魅魔ものがたり   作:魅魔

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第57章 疑いの芽

 魔界の創造主にして最強の存在の手中に落ちる――これ以上の悪夢があるだろうか。極度の緊張で張り詰めた地下室の冷気が、肌を粟立たせる。脳裏に浮かんだのは、静寂に包まれた地獄の神殿と、あの軽薄なポルターガイストの姿だった。

 

(あの少女の正体は……カナ? あんな稚拙で挑発的な作り話、真実のかけらもない。よくもまあ、自信満々に嘘を並べ立てられるものだわ。まるで、あのポルターガイストそのもの……。でも、軽はずみにカナの名前を出すのは危険ね。自信過剰なら、私も負けない。最悪の場合、神綺が魔法で操られていて、話が通じない可能性もある。もしそうなら……覚悟を決めるしかないわね。)

 

 湿気を帯びた埃っぽい空気に、焼けた肉の凄惨な臭いが混ざり合う。重苦しい沈黙を破ったのは、メデアだった。

 

「神綺様、それは嘘です。その娘の言葉は、全部作り話です。その子は、神綺様の娘なんかじゃありません」

 

 表情一つ変えることなく、神綺が滑るような足取りで目の前まで歩み寄ってきた。威圧感に喉が渇くのを堪え、声を潜めて続ける。

 

「よくお考えください。あれからどれだけの時間が経ったのでしょうか? 本当のアリス様は、どのような少女だったのでしょうか? その子に、少しでも似ていますか?」

 

 深い憂いを帯びた瞳が、ゆっくりと傍らの少女へと向けられる。

 

「違うもん! 確かに、アリスは変わってしまったわ。老化は止まったけど、心は成長したの……! あの後……」

 少女は再び大粒の涙をこぼし、言葉を詰まらせてすがりついた。

「……あの後、たくさんの苦しみを味わって、やっとママの血の大切さがわかったの」

 

 神綺は眉をひそめただけで、依然として重い沈黙を守っている。盲目的な愛と、長きにわたる孤独な疲弊が、かつての鋭敏な判断力を鈍らせているのだろうか。畳み掛けるように言葉を紡ぐ。

 

「神綺様、その娘の言葉は、最初から最後まででたらめです。私の顔をよく見てください。日本人の血が流れているように見えますか? 私はギリシャの出身です。幻想郷の人間ではありません。ましてや、あの娘が言うような『いじめっ子』だったことなど一度もありません。それに、この子は一体どうやってキクリ様のことを知ったのでしょう……? キクリ様は確かに私の幻視に現れましたが……金髪で、海のように青い瞳をした美しい女性の姿で……」

 

 あの独特な言葉の響きを脳内で反芻し、神綺にも届くであろう創造主の言語へと舌を切り替える。

 

「……まことに……独特な話しぶりでござりました」

 

 空気が変わった。神綺の瞳の奥で、冷たく鋭い光が瞬く。

 

「今の言い回しを、もう一度聞かせられよ」

 絶対的な上位者としての、逆らうことの許されない重圧。古風な響きを持つ創造主の言葉で命じられる。

 

「ママ、何を言ってるの!? この人と話したらダメだって言ったでしょう!」

 焦燥を露わにした少女が声を荒らげるのをよそに、メデアは言葉を続けた。

 

「キクリ様のお姿が幻視にて見え申した。彼女は青銅の浮き彫りに封印されておられ、わたくしを解放なされよとの……お告げがございました。封印なされたのは、異国より来られし『使者』とやらにて……キクリ様に王冠を献上したそうでございます。その王冠が彼女を青銅に変えてしまったと……」

 

「そなたは今……我ら創造主の言葉を話しておるな。何故そのようなことが出来ようか。只者ではないことは確かだ。そなたの正体はすぐに調べよう。それまでは、パンデモニウムにて待つがよい」

 

 神綺が視線で合図を送ると、夢子が静かに一歩前に出た。鉄製の燭台が放つ冷たい青白さに照らされた石の回廊から、メデアとちゆり、そしてエリスが連行される。背後では、メイドの破れたドレスの残骸と、黒焦げになった遺体が、事務的な手つきで運び出されていく気配がした。

 

 深い緑色の大理石の階段を上り、北棟の上層へと抜ける。窓を激しく打ち付ける雨音が、鼓膜を容赦なく叩いた。

 ちゆりは一言も発しない。目は大きく見開かれたままで、眉間に深い皺を刻んでいる。完全に魂が抜け落ちた、虚ろな人形のようだ。夢美にパイプ椅子で殴りかかった時と同じ、あの酷く冷たい状態に陥っている。

 エリスは衣服から滴る水を払いながらも、口元に薄い笑みを張り付けていた。彼女の野蛮な嗅覚にとって、この死と隣り合わせの状況は心地よい刺激でしかないらしい。

 

「何が真実か分かるまでは、三人ともパンデモニウムに留まってもらうわ。夕食時に食堂へ来るように。相談したい人がいるので、これで失礼するわ」

 神綺の声はわずかに震えていた。必死に感情を押し殺しているのがわかる。少女はメデアを憎々しげに睨みつけると、神綺の豪奢なドレスの裾を強く握りしめた。

 

「ママ、一体何の話? あのお姉さん、信じるの?」

 

「もう誰を信じていいのか分からないの……。アリスの言ったことは……あまりに酷すぎるわ……。まさか、彼女が本当にあの魔女だったなんて……」

 

「絶対あのお姉さんに決まってるわ! ……ううん、でも……もしかしたら、すごく似てる人だったのかも……。だって、あの人、怖いんだもん! 目つきが鋭くて……アリス、震えが止まらないの。メイドを殺したのは別人かもしれないけど、お願いママ、あの人をパンデモニウムから追い出して!」

 

 神綺は答えず、刃のような冷徹さを纏うメイド長へと向き直った。

 

「夢子、アリスとこの三人を食堂へ案内してちょうだい。くれぐれも、目を離さないように。私は一人で行って来るわ」

 夢子は深く頭を下げ、少女の手を取ると、メデアたちを促すように静かに顎で合図した。神綺は振り返ることなく、硬質な靴音を響かせて鏡面仕上げの長い廊下の奥へと消えていく。

 

(敵の懐で、今後の計画を話し合うなんて正気の沙汰じゃないわね……)

 

 冷や汗で張り付いた前髪を掻き上げると、エリスが背後に回り込み、ガラス瓶の冷たい液体をメデアの肩へ無造作にぶちまけた。焼けた肉が粟立ち、脳髄を貫くような激痛が走る。しかし、歯を食いしばるうちに、嘘のように痛みは引いていった。治癒ポーションだ。

 

「ねぇ、ちゆりん! すごい天気でしょ? せっかくのお出かけなのに、台無しになっちゃったわね〜」

 エリスが場を和ませようとちゆりの肩を小突く。しかし、返ってきたのは、筋肉が引き攣ったようなぎこちない微笑みだけだった。普段の快活な声は失われ、ただ足元を見つめて引きずられるように歩いている。

 

 冷たく乾燥した空気が流れる廊下を抜けると、巨大な石造りのホールに出た。青灰色の角柱が整然と並び、天井からは多段式のクリスタルシャンデリアが重厚な暖色の光を落としている。純白のクロスが掛けられた長大なテーブルの中央には、紫に発光する奇妙なキノコと黒い果実が鎮座していた。部屋の奥には神綺の玉座と、それに寄り添うように可愛らしい小椅子が置かれている。

 

 しかし、この豪奢で冷ややかな空間の静寂を打ち破ったのは、あまりにも人間的で俗っぽい異変だった。

 

 食堂に足を踏み入れた途端、少女の歩様がおかしくなった。両脚を内股にこすり合わせるようにしてよろめき、落ち着きなく身をよじらせている。

 

「アリス様、どうかなさいましたか」

 夢子が静かな声音で尋ねる。少女は神妙な面持ちで、すがるように夢子を見上げた。

 

「……あ……あの……夢子ねえさん……。トイレ……。行きたいんだけど……。お願い……」

 

 格式高い魔王城の優雅な静寂を、あまりに人間的で俗っぽい「緊急事態」が破壊するシュルレアリスム。逃走を図るための狡猾な演技か、それとも本当に限界を迎えているのか。空間を支配する切実な焦燥感は、見ているこちらに疑念と居心地の悪い同情を抱かせるほどの、絶妙な必死さを漂わせていた。

 

「申し訳ありませんが、神綺様のご命令で、皆様から目を離すことはできません。皆様揃って移動なさってはいかがでしょうか」

 夢子は表情一つ崩さず、冷静に事実だけを告げた。

 

「やだ……! みんなに見られるなんて……恥ずかしい……。夢子ねえさんだけ、一緒に来て……。お願い……」

 少女は夢子の腕に縋り付き、今にも泣き出しそうな声で訴える。

 

「夢子さん、大丈夫だってば。アタシたちが逃げるわけないでしょ? 約束するわ」

 エリスがニヤリと人の悪い笑みを浮かべて言った。

 主の命令と、目の前で限界を迎えつつある少女の懇願。完璧なメイド長は、ほんのわずかに眉根を寄せ、冷徹な思考の天秤を揺らしていた。




【SYSTEM ALERT: 視覚・音響ハザード領域への接続】
この箱庭(ハーメルン)にあるのは文字の抜け殻に過ぎない。
本章のハイパーリアリズム視覚データ(および専用劇中楽曲)を含む【完全版(絶対正典)】は、以下の独立サーバーにて展開している。

▼ 第57章 絶対正典・直通ポータル ▼
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