走り抜けたのはステイゴールドとそのトレーナー。
黄金世代、世紀末覇王、そして戦場を選ばぬオールラウンダー。彼女ら世代と競い合ったステゴは、やはり勝利には恵まれず数年の時を過ごします。
そして、活路を海外に見出し、香港の地へ。その控室から、話は始まります。
旅路の終わりへ
――6年。
あの日、ステゴが冗談めかして口にした「G1を獲るまでには、とてつもなく長い時間がかかる」という予言の通り。
私たちが悲願の頂点へたどり着くまでの道のりは、果てしなく、そして残酷なほどに長かった。
■
ターフの景色は、凄まじいスピードで移り変わっていった。
スペシャルウィークを筆頭とする、かつて彼女がサインをねだった『黄金世代』の猛威。
私たちが極限のデッドヒートの末に運命を書き換えたことで、もはや誰にも手の届かない絶対的な逃亡者として君臨し続けたサイレンススズカ。
世代交代の波を嘲笑うかのように現れ、すべてのレースを完全に支配した世紀末覇王、テイエムオペラオーの絶望的なまでの強さ。
そして、芝もダートも関係なく我が物顔で蹂躙しにきた変態――アグネスデジタルの規格外の参戦。
私たちは、そのすべてと真っ向からぶつかり、そして敗れ続けた。
銀色や銅色のメダルばかりが山のように増えていく。どれだけ極限のチューニングを施しても、あと一歩、あとわずかな差で、一番高い景色には届かなかった。
元プロの世界にいた私でさえ、幾度となく心が折れそうになった。私の、そしてステゴの才能の限界なのかもしれない。もう、これ以上は無理なのかもしれないと、夜のトレーナー室で一人、頭を抱えて泣きそうになった夜は一度や二度じゃない。
――けれど。肝心の彼女、ステイゴールドだけは、この6年もの間、ただの一度も折れなかった。
『最高に面白いじゃないか』
『こんなバケモノ揃いの時代を走れるなんて、本当に楽しいなぁ!』
泥に塗れ、悔しさを噛み殺しながらも、彼女はいつも私の前で不敵に笑って見せた。勝てなくても、届かなくても、絶対に諦めずに走り続ける。
あの日、私が密かに確信した通り、彼女は誰よりも気高く、そして最高に泥臭い『不屈のウマ娘』だった。
そして、苦渋を舐め続けた私たちが、その執念の果てにようやく見出した活路。
それが――海外(ここ)だ。
■
「――おいおい。こんな大事なレースの直前に、時差ぼけかい、トレーナー?」
不意に顔を覗き込んできた勝気な声に、私はハッと意識を現実に引き戻された。
シャティレース場の控室。目の前には、パドックへの出走を控え、完璧に仕上がった肉体を軽く解しているステイゴールドが、呆れたように私を見ていた。
「……いいや」
私は小さくかぶりを振り、これまでの苦しくも愛おしい道のりを振り払うように、いつものようにニッと笑って見せた。
「少し、思い出に浸ってただけ。……6年か。本当に、ステゴの予言通りになったね」
「ふっ。伊達に年の功を重ねてないからな」
ステゴは得意げに鼻を鳴らし、擦り切れたブーツの紐をギュッと結び直した。
「でも、今日はいつもと違うよね!」
私は彼女の背中を力強くバンッ! と叩いた。
「だって、ここは香港、新たなる土地だもん。国内のバケモノたちはお休み中。……この真新しい海外のターフで、これまでの鬱憤、全部晴らして活路を見出すよ!」
「ああ、もちろんさ」
ステゴは迷いのない、力強い瞳で私を真っ直ぐに見据え返した。
その瞳の奥には、6年間燃やし続けてきたシリンダーの熱が、今まさに爆発の時を待って青白く渦巻いている。
■
控室のモニターには、本日の出走リストが映し出されていた。
奇しくも、この香港の地で彼女につけられた漢字名は、彼女のこれまでの歩みそのものを体現するような、美しくも泥臭い言葉だった。
――『黄金旅程』。
(……ああ。本当に、長くて、とびきり良い旅だったな)
彼女が、6年分の万感の思いを込めて深く息を吐き出すのを感じる。だが、感傷に浸るのはこれで終わりだ。
「さあ、行こうか! ステゴ。私たちの6年間の集大成を見せつけてやりなさい!」
「任せな、トレーナー。……最高の『羽』を広げて、一番良い景色を掻っ攫ってやるよ!」
運命を変え、時代に抗い、泥に塗れながらも輝き続けた不屈の黄金。
私たちは互いに拳をぶつけ合うと、大歓声の待つ香港のターフへ向けて、最後の戦いの舞台へと歩みを進めた。
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シャティンのターフを吹き抜ける風は、日本のそれとは違う独特の重さと湿度を持っていた。
異国の猛者たちが作り出すペースは、確かにハイペースと呼ぶにふさわしい過酷なものだった。息が上がり、脚に乳酸が溜まり始める極限の領域。彼らはこの重苦しい流れで、極東から来た小柄なウマ娘のスタミナを削り殺そうとしているらしかった。
だが、集団の好位につけていたステイゴールドは、泥まみれの顔で不敵な笑みを浮かべていた。
(……速い。確かに速いが)
彼女の脳裏に、この6年間で幾度もシリンダーを焼き切るほどに鎬を削り合った、あの『バケモノ』たちの姿がフラッシュバックする。
黄金世代、スペシャルウィーク、エルコンドルパサーらを筆頭にする、高速の競り合い。
息をするのも忘れるほどの絶対的な絶望を叩きつけてきた、覇王テイエムオペラオーの重圧。
そしてなにより、あの秋の盾で、さらには有マの急坂で体感した、サイレンススズカの常識外れの狂気的なスピード。
(あいつらの理不尽な脚に比べりゃあ……こんなペース、そよ風みたいなもんさッ!)
ステイゴールドは、ターフを蹴り上げる足の回転数を一気に引き上げた。ゴールまではまだ距離がある。仕掛けるには明らかに早すぎるタイミングだ。しかし、彼女の魂は一切の躊躇いを捨てていた。
(ああ、早い仕掛けだろうさ! セオリー通りならな! でも、あの異次元の逃亡者が急坂で見せたあの一足に比べれば、こんなのは常識の範囲内だろうが!)
「行けェェッ!!」
おじさんの魂とウマ娘の魂が完全に同調した咆哮が、シャティンの空に響き渡る。黄金の風を纏ったステイゴールドは、驚愕に目を見開く異国のライバルたちを置き去りにし、一気に先頭へと躍り出た。
かつては足りなかった最後のひと伸び。幾度も涙を呑んだその数センチ、数メートルを、今の彼女は圧倒的な推進力でねじ伏せていく。
後続を引き離し、一バ身、二バ身……そして最終的に数バ身もの決定的な差をつけて。
ステイゴールドは、6年という長大で泥臭い旅路の果てに、ついに歓喜のゴールテープをトップで引きちぎった。
■
割れんばかりの大歓声の中、ターフを引き揚げてきたステイゴールドの視線の先には、タオルを握りしめ、顔をくしゃくしゃにした専属メカニックが立っていた。
言葉はいらなかった。ステイゴールドは歩み寄り、真っ直ぐに右の拳を突き出す。
トレーナーもまた、涙を拭って力強く右の拳を突き出し、二つの拳がガツンと重なり合った。
「……やったな」
ステイゴールドが短く告げると、トレーナーは満面の笑みで、
「うん! 最高にイカれた走りだったよ!」
と叫び返し、小柄な相棒の身体を思い切り抱きしめた。
その後に控えていたウィニングライブ。煌びやかなイルミネーションが照らすステージの『センター』には、黄金色の瞳を輝かせ、誇り高く歌い踊るステイゴールドの姿があった。
誰の背中も追わない、誰にも前を譲らない。6年間、決して折れることのなかった不屈の魂が、世界で一番眩しい場所で最高の輝きを放っていた。
■
数日後。
トレセン学園の近くにある、貸し切りの豪奢なラウンジ。ステイゴールドの悲願達成を祝う祝勝会は、彼女が6年間で関わってきた、あるいはこれから関わっていくであろう騒がしくも温かい面々に包まれていた。
「ヒャッハー! ステゴのあったらしい門出に、このゴルシちゃん特製の焼きそばを振る舞ってやるぜ!」
と奇声を発しながら鉄板と格闘するゴールドシップ。その隣で、
「相変わらず騒がしいですね」
と涼しい顔で微笑みながら見守るドリームジャーニー。
「本当におめでとうございます、ステイゴールドさん」
と穏やかな笑みを浮かべるサイレンススズカに、
「シラオキ様も海外進出を大絶賛していますよー!」
と水晶玉を掲げるマチカネフクキタル。そして、壁際でグラスを傾けながら、
「よくやったな」
と静かに頷くオフサイドトラップ。
賑やかな喧騒の中、やがて主役であるステイゴールドがゆっくりと立ち上がると、空間が潮を引くように静まり返った。
全員の視線が、小柄な黄金のウマ娘に集まる。彼女の手には、茶葉の香りが極限まで引き出された最高品質のダージリンが注がれたグラスが握られていた。
ステイゴールドは、ラウンジを見渡し、どこか照れくさそうに、けれど真っ直ぐな瞳で口を開いた。
「……まったく、騒がしい連中だ。だが、今日ばかりはこの喧騒も悪くない」
彼女はグラスを胸の高さまで掲げた。
「お付き合いいただき、感謝しかない。……6年もかかっちまったけど、何とかまぁ、お前たちの前でも恥ずかしくない走りを見せられたよ」
あの死闘を演じたライバルたち、そしてこれから新しい時代を作っていく後輩たち。その一人一人の顔を見つめながら、彼女は最後に、隣で優しく微笑んでいる専属メカニックへと視線を移した。
「それに……世界一の腕を持つ、最高の相棒にも、ようやく錦を持たせられたしな」
その言葉に、トレーナーの目尻が再びほんの少しだけ潤んだ。しかし、彼女は元プロのアスリートらしく、すぐに底抜けに明るい笑みを浮かべて、自らのグラスを高く掲げた。
「ステゴの、最高に不屈で、最高に泥臭い『黄金の旅路』に――乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
グラスが打ち合わされる澄んだ音が、ラウンジに響き渡る。芳醇な紅茶の香りと共に喉の奥へと流れ込んだ温かさは、6年間の煤をすべて洗い流してくれるような、極上の味がした。