氷の壁に手をついて立ち上がると、ローブに付着した雪がサラサラと滑り落ちた。激突の衝撃で全身の骨が鈍く軋むが、幸い致命傷はないようだ。
突き刺さるようなマイの問いかけに対し、メデアは穏やかに、しかし相手の出方を窺う隙のない声で応じる。
「初めまして、メデアです。お察しの通り、私はこの世界の者ではなく、人間の世界から来ました」
「ええっ!? ホントに!? 外の世界から!?」
ユキと呼ばれた少女は、目をまんまるにして、その場でぴょんと跳ねた。
「ほらね、マイ! だから言ったじゃない、外の世界はあるって! 知らないメロディが、ほんとに空から降ってきたんだわ!」
白い服の少女――マイは何も言わず、黙ってこちらを見つめている。
(過酷な極寒の地に住む魔女……油断はできないわね)
内心の警戒をひた隠しにし、メデアは静かに言葉を続ける。
「凍死寸前のところを助けていただき、感謝します。ところで、私の持ち物を返していただけますか?」
ユキは背後の氷の棚から『静かなる護符』を取り出し、こちらへ差し出した。
「はい、これ。すっごく不気味なもの持ち歩いてるのね。こんな不協和音、ずーっと鳴りっぱなしよ? 気をつけなさいよね」
それを受け取り、今度は硬貨の方へ視線を向ける。
「マイ。マ~イ!」
ユキが、青い髪の相棒の脇腹をつついた。
「小銭、返してくれない?」
マイはにやりと口の端を曲げて、硬貨をこちらへ差し出した。
「ありがとうございます。……一緒にあったはずの魔導書は、見つかりませんでしたか?」
「本?」
とユキが首をかしげる。
「マイ、なんか覚えてる?」
「ない」
マイが短く言った。
「じゃ、こっちこっち!」
ユキに手招きされ、雪と氷で圧縮されたドーム状の空間を抜け、地下の出口から外へ向かう。
外に出ると、強烈な冷たい突風が吹き付けてきた。肌を刺す極寒の大気とは裏腹に、頭上を圧迫する巨大な天体の気配が、ジリジリと焼くような矛盾した熱を放っている。
雪原には、かつて地獄から宇宙までを共に駆け抜けた自転車が、痛々しい姿で埋もれていた。チェーンは外れ、車輪は大きく歪み、雪に突き刺さっている。もはや移動手段としての機能は完全に停止していた。
(……やはり直せない。この最果ての地では、文明の利器など無力というわけね)。
「あんた、何の魔法が使えるの?」
自転車の残骸を見下ろしながら、マイが尋ねてきた。
「主に召喚魔法です。基本的には悪魔を扱っていました。なぜでしょうか?」
「悪魔? 召喚? じゃ、あんた弱虫ね。魔界最強の魔女と勝負してみない?」
(戦闘用の呪文がない今、まともにやり合うのは危険すぎるわ)。
「ごめんなさい、また今度に。まだ最強を目指してはいないので」
と、波風を立てないよう丁重に断る。
(大事なのは『まだ』のほうだけれど)
「じゃ、準備ができたらかかってきなさい。忘れられないくらい凍らせてあげる」
(ずいぶん熱い子ね)
「マイは氷の魔法を使うのですね?」
「そう。私が一番よ。ユキもあんたと同じ弱虫。本人には言わないでね、幸せな勘違いのままにしといてあげて」
氷の魔女は、少しだけ笑った。
(ふうん。面白い子ね、このマイって)
その間、丘の頂上ではユキがこちらに向かって手を振っていた。
ユキのもとへ駆け寄り、自分が落下した際にできた深い雪の穴や周囲を調べるが、やはり本は見当たらない。
「ほらね、言ったでしょ? 本なんてなかったのよ。さ、戻ろ戻ろ」
ユキが袖を引く。
「でも、誰かが持っていったと思う理由は?」
「エリスはね、面白いものに目がないの。近くで何か見つけたら、どんな手を使ってでも自分のコレクションにしちゃうのよ。紹介してあげよっか? 仲介料は……まあ、今回はまけとくわ」
「ええ、ぜひ。大事な本なので」
地下入り口からイグルーに戻ると、六本の白いキャンドルが暖色系の光を落とす空間が、不思議な安堵感をもたらした。
「まあ、座りなよ。お茶でも淹れてあげるからさ。お客なんて、めったに来ないのよね」
と、ユキが火にかけた釜でハーブを煎じている。氷のテーブルは触れても冷たさを感じない。注がれた濃い赤色の飲み物は、ハーブティーとは異なる、濃厚で不思議な味がした。
「マイは氷の魔法を。ユキは?」
「私は火よ! この冷え切った世界を溶かす、熱いビートの体現者!」
ユキはにっこり笑って、胸に手を当てた。マイの目に、ちょっとだけからかうような色が浮かぶ。
「お二人は、この環境に長くお住まいなのですか?」
メデアの問いに、ユキは困ったようにマイへ視線を泳がせ、肩をすくめて苦笑した。
「魔都市《まとし》にも家はあるんだけど、ほとんど帰らないのよね。ここでやってる私たちの『セッション』って、ちょっと……お偉いさんたちの耳には合わないみたいで」
「いっそ全部ぺらぺらしゃべっちゃえば? 何をもったいぶってるのよ、ユキ」
マイが眉をひそめて、落ち着いた声で言った。ユキはたじろぎながらも、こちらへ向き直る。
「えーっと……メデア、もし町に泊まることがあったら、私たちの家を使っていいわよ? 今回だけ、お代はいらないから」
マイが、よせばいいのに、という目でユキを見た。
(……素性も知れない異邦人に、あっさりと自分の家を貸す? この過酷な世界で生きているにしては警戒心が無さすぎる。それとも、あの口にできない裏稼業とやらに関係する、何らかの意図があるのかしら)
内心の疑念を穏やかな微笑みの裏に隠し、メデアは静かに本題を切り出した。
「お気遣い、心より感謝します。実のところ、私は宇宙船に乗ってここへ来たのですが……見当たらなくなってしまって。この辺りで、それらしきものを見ませんでしたか?」
「空飛ぶ亀に乗った巫女や、箒の魔女は見たけど、宇宙船はないわね。でも、かっこいいじゃない! で、なんで魔界に?」
「魔界のどこかにある、アメジストの形をした強力な魔法のアイテムを探しているんです」
「それならエリスね。宝石のビートを聴き分けるなら、あいつの右に出る者はいないわ」
「黙って、ユキ」
マイが口を挟んだ。
「ただのガラクタじゃないんでしょ? この前エリスに会った時、レティのとこで珍しい石を見つけたから、レティの気を引いといてくれって頼まれたのよ」
「で、手伝ってあげたの、マイ?」
「ええ。マイにくだらない頼みごとはするなって、あの悪魔女に思い出させてやったわ。ほかに質問は?」
「レティとは、どのような方ですか?」
「雪女よ。冬は幻想郷で過ごして、それ以外はこっちにいるの。聞いてみてもいいけど、すっごく強いし、邪魔されるのが大っ嫌いなのよね」
とユキが答える。
「それはユキにとって強いってだけ。私なら、あいつをがっちり凍らせてやるわ」
とマイがそっけなく言う。
カップを空にし、次のお代わりを受け取ってからさらに問いかける。
「もう一つ……ルイズという人を知りませんか? 実は、ルイズの姿に化けた子がここへ来て、捕まったと聞いたんです」
二人は顔を見合わせた。マイが皮肉っぽくくすくす笑う。
「なるほどね。あの子、私たちのことをよっぽどのバカだと思ってるのかと思ったわ。あんた、本物のルイズがどこにいるか知ってるの?」
「幻想郷のどこかにいるはずです。その子の居場所をご存知なんですか?」
「ええ、堕ちたる神殿のサリエル様のところに連れていかれるのを見たわ」
ユキが答えた。
「助けてあげようとしたんだけど、あの子ったら……」
「論外」
と、マイがぴしゃりと言った。
(やはり、オレンジね)
「で、あんたはお友達を神殿から連れ出したいわけ? 言っとくけど、簡単じゃないわよ」
マイがにやりと笑う。
(それに、私一人でこの雪の荒野を歩いたら、間違いなく迷子になるわね)
「厚かましいお願いですが……道案内を頼めませんか?」
と、二人を見上げて要請する。
「もちろん! 一緒にステップ踏んであげる! ……ただ」
ユキは少し考え込んだ。
「誰か一人はここに残ってた方がいいわね。この前みたいなことになったら……」
マイが人差し指を唇に当て、ぴしゃりと遮った。
「……いいわ。私、ちょっと散歩してもいいけど。それとも、ユキが行く?」
「私も行けるけど……で、次のステージはどこ? エリス? レティ? それとも、サリエル様のところ?」
【SYSTEM ALERT: 視覚・音響ハザード領域への接続】
この箱庭(ハーメルン)にあるのは文字の抜け殻に過ぎない。
本章のハイパーリアリズム視覚データ(および専用劇中楽曲)を含む【完全版(絶対正典)】は、以下の独立サーバーにて展開している。
▼ 第40章 絶対正典・直通ポータル ▼
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