグラスワンダーをはじめとする『黄金世代』の怪物たちも、その殺気立った動きに合わせて猛然と加速を開始した。

 

 だが――先頭を走るサイレンススズカは、後続の早仕掛けなど完全に想定済みだった。

 

「――っ!」

 

 スズカの背中が、フワリと沈み込む。

 

 前半の1000メートルで意図的にペースを落とし、極限まで温存していたスタミナ。それをこの第3コーナーの頂上で一気に解放し、本来の『異次元のスピード』へと再びギアを跳ね上げたのだ。

 

(やっぱりな……しかも、前より速い)

 

 引き離される背中を見て、ボクは思わず舌を巻いた。

 

(進化してる。秋のあの狂気的なスピードに、レースを組み立てるクレバーさまで身につけていやがる。こっちだって、この有馬に向けて地獄のチューニングでスタミナと瞬発力を限界まで伸ばしてきたってのにな!)

 

 スズカが再加速したことで、レースのペースはもはや異常な領域(ゾーン)へと突入した。その圧倒的なスピードの暴力に、真っ先に飲み込まれたのは前線にいたセイウンスカイだった。

 

「あはは……さ、すがにこのペースは、キツい……っ」

 

 クレバーな彼女でさえ、想定を超えたスタミナの削り合いに耐えきれず、ズルズルと後退していく。

 

 そして後方から末脚を狙っていたキングヘイローもまた、大外から進出しようとした矢先、脚色がいきなり鈍った。

 

「こんなところで………ッ!」

 

 どれほどプライドが高くとも、この異常なハイペースの前では残されたスタミナが圧倒的に足りない。残酷なまでの実力差が、誇り高きウマ娘をターフに縫い付けていた。

 

 バ群のインコースでは、マチカネフクキタルが完全に前の壁に塞がれ、行き場を失っていた。

 

「ああ――ステイゴールドさん、私の分までお願いしますッ!」

 

 抜け出すのを諦め、ボクの背中へとすべてを託すフクキタルの声が背後から響く。

 

「任せとけッ!」

 

 中山の急カーブ、最終の第4コーナー。

 

 先頭でコーナーを鋭く切り裂くサイレンススズカ。

 

 最内を泥臭くすり抜けるボク。

 

 外から圧倒的なストライドで迫るメジロブライト。

 

 ボクの真横にピタリと張り付き、底知れない不気味な瞳を光らせるグラスワンダー。

 

 そして、歴戦の意地で食らいつくオフサイドトラップが少し遅れて続く。

 

 いよいよ最後の直線だと思った、その時だった。

 

「――道を、空けろッ!!」

 

 最終コーナーの途中。バ群のわずかな隙間を縫うようにして、もう一つの巨大なオーラが進出してきた。張り詰めた冷気を切り裂くような、気高く、そして力強い足音。

 

 女帝・エアグルーヴだ。

 

 この年末の総決算で、すべてを飲み込むような覇気を纏って上位陣のすぐ後ろまで迫ってきていた。

 

 スズカ、グラス、ブライト、オフサイド、エアグルーヴ、そしてボク。

 

「はぁぁぁぁぁッ!!」

 

 ボクはシリンダーの底の底、最後の一滴まで燃料を絞り出し、中山の短くも過酷な直線――心臓破りの急坂へと、全身全霊で突っ込んでいった。

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