ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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ケイリン

 燕三条から弥彦神社までは、ウマ娘の健脚にかかればほんの朝の散歩程度の距離だった。

 

 清々しい朝の冷気が漂う中、うっそうとした杉の巨木に囲まれた参道を歩く。越後一宮と呼ばれるだけあって、境内にはピンと張り詰めたような神聖な空気が満ちていた。軽く柏手を打って参拝を済ませた後、ボクは神社に隣接する温泉街へと足を向けた。

 

 湯煙が立ち上る風情ある路地や、歴史を感じさせる旅館の佇まい。前世でツーリングの道中に立ち寄った、鄙びた温泉街の記憶が心地よく蘇る。

 

「……いいね。こういう静かな雰囲気、嫌いじゃないよ」

 

 ボクは誰にともなく呟きながら、足湯の脇を通り過ぎたり、まだ開いたばかりの饅頭屋の匂いを嗅いだりして、適当にのんびりと時間を潰していた。

 

 そんな時だった。ふと、前を歩く一人の女性の後ろ姿に目が留まった。

 

 いや、正確には彼女の「脚」に、だ。

 

 スポーティーなハーフパンツから覗くその太ももとふくらはぎは、ちょっと常軌を逸した太さと筋肉量だった。ウマ娘の脚がしなやかで強靭な「バネ」だとすれば、彼女の脚は爆発的なパワーを生み出す「極太のピストン」そのものだ。極限まで鍛え上げられた人間の肉体が放つ特有の圧力に、ボクの中のおじさん魂が強く反応した。

 

「……凄いね、それ」

 

 気がつけば、ボクはすれ違いざまにそう声をかけていた。初対面の相手に向かって言うには少しぶしつけだったかもしれないけれど、その圧倒的な機能美に見惚れて、つい口を突いて出てしまったんだ。

 

 女性は不快がる様子もなく立ち止まると、ニカッと人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。昨日まで、そこの競輪場で走ってたんだよねー。今はレース終わりのクールダウン中ってとこ」

 

 なるほど。昨夜、工場の旦那さんが言っていた「ケイリン」の選手か。自転車という二輪車を己の肉体だけで駆動させ、凄まじいスピードで競い合うアスリート。この鋼のような脚にも納得がいく。

 

 彼女はボクの頭の耳と、腰の尻尾へと視線を移すと、少し目を輝かせた。

 

「あなたは、ウマ娘さんだよね?」

 

「そうだよ。ただの気ままな旅人だけどね」

 

 ボクが短く答えると、彼女の目にふと、アスリート特有の悪戯っぽい、けれど確かな熱を帯びた光が宿った。

 

「ねぇねぇ。一つお願いがあるんだけど」

「お願い?」

 

 彼女は親指で、近くの壁に立てかけられていた細身で美しい自転車……ロードバイクを指差した。

 

「一回さ、私と並走してみてくれない? ロードバイクで」

 

 人間の脚力で駆動する二輪の機械と、ウマ娘の生身の肉体。お互いに全く違うエンジンを積んだ者同士の、ちょっとした異種格闘技戦。

 

 前世はエンジン付きの二輪を愛し、今はウマ娘という規格外の身体を持つボクにとって、これほどそそられる提案はなかった。

 

「……へえ」

 

 ボクの口角が、自然と不敵な弧を描いてつり上がるのがわかった。

 

 

「いいけど。ただ、ボクはこれからここのレースを見に行こうと思っていたところなんだ」

 

 ボクがそう答えると、彼女はパッと表情を明るくした。

 

「あ、そうなの? じゃあ、私が案内するよー! ついでに選手目線で解説もしてあげる!」

 

 そう言って彼女に連れられてやってきた弥彦競輪場は、神社や温泉街の静かな佇まいとは打って変わって、独特の熱気と喧騒に包まれていた。

 

 案内されたスタンド席から見下ろすコース――彼女は「バンク」と呼んでいた――は、すり鉢状になっていて、コーナーの傾斜が想像以上にきつい。

 

 やがてレースが始まり、打鐘(ジャン)と呼ばれる鐘の音が鳴り響いた瞬間、選手たちの放つ空気が一変した。

 

「……ほう」

 

 ボクは思わず身を乗り出した。細いタイヤが硬い路面を擦るシビアな摩擦音。風を切り裂きながら、時速60キロを超えるスピードで傾斜を駆け抜けていく色とりどりの自転車。

エンジンを持たない、生身の人間と金属のフレームだけで生み出されるその疾走感には、ウマ娘の走りともまた違う、張り詰めたような凄まじい迫力があった。

 

 前の選手の背中にピタリと張り付いて風の抵抗を殺し、コーナーの急傾斜を利用して一気に仕掛ける。そのミリ単位の駆け引きと、二輪車ならではの車体を深く寝かせるコーナリングは、かつてバイク乗りだったおじさんの魂を強烈に刺激した。

 

「なかなかの迫力だね。二つの車輪と人間の体だけで、あそこまでいけるなんて」

 

 ボクが素直な感嘆を漏らすと、隣で解説をしてくれていた彼女は我が事のように嬉しそうに笑った。

 

「でしょでしょ? 生で見ると、タイヤの音とか風切り音とか、全然違うんだから」

 

「お姉さんも、あんな風に走るのかい?」

 

 ボクが、先ほど見た彼女の極太の脚を思い出しながら尋ねると、彼女はニカッと、ひときわ眩しいアスリートの笑みを浮かべた。

 

「もちろん!」

 

 その屈託のない、けれど確かな自信と闘争心に満ちた笑顔を見て、ボクは少しだけその後の「並走」が楽しみになってきた。

 なるほど。最高のエンジンを積んだウマ娘と、極限まで鍛え抜かれた人間のピストン。これは、なかなかに面白い暇つぶしになりそうだ。

 

 

 白熱したレースの余韻が残る中、ボクはバンクから視線を外し、隣の彼女に向き直った。

 

「じゃあさ」

 

「ん?」

 

「ボクはこれから、少し海沿いに出て寺泊の市場に行きたいと思っていたんだ。そこまで並走ってのはどうだい?」

 

 ボクがそう提案すると、彼女はパッと花が咲いたような笑顔になり、力強く頷いた。

 

「それいいね! 海沿いまでの山越え、最高のコースじゃん!」

 

 善は急げとばかりに競輪場を後にしたボクたちは、弥彦神社の鳥居の前で並び立った。

 

 彼女は流線型のヘルメットを被り、細身で美しいロードバイクに跨っている。ビンディングペダルに靴を固定するカチリという硬質な音が、出走の合図のように響いた。

 

「それじゃ、行くよ!」

 

「ああ、お手柔らかにね」

 

 ペダルが踏み込まれ、彼女の自転車が滑るように走り出す。ボクもそれに合わせて、アスファルトを蹴った。

 

 温泉街を抜け、寺泊へと抜ける山道に入る。勾配がきつくなり始めた途端、彼女のその極太の脚が本領を発揮し始めた。

 

「……なるほど、凄いトルクだ」

 

 ギアを落とし、立ち漕ぎ(ダンシング)で急勾配を登っていく彼女のふくらはぎには、血管がくっきりと浮き出ている。チェーンが擦れるチリチリという金属音と、彼女の力強い呼吸だけが山道に響く。エンジンのない二輪車が、純粋な人間の肉体とギアの噛み合わせだけで、こんなにも力強く坂を登っていくなんて。

 

 ボクは横に並びながら、その機能美にすっかり見惚れていた。

 

 もちろん、ウマ娘の身体を持つボクにとって、この程度の山道は平地とさして変わらない。けれど、ただ楽に追い抜いてしまっては面白くない。彼女のペダリングのリズムに自分の呼吸を合わせ、自転車という機械と並んで走るこのセッションを、ボクは心から楽しんでいた。

 

 やがて峠を越え、下り坂に差し掛かる。

 

「ここからは、ちょっと飛ばすよ!」

 

 彼女がニカッと笑い、前傾姿勢を深くした。重力と空気抵抗を味方につけたロードバイクのスピードは、凄まじかった。細いタイヤが路面を切り裂く「シャーッ」という高い音が響く。コーナーのたびに車体を深く寝かせ、ギリギリのラインを攻めていくその姿は、かつてボクが愛したオートバイのライディングそのものだった。

 

「いいね、最高だ」

 

 風の音が耳元で轟く。時速は60キロに迫っているだろうか。ボクも少しだけ本気を出し、ストロークを広げて彼女の横にピタリとつける。

 

 タイヤの回転音と、ボクの足音。金属のフレームと、ウマ娘の生身の肉体。全く違う二つの存在が、見事にシンクロしながら峠道を駆け下りていく。

 

 やがて視界が開け、潮の香りが鼻をくすぐった。眼下に日本海の青い水面と、寺泊の賑やかな「魚の市場通り」の看板が見えてきた。

 

「ラストスパート!」

 

 彼女の掛け声とともに、ボクたちはお互いに残りの力を振り絞ってペダルを踏み込み、アスファルトを蹴った。横並びのまま、海沿いの国道の入り口に飛び込む。どちらが先でもない、完璧な同着だった。

 

「……ぷはっ あーっ、最高!」

 

 自転車を止め、ヘルメットを脱いだ彼女が、汗ばんだ顔で弾けるように笑った。流石のアスリートも息が上がっているようだけれど、その顔はどこまでも晴れやかだ。ボクも小さく息を吐き、心地よい疲労感とともに口角を上げた。

 

「やるねー! ウマ娘と並走して最後までついてこれるなんて、初めてだよ!」

 

「そっちこそ。人間の足と二つの車輪で、あんなスピードが出せるなんてね。素晴らしい走りだったよ」

 

 お互いの健闘を称え合いながら、ボクたちは笑い合った。

 

「さて」

 

 と、ボクは市場の方へ視線を向ける。

 

「いい汗をかいたし、昨日の奥さんの言葉通り、お腹もすっかり空いてしまった。……海鮮丼でも食べに行こうか」

 

「さんせい! 私が一番美味しい店に案内してあげる!」

 

 海風が心地よく吹き抜ける中、ボクたちは肩を並べて、活気に満ちた魚の街道へと歩き出した。

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