Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia 作:ローレンシウ
(くっ……! こうなりゃ、逃げるが勝ちだね!)
目の前の男の異様な容貌と自分の存在が見抜かれたこととに一瞬度肝を抜かれたフーケだったが、さすがに場数を踏んでいるだけあって立ち直りは早かった。
聴覚か嗅覚か、一体どんな感覚に頼っているのかは知らないが、視覚を持たない以上は透明化で騙せないのは当然だ。
敵の中にまさかこんな男がいるとは思いもよらぬ不運だったが、こうなった以上は逃げるのみだと即座に決断し、杖を構えて呪文を詠唱し始めた。
フーケは目の前の男たちと自分との間に『錬金』で石壁を立てて射線を遮り、その隙に走り去るつもりだった。
距離を取る時間を数秒も稼げればそれで十分、ごく薄い壁で構わない。
とにかく、敵の攻撃よりも早く作り出すことだ。
彼女が壁を完成させるのと、目の前の男が無造作に振った鉄杭のような杖から炎が飛び出したのとは、ほぼ同時だった。
どうにか間に合ったと、フーケはわずかに安堵した。
見たこともないような奇妙で禍々しい白色の炎だったが、とにかく相手が火の使い手らしいのは不幸中の幸いだ。
攻撃力に優れる火の系統だが、土系統の生成した鉱物や金属を焼き融かすには、炉で金属を加工するのと同じようにどうしてもある程度の時間がかかる……。
そう思った直後に、またしても彼女の想定を超える出来事が目の前で起こった。
「……ひッ!?」
薄いとはいえ強固な石製であるはずの壁が一瞬にして白い炎のうねりに飲まれ、まるで飴細工のように融けたのだ。
フーケはこれまでに、これほどの威力を持つ炎を短時間の詠唱で繰り出せる者は見たことがなかった。
火竜のブレスもかくやと思わせるほどの、恐ろしいまでの熱量である。
冗談じゃない。
まさか、こんな化け物が相手だとは。
こうなればとにかく全力で逃げて距離を離すしかないと、フーケは踵を返して走り出した。
「おやおや、かくれんぼの次は鬼ごっこのお誘いか?」
盲目のメイジ……『白炎』のメンヌヴィルと呼ばれる伝説的な傭兵……は、フーケの逃げていく方向をその見えぬ目で正確に追って、にやりと嘲笑った。
並外れた『火』の使い手であるこの男は、温度に対して極めて優れた感覚を持っている。
さすがに視覚に比べれば把握できる距離は短いものの、温度の変化によって敵の正確な位置を把握できるばかりか、個体の識別をすることもできるのだ。
それどころか、ほんのわずかな体温の変化によって大まかな感情の動きを読み取ることさえ可能なのである。
「悪いが、生憎とこっちは目が悪いもんでよ。そういう遊びはしんどくてなあ――」
メンヌヴィルがフーケの逃げていった方向を顎で示すと、側にいた別の傭兵が頷いてコートの中から杖を取りだし、そちらのほうへ向けて軽く振った。
「……っ!」
たちまち強烈な突風が吹いて逃げ去ろうとするフーケの背を捉え、彼女を地面に転がす。
メンヌヴィルは熱感知の有効範囲の外から弓矢などで攻撃された場合や、せっかくの獲物が自分の捕捉できない範囲に逃げていこうとした場合などに備えて、戦場では常にそうした問題を防ぐのが得手な他系統のメイジと共に行動しているのだった。
その異常な性格のためにおよそ他人と上手くやっていくのが得意ではなく、またそうしたいと望んでもいないこの男が結構な人数の仲間を引き連れているのはそのためである。
もちろん同行する仲間たちの方では、この伝説的とまで謳われた練達の傭兵と組んでいることで安全と名声と利益とがもたらされることを期待しているのだ。
地面に転がされたフーケは、苦痛に顔を歪めながらも必死に杖を振って呪文を唱える。
それに応じて、無数の石礫がメンヌヴィルらの足下から飛び出した。
「ぎゃあぁ!!」
フーケを地面に転がしたことですっかり油断していた風メイジの傭兵は、全身を石礫に打たれて苦痛にうめきながら地面を転げまわった。
しかし、地面が弾ける前のわずかな温度の変化で攻撃が来ることを察知していたメンヌヴィルは、石礫を受けるよりも早く手に持った武骨な鉄の杭を動かしていた。
杖から白い炎が噴き出して彼の体を守るように包み、襲い掛かる石礫をすべて着弾する前に焼き尽くしてしまう。
「今度はおはじきか。可愛いもんだな」
わめきながら地面を転げまわっている情けない部下には一瞥もくれることなく、嘲りながらフーケの方へ悠然と歩み寄っていく。
「……はっ、可愛いだって? こないだまで勤めてた職場のエロジジイを思い出すね……」
フーケは追い詰められてはいたが、不敵に唇を歪めてみせた。
そうしながら、右手に握った杖は動かさず、背後に回した左手でそっと隠し持った予備の杖を抜く。
この転倒した状態から立ち上がって逃げようとしても、今さら間に合うものではない。
もはや、逃れるには何とかして目の前の男を倒す以外になく、それには引きつけての不意打ちしかあるまい。
「エロジジイ? ははあ、尻でも触られてたのか?」
「まあ、そんなとこさ。……どうやら逃げられそうもないし、あんたも好色な口だってんなら、好きにしなよ」
意気消沈したような、媚びるような口調でそう言うと、降参の意志を示すように右手の杖を相手の足元に転がした。
そうしながら俯いて自然に口元を隠し、気取られぬよう密かに呪文を紡いでいく。
さあ、馬鹿面を晒して近づいてこい。
私にそのおぞましい手をかけようとした瞬間に、横合いから岩の拳で吹き飛ばして脳漿をぶちまけさせてやる。
「ははあ、そいつは魅力的なお誘いだな。かくれんぼだのおはじきだの、ガキのお遊戯よりもずっと楽しそうだ」
狙った通り、盲目の傭兵はいやらしい笑みを浮かべながら近づいてくる。
フーケは杖を握った左手にぐっと力を込めながらも、努めて目の前の男に対する嫌悪感を押し隠してタイミングを見計らった。
(あと2歩……、1歩――)
今だ。
メンヌヴィルと自分との距離があと2メイルも無くなった時、フーケは初めて行動に移った。
左手に持った杖を素早く、すぐ横の建物を示すように振り、そこから岩の拳を生成して目の前の男を殴って吹き飛ばさせるつもりだった。
「はっ!」
だが、フーケが杖を振るうよりも一瞬早く、メンヌヴィルが鼻で笑って彼女と同じ方向に杖を振った。
杖の先から白い炎の奔流が噴き出して生成しかかった岩の拳に絡み付き、土台にあたる建物ごと融かして焼き始める。
小さいとはいえ、本来可燃性ではないはずの岩づくりの建造物が、たちまち炎に包まれていった。
「……あ……、あ……?」
建物があちらこちらから白い火を噴き出すのを、フーケは呆然と見つめるしかなかった。
あの中に、住人はいたのだろうか。
いたとしても、寝入っていて悲鳴を上げる間もなかったかも知れない。
「せっかく興が乗ってきたってのに、今さら人形遊びなんてつまらんことは止すんだな。お前の幼稚ないたずらの試みは、すべてお前自身の体温の変化が教えてくれたぞ」
メンヌヴィルは傍らで炎上する建物の方を見向きもせずにそう吐き捨てると、その鉄の杭のような杖の先端で呆然としたままのフーケの左手の甲を突き刺した。
「あ、ぎ……っ!」
突き刺された手の甲から血が噴き出し、激痛が走る。
フーケは反射的に体を捩って逃れようとしたが、杭が左手をしっかりと押さえているために苦痛が増しただけだ。
しかも、焼けつくような痛みとおぞましい寒気が突き刺された左手の甲から全身に広がり、体中の筋肉が軋んでいつもより身動きが鈍くなっているようだった。
杖に毒などが塗られているようには見えなかったが、傷の痛みだけによるものとも思われない。
「こっちの、大人の遊びの方がずっといいだろう? こう見えても、俺は女をひいひい鳴かせるのは得意でなあ……」
にたにたと笑いながら、メンヌヴィルは杖をそのままぐりぐりと捻る。
「ぎ、ぃ……、い……っ!」
杖を持つ手を押さえられてしまっていては、さすがの彼女にも何もできない。
フーケは苦痛に顔を歪め、身を震わせて痛みに呻いた。
「この感触も、そしてお前の鳴き声も、悪くはない。が……」
メンヌヴィルは彼女の呻く声をまるで上等な音楽でも堪能するようにたっぷりと味わった後、フーケの杖を手の届かないところに蹴り転がしてから杭を引き抜いた。
「あくまで前菜だな。いよいよこれからが、本番のお愉しみといったところだ」
「う、ぅ……」
なんとか身を起こして反撃するなり逃げ出すなりせねばとは思えど、傷の痛みと全身に回った毒素と思しきもののせいで、体がまるでいうことを聞かない。
自分はこのまま、こんな男に汚されてしまうのか。
フーケは地面に転がったまま、憎しみのこもった、しかし力のない視線をメンヌヴィルに向けた。
しかし、そんな彼女の目に映ったのは……。
自分の体に不躾に伸ばされる汚らしい男の腕ではなく、先端に白い炎の揺らめく鉄の杭だった。
「嗅ぎたい」
「え……?」
「お前の焼ける香りが、嗅ぎたい」
フーケは目の前の男の顔を呆然と見つめ、そこにみなぎっているのがただの獣欲などではなく、異常な欲望と狂気であることに初めて気が付いた。
生まれてこの方数えるほどしか感じたことのない純粋な恐怖の念が湧き起こり、全身が震える。
「い、いや……」
地面に伏したまま、まるで少女のような呟きを漏らしながら必死に地面を這って後じさりしようとするフーケの姿をその見えぬ目で見て、メンヌヴィルはたまらぬと言うように一層狂気じみた笑みを浮かべた。
「お前の恐怖が手に取るようにわかるぞ。今お前を焼けば、その香りは極上の恍惚と絶頂感をもたらしてくれることだろうな!」
メンヌヴィルの連れの傭兵たちは、その様子を後ろから見物しながらにやにやと笑っていた。
既に透明化の効果は切れ、フーケの姿は彼らにも見えている。
こんないい女を存分に味わいもせずにただ殺してしまうのは勿体ないとは思うのだが、この異常な嗜好のパイロマニアは男が手を出した後の女は香りが落ちるといって自分の気にいった獲物への手出しを禁じているのだ。
そのあたりはいささか不満ではあったが、この傭兵にくっついていけば戦場でくいっぱぐれる心配はない。
それに、手出し厳禁なのは残念だが、見世物としてはなかなか面白いのも確かだった。
メンヌヴィルの杖の先から炎が噴き上がり、自分を包み込まんとして向かってくる。
フーケは、観念してぎゅっと目を瞑った。
(ごめんよ、テファ……)
しかし次の瞬間、メンヌヴィルの炎は突如割り込んできた別の炎によって押し戻され、霧散していった。
いつまでたっても最期が訪れないことにようやく気が付いたフーケが、恐る恐る目を開けると……。
「……ミ、ミスタ?」
目の前には、杖を構えて自分を庇うように立つコルベールの姿があった。
彼は生徒たちを助けに、酒場に向かったはずなのに……。
「彼女から離れろ、狼藉者」
硬い表情のまま、コルベールは呟いた。
その直後、新たな敵の出現に気付き、杖を抜いて加勢に向かおうとしたメンヌヴィルの部下たちは、突如別方向から襲ってきた攻撃に不意打ちを食らってうろたえた。
呪文らしき爆発、クロスボウの矢、それに、青銅の投槍……。
「ミス・ロングビル! 大丈夫ですか?」
駆けつけて傭兵たちと交戦を始めた一団は、ルイズ、シエスタ、それにギーシュだった。
彼女らは街中を見回っている最中に、コルベールとばったり出会ったのである。
日中に麻薬を流している組織のアジトを見つけたこと、援軍としてロングビルとコルベールにやってきてもらったことは、既にディーキンらからかいつまんで聞かされていた。
立ち話をしていた時に建物が白い炎を噴き上げる様子が目に入り、これは一大事だとこうして全員で駆けつけてきた、というわけだ。
一方、コルベールと対峙したメンヌヴィルは、何かに気が付いたようにはっと目を見開いた。
背後で始まった乱闘のことなど、比喩的な意味でも文字通りの意味でも、まるで眼中にないようだった。
「お前は……! おお、お前は、お前は!」
メンヌヴィルは歓喜に顔を輝かせて、別人のごとくはしゃぎだした。
「捜し求めた温度ではないか! お前は、お前はコルベールだ、そうだろう? 懐かしい、あのコルベールの声ではないか!」
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「あれは……、誰かが戦ってる?」
タバサに促されて街の方を見たキュルケは、目を丸くした。
街の一角で次々に禍々しい白い炎が噴き上がり、鮮やかな赤い炎が踊っている。
白い炎などこれまでに見たことがない。
そしてもう一方の赤い炎、あれほど見事な火は自分にも扱えまい。
「一体、誰が……?」
「わからない。でも、街には今、ルイズたちもいるはず」
タバサはそう言うと、すぐに様子を見に行くべきだと提案しようとしてディーキンの方を見た。
そして、彼の様子がおかしいことに気が付く。
「……あれは……」
ディーキンは遠くで踊る炎を、いつになく厳しい目でじっと見つめていた。
ややあって、キュルケとタバサの方に向き直る。
「悪いけど、ディーキンはあそこに行かなきゃならないの。誰か、ワルドさんを見張ってて!」
そう言って、返事も待たずに窓から飛び出し、真っ直ぐにそちらの方へ向かって行った。
ディーキンには、街中で踊る炎の正体に心当たりがあった。
正確には、白い方の炎の正体に。
なぜならその炎を、以前にも見たことがあったから。
それはあらゆる世界で最も熱い炎よりもなお熱く、白熱光を発して燃え、最も硬い物質でさえ焼き尽くすことができる炎。
溶鋼を素手で取り扱い、マグマのプールを楽しむサラマンダーやファイア・エレメンタルなどの火の元素界の生物でさえ、その炎には耐えられない。
それどころか、多元宇宙で一般に知られているいかなる生物であっても抵抗することはできないのだという。
炎にして炎ならざる、九層地獄バートルの底から生み出された不浄のエネルギー。
“地獄の業火”が、その正体である。
ゲヘナ産モルグス鉄:
永遠に荒涼たる苦界ゲヘナの険しい山々においてのみ産出するという火山性の鉱物。現地に住むユーゴロスと呼ばれるフィーンドがしばしば採掘する。鍛造に適しておらず、これを用いて作られた武器は表面が気泡だらけであばたのようになり、普通の鋼で作られた武器より切れ味が鈍く強度も脆くなってしまう。しかしながらモルグス鉄には血液中に急激に溶け込む猛毒が含まれているため、これで作られた武器には天然の毒性が備わる。作中でメンヌヴィルが持っている杖は、この金属でできている。
地獄の業火(ヘルファイアー):
かつてディーキンやボスが戦ったアークデヴィル・メフィストフェレスが作り出した、極めて熱い地獄のエネルギー。普通の火には完全耐性がある生物であってもこのエネルギーには抵抗できず、火の精霊ですら焼かれてしまう。白熱光を放って燃えるのが特徴。