Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia   作:ローレンシウ

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第百五十七話 Prisoner

 

 ディーキンが以前に仲間のナシーラ(改心したドロウの女魔術師)から譲り受けたスクロールに込められているこの魔法は、本来は彼女の種族が編み出したものではなかったらしい。

 

 ドロウの主神ロルスが掲げる女尊男卑の思想が浸透したアンダーダークの大都市・メンゾベランザンの階層社会では、死者の領域を扱うのは通常、権力の頂点に位置する女神に仕える尼僧たちの役目であり、魔術師は手を出すことが禁じられている。

 だから、死んだ人間の魔道士からオークが盗み出したのを魔法院で密かに買い取ったというこの呪文も、公然と使用することはできず、長年図書室の奥深くにしまい込まれたままになっていたのだという。

 

 ところがある時、『顔なき導師』と呼ばれていた顔の溶け崩れた正体不明の魔法学院の指導教官が密かにそれを引っ張り出して、個人的に翻訳したらしい。

 その目的は定かでないが、いずれにせよその後しばらくして彼が学院を去り、自身の所属する貴族家へ戻っていった後に、書斎の整理にあたったナシーラが翻訳された書籍の写しを発見してこっそりと懐へ収めたのである。

 魔術師は、尼僧への道が閉ざされている男のドロウにとっては最高の出世コースだが、女性にとってはそうではない。

 下の妹であったがゆえにドロウ社会の女性の出世コースである尼僧への道に進めなかったナシーラだが、それでも何とかして自分の得た能力を活かし、年長の姉たちを出し抜いてやろうという野心は持っていた。

 ゆえに、尼僧の専売特許である死者の領域への干渉を可能とする呪文は、当時の彼女にとってはいずれ何かに使えるかもしれぬ魅力的なものと思えたのだ。

 

 しかし、その後ほどなくして、彼女の所属していた貴族家は大悪魔メフィストフェレスの支援を受けた野心的なドロウ・ヴァルシャレスのために滅亡した。

 ナシーラは彼女の配下となって生き延び、後に改心して善なるドロウの女神・イーリストレイイーの信徒となったために、この呪文は長い間忘れ去られたまま、彼女の魔法書の中に眠っていたのである。

 

 ディーキンは彼女と共にアンダーダークを冒険していた折、その呪文について聞かされ、興味を持った。

 ナシーラ自身にはロルスの教義に囚われて身内同士で権力闘争を繰り広げた末に死んだ負け犬の身内と話したいなどという望みはなかったようだが、ディーキンとしてはかつて困窮した自分を拾ってくれた恩人の『ママ』と、もう一度話してみたかったからだ。

 ある晩、突然に狼によって殺されてしまった彼女とは、別れの言葉さえ交わすことができなかったから。

 快く応じて呪文を使ってくれたナシーラのお陰で、ディーキンは彼女が今もあの世で幸せに暮らしているのだと知ることができ、胸のつかえが下りた。

 

 それと同じ呪文をディーキンはもう一度、今度は自分自身の手で、この異世界ハルケギニアで使おうとしている。

 以前に使ったのは、ごく個人的な用件でだった。

 だが今回は、もしかしたら自分以外にとっても、非常に重大な結果をもたらすかもしれない……。

 

 

 

「…………」

 

 ディーキンから彼が手にしているスクロールの効果について説明を受けたタバサは、押し黙ってじっとそれを見つめたまま、しばらく考え込んだ。

 

(死者の魂を、来世から呼び出す……)

 

 つまり、亡き父にもう一度、会って話すことができる。

 別れの言葉ひとつかわすこともできず、ある日いつものように出かけたきり、そのまま帰らぬ人となった父と。

 

 それはもちろん、願ってもないことではあった。

 幼い頃は幽霊の話が苦手だったこともあるが、今はどうということはない。

 ましてそれが、愛する父親であればなおさらのことだ。

 たとえどんなに恐ろしげな姿になっていたとしても、生前賤しい動機を抱いていたことがあったのだとしても、自分はそんなことで、身内に対する愛情を失くしたりはしない。

 

 けれど、ディーキンのいつになく緊張したような態度が気にかかる。

 

「……あなたは、何を心配しているの」

 

 タバサは思い切って、そう尋ねてみた。

 ディーキンは、どう言ったものかと困ったように視線を泳がせる。

 

「アー、その。それはね……」

「あなたが父さまについて何か知っているのなら、教えてほしい」

 

 タバサはそう言ってディーキンの前に屈みこむと、そっと彼の手に触れた。

 

「わたしは、あなたの言葉を信じるから」

 

 ディーキンはそんなタバサの顔をじっと見つめていたが、やがて静かにこくりと頷くと、荷物袋の中から奇妙な皮紙の束を綴った文書を取り出した。

 タバサの実家に隠されていた地下研究室の最奥から持ち出した、『売魂契約』の書面である。

 

「それは……?」

「この間、タバサの家を調べたときに見つけたの。お父さんが昔サインした、契約書だと思う」

 

 読んでみて、と言って、ディーキンはそれをタバサに手渡した――。

 

 

 

「……おい。おれは、いつまで待っていたらいいのだ?」

 

 ややあって、しびれを切らしたのかジョゼフが異次元空間から姿をあらわすと、ディーキンにそう尋ねる。

 

「お前とシャルロットの逢瀬というのも、結構な肴ではあるがな。もう、ワインも底になったぞ……?」

 

 しかし彼は、すぐに自分の姪の様子がおかしいことに気が付いて、そちらに注意を移した。

 彼女は自分の仇が姿をあらわしたことに気が付いた様子もなく、じっと手にした書面を見つめ続けているのだ。

 その顔はいつもにも増して白く、手は少し震えている。

 

「シャルロットはどうした。なんだ、あの紙束は?」

 

 異次元空間の中からは、外の様子は覗き見れるが、音までは聞こえない。

 怪訝そうなジョゼフに対して、ディーキンは黙って固まっているタバサの手から書面を抜き取ると、今度は彼にそれを差し出した。

 

「あんたも読んでみて。これは、弟さんがサインした契約書だよ」

「シャルルが……?」

 

 ジョゼフはそれを受け取ると、タバサと同じように、黙って目を通し始めた――。

 

 

 

「……確かに、シャルルの筆跡のようだ。だが、とても信じられんな」

 

 読み終えたジョゼフは、そう言って頭を振った。

 ひどく顔をしかめている。

 

「あいつが、悪魔と取引だと? 馬鹿な! それはおれの役どころだ。シャルルは、天使とでも戯れているのが相応しい男だった……」

「ディーキンも、お兄さんのあんたが言うならそうだと思うの。タバサのお父さんだしね」

 

 うんうんと頷いた後で、でも、と前置きをして付け加える。

 

「『たとえパラディンでも、聖人君子であっても、人間は完全な秩序でもなければ純然たる善でもない。だから時に不実にもなるし、堕落することもある』って。ディーキンのボスは、そう言ってたよ」

 

 そして同時に、完全な混沌でも純然たる悪でもない。

 だから誰でも誠実になれる時があるし、更生することもできるのだと。

 

 完全でも永劫でもない不完全な定命の存在であるからこそ、人は天使や悪魔にはなれないが英雄にはなることができるのだ。

 

「シャルルが誘惑に負けたというのか。あいつが、王の座にそこまで執着していたと……」

 

 ジョゼフはまた懐疑的な様子だったが、深く物思いに沈んだ。

 ややあって、顔を上げる。

 

「……それで、お前の手にしているそのスクロールはなんだ。おれに過去のシャルルの姿を映し出す窓をくれたように、それを証明して見せてくれるのか?」

 

 ディーキンはこくりと頷いた。

 

「ジョゼフさんのためだけ、っていうわけじゃないけどね」

 

 まず、自分自身が彼に会って話してみたい、という気持ちもある。

 嫉妬や焦燥感にかられていささか道を踏み外し、最後にはデヴィルの誘惑に屈したのかもしれないが、先ほどジョゼフに言ったことは決してただのリップサービスなどではない。

 周囲の多くの人間からの評価、とりわけ最も身近にいた兄や娘からのそれを聞けば、彼が真に英雄的な人物であったことは間違いないと思う。

 バードとしては、そのような人物に会ってみたくないはずがない。

 それに、タバサとのこともあるし。

 あまりよくは知らないが人間の習慣としては、『異性とつきあう』場合は両親とかに挨拶しておくのが筋だと聞いている。

 

 タバサにも……ショックを受けさせることにはなるかもしれないが、本人が嫌でなければ、父親と話す機会があればと思う。

 自分も、急に狼に殺されて別れの言葉ひとつかわせなかった『ママ』とまた話せたときは嬉しかったものだ。

 

 彼の妻であるオルレアン公夫人にも会わせてあげられればとは思うが、少なくとも今のところはまだ、ジョゼフに彼女を救い出したことは伏せておかなくてはなるまい。

 残念ながら、彼女をこの場に連れてくるわけにはいかない。

 まあ、このジョゼフという男と実際に会ってみて感じた彼の鋭敏さや性格から考えると、そのことには遠からず思い至りそうな気もするし、そうなったとしても大して気にもしなさそうな印象は受けるのだが……。

 

「……今から、これを使ってみようと思うけど」

 

 タバサはどうするかと、ディーキンは気遣わしげな様子で、彼女の反応をうかがった。

 もしも会うのが辛いようなら、退席してもらうか、こちらが場所を変えなくてはならない。

 

 しかしタバサは、顔を上げてディーキンのほうを見ると、小さく頷いた。

 

「お願いする」

 

 顔色は少し悪いものの、決然とした様子だった。

 すでに心の整理をつけて、父がどんな行いをしたのであろうと、今現在どんな状況になっているのだろうと、それと向き合う決心を固めたようだ。

 

 ディーキンも彼女に頷きを返すと、ジョゼフにもそのスクロールの効力について説明していった。

 

「シャルルの魂を呼び出す……か」

 

 彼は、その話の真偽を特に疑いはしなかった。

 既に悪魔や天使などといった異世界からの来訪者が実在することを理解しているし、死後に魂は彼らの住む地獄界や天上界といった世界へ赴くらしいということも、ぼんやりとだが聞いて知っているのだから。

 

 つまりは覗き窓の向こうに見える過去の幻影ではなく、本物のシャルルにもう一度会えるということになる。

 

 そのことを思うと、ジョゼフの心はざわめいた。

 自ら手にかけた弟以上に、彼が会いたいと思う相手はいなかった。

 

「本当にそれができて、お前がその場におれを立ち会わせてくれるというのなら、ガリアの半分でもくれてやろう。いや、全部でも構わん」

 

 ジョゼフはそう言いながら、自分の指にはまっているガリア王家の秘宝、『土のルビー』を無意識に手でなぞった。

 タバサはディーキンの後ろから、そんな伯父の姿を複雑そうな目でじっと見つめている。

 

「……まあ、おれとしては。あいつはヴァルハラかどこから呼び出されるものと思うがな」

 

 最後にジョゼフは、いささか懐疑的な顔つきをしながらそう付け加えた。

 

 もちろん、ディーキンのことをほとんど何も知らない彼と、全幅の信頼を置き、それ以上の感情も抱いているタバサとでは、反応は違って当然であろう。

 術の真偽については疑わないが、あの天使のようだったシャルルが、自分が王位を継ぐと決まったときも欠片も嫉妬した様子を見せなかった弟が、今の自分がそうであるように陰で悪魔と取引していたなどとは信じられないのだ。

 彼のそんな態度のゆえに、自分はどうしようもない劣等感に苛まれ、血を分けた実の弟に対して殺意を抱いてしまったのだから。

 ディーキンの手にしている書類の筆跡は確かにシャルルのものだが、何かの冗談か、悪魔が巧妙に偽造して仕掛けた罠の類なのではないか、と疑わずにはいられなかった。

 

「ヴァルハラっていうのはあんまりよく知らないけど、イスガルドか、エリュシオンかセレスティアみたいなところかな? ディーキンも、そうだったらそれに越したことはないと思うの」

 

 残念ながら、まずそうはならないだろうとも思っているが。

 

「それじゃあ、やってみるね……」

 

 ディーキンはまずは貴重なスクロールを机に拡げ、その後ろに燭台を置いてろうそくを灯すと、ゆっくりと深い瞑想状態に入った。

 そうしてから、朗々と呪文を詠唱していく。

 

「……《フェイ インニュアド デ・ミン デ・スル デ・ケト ……》」

 

 詠唱が続くにしたがって、ろうそくの炎の上に鈍い赤色をした不気味な球状のもやがあらわれ、膨れ上がりながら、次第にくっきりとした姿を取り始めた。

 タバサとジョゼフとは固唾をのんで、そのもやを食い入るように見つめる。

 

 一方、ディーキンは途切れることなく詠唱を続けながらも、わずかに顔をしかめた。

 予想はしていたことだが、呪文によってあらわれたもやの色が、かつて自分が『ママ』を呼び出してもらったときとは明らかに違うのだ。

 あの時はもっと美しい、清浄な純白の光がろうそくの上に浮かび上がっており、呪文が完成したときにその光の中から、エリュシオンにいた彼女の魂が姿をあらわした。

 もやの色の違いは、すなわち呪文によって対象の魂を呼び出すために一時的に開かれたゲートのつながっている先が、あの時とはまったく性質の違う別の次元界であることを意味する。

 

 やがて、ついに呪文が完成すると、もやは大きく開き、その向こうから地獄に漂う硫黄の臭気と共に、一体の人影が姿をあらわした。

 それを見た背後の二人が、目を見開いて同時に声を上げる。

 

「シャルル!」

「父さま!」

 

 彼らの声には、感動、驚き、悲痛などの感情が、複雑に混ざり合っていた。

 もやの向こうにわずかにかすんで見える、ゲートの奥のその姿は、彼と近しい存在だった二人にとっては、確かにかつてのオルレアン公シャルルのそれだと一目でわかるものだった。

 

 だが、なんと変わり果てていることだろう!

 

 四十を過ぎてなお青年のように瑞々しかった端正な顔立ちも、鮮やかな青髪も、やつれ果て、泥に塗れてひどく汚れてしまっている。

 肌はまるで黒ずんだゴムのようで生気が感じられず、顔つきは悲痛で、疲れ切ったような様子だ。

 着衣は汚れて痛み、あちこちが傷だらけで、石の床にへたり込んでいた。

 

 ディーキンには目の前の人物がシャルルであることはわからなかったが、それが『魂殻』と呼ばれている、バートルに堕とされた魂が変化して生まれ変わった存在であることはすぐにわかった。

 

『ここは……?』

 

 シャルルの魂殻は困惑した様子で、目の前に急に開けたゲートの向こうにある部屋、つまりはこちら側を見つめている。

 一体何が起こっているのか、わからない様子だった。

 

「父さま!」

 

 タバサはたまらず前に飛び出し、父に駆け寄ろうとした。

 けれど、こちらからはゲートを超えることができず、次元界の境界に遮られてしまう。

 

 ジョゼフも、同じように弟の名を呼びながら駆け寄ろうとした。

 けれど、シャルルの体にいまだに残る深い傷跡に気が付くと、はっと目を見開いて口をつぐみ、その場で足を止めてしまった。

 彼にはそれが、自分自身が放った毒矢が彼の体に突き立った跡であることがわかったのだ。

 その自分がどうして、実の娘を差し置いて弟に駆け寄ることができようか、と思ったのかもしれない。

 

 いずれにせよ、タバサにはそんな伯父の方を顧みる余裕もなく、彼女はいつになく感情をあらわにして顔をゆがめながら、一心にゲートの向こうにいる父に呼びかけ続けた。

 ディーキンもあえて父子の再会に水を差してまでそれを制止しようとはせず、彼女のすることを見守る。

 

「父さま! わたしよ! シャルロットです! わからないの!?」

『シャルロット……?』

 

 シャルルはまだ理解できないらしく、呆然として、そんな娘の姿を見つめ続けた。

 

(生前の記憶が、薄れているのかもしれない)

 

 タバサはそう考え、はやる気持ちを抑えながら、努めて冷静に、順を追って話そうとした。

 

 彼女は別に、多くを望んでいるわけではなかった。

 ただ、せめて父にこちらの近況を伝え、自分も母も元気であること、二人とも今でもあなたを愛しているということを伝えたいだけだ。

 そして、以前にどのような恥ずべき振る舞いをしたことがあったのだとしても、それを責めてなどいないことを。

 そのためにも、はっきりと自分のことを認識してほしかった。

 

「そう、シャルロット。あなたの娘です。髪は、切ったの」

 

 そう言いながら、眼鏡を外す。

 父が生きていた当時、十二歳だった頃の自分はまだ眼鏡をかけておらず、髪も伸ばしていたから。

 幸か不幸か、当時と体格はほとんど変わっていない。

 

「あなたは、ガリア王の息子でした。オルレアン公シャルルです。覚えていませんか?」

『ガリア……オルレアン……』

 

 俯いて思案に耽っていたシャルルはそこで、はっとした様子で顔を上げた。

 

『シャルロット?』

「父さま? 思い出してくださったのね!」

 

 一瞬、嬉しげに顔を輝かせたタバサだったが、父のひどく怯えたような様子に気が付いた。

 

『ああ、なんてことだ! お前は、こんなことをしてはいけなかったんだ!』

「ど、どうして?」

 

 そこで、耐えかねたようにジョゼフが駆け寄って、言葉を挟んだ。

 

「どうしたというんだ、シャルル。なぜ、お前がそんなありさまに!」

 

 シャルルは、痛々しげな顔つきをした兄の方に目を向けた。

 

『兄さん! ああ、兄さんがぼくを呼び出したのか? だめだ! やめろ、こんなことをしないでくれ! すぐにぼくを送り返してくれ!』

「いや、おれじゃない……、そんなことはどうでもいい。なぜだ? 教えてくれ!」

 

 娘や兄の質問に答える余裕もなく、シャルルは激しく頭を振って、悲鳴のような声で訴え続けた。

 

『もしできないのなら、シャルロットを連れて、すぐにこの場から……』

 

 そこまで言ったシャルルの体に、突然、背後から伸びてきた無数の鎖が絡み付き、そのまま奥の方へ引きずり込んだ。

 短い悲鳴を残して、彼の姿が赤いもやの向こうに消える。

 

「シャルル?」

「父さま!」

「シャルルさん!?」

 

 二人の身内と召喚者の叫びに応えたのは、それまでとはまったく違う声だった。

 

「愚かな定命の者どもが!」

 

 シャルルの発していた虚ろな声よりもずっと強い、邪な力を感じさせる声に、鎖のじゃらじゃらと鳴る音が混じっている。

 次いでもやの向こうから姿をあらわしたのは、二体のキュトン。

 九層地獄界において囚人を縛める、鎖の番人としての役割を持つデヴィルだった。

 

「バートルが囚人に課した幽閉を中断させ、牢獄から連れ出そうというのか? 定められた秩序に背き、我らの怒りを買いたいか!」

「こんな恐ろしい結果に、あえて挑戦するとはな! 貴様らも他の者どもと同じく、牢の住人となるがいいわ!」

 

 デヴィルどもは、口々にそう言いながら棘だらけの鎖を振り回し、ゲートを越えてこちらの世界に踏み込んできた。

 けれど、彼らの言葉など、俯いて身を震わせるタバサの耳には届いていない。

 

「――せ」

 

 わなわなと、タバサの肩が、杖を持つ手が、震えている。

 

「何ぃ?」

 

 怪訝そうにしていたデヴィルたちだったが、きっと顔をあげたタバサの目を見た途端にぎょっとして、思わず身をすくませた。

 

「返せ! 戻せ! 父さまを……!!」

 

 彼女の目には、純粋な怒りの炎が燃えていた。

 シャルルが生前に、どんな卑劣なことを考えていたかなど知らない。

 何を約束したかも関係ない。

 確かなことは、自分にとっては愛する父であるということ。

 それをあのような扱いにした者どもを、許しては置けないということだけだ。

 

 今のタバサは、ディーキンもこれまでに見たことがないほどに、いや、感情豊かな少女だったというシャルロット時代にも一度もなかったであろうほどに、激しい怒りで顔をゆがめていた。

 

「……放せぇぇっ!!!」

 

 心の底から叫びながら、大きく杖を掲げ、振り下ろす。

 

 それは、かつて『雪風』と呼ばれていた頃に心の中を冷たく吹き荒れていた静かな怒りとはまったく違うものだった。

 荒れ狂う怒りと激情が、彼女のメイジとしてのランクをさらに一段階、引き上げる。

 

「う、うぉぉおっ!?」

「ひぃぃ、なんだぁぁっ!?」

 

 これまでにないほどの数の氷の矢が瞬時に宙に現れ、見たことのない異界の呪文に戸惑うデヴィルたちを、対処する暇も与えずに串刺しにした。

 

「……」

 

 しかし、全身を刺し貫かれ、体が半ば以上ちぎれて氷結したにもかかわらず、その悪魔たちはまだぴくぴくと蠢いていた。

 タバサは怒りに任せてさらに追撃し、とどめを刺そうと杖を振り上げ……。

 

「覚えておけ、シャルロット。こいつらにはな、呪文ではとどめはさせんのだ」

 

 いつの間にか倒れたデヴィルたちの横にジョゼフがいることに気が付いて、はっとして手を止めた。

 ジョゼフは腰から銀の短剣を引き抜くと、かがみ込んで無造作に、手近にいたキュトンの心臓にそれを突き立て、首を掻き斬っていく。

 銀の刃で斬られたキュトンは、途端に黒ずんだ血の塊を吐き出して事切れる。

 

「こうして、銀製の武器を使わんとな」

 

 その時、まだ生きていたもう一体のキュトンがジョゼフの足元の鎖を操り、足首を絡めとって締め上げねじ切ろうとした。

 タバサは反射的に杖を振って、それを制止しようとしたが……。

 

「手出しは無用」

 

 確かに足首に絡み付いたはずの鎖は、気が付くと何も捕らえておらず、ジョゼフはいつのまにかそのキュトンの背後に回り込んでいた。

 はっとして振り向いたキュトンの顔面に銀の刃を突き立て、そいつにもとどめを刺す。

 息絶えたデヴィルどもは泡立って溶け崩れ、悪臭を放つ汚泥のような残骸に成り果てていった。

 

 その動きをまったく目視することも、風の動きで捉えることさえもできなかったタバサは、愕然とした。

 これこそは、『虚無』の呪文のひとつである『加速』によるものだったが、それは彼女にはわからないことだ。

 

「……アー……」

 

 二人の心情を思えば止めるわけにもいかなかったものの、ディーキンは困ったように視線をさまよわせた。

 

 キュトンどもをあっという間に倒したのは、確かに見事だったが。

 とはいえそんなことをしたからといって、デヴィルによって牢獄の奥深くに引き戻されてしまったらしいシャルルを取り返せるわけでもない。

 むしろ、面倒な恨みを買うことになってしまったかもしれない。

 はたしてもう一度彼と話すことができるだろうかと、ゲートの向こうに目をやったとき……。

 

「――それで、何かを成し遂げたつもりか?」

 

 先ほどのキュトンよりも遥かに恐ろしげな、雷鳴のように轟く威圧感のある声が、ゲートの向こうから響いてきた。

 次いで姿をあらわしたのは、ゆらめく炎のような邪悪なオーラと赤い鱗を全身にまとった、身の丈が人間の倍はあろうかという巨大な魔物だった。

 背にはコウモリのような翼が生え、長い鞭のような尻尾を生やしている。

 

 それはピット・フィーンド……時として『冥王』とも呼ばれる、九層地獄界でも最上位のデヴィルだ。

 

「地獄の秩序には傷ひとつつけることも叶わぬわ、愚かなモータルどもよ!」

 





魂殻:
 通常、バートルに堕とされた魂は、生前の姿を若干ゴムっぽくして泥で汚したような姿をしたクリーチャーに変化させられ、これを魂殻と呼ぶ。
魂殻は冷気や火への抵抗力を得るが、生前の技能や特技は何も保持していない。
また、生前に負っていたすべての傷や疾患は、そのまま保持している。
強力なデヴィルたちは、魂殻の姿をゆがめたり作り替えたりする生来の力を持っており、通常は見るからに痛々しい、人の尊厳を踏みにじるような姿に変えたり、地獄の領土に埋め込んで身の毛もよだつような芸術作品に変えたりする。
この魂殻を拷問して生前の人格を最後の一欠片まで引き剥がし、蛆に食わせて作り替えたのが、レムレーと呼ばれる最下級のデヴィルである。

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