(……あの石のせい? それとも、私にだけカナが見えているのかしら)
地獄の空は、重苦しいセピア色に沈んでいた。奇妙なことに、人間界、幻想郷、魔界、そしてこの地獄と、どの世界も時間帯が同期している。誰かが意図的に時間を管理しているような不気味な規則性だ。だが、今はそんな推論に思考を割く余裕はない。いつ砂塵の嵐が吹き荒れてもおかしくない乾いた空気の中、首都の廃墟へ続く険しい道を踏み出した。
「ねぇ、メデたん! さっきの戦い、見た? エリーがいたよ! 助けに行こうよ!」
オレンジが無邪気に隣へ並んでくる。
「オレンジ、今はそこに行かないの。ここの女神様を復活させれば、そもそも戦う必要なんてなくなるわ。そのために、私たちはここへ来たのよ」
彼女は素直に頷いたが、複雑な駆け引きなど微塵も理解していないだろう。首から下げた手編みの袋が、歩くたびに不気味な重みを主張して揺れる。その中身がどれほどの狂気を孕んでいるかなど、露知らずに。
後方では、負傷したちゆりが荒い息を吐きながら上り坂に食らいついている。どんな些細な発見も見逃すまいとする、持ち前の探究心が彼女を突き動かしているようだ。その傍らでは、普段は口うるさい夢美が、不器用ながらも助手の歩幅に合わせて歩調を緩めていた。
すぐ前を行くのはエリスとユゲミア。出会って間もないというのに、ユゲミアの放つ威厳と目的意識の高さは、百戦錬磨の悪魔であるエリスをも圧倒していた。エリスは油断なく周囲を警戒しながらも、どこか彼女のペースに巻き込まれている。
やがて、ザラついた赤茶色の砂岩で組まれた廃墟が見えてきた。数歩進むと、あの青銅の浮き彫りが鎮座する壁面にたどり着く。コンガラや小兎姫たちの待ち伏せを警戒していたが、乾いた風が吹き抜けるだけで、周囲は不気味なほど静まり返っていた。
(静かすぎるわね……。まさか、本当にあのポルターガイストの言う通りなのかしら。いや、油断は禁物ね)
「着いたわ」
青銅に封じられたキクリを前に、ユゲミアは砂地に跪き、深い祈りを捧げた。その張り詰めた空気に、他の者たちも軽はずみな口を叩けなくなる。
「高っ! メデっち、アタシがはめ込んでやろうか?」
エリスが顎で上方をしゃくりながら、沈黙を破った。
「悪いけれど、エリス。これは自分でやらせて」
「はめ込むの!? わたしに任せてー!」
オレンジが勢いよく跳躍したが、当然届くはずもなく、無邪気に着地した。
「あれ? 飛べない……?」
「オレンジ、アメジストを貸して」
手を差し出すと、彼女は少し躊躇うように足踏みをしてから、袋から禍々しい紫色の宝石を取り出した。
「メデたん、わたしの肩に乗って!」
小柄なオレンジの肩を踏み台にする。手渡された宝石は、掌の皮膚を焼き焦がすような異常な熱を持っていた。
(やめろ、メデア! その力は自分のために使うんだ! キクリを復活させるんじゃない!)
脳髄を直接揺さぶるような声。
(ふん。そんな見え透いた芝居に乗るもんですか)
湧き上がる狂気をねじ伏せ、アメジストを王冠の空洞へと押し込んだ。
強烈な衝撃波が吹き荒れ、足場ごと弾き飛ばされる。地面に打ち付けられた肺から空気が搾り出され、後方ではちゆりが苦悶の声を上げて倒れ込んだ。
激しい光の奔流が収まると、そこには目を疑う光景があった。無機質な青銅のレリーフだったはずの壁面から、生身の質感を伴った少女が力なく垂れ下がっている。何百年もの間、止まっていた時間が突如として動き出したかのような、魔法的な奇跡の瞬間。だが、彼女はピクリとも動かない。乾いた砂の匂いが漂う遺跡の中で、その不自然なまでの静寂が不気味な緊張感を生み出していた。真下の砂地に膝をつくユゲミアは、切実な祈りを込めて頭上へ両手を差し伸べているが、その指先はわずかに届かない。絶対的な主君と、それに縋る守護者の間に横たわる、残酷な物理的距離。
「つ、冷たい……!」
震える手でキクリに触れたユゲミアが、悲痛な声を絞り出す。
(やっぱり王冠のせいだわ。意識が戻っていない)
「メデア! どうすればよいのじゃ!? キクリ様を目覚めさせるには……!?」
ユゲミアが焦燥感を剥き出しにして詰め寄る。
「簡単にはいかないみたいね。あの王冠を外さないと……。でも、前回のようにアメジストが弾き飛ばされる事態は避けなければ」
ユゲミアは力任せに王冠を引き剥がそうとしたが、金属は皮膚に張り付いたかのように微動だにしない。
「何か方法があるはずよ。レーザーで切断するとか? 女神なんだし、多少の傷は塞がるでしょう」
夢美の冷徹な提案を無視し、エリスも王冠に手を伸ばした。顔をしかめ、力を込める。
「ちくしょう……びくともしねぇ……って、あれ? 回った!」
時計回りに数ミリ動いた瞬間、エリスは悲鳴を上げて手を弾かれた。
「あっつ! 焼け焦げるかと思ったわ!」
「反対に回したらどうかな?」
オレンジの言葉に従い反時計回りに力を込めるが、今度は凍傷を引き起こすほどの冷気に襲われ、再び手を引っ込める。
「王冠を外す方法は、必ずあるはずじゃ……。だが、どうやってはめられたのか……それが分からねば」
ユゲミアが眉間に深い皺を刻む。
「とりあえず、どっちかの方向に無理やり回し続けてみればいいんじゃないか?」
ちゆりの投げやりな提案を、ユゲミアは鋭い眼光で一蹴した。
「どっちに回せと言うんじゃ! 間違えたら、キクリ様を永遠に失ってしまうやもしれぬぞ! わしには分かる……キクリ様が、どれほどの苦しみを味わっておられるか……!」
「過去を見ることができれば……あの時の記憶さえあれば……! きっと、キクリ様を救う手立てが分かるはずじゃ……!」
全員の視線がエリスに突き刺さる。 彼女は落ち着きなく羽を揺らし、いつもの軽薄な余裕を完全に失っていた。
「あの……メデっち、アタシの妹のこと……覚えてる?」
「ええ。子供の頃に生き別れになったって話だったわね。それが?」
「あんたから報酬でもらった、あの過去と未来を見通せる特別な球体……。 本当は、妹に会うために使おうと思ってたんだけど……。 でも、今、必要なら……」
震える手で取り出されたのは、仄かに輝く小さな球体だった。
「その球体を使えば……誰がキクリ様に王冠を授けたのか、どうやって外せばよいのか、分かるというのか?」
ユゲミアの目に猛烈な光が宿る。
「問題はね……こいつは使い捨てなのよ。 大天使には無害みたいだけど……アタシでも使うのはちょっと怖いわ。 人間にどんな影響が出るかなんて、想像もつかないし……。 だから、アタシがやる。 ……ちょっと、そんな目で見ないでよ! 妹に会う手がかりは惜しいけど……成功したら、もっとたくさんの金貨と女神の加護が手に入るんだから!」
「ちょっと待ちなさいよ、エリス。そんな不確定なリスクを冒す必要があるの? レーザーを使えば……少し工夫すれば、王冠は簡単に外せると思うわよ……たぶんね」
「ほらね、夢美ちゃんだって自信ないじゃない。 それに、レーザーで女神を傷つけたらどうなるか……考えただけでもゾッとするわ!」
口論を遮るように、空気を切り裂くような轟音が響き渡った。 悪い予感は常に的中する。 乱れた髪を振り乱し、狂気を孕んだ眼差しで剣を抜き放ったコンガラが、猛然とこちらへ突進してくる。
「ちょっと待ちなさい!」
背後から、聞き覚えのある優雅な声が降り注いだ。
「なるほど、これが貴様の『大切なもの』ね」
嘲笑と共に現れたのは、風見幽香だ。
直後、空気が圧縮されたような真空の静寂が落ち、鼓膜を突き破るほどの衝突音が廃墟を揺るがした。
上空から重力を味方につけて急降下してきた幽香の無慈悲な一撃。それを、コンガラが大地に深く根を張るような体勢で、ぎりぎりで受け止めている。優雅なパラソルと無骨な鋼の刃が拮抗する異常な光景。凄まじい物理的な重圧が周囲の空気を歪め、衝突点から放射状に飛び散った土煙と岩の破片が、二人の底知れぬ力を雄弁に物語っていた。
「彼女に触れるな、化物め!」
コンガラは咆哮と共に剣を押し返し、幽香へ向かって反撃に転じる。だが、魔法が封じられたこの地にあっても、幽香は月面を跳ねるような軽やかな身のこなしで刃を躱し、閉じた傘でコンガラの脇腹を的確に突き据える。その苛烈な攻防は、周囲の人間など全く意に介していない。
二人の死闘が、危険な距離まで接近してくる。コンガラの無軌道な剣閃が、いつ誰の首を跳ね飛ばしてもおかしくない。
退避か、介入か。決断を迫られたその時。
「メデア」
廃墟の影から、不意に声が鼓膜を撫でた。振り返ると、いつの間にかカナが立っていた。
「どうして信用してくれないの? 私は本気であなたを助けたいのよ。もう幻月とは一緒にいないわ。あいつに……裏切られたの」
「それで?」
「王冠を時計回りに回して。熱で溶かせば、キクリは戻ってくるわ」
「ちょっと、メデっち! 何ボケッとしてんのよ!」
エリスの鋭い声にハッとして視線を戻す。再び岩陰へ目をやると、そこには赤茶けた土埃が舞うだけで、ポルターガイストの姿は影も形も消え去っていた。
【SYSTEM ALERT: 視覚・音響ハザード領域への接続】
この箱庭(ハーメルン)にあるのは文字の抜け殻に過ぎない。
本章のハイパーリアリズム視覚データ(および専用劇中楽曲)を含む【完全版(絶対正典)】は、以下の独立サーバーにて展開している。
▼ 第64章 絶対正典・直通ポータル ▼
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