ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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世は優しさに満ちている。

 翌朝、空が白み始める頃には、ボクはもう起きて身支度を整えていた。

 

 まだ少し眠たそうにしている親父さんに短い挨拶と感謝を告げ、冷たい朝の空気の中へと駆け出す。教えてもらった只見へのルートは、会津盆地を抜けて深い山あいへと入っていく、静かで緑の濃い道のりだった。

 

 朝靄の中、自分のリズミカルな足音だけをBGMにして走るのは、たまらなく気分がいい。木々の間を縫うように続く道を快調に飛ばしていると、ふと道端に小さな水汲み場のような場所を見つけた。傍らに立てられた木の看板には「天然炭酸水」と書かれている。

 

「……天然の、炭酸水?」

 

 前世の記憶を探っても、湧き水や名水の類はあちこちで飲んだけれど、炭酸が湧き出ている場所というのは馴染みがなかった。少し興味が湧いて足を止め、備え付けの柄杓でその水をすくい、一口飲んでみる。

 

 ――シュワリ。

 

 微かな、けれど確かな気泡が舌の上で弾けた。市販の炭酸水ほど強烈ではないけれど、とてもきめ細やかで、ほんのりと鉄分のような風味が混ざっている。冷たくて、走って火照った身体に心地よく染み渡っていった。

 

「確かに炭酸だ。……面白いな」

 

 世界は広い。まだまだボクの知らないものが、この道の上には転がっているらしい。

 

 できれば少し持っていって、道中の喉の渇きを潤したいところだけれど……あいにく、手持ちの小さな水筒には昨日淹れた紅茶の匂いが染み付いているし、炭酸を入れるには向いていない。かといって、両手ですくって持ち歩くわけにもいかない。

 

「持ち帰れないのは、少し勿体ないね」

 

 看板を眺めながら小さく呟いて思案していると、背後からカサリと草を踏む音がした。振り返ると、農作業の途中らしい地元の老人が、カゴを背負って立っていた。

 

「おや。こんな朝早くから珍しいね、旅のウマ娘さんかい?」

 

「やあ。少し只見の方までね。ここの水が面白いなと思って、見ていたところさ」

 

 ボクがそう答えると、老人は人の良さそうな笑わ皺を深くしてコクリと頷いた。

 

「ああ、ここの炭酸水は胃腸にも良くてね。ただ、炭酸だから普通の水筒じゃあ上手く持ち運べねえだろう」

 

「うん。それが少し残念でね」

 

「だったら、これを持っていきな。今朝、中身を空にして洗ってきたばかりのやつだ」

 

 そう言って老人がカゴの中から取り出して差し出してくれたのは、大きめの空のペットボトルだった。

 

「……いいのかい?」

 

「あぁ。旅の道連れには、その水も悪くねえだろう。道中、気をつけてな」

 

「ありがとう。ありがたく使わせてもらうよ」

 

 ボクは軽く頭を下げてペットボトルを受け取ると、蛇口から勢いよく出ている炭酸水をなみなみと注ぎ込んだ。キャップをしっかりと締め、リュックのサイドポケットに収める。

 

 思いがけない地元の人からの贈り物。

 

 形に残るお土産もいいけれど、こういうその場限りの、実用的でささやかな親切こそが、一番旅の記憶に刻まれたりするんだ。

 

「さて、喉も潤ったし……行こうか」

 

 ボクはペットボトルの重みを背中に感じながら、再び西へ続く山道へと駆け出した。

 

 

 天然炭酸水で喉を潤した後は、どうにも寄り道ばかりしてしまった。

 

 街道沿いに見つけた古い歴史館にふらりと立ち寄って、この土地の昔の農具や生活の記録をのんびり眺めたり。見晴らしの良い峠道でふと足を止め、風に吹かれながら谷間の集落を見下ろしたり。

 

 自分の足で走る旅というのは、気ままで自由すぎる。気になった景色があれば、数秒で急ブレーキをかけて引き返すことだって簡単だからね。

 

 その結果として……どうやら、少し時間をルーズに使いすぎたらしい。

 

 深い山あいでは、日の入りが驚くほど早い。夕日はあっという間に稜線の向こうへ落ちていき、空は群青から濃い墨色へと塗り潰されていった。目的地の只見までは、まだそれなりに距離が残っている。

 

「……やっちゃったね」

 

 すっかり夜の闇に包まれた山道を前に、ボクは小さく頭を掻いた。

 

 とはいえ、焦りはない。前世のツーリングでもこういう行き当たりばったりな事態には慣れている。ボクは手頃な枝ぶりをした大きな木を見つけると、その根元にリュックを下ろして腰を据えた。

 

 ウマ娘の身体なら、この程度の夜風で風邪を引くこともないだろう。適当に丸まって目を閉じる。風の音と木々のざわめきだけが聞こえる、静かな夜だ。これはこれで悪くない。

 

 そう思って少しうとうとし始めた、その時だった。

 

 カーブの向こうから、ヘッドライトの眩しい光が差し込んできた。光はボクのすぐ近くでスピードを落として止まり、窓が開く音がした。中から顔を出したのは、地元の人間らしい年配の女性だった。

 

「ちょっとアンタ、こんな所で何してんの! 大丈夫かい?」

 

 暗闇にポツンと座り込むボクを見つけて、ひどく心配そうな声を上げている。ボクは軽く手を挙げて、のんびりと答えた。

 

「やあ。ちょっと野宿だよー」

 

 ボクとしては事実をそのまま伝えただけだ。この頑丈な身体なら野生の獣が出ようが何の問題もないのだけれど……世間一般の目から見れば、今のボクは「年端もゆかない見知らぬ少女」なのだということを、少し失念していたらしい。

 

 案の定、女性は血相を変えて車から降りてきた。

 

「野宿ぅ!? バカ言いなさんな、こんな山奥で女子(おなご)一人が野宿なんて絶対ダメ! ほら、ウチに来なさい!」

 

「いや、ボクは平気だから……」

 

「平気なもんか! ほら、早く車に乗って!」

 

 有無を言わさぬ凄まじい勢いにすっかり気圧され、結局ボクはリュックごと車の後部座席に押し込まれることになった。

 

 

 そして現在。

 

 ボクはどこかの民家の客間に通され、ちゃぶ台の前に座っている。目の前には、湯気を立てる白いご飯と、山菜の天ぷら、それに温かいお吸い物が並べられていた。

 

「ほら、遠慮しないでどんどん食べな。お風呂も沸いてるから、ご飯の後にゆっくり入って温まっていくといいわ」

 

「……ありがとう。いただきます」

 

 すっかり世話を焼かれる形になってしまったけれど、温かい食事と人の好意を無碍にするほどボクは野暮じゃない。お言葉に甘えて箸を進めながら、ボクは心の中で小さく苦笑した。

 

 孤独を愛するおじさんの魂が、うら若き少女の姿の恩恵をこんな形で受けることになるとはね。昨日食堂の親父さんに泊めてもらったのに続いて、二日連続だ。

 

 サクサクの天ぷらを口に運びながら、ボクはふと考える。

 

 これもまた、ハイブリッドな今のボクならではの、新しい旅の形というわけか。思い通りにいかないのも、また旅の醍醐味だね。

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