ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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ステイゴールド

 夜通し走り続け、いくつもの険しい峠を越えた頃には、すっかり冬の冷たい夜明けが訪れていた。

 

 気の向くまま、足の向くままに辿り着いたのは、雪もちらつく長野の街。冷え切った身体から白い息を吐き出しながら、完全武装のロードバイクから降りた専属メカニックは、目の前にそびえる威風堂々たる大屋根を指差した。

 

「ひとまず山も越えたことだし、まずは願掛けよねー」

 

「願掛け?」

 

「そう。ここは長野が誇る善光寺! せっかくここまで来たんだから、二人でご祈祷を受けようよ。来年のレースでバッチリ勝てますように、ってね」

 

 彼女の提案に、ボクは、

 

「ま、悪くないな」

 

 と肩をすくめ、二人は連れ立って静謐な空気に包まれた本堂へと足を踏み入れた。

 

 

 堂内には、深く心地よいお香の匂いが漂っていた。冷たい板張りの床に正座し、静かに目を閉じる。やがて、僧侶たちの低く重厚な読経の声と、木魚の一定のリズムが堂内に響き渡り始めた。

 

 ボクは手を合わせ、来たるべき新たな旅路に向けて意識を集中させた。

 

 ――その、時だった。

 

 スッ、と。周囲の読経の響きやお香の匂いが、唐突に遠のいた。ボクの意識そのものが、自らの内側へと深く、深く沈み込んでいく。

 

 気がつけば、そこは音のない、凪いだ水面のような空間だった。そして、ぼんやりと光るその空間の中央には、誰かが立っていた。

 

 見間違えるはずもない。

 

 小柄な体躯に、見慣れた勝負服。勝気な瞳と、どこか不敵な口元。それは『ステイゴールド』という一人のウマ娘。

 

 『おじさん』の魂を宿し、幾度もターフを駆け抜けてきたボクと。この肉体の本来の持ち主である、『オリジナル』のステイゴールド。

 

 二人のボクは、合わせ鏡のように静かに向き合った。

 

「……」

「……」

 

 本来なら、己の肉体の主導権を巡って混乱してもおかしくない状況だ。あるいは、自分の運命を勝手に書き換えられたことに対する、怒りや葛藤があっても不思議ではない。

 

 だが。

 

 どちらからともなく、小さく息を吐く。そして。

 

「……よお」

 

 おじさんの魂を持つボクが、軽く片手を上げて声をかけると。

 

「……やあ」

 

 オリジナルのステイゴールドもまた、不敵に口角を吊り上げ、気負いのない声で応えた。

 

 それはまるで、長年連れ添った気心の知れた悪友同士が、久しぶりの行きつけの店で顔を合わせた時のような、ごく自然で、どこまでも平坦な挨拶だった。

 

 

 静寂に包まれた精神の深淵。波一つない鏡のような水面の上に、二人の『ステイゴールド』が向かい合って立っていた。

 

「……なんだい。ボクたちは、もうすっかり同じ一つの存在に混ざり合ったと思っていたんだけど」

 

 おじさんの魂を持つボクが、首の後ろを掻きながら不思議そうに尋ねると、オリジナルのステイゴールドは腕を組み、ふっと息を吐いた。

 

「まぁ、そうなんだがな。私たちは間違いなく一つだ。……でも、これからの新しい旅路を本格的に始める前に、あんたとは一度、こうして正面から話しておきたいと思ってな」

 

 彼女の瞳は、どこまでも透き通っていた。

 

 自分の中に異物が混ざり込んでいることへの拒絶も、運命を勝手に捻じ曲げられたことに対する怒りも、そこには一切存在しない。あるのはただ、純粋な好奇心と、少しばかりの呆れだけだった。

 

「スズカを救うっていうのは……まぁ、他の世界線っていうのかな。無数に存在する『ステイゴールド』としての深い記憶の底に、そういう可能性(イフ)の夢として、かすかにあった。あの秋のターフで彼女の悲劇を止めるという衝動は、私自身の奥底にも眠っていたものだ」

 

 オリジナルはそこで言葉を区切り、一歩だけボクの方へ距離を詰めた。水面が小さく波紋を描く。

 

「……でもだ。あんたみたいに、あの極限の秋の盾で、オフサイドトラップを『主役』に据えるような狂った真似をした奴は、私の記憶のどこを探してもいなかった。彼女の執念を極限まで引き出し、あの異次元の逃亡者を差し切らせるなんて……」

 

 彼女は目を細め、探るような視線をボクの瞳の奥へと投げかけた。

 

「あえて聞くよ。……なぜ、あんな真似をした?」

 

 ボクとスズカだけで決着をつけることもできたはずだ。スズカを救うだけなら、オフサイドトラップの限界を引き出してまで勝利を譲るような、あんな狂気的なアシストをする必要はなかった。

 

 その真っ直ぐな問いかけに。ボクは少しだけ空を仰ぎ見ると、隠すことなど何もない、あまりにも単純で馬鹿げた本音をこぼした。

 

「だって……好きだからな。競馬(そういうの)が」

 

「……好き?」

 

「ああ。血統のドラマも、天才の躍進も好きだ。それに……、何度脚を壊しても、何度絶望に叩き落とされても、決して諦めずにターフにしがみつき、最後の最後に報われる老兵の姿。そういう泥臭くてたまらない奇跡の軌跡(イフ)も、おじさんは大好きなんだよ」

 

 かつて画面の向こう側で、あるいはスタンドの熱狂の中で見つめ続けてきた、数多の夢。

 

 例えばそれは、オフサイドトラップという不屈の魂がサイレンススズカ、と言う逃亡者を実力で差し切る……。

 

 などという『最高の瞬間』をこの特等席で見てみたかった。

 

 ただ、それだけのこと。

 

「まぁ、そのせいで歴史はすっかり変わっちまったけどな」

 

 ボクは自嘲気味に笑い、鼻頭を掻いた。

 

「有馬記念をスズカが獲ったことで、歴史は完全に変わっちまった。本来ならあそこで復活の勝利を飾るはずだったグラスワンダーには、悪いことをしたなぁって、少しだけ思ってる。……お節介が過ぎた結果の、ワガママな罪悪感さ」

 

 あの有馬記念は、グラスワンダーにとって特別な意味を持つレースだった。黄金世代ここにあり、と知らしめるレースだったはずなのだ。それを、ボクが勝手に救いあげた『異次元の逃亡者』が掻っ攫ってしまったのだから。

 

 ボクのその独白を聞き終えたオリジナルは、しばらく呆れたようにボクの顔を見つめていたが……やがて、堪えきれないといった様子で肩を揺らして笑い出した。

 

「くくっ……あはははっ! 本当に、アンタって人は実にワガママで、欲張りだな?」

 

「おいおい、笑うことないだろ」

 

「笑うさ! 人の身体と記憶に勝手に入り込んでおいて、自分の好きなように運命を引っ掻き回しちゃってさ。挙句の果てには、ライバルに同情して罪悪感まで抱えてる。……まったく、ひどく呆れたエゴイストだよ。少しは自重したらどうだい、おじさん?」

 

 ひとしきり笑った後、彼女は目尻に浮かんだ涙を指で拭った。

 

「いやいや、それこそが『おじさん』の真骨頂ってやつだ」

 

 ボクもつられて笑いながら、両手を広げてみせた。

 

「若者の背中を押して、泥を被って、それでも図々しく首を突っ込む。お節介こそが、歳を食ったおじさんの特権だろう?」

 

「違いない」

 

 二人の笑い声が、鏡のような精神の空間にこだまする。それは、決して交わるはずのなかった二つの魂が、本当の意味で完全に噛み合った瞬間だった。

 

 笑い声が静かに波紋の彼方へと消えていった後。ボクは少しだけ表情を引き締め、オリジナルの瞳を真っ直ぐに見返した。

 

「……で。どうするんだい?」

 

「どうするって?」

 

「ボクのワガママで、スズカは生き残り、オフサイドは最高の形で引退し、歴史のレールは完全にぶっ壊れた。おじさんとしての『お節介』は、もう十二分に果たさせてもらったよ」

 

 ボクは自分の胸に手を当て、静かに告げた。

 

「これからの未知の旅路は、君自身の足で歩むべきだ。……おじさんの魂(ノイズ)は、ここで大人しく引っ込んで、出てったほうがいいだろう?」

 

 運命の分岐点を越え、やるべきことを終えた異物。

 

 ここから先は、彼女自身の『ステイゴールド』としての純粋な物語だ。ボクがこれ以上、出しゃばるべきではないのかもしれない。

 

「引き際は、弁えているつもりさ」

 

 静寂が降りる。オリジナルのステイゴールドは、ボクのその提案を聞いて、わずかに目を伏せた。

 

 そして――。

 

 迷いのない足取りで水面を踏みしめ、ボクの目の前まで歩み寄ると。

 

「……馬鹿言わないでくれよ」

 

 彼女は、ボクの胸ぐらを軽く、まるで悪友同士のじゃれ合いのように掴み、その勝気で、泥臭く、どこまでも不屈な光を宿した瞳で、ボクを真っ直ぐに見据えた。

 

「お節介な『おじさん』の記憶も、競馬を愛するその熱苦しい想いも、全部ひっくるめて私のエンジンだ。今更引っ込むなんて、許すわけがないだろう」

 

 掴まれた胸ぐらから、彼女の確かな熱が伝わってくる。

 

「それにさ。アンタのそのワガママで、欲張りで、図々しいほどの勝負への執念……」

 

 彼女は不敵な笑みを浮かべ、最後に、はっきりとこう告げた。

 

 

「あんたはもう、十分すぎるくらい『ステイゴールド』さ」

 

 

 その言葉が響いた瞬間。

 

 ボクの視界を覆っていた鏡のような空間が、黄金色の眩い光に包まれて弾け飛んだ。二つの魂の境界線が完全に融け合い、『黄金の旅路』として結実していく。

 

 

「……ステゴ? ステゴ、聞いてる?」

 

「ハッ……!」

 

 不意に肩を揺さぶられ、ボクはハッと目を見開いた。

 

 鼻腔をくすぐる深いお香の匂い。遠くで響く木魚の音。視界が焦点を結ぶと、そこには心配そうにボクの顔を覗き込む、サイクルジャージ姿の専属メカニックの顔があった。

 

「ちょっと、ご祈祷中に寝ないでよ。器用なのは認めるけどさ」

 

「あ……いや。寝てたわけじゃないさ」

 

 ボクは小さく首を振り、無意識に自分の胸へと手を当てた。心臓の鼓動が、ドクン、ドクンと力強く鳴っている。もう、己の中にいかなる迷いも、違和感も、二つの魂の境界線も存在しなかった。

 

「……何か、良い夢でも見たの? すごくスッキリした、良い顔してるけど」

 

 トレーナーの問いかけに、ボクは堂々と胸を張り、ニカッと笑って見せた。

 

「ああ……。最高のエンジンが、完全に組み上がった音を聞いてたんだ」

 

「……ふーん。そっか」

 

 彼女はそれ以上は野暮なことを聞かず、ただ嬉しそうに微笑んで、本堂の仏様へと再び向き直った。

 

「それじゃあ、改めて祈願しようか。……これから始まる、私たちの誰も知らない新しい旅が、最高に泥臭くて、最高に輝くものになりますように、ってね」

 

 静かな本堂。お香の匂いと、冷たく澄んだ冬の空気。

 

 ボクは仏様へ、そして隣に立つ最高の相棒へ向けて、不敵な笑みと共に誇り高く宣言した。

 

 

「言われなくても。――ボクは、ステイゴールドだ」

 

 

 おじさんの魂と、ウマ娘の魂。

 

 完全に一つとなった不屈の黄金は、隣で手を合わせる最高の相棒と共に、まだ見ぬ未来のターフへと、力強い一歩を踏み出したのだった。




次話からはエピローグとなります。

6年という歳月の果てに。彼女はどんな旅路を歩んでいったのでしょうか。
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