「やれやれ、あなたって本当に迂闊ね」
絶対零度の静寂が支配する虚空に、冷ややかな、だがどこか呆れたような声が響いた。
意識の輪郭がひどく曖昧だ。肉体の重みも、斬り裂かれたはずの喉元の激痛も、すでにどこかへ消え失せている。代わりに漂っているのは、ひび割れた万華鏡の底を覗き込むような、無機質で冷たい感覚だけだった。暗黒の淵から浮上してくる幾多の結晶体が、微かな熱を帯びながら周囲を回っている。その一つ一つから、焦燥に駆られた荒い息遣いや、錆びた血の匂い、そして理不尽な暴力の記憶が、幻聴のように押し寄せては遠ざかっていく。
(私は……死んだのか……?)
「まあ、そうとも言えるわね」
声の主は、まるでこの残酷な走馬灯の展示室を管理する司書のように、超然とした気配を纏っていた。圧倒的な存在感でありながら、向けられる眼差しには奇妙なほどの寛容さが混じっている。ふと、微かに漂ってきたのは、実家の戸棚の奥で眠っていたはずの梅茶の、ひどく郷愁を誘う香りだった。
「私も最初から完璧だったわけじゃない。あなたみたいに失敗して、理不尽な目に遭って、痛い思いもたくさんしたわ」
陶器が微かに触れ合う音が、冷たい宇宙の果てのような空間に小さく響く。
「次はもっと慎重に行動することね。警告は素直に聞き入れるのよ」
(次……?)
死という絶対的な終幕を迎えたはずの意識に、微かな波紋が広がる。
「次」
という単語の響きが、うまく思考の網に引っかからない。
「そう、次よ。今、あなたの一番の武器は、これから起こることを知っていること。その知識を最大限に活かすのよ」
静かな、しかし有無を言わせぬ宣告と共に、一つの結晶体が目前へと迫ってきた。内部で渦巻くのは、見覚えのある冷たい石壁の気配だ。途端に、他の無数の記憶の破片たちが、音もなく深い闇の底へと滑り落ちていった。
肺の奥底へ、ひんやりとした石の匂いと微かな埃っぽさが強引に流れ込んできた。
重い瞼を押し上げると、視界は深い水底から水面を見上げるようにひどく歪み、焦点が定まらない。周辺の景色が暗く沈む中、唯一はっきりと知覚できたのは、肌を刺すような神殿内部の冷気と、開け放たれた巨大な扉の向こうから容赦なく吹き込んでくる、地獄の荒野の焼け焦げたような熱風の境界線だった。
「見習いよ、神殿の糧は口に合ったか? 完全に浄化されるまで、あれを食し続けねばならぬぞ」
頭蓋骨の芯を直接揺らすような、重く厳格な声。扉の傍らに立つそのシルエットは未だぼやけていたが、放たれる威圧感と、狂気的なまでに張り詰めた気配は、間違いなくあの将軍のものだ。
瞬きを繰り返し、強制的に視神経を再起動させる。腰のベルトには使い慣れた魔導書の重みがあり、ローブのポケットに手を入れると、硬貨の冷たい感触が指先を撫でた。だが、あの不思議な少女・窓付きが残したはずの青い卵の感触は、どこにもない。
生きている。いや、正確には「戻された」のだ。
(この言葉……昨日も聞いた。ということは……明羅が姿を消す事件の前、一日前に戻ったのか)
視界の端、少し離れた場所に立つ二つの影が、今にも荒野へ向かって駆け出しそうな緊張感を孕んでいるのが分かった。
「はい。お気遣い、痛み入ります」
喉から絞り出した声は、ひどく平静だった。恭しい従者の仮面を被り、淀みなく定型文を返す。だが、胸の奥底では、冷ややかな怒りと生存本能が猛烈な勢いで渦を巻き始めていた。
「朝食の後で勤めを与えると約束したな。図書室の整理を任せる」
「かしこまりました」
深々と頭を下げながら、泥水を濾過するように思考を急速にクリアにしていく。
(状況を整理しよう。これから明羅と小兎姫はあの荒れ地へ行き、自転車の跡をたどってかつての首都の遺跡へ向かう。そこでカナが何かを企んで明羅が姿を消し、小兎姫は窓付きを犯人として連れてくる。事件の場所はもう知っている。あの三人より先に遺跡に行って、事件を防ぐか、カナの罪の証拠を集めることもできる。あるいは、すぐにコンガラに全てを話すこともできる。そもそもあの勝負を止めてみるべきかもしれない…… )
脳裏に展開される数多の分岐ルート。今回は、盤面の情報がほぼ完全に開示されている。創造神がメデアに接触してくるのはまだ先の話だし、幽香の使い魔がこの神殿に現れるまでにも数時間の猶予がある。
動くなら、今しかない。
(焦りは禁物だ。二度と同じ過ちは犯さない。今度こそ……)
【SYSTEM ALERT: 視覚・音響ハザード領域への接続】
この箱庭(ハーメルン)にあるのは文字の抜け殻に過ぎない。
本章のハイパーリアリズム視覚データ(および専用劇中楽曲)を含む【完全版(絶対正典)】は、以下の独立サーバーにて展開している。
▼ 第31章 絶対正典・直通ポータル ▼
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