まるで獲物を丸呑みにするかのように、巨大な花が強酸性の粘液を滴らせながら太郎へと迫る。
(一体どうするつもりかしら? 素手で絞め殺すとでも? 正気じゃないわね。はあ、この世界にはおかしな人間が多すぎるわ)
呆れ半分で歩み寄り、間一髪のところで少年の襟首を掴んで岸へと引きずり戻す。
「危ないのはあんたの方よ。さっさといかだに乗って。次はあんたの番だから」
襟首を掴まれたまま、太郎はニッと不気味な笑みを浮かべて首を横に振った。
「そ、そんな! メデアちゃんを置いて逃げられるわけねーっす! 俺が守衛……いや、護衛……えーと、とにかくヒロインを守り抜く激アツ展開だぜ!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、花の奥深くから青白い稲妻が放たれ、オゾンの刺激臭と共に太郎の足元を焦がした。
咄嗟に横へ飛び退き、冷たい革表紙の魔導書を開いて撃退の呪文を紡ぐ。
「いやだ、俺は諦めねぇ! トゥルーエンドを掴むまでは!」
放たれた魔力の奔流は、あろうことか花と太郎の間をすり抜け、虚空へと消え去ってしまった。呪文を意に介さない怪植物は、耳障りな軋み声を上げながら、猛烈な勢いで太郎へと突進を続ける。
「俺は戦か……って、うわぁぁぁ! 強制負けイベキターーー!」
悲鳴とも歓喜ともつかない叫び声を上げながら、太郎はいかだへと跳躍した。その勢いのまま運搬役の小悪魔たちを巻き込み、水際へと激しく突っ込んでいく。止まることを知らない花もまた、根を引きちぎるような土煙を上げて水面へとダイブした。
直後、赤褐色の水面が不気味に沸騰し始める。
生臭い泥の匂いと、むせ返るような鉄錆の悪臭が爆発的に周囲へ散乱した。凄まじい水音と共に水面が割れ、巨大な質量が空気を震わせる。先程まで猛威を振るっていた怪植物が、圧倒的な暴力の前にただの餌として噛み砕かれていく無惨な咀嚼音が、辺りの静寂を塗り潰した。その貪欲な捕食の光景とは対照的に、背後の濃霧の向こうでは、いかだに乗った少年が羽ばたきの音と共にゆっくりと宙を運ばれていくという、酷くちぐはぐで不条理な空間が広がっていた。
(水に落ちれば、私もただの餌というわけね)
呆然と状況を飲み込もうと揺れるいかだの上で足掻く少年の姿は、瞬く間に霧の奥へと消えていった。水面を掻き回す轟音と共に、巨大な尾ひれが泥水を巻き上げて水底へと沈んでいく。どうやら、騒ぎは収束したようだった。
ふと足元に目を落とすと、赤黒い波に攫われかけている小さなノートが転がっていた。表紙には、鉛筆の乱暴な筆致で『太郎の唄』と記されている。
(太郎の日記かしら? 随分と痛々しいタイトルね)
「あんた、やるじゃん。あのキモい坊やにナンパされなかったわけ?」
背後から降り立ったクルミが、鼻で笑いながら声をかけてきた。
「あいにく、そんな暇はなかったわ」
拾い上げたノートを素早く内ポケットへ滑り込ませ、振り返る。
「ところで、あの魚は一体何かしら?」
「ナマズちゃんのこと?」
あんなグロテスクな化け物を愛称で呼ぶことに微かな眩暈を覚えつつも、隣に降り立ったオレンジの屈託のない声に耳を傾ける。
「最近ここに現れたの! 太歳星君《たいさいせいくん》が呼び寄せたんだってさ!」
「太歳……? 何のことかしら」
クルミが鬱陶しそうに髪を払いながら、得意げに口を開いた。彼女から漂う甘いナッツの香りが、周囲の血生臭さを僅かに中和している。
「太歳星君ってのは、『世に災いを招く凶神』とかいう昔話の神様らしいけど、気にしなくていいわよ。あんなアホみたいな迷信、マジで信じるやついるわけ? オレンジくらいっしょ。……アタシに言わせりゃ、ただの腹ペコな巨大魚ってとこね。で、あんたは屋敷の主に何の用なわけ?」
「実は屋敷の主ではなくて、別の人を探しているの。昨日そこへ向かった、ルイズという悪魔を見なかったかしら?」
オレンジと顔を見合わせた後、クルミは肩をすくめた。
「ルイズ? うーん、マジで覚えてないわ。直接、屋敷の主に聞いてみたら? 機嫌が良ければ教えてくれるっしょ」
会話の合間に、霧を切り裂いて粗末な木製のいかだが岸へと戻ってきた。それを支える小悪魔たちの羽ばたきは、先程の騒動など無かったかのように軽快だ。
「ほら、あんたの番よ」クルミがいかだを顎でしゃくる。
「クルミたちは乗らないの? それとも……飛んでいくの?」
オレンジが軽やかに空を蹴り、クルミの周囲を旋回し始めた。
「もちろん、飛んでいくの! すぐに追いつくから先に乗ってていいよ!」
頼りなく揺れる水上の板切れを見つめながら、小さく息を吐く。
(ミサイルや得体の知れない戦車に比べれば、まだまともな乗り物ね)
不安定な足場に慎重に体重を乗せると、いかだは泥水に触れるすれすれの高度を保ちながら、ゆっくりと前進を始めた。不規則な揺れに徐々に身体が慣れてくると、対岸までの退屈な時間が意識に上る。視線を周囲の霧から手元へと落とし、先程拾ったノートを開いた。
『よっ、日記! 今日は異世界転生何日目だっけ? まあいいや! エレンたんが今日、クエストアイテムの薬をくれたんだ。ゆうかりんに渡すお使いイベント発生! エレンたん、今日もマジ天使だったなぁ! クルミにゃんにも早く会いてぇ、あいつはツンデレ属性だから… こっちから積極的ににゃんにゃんしてフラグ立てないと、デレてこないんだよなぁ! クルミにゃんは俺の嫁確定だから。それに、ゆうかりんにも初めて会うんだ… 新規ヒロインとか激アツすぎるだろ……絶対萌えるわ……』
(以降、無数のインクの染みと手垢で判読不能)
***
「ねぇ、メデたん! 乗り心地はどう?」
空気を裂く音と共に、オレンジがいかだを追い抜きざまにアクロバティックな旋回を見せつけた。その声に弾かれたように意識を現実に引き戻し、慌てて手元のノートを懐深くへと押し込む。
並走するように飛んできたクルミが、胡乱な目を向けてきた。
「なんか面白いもんでも見つけたわけ?」
「いいえ、特に何も」
冷たい風に吹かれながら、表情を引き締める。
(この気味の悪い情報、どう扱ったものかしら。『にゃんにゃんする』……文脈からして碌な意味じゃないわね。太郎の頭の中は、どこまでも妄想で満たされているようね。これ以上覗き見するのは、精神衛生上よろしくないわ)
【SYSTEM ALERT: 視覚・音響ハザード領域への接続】
この箱庭(ハーメルン)にあるのは文字の抜け殻に過ぎない。
本章のハイパーリアリズム視覚データ(および専用劇中楽曲)を含む【完全版(絶対正典)】は、以下の独立サーバーにて展開している。
▼ 第14章 絶対正典・直通ポータル ▼
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