香港での劇的な勝利の熱狂が少しずつ落ち着きを見せ始めた頃。トレセン学園へと帰還したボクとトレーナーの元に、一人のウマ娘が訪ねてきた。
「――次のグランプリ。一緒に走りませんか」
静かな声でそう打診してきたのは、サイレンススズカだった。
あの日、極限のデッドヒートの末に運命を書き換えた異次元の逃亡者。しかし、どれほど圧倒的な才能を持っていようとも、肉体のピークは永遠には続かない。
今の彼女は、全盛期のような誰にも触れさせない狂気的な逃げを打つことは難しくなっていた。先日の天皇賞(秋)でも、テイエムオペラオーとメイショウドトウという新時代の覇者たちの後塵を拝し、3着という結果に甘んじている。
そして彼女は、今年の年末の大一番――『有マ記念』を、自身の引退レースに選んだのだという。
「……なるほどね」
ボクが腕を組んで隣を見上げると、専属メカニックはすでに満面の笑みを浮かべていた。スズカの引退レースの有馬記念。主役は間違いなく彼女……。とはいえ、ファン投票で常に上位に支持されているボクは、出走しようと思えばいつでもゲートに入れる状況にある。
だがよく考えてみてほしい。
海外から帰還し、その足でグランプリを走るなんて………。
「……『いいね』」
ボクとトレーナーの声が、見事にハモった。
香港からの帰国後、中一週という常識外れの強行ローテーション。普通のウマ娘なら絶対に避けるだろう。だが、ボクたちのエンジンはまだ、完全に冷え切ってはいなかった。
スズカの最後の走りを見届ける特等席。そんな美味しいポジションを、競馬好きおじさんの魂が逃すわけがない。
■
ボクたちの電撃参戦のニュースは、瞬く間に学園中を駆け巡った。
すると、どうだろう。
それを聞きつけたマチカネフクキタルとメジロブライトが、
「スズカさんとステイゴールドさんの晴れ舞台、見逃すわけにはいきません!」
と次々に出走を表明。さらに黄金世代からは、
「一流の私が、先輩たちの引き立て役で終わるはずがありません!」
と、不屈の精神を完成させたキングヘイローまでもが名乗りを上げたのだ。
本来なら13人での出走になるはずだった今年の有マ記念。そこに、ボクを含めた5人の『イレギュラー』が加わったことで、レースは異例のフルゲート18人による大混戦へと様相を変えた。
「ははっ……こりゃあ、とびきり楽しいレースになりそうだ」
出走リストを見つめながら、ボクは堪えきれない笑みをこぼした。史実のレールも、世代の壁も完全にぶっ壊れた、誰も予想できない未知のグランプリ。最高に泥臭くて、熱苦しいラストランの舞台が整ったのだ。
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とはいえ、中一週のローテーションが肉体に過酷なのは事実。トレーナーが組んだメニューは、激しい追い切りではなく、プールや入念なマッサージを主体とした「徹底的な疲労抜き」だった。
午前中の軽い調整を終えたボクは、息抜きのためにラウンジのカフェテリアへと足を運んでいた。カウンターで受け取ったのは、ボクのこだわりが詰まった特製のティーセット。今日は、茶葉の濃厚なコクと芳醇な香りが特徴のアッサムだ。沸騰したての熱湯でしっかりとジャンピングさせ、正確に時間を測って抽出した琥珀色の液体が、ティーカップの中で美しく揺れている。
「さて、どこに座るかな……」
トレイを手に見渡すが、お昼時のラウンジは混み合っており、空いている席が見当たらない。ふと窓際の席に目をやると、一人の下級生が向かいの席を空けたまま、静かにカップを傾けていた。
漆黒の美しい髪と、どこかミステリアスで静謐なオーラを纏ったウマ娘。彼女のテーブルには、ボクの紅茶とは対極にある、深く濁ったブラックコーヒーが置かれている。
「……お隣、いいかな?」
ボクが声をかけると、彼女――マンハッタンカフェは、少しだけ驚いたように金色の瞳を向けた後、静かにコクリと頷いた。
■
「失礼するよ」
ボクが向かいの席に腰を下ろしても、マンハッタンカフェは静かにカップを両手で包み込んだまま、深く澄んだ漆黒の水面を見つめていた。
テーブルの上に並んだ、対照的な二つの飲み物。
ボクのカップに満たされたアッサムは、いくつもの茶葉の個性が時間をかけて複雑に絡み合い、力強くも深みのある琥珀色を形成している。まるで、泥臭く時間をかけて己の血と才能をブレンドし、ようやく一つの完成形へと辿り着いたボク自身の『ルーツ』のようだった。
一方、彼女のブラックコーヒーは、どこまでも深く、底知れない。混じり気のない漆黒の奥底に、圧倒的で濃密なエネルギーを静かに隠し持っている。それは、これから時代を飲み込もうとしている彼女の内に眠る、恐るべき血のポテンシャルそのものを体現しているように見えた。
無言のまま、互いの香りが静かに交じり合う。やがて、マンハッタンカフェがふと顔を上げ、神秘的な金色の瞳でボクを捉えた。
「……香港のレース、拝見しました」
静寂を縫うような、落ち着いた声だった。
「本当に……素晴らしい末脚でした」
「ありがとう」
ボクは短く応え、ティーカップを傾けて芳醇な紅茶を喉の奥へと流し込んだ。熱い紅茶が、有マ記念に向けて研ぎ澄まされつつある身体に心地よく染み渡る。
カップをソーサーにコトリと置き、ボクは真っ直ぐに彼女の瞳を見返した。
「でも、お前の末脚も恐ろしいよ。マンハッタンカフェ」
「……」
「お前だけじゃない。お前の同期であるアグネスタキオン、そしてジャングルポケットもだ。……まったく、お前の世代もまた、背筋が凍るような恐ろしい連中が揃ってる」
ボクが下の世代――これからのターフの主役となるであろう若き怪物たちの名前を挙げると、カフェは小さく目を伏せた。
「……彼女たちは、とても速い、ですから。私も、まだ追いつけていません」
「今は、な」
ボクはニヤリと笑った。彼女の背後に立つ、とてつもなく巨大な『影』の気配。今はまだ静かに息を潜めているが、ひとたび牙を剥けばすべてを飲み込むであろう、その漆黒の才能を感じ、表情が勝手に動く。
「だが、いつか必ず追いつき、追い越す日が来る。……お前の底には、それだけのモノが眠ってるんだからな」
ボクの言葉に、カフェは少しだけ不思議そうな顔をした。そして、じっとボクの顔を見つめて、ポツリと問いかけてきた。
「……ステイゴールドさんは、楽しそう、ですね?」
「ん?」
「後輩に、ステイゴールドさん自らが仰った、恐ろしい才能を持った子たちがひしめき合っていて。次のレースには、世代に限らず、強い方々がたくさん集まっている。普通なら、重圧に押し潰されても、おかしくない状況なのに。―――あなたはまるで、待ちに待ったご馳走を前にしたように、とても嬉しそうに、笑っていらっしゃる」
彼女の指摘に、ボクは思わず自分の口元に手を当てた。どうやら、無意識のうちに深い笑みがこぼれ出てしまっていたらしい。
「あはは。そりゃあな」
ボクは窓の外、冬の冷たい空気に包まれたトレセン学園のターフへと視線を向けた。あそこで走るために、数え切れないほどのウマ娘たちが、自らの血と才能を極限まで磨き上げている。
「強いウマ娘たちと、同じターフの上で真っ向から勝負できる。……これ以上に幸せなことはないさ」
それは、おじさんの魂を持つボクの、偽りない本音だった。
「自分の限界がどこにあるのか。相手の全力がどれほどのものか。理屈や血統の壁を越えて、ただ純粋に一番速い奴を決めるための、極限の削り合い。……そのヒリヒリとするような熱が、ボクのエンジンをいつだって最高に回してくれるんだ」
ボクが熱っぽく語ると、マンハッタンカフェはしばらく黙ってボクを見つめた後、ふっと、ほんのわずかに口元を綻ばせた。
「……なるほど。あなたのその『熱』が、周りの方々を巻き込んでいくのですね」
彼女は再び自分のコーヒーカップへと視線を落とし、静かに漆黒の液体を口に含んだ。
「私も……いつか、あなたのようになれるでしょうか」
「なれるさ。お前の淹れたそのコーヒーみたいに、深く、熱く、そして誰よりも濃密にな」
静かなラウンジの片隅。世代の違う二人のウマ娘は、それぞれのカップから立ち上る香りを楽しみながら、やがて来るであろう熱狂の舞台に向けて、穏やかな時間を共有していた。