魅魔ものがたり   作:魅魔

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第36章 招かれざる客

松明の薄暗い炎が、冷え切った牢屋の石壁を頼りなげに舐めている。淀んだ空気と静寂に包まれた独房の外で、小さく安堵の息を吐き出した。鉄格子の向こうでは、窓付きが懇願するような湿った瞳でこちらを見つめ返してくる。

 

(この子の正体も目的も、まだわからない。下手に手を出すのは危険だわ。前回も自力で脱獄していたようだし、ここは放っておくのが一番賢明ね)

 

 冷徹な計算に従い、重い足取りでその場を離れる。コンガラと小兎姫が神殿から姿を消したのを見計らい、息を殺して後を追った。

 誰の視線も感じない。カナが使っていた使い古された机から、幽霊に奪われたばかりの魔導書を素早く回収する。ローブの内ポケットを探り、コンガラから押し付けられた『静かなる護符』の硬い感触を確かめた。自ら身に着ける気など到底起きないが、魔法の品を粗末に扱うのは魔術師の矜持に反する。換金するか、いざという時に誰かに押し付ける手もある。冷たい石を指先で弄りながら、神殿の外へと歩みを進めた。目的は一つ、かつての首都の遺跡に残してきた自転車の回収だ。

 

 外に出ると、ざらついた赤茶色の砂嵐が容赦なく吹き荒れていた。コンガラと共に殺人現場へ向かった時と同じ、息苦しい土の匂いが鼻腔を突く。風に逆らいながら歩みを速め、岩肌の露出した橋を渡りきると、遺跡へと続く丘の登り口に差し掛かった。

 不意に、風鳴りとは違う微かな空間の歪む音が鼓膜を打つ。岩陰に身を潜めると、虚空が裂け、小さなポータルが開くのが見えた。這い出てきたのは、見覚えのある小柄な悪魔だった。

 

「メデア様でしょうか?」

 

「ええ、そうです」

 

 前回と同じ確認のやり取りを交わすと、小悪魔は恭しく頭を下げた。

 

「幽香様が、お体の具合と任務の進捗状況を尋ねたいと仰っております」

 

「順調ですよ。ただ、もう少し調べたいことが残っていまして。あと一日ほどかかりそうですね」

 淀みなく嘘を交えつつ、最も重要な確認を挟み込む。

「ところで、もし私が帰りたくなった時は、どうすればいいんでしょうか?」

 

「その場合は、大きな声で『夢幻館』と唱えてくださいませ。ただし、他者を連れてくることはお控えください」

 

「わかりました。ありがとうございます。他に伝言は?」

 

「いいえ、メデア様。それでは、失礼いたします」

 

 空間の裂け目が閉じ、元の荒涼とした風景が戻る。再び、丘の上へと続く険しい道のりを登り始めた。

 

 吹き付ける砂嵐に目を細めながら、崩れかけた黄土色の石段を這うように進む。数時間前に訪れた遺跡の頂上に辿り着くと、ひどく埃を被った愛車が、見捨てられた時のままの姿で横たわっていた。ハンドルを握り起こし、ゆっくりとあの青銅の浮き彫りの前へと歩み寄る。王冠のくぼみは空虚なままで、乙女の表情は変わらず悲哀に満ちていた。

 

(キクリが戻ってきたら、コンガラはどう反応するのかしら。あの石頭も、少しは現実を見るようになるの?)

 

 周囲の石積みの間を探索してみたが、燃え尽きた松明の残骸以外、めぼしいものは何もない。ひどい空腹を誤魔化すため、内ポケットに隠し持っていたリンゴとオレンジをかじり、喉を潤した。

 

(そろそろ、あの息苦しい神殿に戻らないと……)

 

 空を見上げた瞬間、思考が停止した。

 セピア色に濁った上空から、あり得ない質量の何かが、不規則な軌道を描きながら急速に落下してくる。尋常ではない速度と、空気を引き裂くような重低音が、それが幻ではないことを証明していた。逃げ場などない。咄嗟に、崩れかけた石壁の隙間に身体をねじ込んだ。

 

 直後、鼓膜を破るほどの轟音とともに、大地が激しく跳ね上がった。

 

 突風が吹き荒れ、何百年も積もっていたであろう赤茶色の砂塵が爆発的に巻き上がる。古代の静寂を暴力的に打ち破る、けたたましい機械の駆動音。冷たく硬質な熱気が、風化した石壁の隙間から容赦なく吹き込んでくる。魔法の霊的な波動とは全く異なる、純粋な物理的圧力の塊がそこにあった。

 

 砂煙が少しずつ晴れるにつれ、その威圧的な人工物の足元に、二つの気配が降り立つのが分かった。

 

 暗い石のアーチ越しに覗き見るその光景は、ひどく現実離れしていた。一人は地面に膝をつき、金属と油の匂いを撒き散らす複雑な機械装置をいじり回している。もう一人はその後ろで、得体の知れない端末を片手に、周囲の空気を測るように悠然と佇んでいた。地獄の霊的な澱みなど微塵も気にしていない、フィールドワークを楽しむかのようなアカデミックで場違いな空気が、そこには充満している。

 

「ほら見てよ、夢美様! この浮き彫り、なんかエネルギー出てる! 結構なパワーを感じるよ!」

 

 快活な声が響き、手元の機械が規則的な駆動音を立てる。潜んでいる壁のすぐ向こうまで、一人が歩み寄ってきた。息を殺し、冷たい石の感触に背中を押し付ける。

 

(まるで今までの災難じゃ足りないと言わんばかりね。新たな厄介事のお出ましだわ。……理香子と小兎姫が言っていた、例の研究者だち……!)

 もしあの話が本当なら、得体の知れない目的のために誘拐される危険すらある。

 

「で、この浮き彫り、どうするんだい、ちゆり? 壁にがっちり埋め込まれてるけれど、どうやって外すつもりなのよ?」

 もう一人の、余裕を含んだ知的な声が問いかける。

 

「これ、ブロンズ製なんだ!」

 足元の地面を力強く叩く音がした。

「だからさ、ここにハイパーマグネットを設置して、ドッカーンと爆破しちまえばいいんだよ! 爆破の衝撃でマグネットが浮き彫りを引き剥がしてくれるから、これでようやくあのクソッタレ学会の懐疑論者どもを見返せるってもんさ!」

 

「また言われるわよ。『岡崎、そのガラクタは質屋に持って行きなさい』ってね」

 からかうような響きの中にも、隠しきれない傲慢さが滲み出ている。

 

「だーっ、やっぱりこの浮き彫り、変な波動を出してるんだって! 私の機械が反応してるんだからさ! この謎は解明しなくちゃ気が済まないぜ!」

 機械の調整音が、さらに一段と高くなった。

 

「それはそうね。どんな科学協会だって、真の科学の進歩を止めることはできないわ。ちゆり、マグネットを設置してちょうだい。私は爆破の準備をするわ」

 

 無機質な設置音が響き、強烈な磁場のうねりのようなものが肌を粟立たせる。絶望的な事実が、冷水のように思考を満たした。

 階段はすでに崩れ落ちている。唯一の出口は、今まさに爆破の準備を始めている二人の狂人によって完全に塞がれていた。

 

(遺跡ごと吹き飛ばす気……!? なんとかして脱出しないと……!)

 




【SYSTEM ALERT: 視覚・音響ハザード領域への接続】
この箱庭(ハーメルン)にあるのは文字の抜け殻に過ぎない。
本章のハイパーリアリズム視覚データ(および専用劇中楽曲)を含む【完全版(絶対正典)】は、以下の独立サーバーにて展開している。

▼ 第36章 絶対正典・直通ポータル ▼
https://mimamonogatari.github.io/chapter_36.html
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