Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia   作:ローレンシウ

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第百五十五話 Love is blind

 

「……え、えーと……、お姉さん?」

 

 シェフィールドのあまりに歪んだ表情を見て驚いたディーキンが、しばし逡巡したのちに、おずおずと声をかけた。

 

「その……、ディーキンは何か、気に障ることをしちゃった……かな……?」

 

 彼の顔には、ここ最近ではあまり浮かべることもなくなっていた、おどおどとした表情があらわれている。

 

 もちろん、過去のジョゼフ・シャルル兄弟の姿が映った覗き窓を見たことで、彼女が非常に強く感情を揺さぶられたのは明らかだ。

 ただ、どうしてそんな反応を示したのかがよくわからなかった。

 上機嫌でないのは確かだとしても、正確にはどんな種類の感情を、彼女が抱いているのかも。

 

 なぜならそれは、ただでさえ人間が抱くような色恋沙汰の感覚には疎いディーキンにとっては、まるきり縁のないものだったから。

 

「! ……い、いえ。特に、何もないけど?」

 

 声をかけられたシェフィールドは、はっとしてあわてて顔を逸らすと、精一杯に元の平静で感情の読めない態度を装い直した。

 だがもちろん、そんな偽装には何の効果もない。

 

「……ホントに?」

「ええ、本当よ。どうして?」

 

 自らの顔を見ることのできないシェフィールド本人だけが、覗き窓の中の光景にほんの少し気に食わないことがあっただとかいった程度では到底説明のつかない、おそろしく凄惨な表情を目の前の二人に晒してしまっていたことに気が付いていなかった。

 それ以前に、自分がそんな凄惨な表情を浮かべることがまさかあろうなどとは、彼女自身思ってもみなかったことなのであるが。

 

「ウーン……、そう?」

 

 さっきはスゴい顔をしてたけど――などと、不躾に指摘してよいものかと、ディーキンは困ったように頬を掻いた。

 

「ええ。それよりも、さっきは何の話をしていたのだったかしら。……確かに、これを見ればあの方も、心を動かされるかもしれないわね?」

 

 シェフィールドはそう言って、さっさと話題を変えようとする。

 

 ただ、本当は奇妙な異界の呪文を用いて作られたこの覗き窓をジョゼフに見せることは、彼女としてはあまり、いや、まったく気が進まなかったが。

 どうやって彼の要求を拒んだ上で納得させて協力させようかと、そんなことを考えていた。

 

 タバサはそんなシェフィールドの顔をじっと見つめていたが、やがてただ一言、ぽつりと呟いた。

 

「……。嫉妬」

 

 途端に、シェフィールドの頬にさっと赤みが差した。

 成熟した大人の女性、それも妖艶で不敵な雰囲気のある女性らしからぬ反応である。

 

「しっ……!? な、何を! 嫉妬なんてするわけがないでしょう。私は、あのお方にお仕えする身なのよ。ましてや、どうして弟ぎ」

「嘘吐き」

 

 タバサは抗議する彼女の言葉を遮るように、きっぱりとそう言い切った。

 ディーキンはといえば、きょとんとしている。

 

「エ? ……だって。タバサのお父さんは、えーと、男の人……だろうし。それにジョゼフさんとは、兄弟なんでしょ? なんで……」

「そんなこと、関係ない」

 

 それは自分の考えというようなものではなくて、単純に体験したことだった。

 前々から小説などでは、そんな話を読んだこともあったのだが。

 自分が身をもって経験することになるなんて、ほんの少し前までは想像もしていなかった。

 

 タバサはディーキンの手にするリュートに、ちらりと目をやる。

 

「本当に、好きな人がいたら。人間は誰にでも、……何にでも、嫉妬する」

 

 楽器は女性の体に似ている――とは、一体誰の言葉だっただろうか。

 

 以前に何かの本で読んだのだろうが、思い出せなかった。

 でも、その言葉を言い出した人は、きっとその楽器の持ち主に特別な感情を抱いていたに違いないと、今では思う。

 

 滑らかな輪郭のリュートは日ごと夜ごとディーキンの手の中に収まって、吸い付いたようにぴったりと、彼の体に寄り添っている。

 そして、彼の指の動きに身を震わせ、甘い音を響かせる。

 

 その度に、まるで見せつけられているかのように感じて、タバサは胸を疼かせた。

 

 それは、強烈で抗しがたい感情だった。

 自分は一体いつからこんなにも愚かしくなったのかと自虐的な思いに駆られながらも、それでも彼と出会う以前の賢しく冷たい自分に本心から戻りたいとは、決して考えられない。

 

 音楽に揺られながらうとうととしている時、あるいは一人で寝床の中にいる時、タバサはリュートになる夢を見さえした。

 彼の腕と心地よい音楽に包まれながら身を震わせて、その顔を誰よりも間近で見上げる夢――。

 

(自分のことを理性的で優秀な人間だと信じているのに、肝心な時には、ひどく情緒的で愚かな行動をしてしまう。私も、きっとこの人も)

 

 ああ、楽器にさえ嫉妬した自分が、どうして父に嫉妬する彼女を嗤えようか。

 仕えるべき相手だと決めたはずの人にどうしようもなく惹かれてしまうということにも、共感せずにはいられない。

 憎むべき仇であるはずの伯父も、この利己的極まりないと見えた女性も、結局は自分と大した違いなどないのかもしれなかった。

 

 ただし、まったく同じというわけでもないが……。

 

「ウーン……。そうなんだ……」

 

 ディーキンにはそんなタバサの胸中を知る由もなかったし、彼女の言葉を正確にはどのように捉えたのかも定かではなかったが。

 それでもその言葉には強い実感が伴っていたためか、何か思うところがあったようで、じっと考え込んでいた。

 

 それから、何を言っていいものかわからないのか、やや紅潮した苦々しい顔で口を開きかけてはまた閉じるのを繰り返しているシェフィールドの方に向き直って、頭を深々と下げる。

 

「ごめんなさいなの」

「? ……ええと。どうしてあなたが謝るのかしら、『ガンダールヴ』?」

「だって、ディーキンはさっきから、なんだかジョゼフさんのことばっかりで。お姉さんの気持ちをよくわかってなかった、きちんと考えてなかったみたいだから……」

 

 そう言って、もう一度ぺこりと頭を下げた後で、にこやかな笑みを浮かべて彼女の顔を見上げた。

 

「そういうことなら、ディーキンはジョゼフさんがお姉さんを好きになってくれるように協力するの。お姉さんがディーキンと取り引きしてデヴィルを追い払ったりする理由は、つまり、それなんだよね?」

「な、何を極端な! まさか、そんな理由だけで。私は何よりもまず、あの方の望みを叶えてさし」

「嘘吐き」

 

 タバサがまた、同じ指摘を繰り返す。

 そんな辛辣な指摘を口に出すのは賢明ではないかもしれない、黙って聞き流す方が利口かもしれないが、彼女にはそうすることができなかったのである。

 

 この女性が伯父に忠実に仕える理由は、つまるところ、そうすることで自分の方を振り向いてほしいからだ。

 自分が誰よりも役に立つと示すことで、いつまでも傍に置いてほしいからだ。

 あの覗き窓の中の、過去の伯父と父との絆を見たときの凄惨なまでに歪んだ表情から、タバサはそのことを確信していた。

 彼女が本当に伯父の忠実な臣下なのであれば、自身の望みよりも彼の望みを叶えることを第一に考えているのであれば、たとえ過去のものにもせよ主の幸福そうな姿を見て、どうしてあんな顔をするものか。

 

 自分と彼女に大した違いがないとしても、そこだけは違うはずだと、タバサは少女らしい潔癖さでそう信じていた。

 もしもそうでないとしたら、自分を許すことができない。

 

 一方ディーキンの方はといえば、彼女のようにシェフィールドの言い訳がましい言葉をとがめるでもなく、いつもの無邪気そうな笑みを浮かべて頷いていた。

 

 バードは人の心の中の醜さを暴くよりも、むしろ美しさに目を向けてそれを引き出すのが仕事だと、彼は信じている。

 といっても、普段からそんなことを意識して行動しているわけではなく、大体は生来の気質と習慣によって自然にそうしているというだけなのだが。

 

「ウン。ディーキンは、ジョゼフさんの望みも、お姉さんの望みも、みんな叶ったらいいと思うよ。それでデヴィルもいなくなって、みんなが幸せになるの。それが、偉大な物語ってものだからね!」

 

 そのためにも、やはり彼にはその覗き窓を見せてあげてほしいし、直接会って話がしたいのだと、ディーキンは改めて訴えた。

 

「ジョゼフさんはきっと、自分に何が必要か、本当にはわかってないんだよ。ディーキンには人間の恋のことはわからないけど、でも、いつまでもほしいものが手に入らないから、そのことばっかり考えてて、近くにいるきれいなお姉さんにも目を向けられないんじゃないかなって」

 

 だから、直接会って、本人と言葉を交わして、彼に何が必要なのかを一緒に考えたい。

 そうすれば、彼も、シェフィールドも、そしてアルビオンやガリア、その他のハルケギニアの人々も、みんなが幸せになれるかもしれないから。

 

 ディーキンは所詮、一介のバードであり、一人の冒険者に過ぎない。

 人間の政治や戦争のことなどは専門外で『虚無』のような大規模な影響を及ぼす力も持っていない。

 それが今起こっている、起ころうとしている惨事を食い止めるために何か大きな貢献をしようとするなら、それだけの力をもつ重要人物に直接会って、倒すとか話し合うとかする以外にないのだ。

 

 

 それで、概ねその夜の話は終わりだった。

 

 よく考えた上で、なるべく早くまた会って返事を聞かせてほしいと言い置いた上で、ディーキンとタバサは先にその場から退出した。

 全員でまとまって出ていくと、人目を引くかもしれないからだ。

 

「……どうにも、調子が狂う……」

 

 しばらくの後、話し合いを行った部屋から出て来たシェフィールドは、そうひとりごちて溜息を吐いた。

 

 好条件をぶら下げてうまく相手に合意させ、デヴィルと共倒れにさせてやろうと思っていたのに、あれよあれよという間に話が妙な方向に進んでしまった。

 ジョゼフ王との会談の場を設けたいなどと予想外な要求をされて、それをはっきりと突っぱねられなかった。

 しかも途中からは、なんだか自分もその方がいいような気がしてきたのだから、不思議なものだ。

 

(それにしても、妙なドラゴン……妙な『ガンダールヴ』だった)

 

 最も強大で獰猛な種族であり、勇猛果敢な盾であり槍であるとされる使い魔のはずなのに、まるきりそんな雰囲気がない。

 シャルロット公女にしても、もっと敵愾心を剥き出しにしてくるかと思っていたのだが、父の仇であるはずの男と話し合うというあの使い魔の方針に異議を唱えるでもなく、終始落ち着いた様子だったのが気にかかる。

 

(なんにせよ、落ち着いてもう一度、よく考えてみなくては……)

 

 シェフィールドは、そんな風にとりとめもないことを考えながら、階下に降りた。

 

「……うん?」

 

 そこで、先ほどは賑やかだった酒場の喧騒が止んでいることに、シェフィールドは気が付いた。

 

 といっても、人がいなくなったわけではない。

 みな、いつの間に姿をあらわしたものか、カウンターの上で澄んだ声で歌いながら演劇を披露する二人の女性の姿に、酒杯を傾けるのも忘れて見入っているのだった。

 

(そんなに面白いのか?)

 

 少しだけ興味を引かれたシェフィールドは、用事も済んでしまったことだからと、自分も耳を傾けていくことにした。

 

 それはしかし、彼女が想像していたのとは違って、面白い歌というようなものではなかった。

 どちらかといえば、あまり陽気な酒場には相応しくない歌のように思えた。

 なのに、誰もがその歌に引き込まれていた。

 酒場の全員が、女性たちが歌い演じる物語に合わせて目を輝かせ、潤ませ、怒り、泣き……、激しく感情を揺さぶられていた。

 

 そしてシェフィールド自身も、ほどなくして、その感情のうねりに巻き込まれていった。

 

 

 

『ああ、愛しいお方。あなたは富や名声と、この私と、どちらが大切なのですか?』

『愛しい人よ、もちろん君だ。君に決まっている』

 

『では、その楽器と私と、どちらが大切なのですか?』

 

『歌と私とでは、どちらが』

 

『旅と私とでは』

 

 ……

 

 

 

 それは、旅の吟遊詩人と、彼が立ち寄った街で出会った一人の女性との、悲恋の物語だった。

 

 二人は互いに一目で恋に落ち、激しく情熱的な愛を交わす。

 しかし、幸せは長く続かない。

 詩人は街に生きることのできない男、やがて彼の心は、再び旅の空に焦がれだす。

 

 けれども生まれてから一度も街の外に出たことさえない女性には、放浪の人生など考えられない。

 体も心も、到底その旅についてはいけない。

 女性は、どうか自分の傍に留まってくれと、一心に男をかき口説いた。

 最後まで根無し草の詩人として、誰にも看取られずに路傍に倒れるよりも、その方が彼のためにもなると信じて。

 自分が、彼の安息の地になれると信じて。

 

 男も娘のその愛情を感じるがゆえに、自分もまた娘を愛するがゆえに、ついには旅を捨てて、娘の傍に留まろうと誓いを立てる。

 

 けれど、自由な心をもつ男にとって、意に反して義務や義理のゆえに引き留められる以上の苦痛はなかった。

 翼をもがれる以上に、惨めで残酷な仕打ちはなかった。

 

 彼はやがて、廃人同然となって死んでしまう。

 

 男は最後に、自分の体を焼き、遺灰を河へ蒔いてどこかへ旅立たせてほしいと、死の床で親しかった人々に願う。

 けれど、悲しみに泣き崩れる娘は、死んでもなお、愛する男の躯を離そうとしない。

 

 その様子を見かねた人々は、ついには無理に娘を引き離し、男の体を焼いて、彼の遺言通りに遺灰を河へ蒔いてやった。

 けれども半狂乱になった娘は、あろうことかその後を追って、自分もまた河へ身を投げてしまう……。

 

 

 

『ああ! お前は、そんなにも彼を愛していながら。どうして彼のことを、それほどまでに何も知らなかったのだ?』

 

 娘の父親がそう嘆いて河のほとりで崩れ落ちる最後の場面では、酒場の者たちもみな、声をあげて泣いていた。

 

 シェフィールドでさえ、なぜか涙がこぼれるのを止められなかった。

 彼女はまだ他の客が泣いている間に静かに席を立つと、この場で唯一無感動な面持ちでいたワルドを連れて、そのまま黙って店から出て行った……。

 

 

 

 そんな彼女の姿を、カウンターの上で歌い終えた女性たちが、そっと見送る。

 二人のうちで、真っ白な肌とピンク色の長い髪、青い瞳を持つ女性の方が、これでよかったのかと問いかけるような目で、もう一人の女性を見つめた。

 

「ええ、きっと。あの方の考え方に、何か影響を及ぼせたと思います。急なお願いを聞いてくれてありがとう、ルカ」

 

 そう言って指でオーケーのサインを出しながらウインクをして見せた相方は、ディーキンらの先ほどのやり取りを遠方から盗聴していて、異世界から呼んできた歌い手仲間と共に急遽駆けつけてこの舞台を用意した張本人。

 すなわち、ウィルブレースだった。

 

 二人はそれから、しんみりとした酒場の雰囲気を明るくしてやるためにもう一度、今度は陽気な物語を歌い始めた……。

 


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