ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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有馬記念(後)

 最終直線を迎え、極限まで回転数を上げたシリンダーが、限界の更に先に踏み込もうとした瞬間。

 

 中山のスタンドを揺るがしていた地鳴りのような大歓声が、フッと遠のいた。

 

(……風が、視える)

 

 苦痛も、疲労も、焦燥も、すべてが削ぎ落とされた極限の集中状態(ゾーン)。

 

 ボクの身体の周囲を、熱く光り輝く『黄金の風』が渦を巻きながら流れていく。風の抵抗すらも己の推進力へと変える、かつて味わったことのない絶対的な領域。

 

 その黄金の風の中を進むボクの視線が、先頭を駆ける純白の背中と交差した。垣間見えたのは、彼女が生きる世界。どこまでも澄み切った、雑音の無い、ただ純粋な『静かな世界』。

 

 そして同時に、前を向いたままのサイレンススズカもまた、ボクの心象風景(セカイ)を垣間見る。

 

 泥に塗れ、幾度も敗れ、それでも誰よりも熱くターフを駆け抜けようとする、荒々しくも美しい『黄金の旅路』を。

 

 運命をねじ伏せた者同士だけが共有できる、ほんの一瞬の、無音の対話。

 

 互いの領域が重なり合い、このまま二人だけの果てしないデッドヒートが続く――そう思った、次の刹那だった。

 

「――甘いですわッ!!」

「……行きます」

 

 バンッ!! と。

 

 その神聖な無音の世界を、暴力的なまでの力技で粉砕して割り込んできた二つの巨大な影。

 

 外からメジロブライトが、誇り高き名門の執念を纏って並び掛ける。そして内からは、アメリカ帰りの怪物・グラスワンダーが、底知れぬ静かな闘気を爆発させ、ボクの黄金の風を喰い破るようにして猛然と突っ込んできた。

 

「ははっ……! 化け物どもめッ!!」

 

 ボク、スズカ、ブライト、そしてグラスワンダー。四つの極限のエゴイズムが中山の心臓破りの急坂で完全に横一線となり、火花を散らす凄まじい叩き合いへと突入した。

 

 筋肉が悲鳴を上げ、肺が焼け焦げるような痛み。一歩、また一歩とターフを蹴るたびに、順位が目まぐるしく入れ替わる極限の死闘。

 

 そして、ゴールまで残り200メートル――ラストワンハロンの標識を通過した時だった。

 

「……ッ!」

 

 グラスワンダーの研ぎ澄まされたストライドが、ついに壁を超えた。怪物の末脚が、急坂をもろともせずに加速し、先頭で粘り込みを図るサイレンススズカの背中に追いすがる。そして、並ぶために一歩を踏み込もうとした。

 

(――届く!!)

 

 グラスワンダーの闘気がそう確信し、ボクの背筋にもゾクリと悪寒が走った、まさにその瞬間。

 

「…………ふふっ」

 

 サイレンススズカの透き通るような声が、極限のターフに落ちた。

 

 大ケヤキの呪縛を越え、秋の死闘を生き抜き、さらに己の限界を叩き直した『異次元の逃亡者』。彼女は、グラスワンダーに並び掛けられそうになったその絶望的なタイミングで、信じられないことに更に、姿勢を一段低く、腰を落としたのだ。後方から迫る末脚(プレッシャー)をギリギリまで引きつけ、限界まで温存していた最後の推進力を、一気に爆発させる。

 

 ズドン、とターフを穿つ音が聞こえた。

 

 それは、逃げウマ娘が決して足を踏み入れてはならない、常識外れの戦術。

 

 

 

 

 

 すなわち――『逃げて、差す』。

 

 

 

 

「なっ……!?」

「嘘だろッ!?」

 

 

 

 ボクとグラスワンダーの驚愕の声が重なる。

 

 先頭を走り続け、誰よりもスタミナを消耗しているはずの逃げウマ娘が、最後の最後で、差しウマ娘のような爆発的な加速を見せる。そんな理不尽が、許されるはずがない。

 

 

 だが、彼女はただ一人、理不尽が許されたウマ娘。

 

 

 白緑の勝負服が、弾かれたように前へと飛び出し、グラスワンダーの必殺の末脚を置き去りにしていく。

 

 これこそが、これこそが、サイレンススズカ。

 

 悲劇の運命を乗り越えた先でついに完成した、『異次元の走り』の本当の真価だった。

 

 

 ゴール板を駆け抜けた異次元の逃亡者。それに少し遅れて、激しい叩き合いを演じたボクたちが次々と飛び込んでいく。

 

 ターフがどよめきから、信じられないものを見たというような静寂に包まれ――やがて、爆発的な大歓声へと変わった。電光掲示板に赤々と灯った数字。それを見た瞬間、ボクたちの間を言葉にならない感情が通り抜けた。

 

 タイムは、レコードの『2分28秒フラット』。

 

 そして、さらに恐ろしいのは、先頭を走り続けたはずの彼女の上がり3ハロンのタイム。

 

『34秒1』。

 

 それは、スローペースのレースで、最後方に控えていた差しウマ娘が叩き出すような、極限の瞬発力を示す数字だった。大外枠からハナを切り、ハイペースで逃げを打ちながら、最後の急坂でさらに後続を突き放す爆発的な末脚を繰り出す。

 

 『逃げて、差す』という常識外れの戦術が、紛れもない事実としてそこにあった。

 

「……あははっ」

 

 あまりの理不尽さに、ボクの口から乾いた笑いがこぼれ落ちた。

 

 それに呼応するように、隣で荒い息を吐いていたメジロブライトも、歴戦のオフサイドトラップも、たまらないといった様子で肩を揺らして笑い始めた。黄金世代の怪物たちも同じだ。圧倒的な実力差を見せつけられ、悔しがるよりも先に、ただただ笑うしかなかった。

 

「……ふふっ。流石にショックですけれど」

 

 グラスワンダーは額の汗を拭いながら、どこか清々しい、不思議なほど穏やかな表情で先頭の景色を見つめていた。

 

「あれだけの末脚を隠し持っていたなんて。でも……相手がスズカさんですから。納得するしかありませんね」

 

「違いない」

 

 ボクは大きく肩をすくめ、やれやれと首を振った。

 

「本当に、遥か彼方まで追いつけなくなっちまった。……こりゃあ、すっかり参ったね」

 

 確定した順位が、電光掲示板に並ぶ。

 

1着、サイレンススズカ。

2着、グラスワンダー。

3着、メジロブライト。

4着、ステイゴールド。

5着、オフサイドトラップ。

 

 それ以下のウマ娘たちは、あの狂気的なペースの削り合いに耐えきれず、完全に掲示板(5着以内)を外すという残酷な結果となっていた。

 

 息を整えながら、ボクは冬の高く澄んだ空を見上げた。

 

 悲劇の記憶は完全に打ち砕かれ、彼女は無事に年末の祭典を走り切った。どころか、誰も手の届かない絶対的な領域へと進化を遂げた。

 

 ボクの知る『正史』のレールは、これで完全に消え去ったのだ。

 

(ま、悲劇の歴史は終わった。……最高に良いことだ)

 

 胸の奥のシリンダーに溜まっていた重い煤(スス)が、冬の冷たい風に吹かれて、綺麗に消え去っていくのを感じた。ボクが勝手に背負い込んだ大きな使命(おせっかい)は、これでもう終わりだ。

 

 彼女たちはもう、誰が心配するでもなく、自分自身の魂を燃やして、誰も知らない未知の未来を切り拓いていけるのだから。

 

「……と、同時に」

 

 ボクは頭をガシガシと掻き回し、一人ごちた。

 

「さて、これからどうしたもんかねぇ」

 

 黄金世代との削り合いはたまらなく面白かったし、これからもこの泥臭い旅路は続いていく。ただ、少しだけ、落ち着きたいなと思っただけだ。

 

 

 その日の夜。

 

 ステイゴールドは寮の自室に戻ると、最低限の着替えと、お気に入りの紅茶の茶葉だけをボストンバッグに詰め込んだ。

 

 専属メカニックには『ちょっと頭を冷やしてくる。年明けのチューニングには戻るから、よろしく』とだけメッセージを送り、夜風の冷たいトレセン学園を後にする。

 

 おじさんの魂を乗せたウマ娘は、これから始まる誰にもわからない新しい世界へ向けて。宛のない、ふらりとした気ままな一人旅へと出たのだった。

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