レースの第一線から退いた後、ボクは文字通り旅程を往く風来坊になった。
ある時はイタリアの石畳を気ままに歩き、ある時はパリのオープンカフェでエスプレッソを啜る。またある時はアメリカの広大なダートコースを眺め、オーストラリアの眩しい陽光を全身に浴びる。
自分の中にいた『おじさん』の熱苦しいまでの競馬への執念はどこへやら。すっかり憑き物が落ちたように、ボクはただ純粋に、異国の真新しい景色と自由な時間を楽しんでいた。
そして、長旅に少し疲れると。
決まって極東の島国――トレセン学園の、あの見慣れたトレーナー室へとふらりと帰っていくのだ。
「よお、元気にしてるかい?」
お土産の紙袋をぶら下げてドアを開ければ、そこにはいつだって相棒……、彼女が手塩にかける新たな才能たちの姿があった。
ボクの走りを継承したドリームジャーニーは、こちらの予想を遥かに超える凄まじいスピードでメキメキと頭角を現していた。あの泥臭くも鋭い末脚を完全に自分のものにしつつある彼女は、なんとジュニア級の頂点を決める『阪神ジュベナイルフィリーズ』で、あっさりとG1のタイトルを掻っ攫ってしまったのだ。
「……おいおい、嘘だろジャーニー。ボクが6年もかかった旅路……、G1をたったの数ヶ月で獲っちまうのかよ」
ラウンジのテレビ中継でその劇的な差し切り勝ちを見た時、ボクは呆れ半分、そして誇らしさ半分で、思わず頭を抱えて笑ってしまった。
そして、もう一人の規格外の才能――オルフェーヴル。
「ふん。貴様が組んだこの泥臭いメニュー、ひどく理にかなってはいるが……王たる余の美学には少々反するな」
唯我独尊を地で行く彼女は、相変わらずトレーナーの用意した練習メニューに対して不遜な態度で文句を垂れていた。
だが、彼女は決してそれを投げ出さない。いざグラウンドに出れば、そのメニューを誰よりも完璧に、一切の妥協なくこなしてみせるのだ。
元プロのメカニックが叩き出す緻密な計算と、自身の肉体が確実に研ぎ澄まされていく実感に、彼女のプライドもすっかり舌を巻いているらしかった。文句を言いながらも、なんやかんやでトレーナーの傘下に収まり、素直に――彼女なりに、だが――、従っているその姿は、見ていてどこか微笑ましいものがあった。
「まったくないい性格してるよ、あいつらは」
トレーナー室の特等席であるソファに寝転がりながら、ボクは淹れたての紅茶を啜り、平和な日常の光景をのんびりと眺める。
シリンダーを焼き切るような、あのヒリヒリとした極限の削り合いから離れた穏やかな時間。世界中の風に触れ、頼もしい後輩たちの成長を見守る中で、ボクの意識は、自然と自分自身の内側へと沈み込んでいくのを感じていた。
目を閉じる。
あの精神の深淵。おじさんの魂とウマ娘の魂が完全に融け合い、境界線などとっくの昔に消え去ったはずの、静かな水面。
――そういえば、もう一度アイツと、話したいと思った。
■
目を閉じ、意識を深く沈めた先。金色の光が微かに揺らぐ、あの静かな水面の上に、再び『彼女』は立っていた。
「よう」
ボクが声をかけると、小柄な体躯の彼女は、相変わらずの勝気な笑みを浮かべて振り返った。
「やあ。……アンタからの呼び出しとあったら、断るわけにもいかないからね」
「ははっ、有難いね」
ボク――いや、おじさんは頭を掻きながら、彼女の隣へと歩み寄った。
「まぁ、なんだ。……ちょっとばかり、どうだったかなと思ってな」
「どうだったか?」
「ああ。ボク自身は、あの有マ記念で全部出し切って、本当に満足している。でも……あんたは? 本当に、あんな結末で良かったのか?」
他人の人生を乗っ取り、運命を大きくねじ曲げた末の、イレギュラーな『黄金の旅程』。その被害者……、当事者である彼女が、あの熱苦しい6年間をどう思っていたのか。おじさんとしては、それがずっと胸の奥に引っ掛かっていたのだ。
ボクの問いかけに、ステイゴールドはふっと吹き出した。
「なんだ、今更そんなこと気にしてたのか? おじさん……、アンタ、もっと図々しいかと思ってたよ」
「いやいや、おじさんは繊細なんだ。若い娘さん相手じゃあ、特にな」
おどけて見せると、彼女は呆れたように肩をすくめた後、真っ直ぐにボクを見つめてきた。その黄金色の瞳には、一切の曇りも、後悔もない。
「ああ……悪くなかったよ。アンタが選んだその泥臭い旅路も、とびきり輝いていた」
「……そっか」
ボクは心の底から安堵する。そのせいで自然と、顔に笑顔が浮かぶ。その笑顔を見て、ステイゴールドもまた、誇らしげに口角を吊り上げた。
「ああ、そうだ。……本当に、良い旅だったよ。おじさん」
水面に波紋が広がり、温かい光が二人を包み込む。これで、本当にすべてが終わったのだ。
だが、ボクはふと気になって、彼女に一つ問いかけた。
「で。一つ気になってたんだが……アンタは、ステイゴールドは、これからどっかに行きたくないのかい?」
「ん?」
「散々、世界中を飛び回っただろう。でも、それはボクの我儘につき合わせたようなもんだ。アンタ自身が、もう一度行きたい場所とか、やってみたいこととか、ないのか?」
すると、ステイゴールドは。
「そうだなー……」
と少しだけ考え込む素振りを見せた。
「ま、レースに未練はないさ。あんたと共に走った年月は充実していた。だが、そうだな。強いて言えば……」
彼女が言葉を区切った瞬間。
(……ああ。なるほど、な)
「ははっ……ほら見ろよ。やっぱり、私たちは『ステイゴールド』なんだからさ」
考えていることは同じ。求めているものも同じ。ならば、わざわざ言葉にする必要なんてない。
彼女は呆れたように笑い、そして、すっと右の拳を突き出した。
「じゃ、これで本当に最後だ。楽しかったよ、おじさん」
「ああ、こっちこそ、だ。じゃあ、『また』な。ステイゴールド」
ボクが拳をコツンと打ち合わせると、彼女はふっと笑みを浮かべる。
「私の話を聞けっての。そういう所も全く、おじさんだなぁアンタ」
「仕方ないだろ? だってボクはおじさんだし」
肩をすくめるボクを見て、彼女は呆れつつも、どこか満足げに目を細めた。
『また』なんてないことくらい、お互いに痛いほど分かっている。それでも、ボクたちはジメジメとした別れなんて似合わない。
光に包まれ、彼女の姿がゆっくりと薄れていく。
「……好きに生きなよ。おじさん」
その最後の瞬間まで、彼女は不敵で、誇り高い『ステイゴールド』のままだった。
「ずっと前から、そしてこれからも。アンタの旅路なんだからさ!」
■
「――ステゴ? ステゴー?」
遠くから、聞き慣れた声が響いてきた。
「……ああ」
ソファでうたた寝をしていたボクは、ゆっくりと目を開け、身体を起こした。見慣れたトレーナー室の天井。窓から差し込む夕陽が、室内をオレンジ色に染めている。
視線の先には、呆れたようにこちらを見下ろす専属メカニック。そしてその後ろには、ジャージ姿のドリームジャーニーとオルフェーヴルの姿があった。
「なんだ、すっかり夢見心地じゃない」
「夢、ねぇ……」
ボクは一人ごちて、小さく伸びをした。
「どうされたのですか? アネゴ」
不思議そうに小首を傾げるジャーニー。その隣で、オルは腕を組みながら
「ふん、昼寝とはいいご身分だな」
と鼻を鳴らしている。ボクは、ソファから立ち上がり、二人の小さな後輩を真っ直ぐに見据えた。
そして、ステイゴールドが最後に言いかけた言葉――ボクたちがやり残した、たった一つの『未練』を口にした。
「なぁ、ジャーニー。オル。……お前たちに、お願いがある」
「なんでしょう?」
「なんだ?」
不思議そうに顔を見合わせる二人に、ボクはかつてないほど真剣な、そして傲慢な笑顔を向けて言い放った。
「凱旋門、獲れよ」
「……ッ!」
「ほう……」
それは、ボクたち『ステイゴールド』が、どうしても届かなかった究極の頂。日本のウマ娘の悲願であり、世界最高峰のレース。そして、史実において、ドリームジャーニーも、オルフェーヴルも届かなかった、いと高き、気高い門。
でも、この世界なら―――。
ボクは隣に立つ最高の相棒の肩をバンッ! と叩く。
「ステゴ……!? そんな無茶ぶり……」
突然の無茶振りに、トレーナーは一瞬だけ目を丸くしたが。
「……全く、仕方ないんだから」
小さくそう言うとすぐに、あの出会った日と何も変わらない、最高に頼もしい笑みを浮かべて頷いた。
「当然でしょステイゴールド。……私のチューニングを、世界に知らしめてあげるわよ!」
夕陽に染まるトレーナー室。
「と、いうわけで。サポートは全力でするから。……な?」
「……ふふっ。全く、アネゴは……本当に仕方のないお方です」
小さくため息をつきながらも、その口元には隠しきれない歓喜の笑みを浮かべるジャーニー。彼女はそのまま、隣で腕を組む妹へと視線を流した。
「聞こえましたか、オル? どうやら私たちには、最初から断るという選択肢は用意されていないようですよ」
「ふん。王たるこの余に、海を渡れと命じるか。ステイゴールド」
オルフェーヴルは不遜に鼻を鳴らす。
「……まぁよい」
だが、その黄金の瞳はかつてないほどにギラギラと獰猛な光を放っていた。
「あの忌々しくも気高い門ごと、世界を姉上と余の前にひれ伏させてくれよう」
受け継がれた不変の黄金の系譜は、極東の地から世界最高峰の頂へ向けて、新たな旅の第一歩を、力強く踏み出したのだった。
黄金の旅路は終わりです。多分この先、うまいもの食いながらおっさんステゴは旅を続けるでしょうし、トレーナーもなんだかんだウマ娘と共に走るんだろうなぁ、と思います。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。