すっかり乾いた服に着替え、蕎麦処の店主に心からの礼を言って、ボクは再び走り出した。目指すは新潟、金物の街として名高い燕三条だ。
海沿いへ抜ける前にどうしても寄っておきたかった燕三条地場産業振興センター、いわゆる物産館に滑り込んだボクは、そこから数時間、完全に時間を忘れることになった。
「……素晴らしいね。このチタンマグの滑らかな溶接痕、それにこのニッパーの刃の完璧な噛み合わせ……もはや芸術品だ」
ショーケースや棚にずらりと並ぶ、職人技が光る金属製品の数々。無駄を削ぎ落とした機能美、冷たくも美しい鉄やステンレスの輝き。前世で機械を愛していたおじさんの魂が、これほどまでに激しく共鳴する空間が他にあるだろうか。いや、ない。
ウマ娘の姿をした少女が、可愛いアクセサリーやスイーツではなく、渋い工具やキャンプ用のクッカーセットを食い入るように見つめている図は、端から見ればかなり異様だったかもしれない。けれど、そんなことはどうでもよかった。
「お客さん、あの、そろそろ閉館時間でして……」
「おっと、すまない。もうそんな時間か」
結局、館内に蛍の光が流れ始め、申し訳なさそうな職員にやんわりと追い出されるまで、ボクはそこに入り浸ってしまった。
外に出ると、すっかり日は落ちて街灯が夜道を照らしていた。さて、とボクは小さく伸びをする。
「うーん……流石に野宿するには、ここは少し街中すぎるな」
山の中ならどこでも寝床になったけれど、流石にアスファルトとコンクリートに囲まれた市街地で、道端に転がるわけにはいかない。仕方なく適当な場所を探して歩き、駅の周辺にある、人通りの少ないベンチを見つけて腰を下ろした。
「ま、今日はここでいいか」
リュックを枕代わりにし、硬いベンチの上にそのままゴロンと仰向けに寝転がる。ウマ娘の身体ならこれでも十分に眠れる。目を閉じ、静かな夜の空気に身を委ねようとした、その時だった。
「……おい。こんな所で何してんの?」
頭上から、図太い声が降ってきた。
薄目を開けると、そこには分厚い胸板と丸太のように太い腕をした、かなりマッチョな男が立っていた。トレーニングウェア姿で、夜のランニングかジムの帰りといったところだろうか。彼はこちらを覗き込むようにして、胡乱な目を向けている。
「やあ、こんばんわ。見ての通りの野宿だよ」
ボクがそのままの姿勢で正直に答えると、男は素頓狂な声を上げた。
「野宿ぅ!? いやいや、今時それはねえだろ。いくらウマ娘だって、こんな夜中に駅前で寝っ転がってるなんて……。宿は?」
「取ってないよ。必要ないし」
ボクの飄々とした返答に、男はさらに顔をしかめた。どうやら彼も、会津の親父さんや只見の人たちと同じ、根っからのお節介焼きらしい。ボクの中身が「ベンチで寝るのなんて慣れっこのおじさん」だということを知らない以上、この反応は至極真っ当なものだ。
「……」
男は腕を組み、うーんと唸りながら何やら深刻そうに悩み始めた。視線をボクと駅舎の間で何度か往復させた後、やがて何かを決意したように大きなため息をついた。
「……ちょっと、そこで待ってろ」
そう言い残すと、男はスマホを取り出しながら足早にどこかへ歩いていってしまった。ボクはベンチに寝転がったまま、夜空を見上げて小さく肩をすくめた。
「やれやれ。新潟の夜も、なかなか静かには過ごさせてくれないみたいだね」
■
ベンチで夜空を眺めながらしばらく待っていると、先ほどの男が小走りで戻ってきた。
「おう、待たせたな。嫁さんの許可は貰ってきたから、ウチに来い」
事も無げにそう言う彼に連れられ、夜の街を歩くこと数分。到着したのは普通の民家ではなく、油と金属の匂いが微かに漂う町工場だった。
中に入ると、消灯された薄暗い空間の奥、作業台の上には様々な工程の途中らしきナイフが何本も整然と並べられていた。どうやらこの屈強な男は、刃物を鍛え、削り出す職人だったらしい。研ぎ澄まされた鋼の冷たい輝きと、無骨な工作機械のシルエット。昼間に物産館で見た完成品も素晴らしいが、こういう「現場」の空気感もたまらない。ボクの中のおじさん魂が、静かに、しかし確かな興奮を覚えている。
工場の奥にある居住スペースへ通されると、エプロン姿の奥さんが目を丸くしてボクを出迎えた。
「やあ、お邪魔するよ」
「ちょっと、本当に駅のベンチで野宿しようとしてたの!? 年端もいかない女の子が、しかもこんな夜中に……信じられないわ!」
挨拶もそこそこに、開口一番たっぷりとお小言を頂戴してしまった。ボクは小さく肩をすくめて「いや、ウマ娘は頑丈だからね」と弁明したが、奥さんの勢いは止まらない。
「そういう問題じゃないの! 旦那から大体の話は聞いてるわ。ご飯は? ちゃんと食べてるの?」
「食べてないよ。そういえば、昼に山あいでざる蕎麦を一枚手繰ったきりだね」
ボクが何気なくそう答えると、奥さんは信じられないものを見るような顔になり、さらに大きな声を上げた。
「お蕎麦一枚!? ウマ娘がそれじゃあ全然足りないでしょう!? ウチの工場で力仕事を手伝ってくれてるウマ娘の子がいるけど、お昼なんてお釜を空っぽにするくらい、すごい食べるんだから!」
どうやら、この工場にはウマ娘の従業員がいるらしい。確かにあの凄まじい腕力と体力があれば、重い金属や資材を扱う現場では大活躍だろう。それにしても、ウマ娘の燃費の悪さは世間一般の共通認識なのだなと、ボクは妙に感心してしまった。
「ほら、座って! 今すぐ用意するから!」
有無を言わさぬ勢いで座布団に押し込まれ、やがてちゃぶ台に並べられたのは、寺泊かどこかの港で上がったのだろう、新鮮な新潟の海産物をふんだんに使った夕食だった。
ツヤツヤに光る白米に、分厚く切られた旬の魚の刺身。イカの丸焼きに、魚の出汁がたっぷり出た熱々のあら汁。海の幸の濃厚な香りが鼻をくすぐった瞬間、昼からほとんどカロリーを入れていなかったボクの胃袋が、急に「早く燃料を寄越せ」と盛大に主張し始めた。
「……いただきます」
ボクは箸を手に取ると、さっそく刺身を醤油にくぐらせ、白米と一緒に勢いよく掻き込んだ。日本海の荒波に揉まれた魚の身はコリコリと締まっていて、噛むほどに甘い脂が溶け出してくる。
「うん、美味しいね」
たまらずあら汁で流し込むと、温かい出汁の旨味が空っぽの身体にじんわりと染み渡った。山の野草やサワガニのスープも悪くなかったけれど、やっぱり人間の知恵が詰まった温かいご飯と海の幸の組み合わせは最高だ。
「ゆっくりでいいから、いっぱい食べなさいね」
呆れながらも優しく笑う奥さんと、無言で頷く職人の旦那さん。ボクは思いがけない人情にまたしてもすっかり甘えながら、新潟の豊かな海の幸を無心で味わい尽くした。
■
翌日。宿代わりと食事代の恩返しも兼ねて、ボクは朝から工場の仕事を手伝うことにした。
そこで顔を合わせたのは、奥さんが言っていた従業員のウマ娘だった。地元の素朴な子で、気立てが良く、ウマ娘特有の力強さを持っていた。二人で汗を流しながら、鉄の塊や重い資材を次々と運んだり、プレス機の補助に入ったりと、一日中力仕事に精を出した。おじさんの魂としては腰が悲鳴を上げそうな重労働だけれど、ウマ娘の身体にとっては心地よいスポーツみたいなものだ。
作業の合間の休憩時間、よく冷えた麦茶を飲みながら彼女と雑談していると、ひょんなことからボクがトレセン学園の生徒だということが知れ渡ってしまった。
「えっ、トレセン学園!? ってことは、アタシと同い年くらいなのに、あの中央のウマ娘なの!?」
彼女が目を丸くして大声を上げたのを皮切りに、工場の中はちょっとしたお祭り騒ぎになった。職人のおじさんたちまで手を止めて、
「すげえな、未来のスター候補がうちで鉄骨運んでたのか!」
と豪快に笑い合う。ボクとしてはただの気ままな放浪者のつもりだったけれど、こういう温かいからかいも悪くない。
そんな賑やかな一日が終わり、夕暮れ時。すっかり片付けを終えたボクの前に、旦那さんがコトリと一つの包みを置いた。
開いてみると、そこには一本の折り畳みナイフが入っていた。無骨だけれど、手に馴染むような美しい曲線を描くグリップ。昨日、ボクが物産館のショーケース越しに穴のあくほど見つめていたのとよく似た、職人の技が光る逸品だった。
「……悪いよ。こんな立派なもの、流石にもらえない」
ボクが首を振って押し返そうとすると、旦那さんはニヤリと笑ってそれをボクの手に握らせた。
「いいから持っていけ。なんかの縁だ。それに……」
「それに?」
「お前さんが中央のレースで大活躍して有名になったら、『このナイフはウチで打ったんだ』って宣伝してくれ。最高の広告塔になるからな」
その言葉の裏にある、職人としての矜持と、照れ隠しの商人魂。ボクは思わずふっと吹き出してしまった。
「……たくましいね」
「だろ? 期待してるぜ、未来のスターさんよ」
その夜も、奥さんが腕によりをかけた美味しい夕飯を腹いっぱいいただき、ボクは心身ともにすっかりエネルギーを満タンにした。
そして、翌朝。
お世話になった夫婦とウマ娘の彼女に見送られながら、ボクはリュックを背負い直した。今日の目的は、ここからほど近い場所にある越後一宮、弥彦神社だ。
「弥彦に行くなら、神社のついでに『競輪』を見てみな」
出発間際、旦那さんがふと思い出したようにそう言った。
「ケイリン?」
「ああ。人間が自転車って二輪の乗り物に乗って、とんでもねえスピードで競い合うレースさ。ウマ娘のレースもいいが、鉄の車輪と人間の脚力が組み合わさった勝負も、なかなか熱くて面白いぞ」
人間と二輪の勝負。その言葉に、ボクの中の「バイク乗りのおじさん」の魂が、ピクリと反応したのがわかった。同じ二輪でもエンジンはないけれど、風と一体になって走るあの感覚に近いものがあるのかもしれない。
「なるほど。それは面白そうだ」
ボクはナイフの入ったポケットを軽く叩き、小さく手を振った。
「それじゃあ、行ってくるよ」
心地よい朝の風を受けながら、ボクは新たな目的地へと向かって駆け出した。