ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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そして、黄金のギアは回り続ける

 昔ながらの純喫茶。深煎りのコーヒーと微かなタバコの香りが漂う店内で、向かいの席に座るかつての戦友は、これ見よがしに広げたスポーツ紙を指差して大きなため息を吐いた。

 

「信じられないわね、本当に。何度見ても合成写真か何かだと思っちゃうわ」

 

 紙面には『日本のウマ娘、いざ世界へ!』という仰々しい見出しと共に、凱旋門賞の舞台となるパリ・ロンシャンレース場を背景にした写真がデカデカと掲載されている。不遜に腕を組むドリームジャーニーと、世界を睨みつけるように傲岸不遜な笑みを浮かべるオルフェーヴル。そしてその中央で、スーツ姿で二人の肩を抱き寄せる私の姿があった。

 

「公営ギャンブルの自転車乗りから、いきなりスポーツ選手――それもトレセン学園のトレーナーに転身するって聞いた時は、正気の沙汰じゃないって本気で頭を疑ったけど……」

 

 元同僚の女性レーサーは、呆れたように、けれどどこか誇らしげに目を細めた。

 

「こうも世界的な実績を残されちゃあ、ぐうの音も出ないわね。あの泥臭い走りでバンクを這いつくばってたあんたが、今や世界のメディアから注目される一流のウマ娘トレーナー様だなんて」

 

「あははっ! 全くだよ!」

 

 私は豪快に笑い飛ばし、ブラックコーヒーを喉に流し込んだ。

 

「私自身、気づいたらこんなことになってたわって、毎日ニュースを見て腹を抱えて笑ってるよ。人生、どこでどうギアが噛み合うか分かったもんじゃないね」

 

「笑い事じゃないわよ。あんた自身が『名伯楽』としてブランドになってるって気づいてる?」

 

 彼女はスポーツ紙のページをめくり、国内レースの特集記事をトントンと指先で叩いた。

 

「今じゃ後進の育成でも引っ張りだこじゃない。ええと……フェノーメノに、ゴールドシップ? それにナカヤマフェスタだっけ。最近じゃ、スポーツニュースでその名前を聞かない日はないわよ。どいつもこいつも規格外の化け物揃いだって、もっぱらの噂じゃない」

 

 彼女の言う通りだった。あの日、ステイゴールドから無謀にも投げ渡された途方もないバトンは、今やドリームジャーニーやオルフェーヴルだけにとどまらず、数多の規格外の才能たちを引き寄せる強烈な磁場となっていた。

 

 気高くストイックなあまり、常にレッドゾーンを超えて走り抜けようとする精密機械のようなフェノーメノ。

 

 勝負というヒリつく盤面にしか興味を示さない、カミソリのように危険で鋭利なモーターを積んだナカヤマフェスタ。

 

 そして、ロケットのエンジンを積んで一輪車で爆走しているような、常識も物理法則も通用しない破天荒なゴールドシップ。

 

「こーんなアクの強い連中を何人も束ねるなんて、本当に凄いと思うわ。あんた、トレーナーじゃなくてただの猛獣使いなんじゃないの?」

 

「よしてくれよ、そんなことないさ」

 

 私は苦笑しながら、手でパタパタと謙遜のジェスチャーを作った。

 

「毎日あいつらに振り回されっぱなしで、胃薬が手放せないよ。ゴルシにはドロップキックを食らわされるし、フェスタは勝手に野良レースに出ようとするし、メノのオーバーワークを止めるのに必死だし。……本当に、気づいたらこんな賑やかなことになってただけだもん。自分でも不思議なくらいさ」

 

 そう言って笑う私を見て、彼女もまた釣られたように肩を揺らして笑った。

 

 それから私たちは、競輪選手時代に共に汗と泥にまみれた古い思い出話に花を咲かせた。最近の若い選手のギア比のトレンドや、バンク特有の風の読み方、かつて通い詰めた定食屋のオヤジが引退したという他愛のない雑談。

 

 住む世界も、扱う『エンジン』も全く違うものになってしまったけれど、勝負の世界のヒリつくような空気を知る者同士の会話は、私にとって心地の良いチューニングの時間のようだった。

 

「でも、楽しそうね」

 

 ひとしきり笑い合った後、彼女はふと真顔に戻り、窓の外の夕暮れの街並みに視線を向けながら静かに言った。

 

「現役の時、フレームの数ミリの歪みやギアの重さに異常な執着を見せてたあんたが、今はあの子たちの舵取りに熱中してる。あの頃よりずっと、いい顔して笑ってるわ」

 

「……そうかい?」

 

「ええ。それで聞きたいんだけどさ。あんたは国内の頂点を極めて、今度は凱旋門。規格外の猛獣たちを次から次へと抱え込んで……あんたは一体、その先に何を見ようとしてるの?」

 

 問いかけられ、私は手に持っていたコーヒーカップを静かにソーサーへと置いた。

 

「……そうだね。何を見ようとしているか、か」

 

 脳裏に浮かぶのは、6年という歳月をかけて泥臭く共に歩んだ、あの誰よりもワガママで強欲なウマ娘の後ろ姿。そして、その意志を継いで世界へと殴り込みをかける、小さくも気高い後輩たちの背中。

 

「時代が変わっても、世代が移り変わっても、決して錆びつくことのない輝きだよ」

 

「………輝きかぁ。いいな、そういうの」

 

 私は窓の外、オレンジ色に染まる西の空を見つめながら、かつてないほどの誇りを胸に抱いて、口角を吊り上げた。

 

「でしょ? 例えるならば………」

 

 私は空になったコーヒーカップの縁を指先でなぞりながら、ふっと息を吐く。

 

「―――不変の黄金、かな」

 

 

 

 

 穏やかな波の音と、運河を行き交うゴンドリエーレの陽気な歌声。

 

 アドリア海の真珠と呼ばれる水上都市、ヴェネツィア。

 

 ボクは今、石畳の路地裏にある小さなバーカロ(立ち飲み屋)のテラス席で、最高に贅沢な時間を満喫していた。

 

「……たまんないね、こりゃ」

 

 よく冷えたヴェネト州特産の白ワインを傾けながら、ボクは小さく息を吐いた。

 

 テーブルに並ぶのは、新鮮な魚介を使ったチケッティ(小皿料理)の数々。干し鱈をペースト状にしたバッカラ・マンテカートの濃厚な旨味と、イカスミのパスタの磯の香りが、キリッとした辛口のワインとこの上なくマリアージュしている。

 

 中身に『おじさん』が居るからだろうか。こういう土地の歴史が染み込んだ酒と美味いメシに出会うと、魂の底から歓喜の涙が溢れそうになる。

 

 

 過酷なレースの世界から少し距離を置き、こうして異国の風に吹かれながら昼間から酒を煽る。現役時代には考えられなかった、最高のバカンスだ。

 

 腹を満たした後は、迷路のような路地を散策し、サン・マルコ広場に面した老舗のカフェへと足を運んだ。

 

 テラス席に陣取り、本場のカフェ・ラテを注文する。深く焙煎されたエスプレッソの鋭い苦味を、きめ細かくスチームされたミルクの甘みが優しく包み込んでいる。

 

「美味い……。でも、あいつが淹れてくれる安物のコーヒーも、悪くないんだよなぁ」

 

 ふと、口をついて出た自分の言葉に苦笑する。

 

 遠く離れた極東の地。夕陽に染まるあの少し埃っぽいトレーナー室で、今頃あのメカニックは、ジャーニーやオルという規格外の猛獣たちに振り回され、眉間を揉みながら胃薬でも飲んでいる頃だろうか。

 

 まったく、仕方のない相棒だ。ボクがいなきゃ、あの不器用な職人は息抜きの一つもまともにできないんだから。

 

 ボクはカップに残ったカフェ・ラテを飲み干すと、水上バス(ヴァポレット)の乗り場へと向かった。

 

 

 午後の目的地は、ヴェネツィア本島から少し離れた場所にある『ムラーノ島』。古くからヴェネツィアン・グラスの職人たちが集まる、ガラス工芸の島だ。

 運河沿いには、色とりどりのガラス細工を並べた工房やギャラリーが軒を連ねていた。観光客向けの派手な土産物屋を抜け、ボクは少し奥まった場所にある、静かでアンティークな雰囲気の工房へと足を踏み入れた。

 

 薄暗い店内。ステンドグラスから差し込む光の中で、ボクの目は『それ』に釘付けになった。

 

「……へぇ」

 

 ショーケースの片隅にひっそりと飾られていたのは、一対のグラスだった。

 

 ベースとなっているのは、どこまでも深く、情熱的な血のように鮮やかな赤ガラス。そして、その表面には、繊細でありながらどこか傲慢なほどの自己主張を放つ、美しい金の細工が蔦のように絡みついている。

 

 赤と、黄金。

 

 それはまるで、夕陽に染まるあのトレーナー室の空気と、ボクたち『ステイゴールド』の魂そのものを具現化したような、息を呑むほど美しいペアグラスだった。

 

「Signorina, ha un occhio eccellente(お嬢さん、お目が高い)」

 

 奥から出てきた白髭の職人が、ふぉっふぉっと笑いながらウインクをしてきた。どうやら、かなりの年代物らしい。

 

「Non esistono due coppie uguali al mondo. Se ha qualcuno di speciale nella Sua vita, posso farLe un buon prezzo.」

 

「……へぇ」

 

 ボクは、そのグラスの滑らかな表面を指先でそっと撫でながら、脳裏に一つの情景を思い浮かべていた。

 ――帰国して、あの見慣れたソファにどっかりと腰を下ろす自分。そして、呆れ顔で「お土産は?」と手を出すメカニックに、この重厚なグラスを押し付けるのだ。

 

『まぁ、せいぜいこのグラスで美味い酒でも飲んで、ボクの偉大さを噛み締めるんだね。トレーナー』

『……ステゴ。高かったんでしょこれ。割ったらどうすんのよ』

 

 そんな文句を言いながらも、きっとあいつは最高に嬉しそうな、あの頼もしい笑みを浮かべるに決まっている。

 

「……決めた。これ、もらうよ」

 

 ボクは職人に向かって、かつてないほど傲慢で、けれど最高にご機嫌な笑みを向けてクレジットカードを差し出した。

 

 

 次にあの小さな部屋で、あいつと二人きりでグラスを傾ける時。

 

 この赤と黄金のグラスには、とびきり上質なワインを注ごう。

 

 ツマミには、極上のバカンスの土産話と、愛すべき後輩たちの武勇伝、そして、トレーナーがたどる黄金の旅路を。

 

 夕暮れのムラーノ島。

 

 美しく包装されたペアグラス。紙袋を手に提げたボクの足取りは、いつかのウイニングランのように、どこまでも軽く弾んでいた。






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