Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia   作:ローレンシウ

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第百十二話 My own question

 惚れ薬の一件がひとまず解決した後、タバサは『フライ』の呪文を唱えて『女神の杵』亭へ向かった。

 薬の症状はディーキンの処置によって消えたものの、まだ体表には毒素が残っているかも知れないので、宿の浴場にある湯船に浸かって洗い流してしまうためだ。

 

「…………」

 

 なるべく思い出さないようにしようとはしているのだが、先程までの自分の行為がどうしても頭に焼きついて離れてくれず、相変わらずその頬は赤かった。

 

 ディーキンの治療によって正気に戻った時、その場にいるのが自分だけだったなら、地面をのた打ち回って悶絶していたかもしれない。

 恥ずかしくて彼とまともに目が合わせられず、すぐにでもそこから逃げ出したかった。

 しかし、自分のことで思い悩む前にまずは迷惑をかけたディーキンの足元に身を投げ出して謝るのが筋というものではないかと、回復した彼女の良識が命じたのである。

 

 もちろんディーキンは何も迷惑なことなどなかったといい、後の見張りは自分がやっておくから念のため宿へ戻って体を洗って休んだら、と彼女に勧めた。

 平静な状態でその場にいられなかったタバサは彼のその申し出に飛びついて、そうして今に至るというわけである。

 

 

 

 宿に着いたタバサは、まずは借りている部屋に向かった。

 できれば誰とも顔を合わせたくなかったのだが、着ている服にも毒が浸み込んでいるかもしれない以上、着替えはどうしても必要だった。

 

 寝ている同行者たちを起こさないよう静かに出入りするつもりだったが、やはり精神的な疲弊のせいで注意が甘くなっていたものか。

 荷物の中から着替えを取って、さて部屋を出ようかとしたあたりで、キュルケが目を覚ましてしまった。

 

「ん、……あら、タバサ?」

 

 起こしてしまった以上は仕方がないので、タバサは彼女のほうを振り向いた。

 おそらく戻ってきた理由について何か聞かれるだろうが、適当な説明をして出て行けばいいだろう。

 

 しかし、タバサと目が合った途端、それまで眠そうなぼんやりした顔をしていたキュルケはあんぐりと口をあけて、目を見開いた。

 ややあって、今度はにやにやした顔になると、寝床から出てタバサの傍にやってくる。

 

「何?」

 

「驚いたわ、さっきまでお楽しみだったみたいじゃないの。あなたもなかなかやるわねえ」

 

「……意味がわからない」

 

 タバサは内心ぎくりとしながらも、努めて平静を装ってそう答えた。

 

「あなたねえ……、今の自分の格好に気が付いてないの? 説得力がないわよ、説得力が」

 

 キュルケは呆れたように肩をすくめると、手近の机の上に置いてあった手鏡をタバサに差し出す。

 タバサは、そこに移った自分の姿を見て愕然とした。

 

(これが、私?)

 

 鏡の中には、いつもの落ち着き払った無表情の少女とは似ても似つかない姿があった。

 

 頬は上気しているし、目は赤くなっているし、唇は腫れている。

 着衣は、あちこちにしわが寄って乱れている。

 しかも肌のところどころに、戦いで付いた傷跡とは明らかに違う、甘やかな痛みを連想させる赤い筋が残っている……。

 

「…………」

 

 冷静に考えてみれば、鎖帷子のように硬い鱗で覆われた体に力いっぱい抱きついたり、体を擦り付けたり、唇を押し当てたりしていたら、そりゃあこんな風にもなるだろう。

 しかし、あの後ディーキンがいろいろと呪文を使ったりして治療してくれていた間に、そんな痕跡はもうすっかり消えてしまったものと思い込んでいた。

 いや、薬の効果に侵されていたときには恋情で、それが解けた後には恥ずかしさで頭が一杯だったために、今の今までまるっきりそんなことには気が回っていなかったというほうが正しいだろうか。

 

「どう、わかった? 今のあなたは、どう見ても恋人のベッドから這い出したばかりの姿よ。男と激しく抱き合ったり、何度も口付けを交わしたりした女のそれね……」

 

 キュルケは勝ち誇ったようにそういいながら、鏡に気を取られているタバサの背後に回ると、逃げ出さないようにしっかりと抱きしめた。

 

「さあ、隠さずに教えなさいな。その格好からすると、ディー君はああ見えてなかなか激しい男だったみたいじゃないの。それとも、実は激しかったのはあなたの方だとか?」

 

「違う。違うから」

 

 タバサはかあっと顔を赤くすると、彼女から逃げ出そうとしてじたばたともがいた。

 

「あら、あんまり騒ぐとルイズたちまで起きちゃうわよ? まあ、あなたがみんなにも惚気て回りたいっていうのなら、話は別だけど」

 

「……!」

 

 タバサはキュルケにそう指摘されて、観念したように大人しくなった。

 他の同行者たちにまで今の自分の格好を見られて、あれこれと詮索されたのではたまらない。

 

「……わかった、浴場で話す。でも、絶対に秘密にして」

 

 

 ここハルケギニアでは、平民はサウナ風呂に入って水で汗を流すのが一般的だが、貴族には湯船に浸かる習慣があった。

 トリステインの魔法学院にも、使用人用のサウナ小屋とは別に、学生や教師が使用するプールのように広い大理石の浴場がある。

 

 貴族御用達の宿である『女神の杵』亭にも、当然ながら宿泊客用の大浴場が用意されていた。

 温泉から湯を引いた、ごつごつした石でできた趣のある広い湯船である。

 ここは24時間いつでも入浴することができるのだが、さすがにこんな時間には他の利用者はいないようだった。

 

 タバサは湯を汲んで入念に自分の体を洗い流してから湯船に浸かり、同行してきたキュルケにぽつぽつと事情を説明していった。

 

「はあ……、惚れ薬、ねえ」

 

 キュルケは興味深そうに話を聞き終えると、にやっと笑った。

 

「私もその場にいたかったわね。ディー君の胸で素直に泣くあなたは、どんなにか可愛かったでしょうに」

 

「……」

 

 タバサは微かに頬を赤らめてキュルケを軽く睨むと、杖でぽかりと彼女の頭を叩いた。

 たとえ入浴する時でも、用心深い彼女は杖を手放さないのだ。

 

 常に携行するにはこのような長杖よりもキュルケやルイズも使っているような短杖の方が便利なのだが、彼女はこの杖にこだわっている。

 それはこの杖が先祖から代々受け継がれた優れた逸品であり、長年愛用して扱い慣れた最も自分に合ったものであるからだった。

 持ち運びの容易さよりも、いざという時に最大のパフォーマンスを発揮できることの方が生き残るためには大切だ。

 それに何よりも、これは今は亡き父から譲り受けた、大切な形見でもある。

 

 そんな大切な杖を、あの忌まわしい毒に侵されていた先程の自分は、知らぬ間に放り出してしまっていたわけだが……。

 

「あいたた、照れちゃって。……まあ、ディー君と仲が深まったようでよかったじゃないの」

 

「よくない。あの人に、迷惑をかけた」

 

「あら。だって、ディー君も嬉しいって言ってくれたんでしょう?」

 

「……気を遣わせた」

 

 かたくななタバサの態度を見て、キュルケは苦笑した。

 ディーキンとの約束のくだりを話していた時の目の輝きと上気した頬からして、彼女の本心は明白だ。

 

(まったく、素直じゃないわねえ)

 

 あの子が気遣いだけでそう言ったわけじゃないって、そうであってほしいって、あなただって思っているんでしょうに。

 だけど初心だから、自分がそんな期待をしているって認められないのね。

 

「あなたらしくて、微笑ましいけど……」

 

 キュルケは先程運んだシエスタの呟きを思い出して、一言忠告しておくことにした。

 彼女とも親しくはしているが、なんといってもタバサは親友である。

 

「どうやらあの子に気があるのは、あなただけでもないみたいだし。いつまでもそんな遠慮した態度だと、せっかく掴みかけた男を取り逃がすかもしれないわよ?」

 

 それを聞いたタバサの眉がぴくりと動いたのを、キュルケは見逃さなかった。

 

「……誰のこと?」

 

「さあ? それは秘密よ」

 

 キュルケはタバサが不満そうに軽く睨んでくるのを、にやにやと意地悪そうに微笑みながら受け止めた。

 

「ほら! 今、危機感を感じてたみたいじゃないの。もう明らかね」

 

「……何ひとつ明らかじゃない」

 

 キュルケはどこまでも意固地な親友の返答を聞いて、肩をすくめた。

 

「まったく……、もうっ」

 

 相手のために何ができるだろうかとか、迷惑にならないだろうかとか、そんなことをいつまでもうじうじ思い悩んでいると臆病になって、恋の熱も逃げてしまうのだ。

 小賢しい思慮分別だの保身だののために真剣に恋に向き合えなくなるなんて、自分の気持ちと好きになった相手に対する冒涜である。

 好きならまずは押し倒して口説き落とし、細かいことはそれから考えろというのが、キュルケの恋愛持論であった。

 

(トリステインの気取り屋たちといい、あなたといい、ちょっとお堅すぎるのよね)

 

 もっとも彼女自身は、そうやって自分の気持ちをよく確かめる間もなく性急に行動するせいか、恋の微熱が冷めるのも早い。

 

 キュルケはとうの昔にそんな自分のあり方を受け入れ、ずっと続く恋にいつか巡り合いたいとは思いながらも、それを一時の微熱であり娯楽であるものと割り切ってもいた。

 別にディーキンとタバサにそのうち別れてほしいとか思ってるわけではないが、あまり深刻に考えていない面は確かにある。

 永続的なものだとは思っていないからこそ、異種族同士だとかいったこともさしたる問題とは考えておらず、ちょっと背徳的で刺激的な冒険くらいにみなしているところがあるのだった。

 

 そうやって親友が男をとっかえひっかえする姿を近くで見ていたタバサとしては、彼女の言葉を鵜呑みにはできないのも無理からぬこと。

 彼女は、以前に恋をしたらどうかとタバサに勧めた時に、こんなことを言ったものだった。

 

『恋はいいわよぉ。なにせわくわくして、どきどきして、時には夜も眠れなかったりしてね。それで、相手を夢中にさせて、いらなくなったらポイ、ってね!』

 

 言うまでもなく、タバサはディーキンと恋仲になるというような話を、そのように軽々しくは取り扱えない。

 大体、彼はただ好きな相手というだけではなく、生涯仕えると誓った大恩人であり、自分の勇者だと信じ敬っている相手でもあるのだから、そんな扱いは不敬にもほどがある。

 

 たとえそうでなくても、キュルケが勧めてくるような“恋”など、タバサにはとても無理だ。

 愛情深く気品のある両親から大切にされて育った彼女にとっては、恋や愛とは原則として生涯続くべきものである。

 もちろん、そうでない例も多いということを博識なタバサは様々な書物などを読んで知っているし、そういったことを必ずしも否定しているわけでもない。

 今のキュルケのような生き方に対する憧れも、ないわけではない。

 だがそれでも、自分自身の幼い頃の体験から、いつまでも愛し合う夫婦、慈しまれる子供、幸せな家庭こそが本来あるべき理想的な姿だと、心の深い部分では信じている。

 したがって、永遠に続かないことを前提にした交際や情交などを、気軽に楽しめるようなタイプでは根本的にないのだった。

 

 それにタバサは、この親友が男の扱いについて詳しいのは確かであるにしても、はたして自負しているほどに恋に詳しいかどうかは疑問だとも思っている。

 キュルケは、実のところ正真正銘の大恋愛と呼べるようなものを経験したことはまだないのではないか。

 彼女の場合、ちょっと素敵な異性に惹かれただけですぐに恋だと考えて性急に深い仲になろうとするから、大きく育っていない愛情が激しい扱いに耐えかねて萎れてしまうに違いない。

 

(いつか本当に深く愛せる相手に巡り合ったなら、あなたもきっと、それ以外の男と付き合おうとは考えなくなるはず)

 

 一見奔放に見える彼女だが、実のところ愛してもいない相手と寝床を共にするような女性では決してないことを、タバサは知っていた。

 彼女はいつだって、その時点では本当に愛しているのだろう。

 ただ、その情熱が一時的なものか、長続きするものかを、ちゃんと見極めることができていないのだ。

 

「……ま、いいわ。とにかく、せっかくディー君が振り向いてくれたんだから、あなたはそれとしっかり向き合わなきゃ駄目よ。約束したんでしょ?」

 

 そんな親友の内心など露知らず、キュルケは最後にそう釘を刺すと、ひらひらと手を振って先に風呂から上がっていった。

 部屋に戻って、朝までもう一眠りするのだろう。

 

 

 

「ふう……」

 

 ようやく一人になったタバサは、小さく溜息をつくと、あらためて今日の出来事を思い返してみた。

 

 赤面せずにはいられないような行動を、たくさんしてしまった。

 大切な恩人にも、また迷惑をかけた。

 

 それでも、恥ずかしくていられない気持ちと同じくらい強く、嬉しい気持ちもあるのはなぜだろう?

 忌まわしい衝動を自分に吹き込もうとしたあの薬を、強く憎む気になれないのはなぜ?

 

「……薬の影響の、名残?」

 

 タバサは気持ちを落ち着かせるために目を閉じて、大切な杖を握りしめてみた。

 だが、目蓋の裏に先程のディーキンの姿がちらつき、彼の声が頭の中に響いて、余計に胸の高鳴りが大きくなる。

 

「…………」

 

 タバサは気持ちを落ち着けるのを諦めて、軽く湯船に身を沈めると、自分の唇をそっとなぞってみた。

 

 そこには、熱い感触がまだ残っている。

 自分が彼の肌に、そして唇に押し当て、彼がそれに答えてくれた部分が、未だに焼けつくような痛みにも似た熱さを放っていた。

 この痛みは、明らかにただ唇が痛んで腫れているからというだけではあるまい。

 

 それを意識したとき、顔がかあっと熱くなったのは、羞恥心のためか、喜びのためか。

 はたしてどちらの感情の方が、より強かったのだろうか……。

 

「私、は……」

 

 やっぱり、キュルケの感じていたとおり、彼のことが元から好きだったんだろうか?

 

 薬の影響はなくなったはずなのに、自分の胸の内は、以前のように冷えたものには戻らなかった。

 もちろん、先程のように激しく不安定な、荒波のような揺れ動きはない。

 それでも、彼のことを意識すると、僅かに胸が締め付けられるような、高揚するような……、確かな感情の揺らぎが起こるのを感じる。

 

 自分を説き伏せるための言葉だとしても、あるいは気遣いから出た言葉だとしても、彼が約束してくれたのは確かだ。

 それに、彼はあんな状況で口から出まかせを言うような人ではないはず。

 だから、今でも好きなのであれば……。

 

「……焦っては、駄目」

 

 タバサは、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

 

 単に、薬の影響があまりに強かったから、その時の感覚がまだ残っているだけなのかもしれない。

 あるいは、薬の影響下でしてしまった行為の恥ずかしさを忘れようとして、彼に本当に恋慕したように思い込んでいるのかもしれない。

 無意識にそんな思い込みをした女性の話を、本で読んだ覚えがある。

 

 いずれにせよ、早計な結論を下しては駄目だ。

 

 今すぐにでも、もう一度彼のところに戻って話をしてみたい。

 その胸にもう一度飛び込んでみて、今度はどう感じるか、自分の気持ちを確かめてみたい……。

 そんな想いも、ないわけではない。

 キュルケの思わせぶりな言葉も、まったく気にならないといえば嘘になる。

 だが、今しばらくは時間を置いて気持ちが落ち着くのを待ち、はっきりと自分の想いを確かめてからでなくては、彼に対して失礼というものだろう。

 

 それで、もし……。

 それでも間違いがないと確信できたなら、その時は……。

 

(その時こそは、私はもう迷わない)

 

 タバサは何かに誓いを立てるように、ぎゅっと自分の胸元を押さえながらそう考えた。

 それから、静かに湯船から上がってもう一度体を流すと、浴場を後にしてパジャマに着替え、自分も寝床に入ったのだった。

 

 

 

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「ウーン……」

 

 その頃ディーキンは、ぼんやりと見張りをしていた。

 

 おそらく今夜はもう何も起こらないだろうが、それにしても注意力が散漫になっている。

 睡眠時間は少々足りていないが、先程のタバサとのやりとりですっかり眼が冴えてしまったので、別に眠いというわけではない。

 ではなぜ注意力が散漫なのかと言えば、考え事をしているからだ。

 

 その考え事の内容はというと、それはやはり、先程のタバサとのやりとりについてであった。

 

 もちろんあれは薬のせいだったのだから、もう気にしなくてもよいのだろうが……。

 異性からあんな風に情熱的に愛情を告白されたのも、それに真剣に答えようとしたのも、どちらも初めてのことだったのだから、そう簡単に忘れることはできない。

 自分の発言を今思い返すとなんだか無性に恥ずかしかったり、でも真剣に答えたんだから恥じるところなんかなにもないと胸を張るべきなんじゃないかと思ったりと、どうにも複雑な気持ちだった。

 

(ンー、タバサとディーキンが、かあ……)

 

 人間と、コボルド。

 

 そんなことは、およそ考えてみたこともなかったが。

 実際のところ、はたしてどんなものなのだろうかと、ディーキンは自分なりに真面目に検討してみた。

 

 

 

 フェイルーンのコボルドは概して野蛮な種族だと言われるが、決して愛情に欠けているわけではない。

 

 彼らは何よりも自分たちの種族の幼子を愛し、それを育むことに大きな力を注いでいる。

 若者たちの歩むべき人生の手本として扱われることこそが、成人したコボルドにとって望みうる最高の名誉であるとされているほどだ。

 コボルドには自分の種族と部族とをより大きく発展させたいという強い衝動があり、それに貢献できるものを何よりも愛している。

 だから、子供の次に彼らが愛しているのは仕事である。

 

 その一方で、個人と個人の間の愛情、すなわち友愛とか恋愛とかいったものは、確かにあまり重んじられてはいない。

 

 コボルドは秩序だった全体主義的な種族であり、大半のコボルドは他の特定の個人との間にどんな種類の強い絆も築くことのないまま、それでも十分に満足してその一生を終えることができるのだ。

 コボルドは自分の属する部族全体を、そして種族全体を重んじているが、それに属する個人のことはほとんど重要視していない。

 山さえ存在し続けるのなら大事はないのであって、それを構成する砂の一粒一粒になど、誰がいちいち注意を払おうか?

 

 そうはいっても、彼らにももちろん個人的な愛情を覚えることはあるし、異性に惹きつけられもする。

 しかし、その衝動には概して種の保存と繁栄という、本能的な義務感が伴っている。

 それに従って彼らは定期的に交配し、その際には出産を確実なものとするために、男女双方のコボルドができるだけ多くの異性と交わろうとするのだ。

 そこには個人の感情など必要ないし、事実コボルドは人間のような種族とは違って、異性間の交配と個人的な愛情とをことさらに結びつけて考えたりはしない。

 一緒に交配を行うのは、一緒に食事をしたり一緒に仕事をしたりするのと同じ程度の感覚でしかないのだ。

 

 ただ、ごくまれに真に愛情と呼びうるようなものが生じた場合には、それが友愛であれ恋愛であれ、穏やかながらも強く深いものになる傾向がある。

 そう言うとコボルドのような野蛮な種族がと他種族は懐疑的な目で見ることが多いが、それは事実であるし、特に不思議なことでもない。

 政略結婚だとか、義理の上での付き合いだとかいったような概念とはほとんど無縁であるコボルドが、打算でそんな結びつきを求めることはまずないからだ。

 別段必要とされない絆をあえて求めるからには、その愛情は当然それだけ強く深いものでなくてはならないし、交配などの本能的な欲求とは結びついていないのだから、精神的で純粋なものになるのも自然なことである。

 

 一般的にコボルドの恋愛感情は、同じ職場で働く2人の間に生じることが多い。

 他のコボルドに愛着を覚えたコボルドは、まずは相互に敬意を表し合い、部族のために共に働いて生産性を高めようとする。

 同じ仕事に就いているコボルドは頻繁に顔を合わせるので、互いに一緒に働く方が一人でするよりもよさそうだと気が付きやすいのだ。

 そうして頻繁に共同作業をしているうちに、次第に愛情が深まっていくのである。

 コボルドは何と言っても勤勉で仕事を愛しているから、職場が違うと深い仲になる機会はほとんどない。

 

 確かな愛情の存在を認め合った男女は、最終的には互いに奉仕し合い世話をし合う、互いの“選ばれたもの”になる、という宣誓をすることで、人間などの種族でいうところの夫婦となる。

 

 ただしそういった宣誓をしても、どちらの性別も交配本能によって依然として支配されているために、互いに長期間離れているとそれらの影響に屈する可能性が高い。

 とはいえ、交配はコボルドにとって感情的な価値をほとんど持っていないので、そのような婚外交渉がカップルの間に摩擦を生じさせることはない。

 もっというなら、コボルドはお互いの間に確かな愛情があるのであれば、他の誰かとも同じような関係を持っていてもあまり問題だとは考えないので、一夫一婦制といったような概念もほとんどない。

 

 

 

 ディーキンは自由と個性とを重んじており、一般的なコボルドの社会にはついに馴染めなかった異端児であるが、そんな彼もやはり、種族の習慣や考え方と完全に無縁ではなかった。

 

 だから、タバサが思い悩んでいた自分と彼とは異種族だというようなことは、ディーキンの側にとっては実のところ、さほど大きな問題ではない。

 コボルドは元より繁殖のために伴侶を求めるわけではないのだから、彼からしてみれば好意を持った相手が異種族であっても……、もちろん風変わりだとは思うものの、本質的にはさして重要なことではないのだ。

 

 大切なのはあくまでも、そこに確かな愛情があるのかどうか、である。

 

(でも……、タバサはそうは考えないよね、きっと)

 

 正直なところ、人間の社会のそういった面については自分とは関係のないことだと思っていたので、未だによく理解できていない部分もあるし、あまり詳しいとも言えない。

 それでも、一般的な人間の社会では伴侶を得ることと繁殖をすることとが強く結びついているのだということくらいは、ディーキンも学んで知っていた。

 

 人間は妊娠期間が長期に渡り、母体への負担も大きく、しかも一度に生まれる赤子は普通は一人だけだ。

 そうなると、短期間でたくさんの卵を産めるコボルドとは違って、誰とでも気安く交わったりはしないのも当然のことだろう。

 人間が出産目的で交配する相手は普通は伴侶に選んだ特定の異性だけで、したがって人間にとっては、伴侶を得ることと赤子を得ることとの間には強い結びつきがある。

 伴侶を得るということはコボルドの社会では一種の贅沢なのだが、どうやら人間の社会では義務に近い感覚でとらえられているようだ。

 実際は必ずしもそうではないだろうが、伴侶を迎えて初めて一人前だというような考え方も根強くあるらしい。

 

 さらに、多くの社会では一夫一婦制で、生涯で一人の異性しか伴侶に選ばないケースが大半であるのだという。

 そうなると自分を相手に選ぶということは、タバサにとっては非常に重大な決断であっただろうことが容易に想像できる……。

 

「……アア、ディーキンはなんで、こんなことを考えてるのかな……?」

 

 あれは結局薬のせいだったんだから、こんなことを考えていても仕方がないだろうに。

 薬の影響から脱した後でなお、彼女がそんな道を選ぶとは思えない。

 彼女はおそらく、しばらくして落ち着いてから、あの夜に約束したことは薬のせいなので忘れてほしいと言ってくるに違いない。

 

 とはいえ万が一の場合には、彼女とそのあたりのことも含めて、よく話し合う必要が出てくるだろう。

 そうならなければいいような、そうなってほしいような……なんとも妙な気分だった。

 

(……えーと。とにかく、いつまでもそのことばっかり考えてないで、他のことも考えないとね)

 

 ディーキンはなんだか気恥ずかしくなってきたのもあって、ひとまずその考えは打ち切ることにした。

 気持ちを切り替えて、今度はアルビオンへ渡った後のことや、デヴィルの脅威にどう対抗するべきかといったような事柄についても検討していく。

 

 朝になったら、一般の客船に乗ってアルビオンへ向かう、というのが当初の計画だったが……。

 街中で聞いて回った情報では、アルビオンの王党派は相当切羽詰まった状況に追い込まれているらしいし、一刻も早く向かった方がいいかもしれない。

 今、自分の手元には《限られた望み(リミテッド・ウィッシュ)》の指輪がある。

 これを使えば、これまでは費用対効果の関係などで気軽に使うわけにはいかなかった呪文もアイテムを消費せずに使えるから、上手くやれば直接アルビオンへ乗り込むことも可能だろう。

 もしも既に自分たちがデヴィルに警戒されているとしたら、客船に乗っていけば乗客にまで迷惑がかかるかもしれないし、危険も増える。

 検討してみる価値はあるかもしれない。

 

 タバサの話によると、どうも彼女が浴びた薬はこの世界の惚れ薬を元にしたものではないかということだった。

 そうだとすると、デヴィルはこの世界のマジックアイテムをよく研究し、有用なものを取り入れたり改変して用いたりするような段階にまでなっているのだ。

 どれほどの戦力があるのかわからないが、少なくとも自分たちだけで正面から全面対決などをして勝てるとは思えない。

 アンリエッタ王女らとも知り合えたのだから、こちらも国を味方につけてデヴィルらの情報を伝え、対策を助言などして戦力を整えた上での対決という手もないではないが、大規模な戦力のぶつかり合いを選択すれば犠牲は大きくなる。

 敵の頭を直接たたくか、何とかしてデヴィルをこの世界から追い出す方法がないかなどを検討するか……、とにかく慎重に、そしていざ行動に移すと決めた時には迅速にやらねばなるまい。

 なんにせよ、アルビオンでももっと情報を集めなくては。

 

 

 

 ――そんな風にあれやこれやと考え込んでいるうちに、夜は明けていった……。

 

 

 


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