―――夜のトレーナー室。
デスクランプのオレンジ色の灯りだけが、静かに、トレーナーの横顔と机上の書類を照らしている。
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私は一人、万年筆を握りしめ、一枚の書類に向き合っていた。
『ウマ娘・トゥインクルシリーズ引退(登録抹消)届』
一番上の氏名欄には、すでに『ステイゴールド』という文字が書き込まれている。あとは、担当トレーナーである私の署名と捺印を済ませれば、彼女の6年にわたる長くて泥臭い旅路は、正式に幕を下ろすことになる。
「……ふぅ」
静寂の中、短く息を吐き出す。ステゴ本人にはまだ一言も伝えていないが、実は私自身も、彼女の引退と共にこのトレセン学園を去る――『トレーナー業』から完全に手を引くつもりでいた。
元プロ競輪選手、そしてステゴのトレーナーとして、彼女の足元を支え続けてきた6年間。
私が愛し、魅了されたのは、他でもない。
『ステイゴールド』という最高に泥臭くて、最高にイカれた、たった一つの黄金だけだ。彼女のあの走りに惚れ込み、彼女の魂を極限までチューニングすることだけに、私の全存在を懸けてきた。
だから、彼女の足が終わるのなら。
私の『専属メカニック』としての役割も、ここで終わりだ。
他の誰かの背中を推す自分の姿なんて、今は想像もできなかった。
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「……最高の仕事だったよ、本当に」
誰に聞かせるでもなく呟き、静かに決意を固める。そして、書類の最後、退職届のサイン欄に万年筆のペン先を下ろそうとした――その時だった。
コン、コン。
控えめだが、芯のあるはっきりとしたノックの音が、夜の静寂を破った。
「……どうぞ」
こんな時間に誰だろうといぶかしみながら声をかけると、ガチャリとドアが開いた。夜の帳が降りた廊下の向こうから、一人の小柄なウマ娘が姿を現す。
どこか影のある、けれど底知れない知性を感じさせる深い瞳。そして、私が6年間見つめ続けてきた相棒とよく似た、小柄で華奢な体躯。
「……ドリームジャーニー」
私が驚いて名前を呼ぶと、彼女は静かにドアを閉め、一礼をした。
「夜分遅くに申し訳ありません。トレーナーさん」
ジャーニーは、デスクの上の引退届にちらりと視線を落とし、それから、真っ直ぐに私の目を見据えた。その瞳の奥には、あのステイゴールドと同じ、決して折れることのない狂気的で不屈の光が、静かに、けれど確かに灯っていた。
「……少し、お話があるのですが」
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夜の帳が完全に下りたトレーナー室。デスクランプの灯りの中、突然現れた小さな訪問者は、私の机の上に置かれた書類へと静かに視線を落とした。
「引退届、ですか」
ドリームジャーニーの問いかけに、私は隠すこともせず、静かに頷いた。
「うん。ステゴも肉体的なピークアウトを迎えつつあるからね。お互い、すべてやり切って、完全に納得の上での決断だよ」
私の返答を聞いても、彼女の表情はピクリとも動かなかった。ただ、その深く澄んだ瞳を、引退届のすぐ『隣』に置かれたもう一枚の封筒へと滑らせた。
「……そうではなく。その隣にあるのは、あなたの退職願、ですよね」
鋭い指摘だった。私は観念したように小さく息を吐き、机に寄りかかった。
「まぁ、ね」
誤魔化すことなく、正直な胸の内を語る。
「私は、もともとステゴの走りに惚れ込んで、彼女の走りを最高のものにするためだけに、この世界に入ったからね。私の最高の夢は、あの有マ記念で終わった。……じゃあ、あとは静かに去るだけだよ」
私の中では、すでに完全に自己完結した美しい引き際だった。
―――しかし、その言葉を聞いた瞬間。ジャーニーは、それまで纏っていた上品な気配を一変させ、底冷えするような静かな怒気を孕んだ声で、はっきりと告げた。
「――ダメです」
「なぜ?」
私が驚いて問い返すと、彼女は一歩だけデスクへと歩み寄り、凄みのある瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
「あの極限の、アネゴの泥臭い走りを一番近くで見て、そのチューニングのノウハウを完全に持っている貴女が、トレセン学園から居なくなる」
決して声を荒げているわけではない。
「それでは、アネゴの走りを継承する者がいなくなってしまう。到底容認できる事ではありません……。それは、これからのターフの歴史にとって絶対に許されないほどの、大きな損失なのです」
だが、その小さな体躯から放たれる圧倒的な執念と圧力に、私は思わず気圧されそうになった。
「でも……」
私は視線を逸らし、本音をこぼす。
「ステゴ以外のウマ娘を、これから一から教える気には……、どうしてもなれないんだよ」
最高の相棒への未練。あるいは、メカニックとしての燃え尽き症候群。そんな私の弱音を、ドリームジャーニーは涼しい顔で一刀両断した。
「でしたら、私の担当になっていただければ済む話です」
「えっ……?」
「私はずっと、アネゴの背中を、そして貴女の導きを特等席で見てきました。故に、確信しています。
―――私なら、貴女のそのノウハウを完全に吸収できる。貴女なら、私を頂点へと導ける。そして、」
彼女は不敵に口角を吊り上げ、自信に満ちた声で断言した。
「私なら、貴女の次なる『夢』たり得る」
―――その言葉のあまりの強さに、私は思わず苦笑してしまった。実績も何もない下級生が、国内最高峰のレースを制したウマ娘……。そのトレーナーに向かって放つには、あまりにも自信過剰な言葉だ。
「……随分、傲慢じゃない?」
私が半ば呆れ気味にそう告げると。
「おや」
ドリームジャーニーは、ふっと目を細め、どこか悪戯っぽい、けれど最高に勝気な笑みを浮かべて首を傾げた。
「アネゴはもっと傲慢だったと、――思いますが?」
「――ッ」
その瞬間。彼女の背後に、あの黄金のウマ娘の影がはっきりと重なって見えた。
『やるねー! ウマ娘と並走して最後までついてこれるなんて、初めてだよ!』
『言ったね。なら、ボクの面倒くさい身体と、もっと面倒くさい魂の舵取り……あんたに任せるとしようか』
「『こいつは最高に面白い旅になるだろう』って、ワクワクしてるよ」
そうだ。私が6年間付き合ってきたのは、誰よりもワガママで、強欲で、傲慢なまでに勝利に執着する、世界一不屈なウマ娘だったじゃないか。
その魂の系譜は、目の前の小さな体躯に、間違いなく狂気的なまでの熱量を持って受け継がれている。
「……ははっ」
私は、堪えきれずに笑い声を漏らした。自分でも気づかないうちに、心の奥底で完全に冷え切ったと思っていたメカニックとしての血が、再びドクンと熱く脈打ち始めているのを感じていた。
「違いない。あいつは、もっとずっとワガママで傲慢だったよ」
私は机の上に置かれた自分の退職願を手に取ると、一切の未練なく、そのままくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へと放り投げた。
「……上等だよ。そこまで言うなら、君のその傲慢なエンジン、私が極限までチューニングしてあげるよ。覚悟してね? ジャーニー」
「ええ………。期待しておりますよ。トレーナーさん」
■
あの夜の訪問から、ちょうど一週間後。私の机の上にあったステイゴールドの『引退届』と、密かに用意していた自身の『退職願』は、まとめて綺麗にシュレッダーにかけられていた。
トレセン学園のグラウンド。冬の張り詰めた空気の中、ジャージ姿のステイゴールドは、目の前に並んで立つ二人の下級生を不思議そうに交互に見比べていた。
「……なんで?」
ステゴが小首を傾げて問いかける。その視線の先には、正式に私のチームへ加入することになったドリームジャーニーと、なぜか腕を組んで不遜な態度で私を睨みつけている暴君――オルフェーヴルが立っていた。
「姉上がどうしてもと言うから付いてきてやったが……貴様が姉上に相応しい器のトレーナーかどうか、この私が見極めてやろう」
オルフェーヴルは尊大な態度でフンと鼻を鳴らした。どうやら彼女は、敬愛する姉が選んだ新たな契約相手がどんなものか、わざわざ査定(お目付け役)として付いてきたらしい。相変わらず手のかかる、けれど底知れないポテンシャルを秘めた新たなウマ娘たちの登場に、私はただ苦笑いするしかなかった。
ステゴは呆れたように肩をすくめ、ジャーニーへと視線を向けた。
「なんでまた、ボクのトレーナーを?」
すると、ドリームジャーニーはふわりと上品な笑みを浮かべ、少しも怯むことなく自信満々に言い放った。
「簡単なことです。……あの極限のターフで、アネゴをあそこまで導いたトレーナーであれば、私のトレーナーとしてふさわしい、と思ったものですから」
静かな口調だったが、その瞳には、あの夜のトレーナー室で見せたのと同じ――ステゴのルーツを確かに受け継いだ者にしか宿らない、狂気的で不屈の野心がメラメラと燃え盛っていた。
ステゴは、一瞬だけ目を丸くした。しかしすぐに、堪えきれないといった様子で、ニカッと最高に嬉しそうな笑顔を弾けさせた。
「ははっ! なるほどな」
ステゴは準備運動のようにポンと拳を打ち合わせ、二人の頼もしい後継者たちへ向けて不敵に笑いかけた。
「それなら、まぁ。……ボクも少しは、お前たちのトレーニングに付き合ってやらないと、か。ジャーニー、オル。よろしく頼むよ」
「ふふっ、光栄です。アネゴ。そして、改めて―――。よろしくお願い致します。トレーナーさん」
「せいぜい、姉上の脚手纏いにならないことだな」
騒がしくも、最高に熱苦しい声が冬のグラウンドに響き渡る。
どうやら私の、トレーナーとしての役割はまだまだ、終わりそうにはない。