ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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新たな旅路へ

 夜のトレセン学園。

 

 底冷えする冬の空気を吸い込みながら、ボストンバッグを肩にかけてひっそりと正門を抜けようとした、その時だった。

 

「おう、門限破り」

 

 不意に暗がりから声が掛かり、ボクはビクッと肩を揺らした。声の主の方を見ると、街灯の下、レンガ造りの壁に背中を預けて立つオフサイドトラップの姿があった。

 

「……なんだ、あんたか。驚かさないでくれよ」

「悪かったな。どうにも目が冴えちまって」

 

 壁から背中を離し、ゆっくりと歩み寄ってくる彼女に、ボクは尋ねた。

 

「で? オフサイド。どうしたんだ、こんな時間に」

 

「有マでのスズカの走りにすっかり当てられちまってな。興奮冷めやらぬ、ってやつだ。ベッドに入っても、どうにも熱が引かなくてね」

 

 吐き出す白い息を夜風に溶かしながら、オフサイドトラップは軽く肩をすくめた。それから、ボクが抱えるボストンバッグを一瞥して「お互い様みたいだな」と笑い合う。

 

 少しの間、秋の狂乱や、さっきの有馬記念の異常なレコードタイムについて、極限の死闘を終えた者同士にしかわからない、他愛のない雑談を交わした。

 

 やがて。ふと会話が途切れ、冬の冷たい静寂が二人の間に降りた時だった。オフサイドトラップは、冴え冴えとした夜空を見上げるようにして、静かに口を開いた。

 

「引退する」

 

「……」

 

 ベテランである彼女のキャリアを考えれば、いつかその日が来ることはわかっていたはずだ。それでも、いざ言葉にされると、胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚があった。

 

「……ドリームにでも?」

 

 ボクが努めて平坦な声で尋ねると、彼女はゆっくりと首を横に振った。

 

「いや。地元のクラブだ」

 

 そう答えた後、オフサイドは言葉を切った。ただ冷たい風だけが、彼女の髪を小さく揺らしている。ボクは急かすことなく、彼女が次の言葉を紡ぐのを待った。

 

「……ラストスパート。あの急坂で仕掛けようとした瞬間、脚が悲鳴を上げちまった」

 

 彼女は、自分の脚をポンと軽く叩いた。

 

「これで、4度目だ。……流石に今回は、ドクターストップがかかってな」

 

 ボクは、何も言えなかった。ただ、静かに彼女の言葉を聞き入れた。

 

 『不屈』……。

 

 この言葉はキングヘイローにも当てはまるが、このオフサイドトラップもまた、度重なる脚の爆弾――三度もの致命的な屈腱炎という絶望を乗り越え、不屈の闘志でターフに舞い戻り続けた凄まじい執念の持ち主だ。

 

 その、限界まで戦い抜いた彼女の脚が、ついに本当の終わりを告げたのだ。

 

 慰めや同情なんて野暮なものは、この歴戦のウマ娘には似合わない。ボクが黙って前を見据えていると、オフサイドはフッと、不敵で、そして心底晴れやかな笑みを浮かべた。

 

「それに……もう、満足しちまったんだ」

「満足?」

「ああ。あの秋、絶対に捕まえられないはずだった『あの異次元の逃亡者』を、アタシはこの脚で確かに差し切った。悲願だったG1ウマ娘の称号も手に入れた」

 

 彼女はボクに向き直り、その歴戦の誇りが詰まった真っ直ぐな瞳で、ボクを射抜いた。

 

「……お前のおかげだ、ステゴ」

 

「!」

 

「お前があの秋、私を誘ってくれなかったら。常識外れの仕掛けでスズカを追い詰めてくれなかったら、アタシはG1の頂点からの景色を見ることなく、ターフを去っていたかもしれない。……アタシの執念を形にしてくれたのは、間違いなくお前だ」

 

 それは、誇り高き老兵からの、一切の飾りのない心からの感謝だった。

 

 

「ま、見ようによっちゃ八百長かと言われれば、そうなんだろうよ。ルール上は何も問題無いにしてもな」

 

 オフサイドトラップは自嘲気味に笑ったが、その表情はどこまでも晴れやかだった。

 

「でも、あの秋の最終直線……お前と、スズカと、メジロと……。死力を尽くして競り合ったあの瞬間は、間違いなくアタシのウマ娘人生で最も全力で、出し切った。ああ……あぁ。最高の瞬間だった。だから、もう、良いんだ」

 

 白く濁る息を夜風に溶かしながら、彼女はターフのある方角へ視線を向ける。

 

「あとは後進を育てて、行く末を見てみたい。……不思議なもんでな。この年末のグランプリが終わった瞬間、スッとそう気持ちが切り替わっちまったんだよ」

 

 限界のその先まで走り抜いた者だけが辿り着ける、穏やかで澄み切った境地。ボクは小さく息をつき、静かに頷いた。

 

「そうかい。……一つの旅が終わり、また新たな旅が始まったんだな、オフサイド」

「やめろよ、気障ったらしい」

 

 オフサイドは照れ隠しのように鼻で笑い、ボクの肩を軽く小突いた。そして、そのまま踵を返し、寮へと向かって歩き出す。

 

 数歩進んだところで、彼女は立ち止まり、一度だけ振り返った。

 

「じゃ、またいずれ……。なぁステゴ。お前も、諦めんなよ」

 

 冬の夜気に、歴戦の先輩の力強い声が響く。

 

「お前のトレーナーは、いいヤツだ。……彼女に、栄光を掴ませてやれ」

 

 ボクはボストンバッグの持ち手をギュッと握り直し、不敵に笑って返した。

 

「……言われなくても」

 

 闇に溶けていく背中を、見えなくなるまで静かに見送る。

 

 短い期間であったが、彼女はボクの最高のライバルであり、戦友だった。彼女の新しい旅路が素晴らしいものであることを、心から祈った。

 

 

 さて。センチメンタルな感傷も、ここまでだ。

 

「よし、行くか」

 

 気を取り直して、ボストンバッグを肩に担ぎ直す。宛のない、気ままな一人旅。極限のチューニングで火照りきったエンジンの熱を冷まし、おじさんの魂をリフレッシュさせるための自由な時間だ。意気揚々と正門を抜けようとした――その時だった。

 

「……え?」

 

 正門の街灯の下。そこには、なぜか見慣れた人物が立っていた。

 

 風の抵抗を計算し尽くした本格的なサイクルジャージ。そしてその股下には、大光量のフロントライトにテールランプ、さらには着替えを詰め込んだであろう大型のサドルバッグまで完備した、完璧な『夜間長距離ツーリング仕様』のロードバイク。

 

 元プロの専属メカニック――ボクのトレーナーが、ヘルメットを小脇に抱え、ニカッと満面の笑みを浮かべて待ち構えていたのだ。

 

「……え、あんたなんで居るんだ?」

 

 ボクが素っ頓狂な声を上げると、トレーナーはきょとんとした顔で首を傾げた。

 

「え? だって、旅に出るんでしょ?」

 

「……は?」

 

「『ちょっと頭を冷やしてくる』ってメッセージ、受け取ったよ。だから、私も一緒に頭を冷やしに行こうと思って。ほら、メカニックたるもの、担当ウマ娘の長距離試運転(ロングツーリング)に同行して、きっちり並走しながらデータを取るのは当然の義務でしょ?」

 

 彼女はパンパンに膨らんだサドルバッグをポンポンと叩き、

 

「どこまでだって付き合うよ!」

 

 と得意げに胸を張った。

 

 

「……あははっ! あんた、やっぱり最高だな!」

 

 ボクはボストンバッグを肩から下ろし、腹を抱えて大笑いした。

 

 まさか、ウマ娘の気まぐれな『傷心旅行』――もとい『頭を冷やすための逃避行』に、完全武装のロードバイクで並走(ストーキング)してくるトレーナーがこの世にいるなんて。

 

 常識外れの専属メカニックは、本当にどこまでもボクの予想の斜め上を爆走していく。

 

「失礼ね。専属メカニックの鑑と呼びなさい」

 

 トレーナーは呆れながらも、悪びれることなく豪快に笑い飛ばした。彼女の瞳は、まるでこれからとびきりの冒険に出かける子供のようにキラキラと輝いている。ウマ娘の規格外の脚力と、元プロの脚力が生み出すロードバイクの速度。この二つが並走すれば、どこまでだって行けるだろう。

 

 彼女はヘルメットを被り、ストラップをカチリと鳴らしてロードバイクに跨った。

 

「で? 行き先は決まってるの? 海? 山? それとも温泉宿で豪華な舟盛りでもつつく?」

 

 大光量のフロントライトが、冬の暗い夜道を白く切り裂いて照らし出す。その光の先を真っ直ぐに見据えながら、ボクは小さく息を吸い込み、冬の冷たく澄んだ空気を肺いっぱいに満たした。

 

「――気の向くままに、さ」

 

 明確な目的地なんてない。

 

 ただ、心が求める方へ、脚が動く方へ。

 

 正史の呪縛から解き放たれ、誰のものでもない真新しい歴史の第一歩を踏み出すための、自由で泥臭い『黄金の旅路』へ。

 

「いいわね、それ。最高にステゴらしい旅だね」

 

 トレーナーはニヤリと笑い、ロードバイクのペダルに足を乗せた。ボクも軽く準備運動を済ませ、地面を蹴る。

 

 冬の夜風は冷たく、吐く息は真っ白だったが、胸の奥で心地よいアイドリング音を響かせるシリンダーは、どこまでも温かかった。

 

「それじゃあ、行こうか!! ステイゴールド!」

 

「ああ。――遅れるなよ、トレーナー!」

 

 闇に包まれた国道を、二つの影が猛然と駆け出していく。

 

 タイヤがアスファルトを擦る小気味良い音と、軽快な蹄鉄の音が重なり合い、冬の夜の静寂へと溶けていった。

 

 行き先は未定。

 

 ルールもなし。

 

 あるのは、最高にイカれた相棒と、自分の足で切り拓く未来だけ。

 

 果てしなく続く夜の道を、おじさんの魂を宿したウマ娘と規格外のメカニックは、最高の笑顔で駆け抜けていった。




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