ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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決断の時

 グランプリの熱狂から数週間が過ぎた、年明けのトレセン学園。

 

 柔らかな冬の陽射しが差し込むラウンジの窓際で、ボクはティーポットから静かに琥珀色の液体を注いでいた。茶葉はダージリンのセカンドフラッシュ。完璧な温度で抽出されたマスカテルフレーバーの華やかな香りが、ゆっくりと立ち上っていく。

 

「……で。数字はどうなんだい、トレーナー」

 

 香りを楽しむようにティーカップを傾けながら、ボクは向かいの席でノートPCの画面とにらめっこしている相棒に問いかけた。

 

 トレーナーは、キーボードを叩く手を止め、少しだけ困ったように眉を下げた。

 

「走ること自体は、もちろんまだ出来る。でも……タイムの伸びや、高負荷をかけた後の筋肉量の維持率は、明らかに落ち始めているわ。有マ記念の時が100だとしたら、今は95……いや、90に近いかもしれない」

 

「つまり、ボクにも来たってわけだな。ピークアウトってやつが」

 

 ボクはあっさりとその事実を受け入れ、紅茶を一口啜った。アスリートである以上、いつか必ずその日は来る。6年という途方もない時間を限界までチューニングして走り抜いてきたのだ。むしろ、ここまでエンジンが焼き切れずに保ったことの方が奇跡に近い。

 

「今後の進路も含めて、いつまでターフに立つか……考えないといけない時期に来たってわけだね」

 

「そうね。ステゴが走りたいならどこまでだって付き合うけど……、ただ、引き際を決めるのも私の仕事だから」

 

 そんな風に二人で穏やかな未来の算段を立てていると。

 

「――お隣、よろしいですか?」

 

 凛とした、けれどどこかふわりとした声がかけられた。見上げると、私服に身を包んだサイレンススズカが、静かに微笑んで立っていた。

 

「ああ、構わないよ。ちょうど一息ついていたところだ」

 

 スズカが席につくと、彼女は少しだけ真剣な面持ちで、ボクの瞳を真っ直ぐに見つめてきた。

 

「ステイゴールドさん。……私は、ドリームシリーズへ上がろうと思っています」

 

 第一線を退いたウマ娘たちが、勝負の重圧から離れて純粋に走る喜びを分かち合う舞台。彼女は、有マ記念での引退宣言通り、次のステップへと進む決意を固めたようだった。

 

「あなたも、どうですか?」

 

 スズカの誘いに、ボクは「うーん……」と腕を組み、小さく唸った。ドリームでのんびりと走るのも悪くはない。だが、ボクのエンジンは、ヒリヒリとするような極限の削り合いの中でこそ、最高の音を鳴らすのも事実だ。

 

「……スズカ。なぁ、お前は後進を育てようとは思わないのか?」

 

 ボクがふと疑問に思って尋ねると、彼女はカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ寂しそうに、けれどはっきりとした事実を口にした。

 

「迷っては、います。……でも、正直なところ、私のような走りができるウマ娘は、他には居ないんです」

 

 傲慢ではない。それは、彼女がターフで証明し続けてきた、残酷なまでの真実だった。

 

「逃げを打つウマ娘は、これから先も多数現れるでしょう。でも……ラップを刻みながら、最後まで先頭の景色を譲らない走りは、きっと誰にも教えることはできないから」

 

 彼女の言う通りだ。天性のスピード、決して先頭を譲らないという精神力、そして誰にも触れさせないという狂気的なまでの先頭の景色への渇望。それらを他人に継承させることなど、土台無理な話なのだ。

 

「確かに」

 

 ボクは深く頷き、ティーカップをソーサーに置いた。

 

「お前の走りを継ぐなんてのは、並大抵の覚悟じゃ無理だろうな。誰もが真似しようとして、そして誰もがそのペースに自ら潰されていくはずだ」

 

 だが。

 

 ボクの奥底にいる『おじさん』は、知っている。彼女が去った後の、遥か未来のターフ。その狂気的なラップタイムに再び挑み、大歓声のどよめきと共に秋の盾を駆け抜けていく、もう一つの逃亡者の姿を。

 

「だがまぁ」

 

 ボクは窓の外、冷たい風が吹き抜けるターフを見つめながら、ニヤリと不敵に笑った。

 

「天皇賞(秋)の1000メートルを、57秒4なんていうイカれたタイムで抜けていくような大逃げのバケモノが……そのうち、必ず出てくるさ」

 

「……57秒4?」

 

 スズカは目を丸くして、信じられないものを見るようにボクを見た。それは、彼女自身が刻んだ伝説的なタイム。それに並ぶようなラップで大逃げを打ち、なおかつ秋の盾を駆け抜けるウマ娘が現れるなど、にわかには信じがたいのだろう。

 

「ああ。歴史は、想いってやつは続くんだ。お前が残した『先頭の景色』の果てを、自分なりの狂気で追い求めるヤツが、きっと現れる」

 

 ボクの予言めいた言葉に、トレーナーは「またステゴの法螺話が始まった」とばかりに苦笑いを浮かべていたが、スズカはしばらく静かに考え込んだ後、ふっと嬉しそうに微笑んだ。

 

「……そう、ですか。そんな子がいつか現れるのなら……私も、楽しみに待ってみようと思います」

 

 柔らかな午後の陽だまりの中。ボクたちはそれぞれの手にあるカップを傾けながら、まだ見ぬ未来のターフを駆け抜ける未知の足音に、静かに耳を澄ませていた。

 

 

「それで、貴女はどうするんですか?」

 

 自身の進路を語り終えたスズカが、静かに問いかけてきた。

 

「うーん……」

 

 ボクは腕を組んで、ラウンジの天井を仰ぎ見た。

 

「ドリームに上がっても良いんだが……本気の削り合いにならないならなぁ。全力が出せない以上、あくまでファンサービスとして割り切るなら良いんだろうが……」

 

 勝負への渇望がまだ燻っているボクとしては、どうしても迷いがあった。極限のヒリヒリとした空気の中でしか、このエンジンは最高の音を鳴らしてくれないからだ。

 

 すると、スズカは両手で包み込んでいたティーカップをそっとソーサーに置き、はっきりとした口調で告げた。

 

「それなら、貴女は来るべきじゃないと、私は思います」

 

「おや」

 

 予想外のキッパリとした言葉に、ボクは目を丸くした。

 

「どうしてだい?」

 

「ドリームリーグは……『もしも』を見るためにあるレースだと、私は思っているからです」

 

 スズカは窓の外、冬の冷たい風が吹き抜けるターフを見つめながら静かに語り始めた。

 

「私という逃げウマ娘が、もしも全盛期のマルゼンスキーさんや、シンボリルドルフ会長らと当たったらどうなるんだろう……。そういう、決して交わるはずのなかったファンの皆さんの『夢(もしも)』を叶えるための場所。それがドリームリーグです」

 

「ほう?」

 

 ボクは思わず息を漏らした。確かに、世代や時代を超えた夢の対決こそが、あの舞台の最大の醍醐味だ。スズカは視線をターフからボクへと戻した。

 

 そして、一拍置いて。とても優しく、深い敬意を込めた澄み切った瞳で微笑んだ。

 

「でも、貴女は」

 

「……」

 

「貴女はもう、ご自身の脚で、ファンの皆さんの夢をすべて現実に叶えてみせたじゃないですか」

 

「……ッ」

 

「時代に抗い、誰も見たことがなかった最高の奇跡を現実のものにした。……だから、貴女はもう、誰かの『もしも』のためにドリームを走らなくても良いと、私は思うんです」

 

 それは、かつて運命の秋を乗り越え、そして先日の有マ記念で全力を出し切って敗れた、誇り高き『異次元の逃亡者』からの、これ以上ない最大級の賛辞だった。

 

「……ははっ」

 

 ボクは照れ隠しのように頭を掻き、深く息を吐き出した。隣に座るトレーナーを見ると、彼女もまた「スズカの言う通りね」とばかりに、優しく微笑んで頷いていた。

 

「まったく……お前ってやつは、本当に真っ直ぐで、そして残酷なまでに正しいウマ娘だな」

 

 ボクは冷めかけた紅茶をぐいっと飲み干し、空になったカップをコトリと置いた。シリンダーの底に残っていた小さな迷いの煤(スス)が、スズカの言葉によって綺麗に吹き飛ばされていくのを感じた。

 

「……そういう考えも、ある、か」

 

 ファンの夢はもう、現実に叶えた。ならば、お節介な『黄金の旅路』は、最高に美しい現実のまま、ここで幕を引くべきなのだろう。

 

 スズカの真っ直ぐな言葉を、ボクは心の奥底でゆっくりと反芻した。

 

(ファンの夢を叶えてみせた、か……)

 

 悪くない。いや、これ以上ないほど最高に気分のいい幕引きじゃないか。自分の中で完全に腑に落ちる音を聞き届けたボクは、ずっと隣でワガママに付き合ってくれた専属メカニックへと向き直った。

 

「トレーナー」

 

 そして、一切の迷いのない、晴れやかな笑顔で告げた。

 

「――ボクは、蹄鉄を置くことにするよ」

 

 

 突然の、けれどいつかは来るとわかっていたその言葉。トレーナーは少しだけ目を伏せ、ほんのわずかに寂しそうな響きを滲ませて微笑んだ。

 

「……そう、だね」

 

 トレーナーの脳裏には、先ほどまで睨み合っていた残酷なデータがはっきりと浮かんでいた。

 

 有マ記念で決定的となった、シリンダーの急速な摩耗。もしこのまま無理に現役を続行し、次の大舞台である『天皇賞(春)』へと向かったとしても、そこに向かう旅路の中で完全にピークアウトを迎えてしまうだろう。

 

 それほどまでに、ウマ娘『ステイゴールド』の肉体的なパフォーマンスは急激に落ち込み始めていたのだ。

 

 元プロのアスリートである彼女には、それが痛いほどよくわかっていた。勝てない姿をターフに晒すくらいなら、一番美しく輝いているこの瞬間に、最高の記憶のまま幕を引くべきだと。

 

 なにより、誰よりも泥臭く、誰よりも勝利に執着してきたこの相棒自身が、この結末に心から満足し、納得しているのだから。

 

「ステゴが、それで納得しているなら」

 

 トレーナーは顔を上げ、出会ったあの頃から少しも変わらない、真っ直ぐで温かい瞳でステゴを見つめ返した。

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