只見から新潟へ抜けるなら、六十里越峠を越えていくのが一番わかりやすくて真っ当なルートだ。
けれど、ただ綺麗に舗装された道を淡々と走るだけじゃあ、どうにも面白味に欠ける。せっかく道なき道すら走破できるウマ娘の身体があるんだから、もう少し歯ごたえのあるルートはないものか。
給水がてら立ち寄った商店で、何気なくそんな聞き込みをしてみたのが事の始まりだった。
「新潟に抜ける酷い道? そりゃあ、国道289号……八十里越のことだろうな。地図じゃ国道になってるが、あそこは点線国道だ。車はおろか、人もまともに通れねえような道なき道だぞ」
店番の老人は呆れたように笑っていたけれど、その言葉は、ボクの中にある「おじさんのオフロード魂」と「ステイゴールドのじゃじゃ馬な好奇心」の双方に、これ以上ないほど見事に火をつけてしまった。
「車が通れない、点線の国道ね。……最高じゃないか」
前世で乗っていた大型のオンロードバイクでは、絶対に立ち入れない未舗装の獣道。そこを自分の足で切り拓いて進むなんて、想像しただけでワクワクする。
ボクは迷うことなくルートを変更し、その「点線国道」へと足を踏み入れた。
最初は良かった。
苔生した岩場や、崩落した斜面、ぬかるんだ土。本来なら歩くのすら困難なはずの悪路も、ウマ娘の強靭な脚力とバランス感覚にかかれば、ちょっとしたアスレチックのようなものだった。道の先を読み、最適な足場を見極めて跳躍する。舗装路をただ真っ直ぐ走るのとは違う、全身のバネをフル稼働させる泥臭い走りは、たまらなく刺激的で面白かった。
……面白すぎた、と言ってもいいかもしれない。目の前の悪路を攻略することに夢中になるあまり、ボクは山の恐ろしさをすっかり忘れていた。
気づいた時には、周囲の木々の影が異様に長く伸びていた。深い深い山の中。ただでさえ日の短い谷間では、夕暮れは足音もなくやってきて、あっという間に周囲を濃い闇で塗りつぶしていく。
「……やっちゃったね」
完全に日が落ち、視界が数メートル先までしか効かなくなった獣道のど真ん中で、ボクは足を止めた。流石のウマ娘でも、暗闇の中で足場もわからない崖や沢を越えていくのはリスクが高すぎる。足でも捻ろうものなら、こんな山奥では本当に取り返しがつかない。
「うーん……」
ボクは腕を組んで小さく首をひねった。
昨日は優しいおせっかいに助けられたけれど、今日ばかりは奇跡は起きない。周囲には民家の明かりはおろか、人工物の気配すら一切ない。聞こえるのは風が木々を揺らす音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけ。正真正銘、完全な孤独だ。
「仕方ない。今日はここで店仕舞いとしようか」
ボクはあっさりと状況を受け入れ、少しでも平らで、夜露を凌げそうな大きな木の下を探して腰を下ろした。
リュックの中からバーナーを取り出し、手探りで火をつける。シュゴーッという小さな燃焼音が、静寂の森に吸い込まれていく。沸かしたお湯で紅茶を淹れると、冷え始めた身体の芯に温かい香りが染み渡っていった。
誰の助けもない、真っ暗な山の中での完全な野宿。普通なら心細さに押しつぶされそうな状況だろうけれど、温かいカップを両手で包み込みながら、ボクは不思議と満ち足りた気分だった。
「まあ、こういう夜も悪くないさ」
点線国道の途中で、たった一人、木に寄りかかって夜を明かす。これもまた、予定調和を外れた旅にしか味わえない、極上のスパイスだ。ボクは紅茶をゆっくりと飲み干し、静かな森の闇に身を委ねた。
■
翌朝、木々の間から差し込む朝日で目を覚ました。
身体のあちこちについた葉っぱや土を払い落とし、再び「点線国道」の攻略に取り掛かったボクだったけれど……どうやら、自然というやつはそう甘くはないらしい。
いくらウマ娘の強靭な脚力と無尽蔵のスタミナがあっても、そもそも足を踏み出すための「まともな地面」が存在しないのだ。
崩落して斜面ごと削れ落ちた崖、背丈を優に超える藪、そしてぬかるんだ急勾配。アスレチックなんてもんじゃない、これは完全なサバイバルだ。下手にスピードを出そうものなら、そのまま谷底へ真っ逆さまに滑落しかねない。
「……こいつは、思っていた以上に骨が折れるね」
結果として、ボクの進むペースは時速数キロ程度にまで落ち込んでいた。ハイキングというよりは、もはや沢登りか藪漕ぎの領域だ。
ただ、不思議と焦りはなかった。
おじさん時代に培った地図読みの勘と、ウマ娘の鋭い感覚のおかげで、自分がどのあたりにいるのか、進むべき方角はどちらかというルート(道筋)は見失っていない。それに、山深く手つかずの自然が残っているおかげで、あちこちに美しい清水が湧き出ている。これだけ良質な水が飲み放題なら、少なくともすぐに干からびて遭難するような事態にはならない。
問題があるとすれば、カロリーの方だ。
ウマ娘の燃費の良さに胡坐をかいていたけれど、流石に二日も山の中を歩き回っていれば、腹の虫も盛大に鳴き始める。リュックに入れていたわずかな行動食は、とうの昔に底をついていた。
「さて、どうしたもんか……ん?」
沢沿いを進んでいたボクの目に、鮮やかな緑色の群生が飛び込んできた。
根元が赤みを帯びた、水気をたっぷりと含んだ茎。前世の記憶が、それが「ミズ(ウワバミソウ)」という食べられる野草であることを教えてくれた。
「ラッキーだ。これならいける」
ボクはリュックを下ろし、手慣れた手つきでミズを採取した。
泥を清水で洗い流し、そのままポキッと折って口に運ぶ。シャキシャキとした小気味良い食感と、クセのないさっぱりとした味わい。微かな粘り気と一緒に、瑞々しい水分が口の中に広がる。
バーナーでお湯を沸かして軽く茹で、持っていた塩をほんの少し振って食べれば、立派な山の恵みのおかずになった。ウマ娘の莫大な消費カロリーからすれば焼け石に水かもしれないけれど、それでも胃袋に食べ物が入るだけで、身体の内側からじんわりと活力が湧いてくるのがわかる。
ミズを齧り、湧き水で喉を潤し、倒木を越え、沢を渡る。
時速60キロで風を切り裂いていた一昨日とは打って変わって、泥臭くて地道な、自然との対話のような時間が流れていった。
そうしてゆっくりと歩みを進めるうちに、容赦なく二度目の夕暮れがやってきた。
「……ま、今日はここまでだね」
深い木立の中で足を止め、ボクは小さく息を吐いた。
まさか、同じ山の中で二晩も連続で野宿することになるとは思わなかった。けれど、文句を言う気にはなれなかった。
時速数キロでしか進めないからこそ気づける、苔の美しさや、森を吹き抜ける風の匂いがある。誰にも干渉されず、ただ自分の力だけで生き抜き、前へ進む。この絶対的な孤独とサバイバル感は、おじさんの魂をひどく満たしてくれていた。
ボクは少し開けた平らな地面に腰を下ろし、夕闇に沈んでいく森の木々を静かに見上げた。
「明日は、新潟の海が見えるといいんだけどね」
静かな独り言は、風の音に紛れてゆっくりと溶けていった。