キクリの言葉に、ただ息をのむことしかできなかった。しばらくの間、静寂だけが水の中に横たわる。青銅に縛られたその存在は、こちらの心の奥底までを見透かすような、深い静けさを湛えていた。
『わたくしは、この世界の創造主、キクリと申します。ご覧の通り、今は焼けた荒れ地ばかりですが……かつてここは、花々咲き乱れる楽園だったのです。美しい民が住み、わたくしとコンガラ王が二人で治めておりました』
「一体、何が起こったのでしょうか」
『わたくしは力を失い、あの青銅の浮き彫りに閉じ込められてしまったのです。そして、この世界は地獄と化してしまった……』
「……コンガラ王と、民はどうなったのですか?」
『民は皆、塵と化し、煙と灰が世界を覆い尽くしました……。コンガラだけは諦めきれず、わたくしを戻そうと、何度も話しかけてくれたのですが……無駄でした。何年も前、コンガラは、わたくしを蘇らせる方法を求めて旅に出たのです。幻想郷と呼ばれる隣接する世界で真実を探し求め、ある日、儀式に精通した巫女を連れてまいりました。しかし……その巫女は、わたくしを永遠に沈黙させてしまったのです。わたくしはただの青銅の塊と化し、話すことすらできなくなってしまった……。
それを見たコンガラは希望を失い、周りのせいばかりにするようになってしまいました……。幻想郷でたくさんの喜びと愛を見てきたはずなのに。静寂と悲しみのベールが、彼の心を覆ってしまったのです。このままでは、愛するコンガラは死んでしまうでしょう……。
ですが……選ばれし者よ。そなたなら、わたくしたちを救うことができるかもしれませぬ』
「救う……? そんなことができるのでしょうか。でも……もしそれが本当なら……」
『わたくしの力は、かつて冠にあったアメジストに封じられております。それを見つけ、戻していただければ、この世界は再び蘇るはずです』
「そのアメジストは……今、どこにあるのですか?」
『魔界と呼ばれる、悪魔の世界に捨てられております。そなたにはアメジストを感じる力を与えたゆえ、きっと見つけられるでしょう』
「承知いたしました」
(またしても、とんでもない冒険に巻き込まれちゃったわね……)
「もう一つだけ……お聞きしてもよろしいでしょうか」
『もちろんです』
「……明羅さんは、無事なのでしょうか?」
『そなたが明羅と呼ぶ少女は生きております。今は危険にさらされておりませぬが、わたくしの世界から遠く離れた場所にいて、ここにはおりませぬ。
この対話については、誰にも話してはなりませぬ。愛するコンガラは……疑心暗鬼に囚われ、そなたに怒りをぶつけるやもしれませぬ……。どうか、魔界への道を見つけ、わたくしの力を取り戻してください……。
そなたならきっと……』
***
意識が戻ると、冷たい泉の底に沈んでいた。ごぼごぼと塩気の強い湯を飲み込み、必死に水面へと這い上がる。しばらくの間、激しい咳が止まらない。濡れた身体を拭うものもなく、震える手でざらついた岩肌に掴まる。容赦なく吹き付ける乾いた夜風が、体温を急激に奪っていった。脳髄に響いたキクリの声が、まだ耳の奥でぐるぐると回り続けている。
(女神……? アメジスト……? キクリの言葉は、本当なのだろうか。全部嘘かもしれない。でも、他に道はない。あの女狐のような幽香は信用できない。コンガラも、あの哀れな兵士たちも、カナも……。もしアメジストが本当にあるなら、この手で探し出して、この世界で何が起きたのか、全てを解き明かしてみせるわ)
どれだけの時間が経っただろうか。いつの間にか日は暮れ、赤茶色だった空は、濃く重い紫色に沈んでいた。
(こんな死に絶えた場所にも、時間の流れはあるのね……)
重いローブを引きずるように着込み、岩の上に置いた本を拾い上げて回廊に戻る。静かなる神殿は、その名の通り淀んだ静寂に包まれていた。コンガラも、顔に罪の印を刻まれた兵士たちの姿も見当たらない。松明の灯りだけが揺れる人気のないホールに出ると、出口のそばには、例の小さな自転車が立てかけられていた。
「あら、メデアさん。お帰りなさい。気分はいかがですか?」
(……いつからそこにいたのかしら。足音ひとつ立てない図々しい小娘。あの計算され尽くした作り笑顔は、虫唾が走るほど気持ち悪い。明羅を消したのは……絶対にこのカナだわ。でも、どうやって証明すればいい?)
「ええ、おかげさまで……。ところで、今夜はどこに泊まればいいのかしら?」
そう尋ねると、カナの後ろを黙ってついていく。案内されたのは、神殿の奥まった一角にある、ひっそりとした小さな部屋だった。
「ここ、明羅姉さまが使っていたお部屋なのです。コンガラ様のご厚意で、特別にメデアさんに使っていただくことになりました」
カナは振り返り、獲物を品定めする獣のような、底知れぬ冷ややかな笑みを浮かべた。
「……ええ、ありがとう」
それだけを返し、手早くドアを閉める。分厚い木の扉を隔ててもなお、背中にねっとりとした冷たい視線が突き刺さるように感じた。
埃っぽい匂いが鼻をつく、簡素な部屋だ。頼りないオイルランプの灯りと、小さな掛け軸があるだけ。そこには
「हूँ」[1]という見慣れない文字が記されていたが、どこの国の言葉か見当もつかない。
砂埃に塗れたローブを脱ぎ捨て、冷え切った布団に潜り込む。心身ともに限界を迎えていた身体は、抗う間もなく泥のような深い眠りへと落ちていった。
***
何度か浅い眠りを繰り返し、気づけば朝になっていた。完全に寝坊だ。あの息苦しい水底の夢も、キクリの幻影も、もう現れることはなかった。奇妙なほど身体が軽く感じる。手早く身支度を整え、ホールへと向かった。
そこには今日も、半透明の兵士たちが群がっていた。だが、その中心に立つコンガラの放つ空気は、昨日までのそれとは決定的に異なっていた。
「見つけたぞ! 捕らえよ!」
神殿の石壁をビリビリと震わせるような怒声が響き渡る。
逃げ場を塞ぐように、鋭い指先がこちらへ突きつけられた。松明の熱を帯びた空気が大きくうねり、濡れた石畳から立ち上る冷気とぶつかり合って、息が詰まるほどの緊迫感を生み出している。その瞳に宿る剥き出しの断罪の意志は、一切の弁明を許さない圧倒的な重圧となってのしかかってきた。
(一体何が……? また面倒なことになりそうね……)
幽霊たちがじりじりと距離を詰めてくる。コンガラは一歩前に踏み出し、冷酷に言い放った。
「盗っ人めが! 我が『静かなる書』を盗んだのは貴様だな!」
平静を装い、ゆっくりと瞬きをする。
「静かなる書……? いったい何のことでしょうか。私はたった今起きたばかりですが……。まさか、私が図書室を掃除した後で、何か書物が見つからないとでも仰るのですか?」
「その書は……図書室ではなく、我が私室にあったのだ。最も古い……いにしえの呪文が記された書……。書かれたのは……あの頃……、全てが違っていた……」
コンガラは過去の亡霊に取り憑かれたように苦しげに顔を歪め、言葉を詰まらせた。そして再び、憎悪の籠もった視線をこちらへ射抜く。
「……我が私室には、貴様の髪が落ちておったのだ。最初から怪しいと思っていたぞ! 罪人め! 捕らえよ!」
兵士たちが包囲を狭めてくる。だが、得体の知れない魔女に対する恐怖からか、手を出そうと躊躇している。苛立ったコンガラは、腰の刀の柄に手をかけた。
「無実を証明したければ、貴様が常に持ち歩いている魔導書を渡すがよい! それが貴様にとってどれほど大切なものか、分かっておるのだぞ!」
一瞬、息が止まった。咄嗟に視線を彷徨わせると、図書室の入り口の上に掛けられた古びた振り子時計が、11時55分を指しているのが見えた。そしてその下で、カナがまるで何事も起きていないかのように、模範的な態度で熱心に書き物をしている姿があった。
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[1] हूँ《フーン》:サンスクリット語で書かれたヒンドゥー教と仏教の聖なる音節「ॐ《オーム》」を構成する音の一つ。仏教の真言「オーン・マニ・パドメー・フーン」の最後の音節でもある。悟りへの道を開く力を秘めているとされる。
[SYSTEM ALERT: 音響兵器デプロイ完了]
▼ 本章の絶望を1000%味わうための専用聴覚データ ▼
■ YouTube:『静かなる(SILENT PAIN)』
https://youtube.com/shorts/mGvLfq6xoHM
https://youtu.be/A3MSeKoTP6I
【SYSTEM ALERT: 視覚・音響ハザード領域への接続】
この箱庭(ハーメルン)にあるのは文字の抜け殻に過ぎない。
本章のハイパーリアリズム視覚データ(および専用劇中楽曲)を含む【完全版(絶対正典)】は、以下の独立サーバーにて展開している。
▼ 第26章 絶対正典・直通ポータル ▼
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