Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia   作:ローレンシウ

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Second chapter: New adventure in Halkeginia
第四十九話 Amnesty and retaliation


ここは学院長秘書ミス・ロングビルこと、『土くれ』のフーケの私室。

部屋の主であるフーケの前には今、彼女の“主人”であるディーキンと、上司であるオスマンが立っていた。

 

フーケは先程ディーキンが出ていってから、酒を飲む許可が出たのをいい事に、彼のおいていったワインばかりか自室の酒もだいぶ乾した。

その中には、彼女自身が盗み出した高価な年代物なども含まれていた。

操られているとはいっても潜在意識下での不安や精神的な疲労は強く、飲んでいいといわれれば飲まずにはいられなかったのだ。

 

そうして床に空き瓶を散乱させ、机に突っ伏してぐったりしていた時に、部屋の戸がノックされた。

 

……そろそろ、舞踏会もお開きになっている頃だ。

そういえば食事や酒を持ってこようとか言っていたし、余り物でも持って私の“主人”が戻ってきたのだろう……。

 

フーケはそう考えて、ふらつく足で立ち上がると、部屋の戸を開けた。

 

そこに立っていたのは、案の定食事や酒瓶などをまとめた大きな包みを頭の上に乗せたディーキン。

だがそれだけではなく、彼の隣には、いささか複雑そうな顔をした学院長オールド・オスマンもいたのである。

 

フーケはオスマンのその表情を一目見て、彼が既に自分の正体をディーキンから聞かされているのだと悟った。

 

(やれやれ、これのどこが悪いようにはしないってんだい。

 私もいよいよ、年貢の納め時か……)

 

精神制御を受けた上にアルコールの回った頭には、感情の荒波が押し寄せることもなく。

彼女は他人事のように、ぼんやりとそう考えていた。

 

「ええと、お姉さん。何か羽織った方がいいと思うよ?」

 

ディーキンはそういうと、『見えざる従者』にベッドの脇に置かれていたガウンを持って来させて、フーケに差し出した。

 

今のフーケは、汚れた服を脱ぎ棄てて薄布の寝間着姿になっている。

最低限の生存本能と命令の遂行以外の欲求がほとんど欠落している以上、その振る舞いにいささかの不自然さが生じるのは避けがたい。

いくら酔っているにせよ、妙齢の女性がそんな格好のままで平然と来訪者に応対し、胸元を隠そうとすらしていないのだ。

観察力の鋭い者ならば、少し注意して見ればすぐに何かがおかしいと気が付くだろう。

 

うっすらと紅色に染まったフーケの白い肌は豊かな色香を湛え、茫洋としたその表情はあまりにも無防備である。

普段から彼女にセクハラを仕掛けているオスマンはしかし、そのあられもない姿に気が付くとすぐ顔を逸らして、ガウンを着るのを待った。

ちらちらと横目で様子を窺う、というような無粋な真似も一切しない。

女好きとはいえ、自分の意志で抵抗もできないような状態の相手に手を出すほど下衆ではないらしい。

 

「ふうむ、ミス・ロングビル、……ひとまず今まで通りそう呼ばせてもらうが……、大分飲んでおるようじゃな。

 ちと大事な話があるのじゃが、ちゃんと聞けるかね?」

 

オスマンは穏やかな声でそういうと、ガウンを羽織ったフーケを促して座らせ、自分も彼女と向かい合う席についた。

ディーキンは、立ったまま脇の方に控えている。

 

「さて、事情はここにおるディーキン君から聞いたが……。

 君の今後の処遇について、わしと彼とで話し合った結論を説明しよう」

 

オスマンは咳払いをすると、フーケの顔をじっと見て、言葉を続けた。

 

「本来ならば当然犯罪者として捕え、裁判にかけるべきところではあるが、彼がそれはやめてほしいと申し出てくれておる。

 君を裁判にかけて処刑や禁固刑などにすれば、罪のない君の身内や孤児までが路頭に迷うことになろう。

 わしも、それは望むところではない。君には随分と、世話にもなっておるしの」

 

未だに精神を掌握されているフーケは、無表情なままでその言葉を聞いていた。内心で、何を思っているのかは分からない。

 

「……とはいえ、いうまでもなく盗賊などを続けることを見逃すわけにはゆかぬ。

 だが、残念ながら学院の秘書の役職では、遠方にいる大勢の子を養えるほどの給金を出すのも難しかろう。

 かといってただ野に放り出せば、君は金を稼ぐために早晩盗賊に戻るか、それ以上にも悪い仕事に手を染めざるを得なくなるであろうな」

 

そこで一旦言葉を切ると、オスマンは促すようにディーキンの方に目をやった。

ディーキンが頷いて、フーケの傍にとことこと進み出る。

 

「オホン……。そこで、ディーキンの出番なの。

 ディーキンはあんたが盗賊の仕事を辞めてくれるなら、代わりに必要なだけのお金を稼げる仕事を紹介するよ。

 もちろん、あんたのことを死刑にする人たちに引き渡したりもしないの。どう?」

 

ディーキンはそう言って、じっとフーケの顔を見つめながら……。

彼女に施した《人物支配(ドミネイト・パースン)》の術を、解除してやった。

術の影響を受けたままでは彼女自身の正しい意思で判断を下すことはできないだろうから、当然のことだ。

 

フーケは二、三度まばたきをしたり、首を傾げたりして怪訝そうにしていたが……。

じきに自分が術から解放されていることを悟って、はっとした顔になった。

 

今まで術を掛けたままにしておいたのは、彼女が説明を終える前に自棄を起こして逃げようとしたり飛び掛かってきたりしないためだ。

彼女の杖はまだこちらが預かったままだし、既に学院長にも事情を伝え、彼女自身が書いた告白書まで押さえてある。

一旦こちらの提案を聞けば彼女も冷静になり、およそ事態を改善できる見込みのない無謀な行為に及んだりはしないであろう。

 

さておきフーケは、一時の戸惑いから回復すると、胡乱げな目をしてディーキンを睨んだ。

酒の回った頭を、一生懸命に働かせながら。

 

「……あんた、一体何を考えてるんだい?」

 

一方ディーキンは、それを聞くときょとんとして首を傾げた。

 

「ええと……、何をって、今言った通りだよ。

 ディーキンはあんたが盗賊の仕事を止めてくれるなら、代わりに――――」

 

「はっ、あんたを潰そうとした私の命を取るどころか、金になる仕事を紹介するだって?

 そりゃまた、何ともうまい話だね。酔い過ぎて、私の耳がおかしくなってるんでなけりゃあさ!」

 

フーケはディーキンの言葉を遮ると、肩を竦めて鼻を鳴らした。

そんな都合のいい話を素直に信じられるほど、恵まれた人生は送っていない。

 

「それが、君の地かね? ……ううむ、こりゃまた、見事に騙されておったのう……」

 

あの時居酒屋で尻を撫でても怒らなかったのも、わしに取り入って学院へ潜り込むための芝居だったというわけか……、

などとしかめ面で呟くオスマンの方に、冷たい一瞥をくれてから。

フーケはディーキンの方に向き直って足を組むと、不敵な笑みを浮かべて彼を見下ろした。

 

今の彼女の立場からすれば、相当に豪胆な態度だといえるだろう。

 

彼女とて元は高貴な貴族の生まれであり、堕ちぶれて歪んでいるとはいえ、相応のプライドがあるのだ。

我が身可愛さに人に卑屈に媚びへつらったり、顔色を窺ったりするのは、まっぴらごめんだった。

 

まあ、酔っているのでその影響も多少はあるのだろうが。

 

「……で、本当のところは一体何が望みなんだい。その仕事とやらで、私に何をさせるつもりさ?

 どうせこっちは受けるしかないんだ。さっさと教えてくれてもいいだろ、亜人の坊や」

 

ディーキンはちょっとむっとしたような顔をして、フーケを見上げる。

 

「坊やじゃないの、ディーキンはとっくに、ちゃんとした大人のコボルドだよ!

 ……ンー、やって欲しいことはね、お姉さんに何ができるのかにもよるけど……」

 

フーケは、胡散臭そうな、怪訝そうな目でディーキンを見つめた。

 

「何ができるかって?

 ふん……、まさか居酒屋で働いてた経験を活かして夜の仕事をやれなんてわけじゃないだろうね、大人の亜人さん。

 盗賊の経験を活かして、何か大きな金になるような、ヤバい仕事をさせようってつもりかい?

 お宝探しとか、情報収集とか、スパイの真似事とか……」

 

フーケの問いに首を横に振って少し考えると、言葉を続けた。

 

「そんなのじゃないよ、ええとね。

 たとえば、歌とか、踊りとか、楽器の演奏とか……。

 ディーキンが聞きたいのは、お姉さんはそういうのができるか、ってことなの」

 

 

「………はあ。あんた、本気で言ってるのかい?」

 

「もちろんなの。ディーキンはしらたまさんと同じくらい真剣に、あんたを勧誘してるよ」

 

「知らないよ、そんな名前。……ったく、」

 

ディーキンの話を一通り聞き終えたフーケは、大きな溜息を吐いた。

 

彼の提案は、要するに「今自分が働かせてもらっている、『魅惑の妖精』亭という居酒屋で一緒に仕事をしないか」というものだった。

最初フーケは、所詮は世間知らずな亜人かと、その提案を一笑に付そうとした。

居酒屋で働いていた経験もある彼女には、そんな仕事で大勢の孤児を養うだけの仕送りができるはずがないと考えたのだ。

 

ところが彼が言うには、その居酒屋は客層がよく、給仕をしている少女たちは、非常に高額のチップをもらっているのだという。

まあ所詮はチップ、高いと言ってもたかが知れているだろう、と最初は思ったのだが……。

なんとその店でトップの人気を誇る少女などは、繁盛期にはものの一週間で百エキューを優に超えるチップを稼げると自慢しているらしい。

 

最下級の貴族であるシュヴァリエに与えられる年金は、おおよそ五百エキューほど。

自給自足の農村部などは別として、必要品を店で購入する生活を送っている市民ならば、一人あたり年間百二十エキューほどは必要になる。

平民の一家四人が、まずまず不自由なく暮らせる額だ。領地を持たない、下級貴族の収入はそんなものである。

だというのに、かきいれ時とはいえものの一週間で、それもチップだけで百エキュー以上も稼げるとは。

それなら確かに盗みなしでも、どうにか孤児たちを養えるだけの収入が得られるかもしれない。

自分が勤務していた大衆向けの安酒屋とは、えらい違いであった。

 

ディーキンはさらに、自分は毎日店で働いているわけではないが、出勤したときは主に詩歌などの芸を披露して、相応に人気を博している。

自分が店に出る日には、一緒に歌や演奏や、演劇などの芸を客に披露しないか、とも持ちかけた。

 

「お姉さんは貴族だったんだから、きっと楽器とかダンスとかもいくらかはできるでしょ?

 それにきれいだし、演技力やアドリブも凄いと思うの。ディーキンも小屋ではすっかり騙されて、ゴーレムに一発殴られたからね。

 あんたならきっとチップがいっぱいもらえると思うし、ディーキンと芸をしたら、もっと大人気になって、もっともっとお金を稼げるよ!

 もちろん、スカロンさんに頼んでみないとわからないけど、あの人なら駄目だとは言わないはずなの」

 

さらに、万が一上手く軌道に乗らなくてお金が不足するようなら多少は援助もできるといって、手持ちの金を見せてくれた。

金貨に延べ棒に宝石類などで、数千エキュー分は軽くあった。

フーケは当然驚いたが、よく考えてみれば、確かにこいつならそのくらいの金は稼げそうだとじきに納得した。

 

「わしも、なかなかよい話だと思うぞ。君がいなくなるのは寂しいが、酒場で給仕をするのなら、飲むついでに顔を見に行けるしの」

 

そんなことを言うオスマンの方を半目で見てから、フーケはどうしたものかと考え始めた。

 

命を助けるからには相応の条件を突き付けるつもりだとばかり思っていたが、どうもこいつらの様子から見て、冗談ではないらしい。

自分を殺そうとした、それも異種族に対して、よくもまあそんな態度が取れるものだと、安堵するよりも先に呆れた。

こいつは底抜けに人がいいのか、無邪気なのか、脳天気なのか……。

まあ亜人だから、人間とはそもそも考え方も違うのかもしれないが。

 

だとしても、学院長までがそれを承認しているあたりが、輪をかけて不思議だった。

こいつはたかが生徒の使い魔だ。それがなぜ、犯罪者を自分の判断で見逃すなどという戯言を認められているのか。

エルフもかくやというほどの力を持っているのは先に見たが、その力を背景に圧力をかけている、というわけでもなさそうだし……。

 

本当に、こいつは一体、何者なのだろうか?

 

(……まあ、考えても仕方ないか)

 

フーケは頭を振って、そんな答えの出ない疑問を一旦振り払った。

 

どの道、自分には受け入れる以外に道はなさそうだ。

こいつらの態度からして、断ったからと言って今更やはり官憲に突き出すなどと言われるとは思えないが、心証は悪くなるだろう。

断った後のアテがあるわけでもないし、それに話を聞く限りでは、条件も悪くない。

 

酒場で客の気を引くのには慣れている。別に今更、大した苦痛とも思わない。

この亜人の詩歌の腕前が素晴らしいのは知っている。一緒に芸をやればその演奏を傍で聞けるし、きっと金にもなる。

盗みを止めねばならないのは痛手だし、もう貴族どもを悔しがらせてやれないのは残念だ。

しかし、とりあえず安全で落ち着いた暮らしができて、それでいて当面必要な金も手に入るのならば……。

 

「分かったよ、なかなかいい話じゃないか。その仕事、受けるよ」

 

「オオ、受けてくれるの? どうもありがとう、ディーキンはお姉さんに感謝するよ」

 

嬉しそうに頭を下げるディーキンに、フーケは苦笑した。

どう考えても望外の扱いを受けているのはこちらの方だというのに、感謝とは。

一体どこまでお人好しな考え方をしているのか。

 

「こちらこそ、私のようなものに寛大な処置を頂き、感謝します。

 ディーキンさん、それに、オールド・オスマン」

 

フーケは言葉遣いを丁寧にすると、2人に礼儀に則って御辞儀をする。

 

秘書ミス・ロングビルの覆面を被り直したというわけではなく、貴族マチルダ・オブ・サウスゴータとして感謝したつもりだった。

まだ何も裏が無いと完全に信じたわけではないが、これだけ寛大な処置を受けたのだから、とりあえず礼は言っておかねばならないだろう。

 

その後は、ディーキンとオスマンとマチルダとで部屋の机を囲み、ささやかな宴が催されることになった。

 

ディーキンもオスマンも、決してマチルダの過去の行いに言及して咎めたり、何か探りを入れたりするような無粋なことはせず。

純粋に舞踏会に参加できなかった彼女を楽しませようと、たわいのない笑い話をしたり、互いに歌やダンスを披露したり。

 

そうして、終始和やかな雰囲気で、夜は更けていった……。

 

 

 

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舞踏会の片付けも終わり、皆が寝静まった真夜中の学院。

 

タバサは一人とぼとぼと、2つの月の明かりに照らされながら、中庭を歩いていた。

いつも通り無表情ではあったが、どこか沈んだような、それでいて、内に何か激しいものを秘めているような、そんな様子であった。

 

ディーキンは舞踏会が終わる頃、参加できなかったミス・ロングビルのために、食事などを届けて様子を見てくると言い出した。

ルイズらも同行を申し出たのだが、彼は明日も授業があるし、もう遅いから自分だけで、と断ったのである。

 

さて、タバサは当然、それを聞いて、ディーキンに密かに声を掛けるよい機会だと思った。

だからディーキンが出ていった後、自分も早々にルイズらと別れると、彼の後を追ってロングビルの私室の方に向かった。

彼には是非、聞いておきたいことがあったからだ。

 

タバサがディーキンを発見したとき、彼はいつの間にかオールド・オスマンと合流して、物陰で何か話していた。

流石に学院長と話している最中に割り込むわけにもいかず、彼女は足を止めて待った。

 

だが、途中で何か様子がおかしいことに気が付いた。

 

その時、オスマンはディーキンから受け取ったらしい羊皮紙の束を読んでいたが、ただならぬ厳しい顔付きをしていたのだ。

そして、2人で手近の空き教室に入っていったきり、しばらく出てこなかった。

 

タバサは少しためらったが、好奇心が勝り、そっと部屋の傍に寄って聞き耳を立ててみた。

そして優秀な風メイジである彼女には、部屋の中での2人の会話の大筋を、しっかりと聞き取ることができた……。

 

(……私には、わからない)

 

今、タバサの胸の中には、もやもやとした不快な感情が渦巻いていた。

 

自分を殺そうとした相手を、法律違反を犯してまで許すなど。

どんな事情があったか知らないが、そのために非の無い他人を殺していいわけがない。

同情の余地はあろうとも、そこまでして助ける必要がどこにあるというのか?

 

(彼は、甘すぎる)

 

彼女は、身内に対する復讐心で動いている。

 

タバサの叔父は魔法が使えず、優秀な弟に対する憎悪と王の座に対する欲望から、彼女の父を殺した。

しかもタバサの母を薬で廃人にし、それを人質に、彼女に従姉妹が命じる気まぐれの“任務”に命がけで従うことを強要しているのだ。

少なくとも、タバサはそう信じている。

 

彼女にとって、叔父は絶対に許すことのできない相手だった。

フーケだって、貴族社会に対する復讐心で動いていると言うではないか。

 

別にタバサには、フーケが処刑になろうがなるまいが、正直言ってどうでもよかった。

自分と無関係な盗賊の運命などに、そこまで興味はない。だから今立ち聞きしたことを、誰かに密告するようなつもりもない。

だが、逆恨みで貴族全般に牙をむくような凶賊に過剰な情けをかけたところで、いつかは裏切られるに決まっているとは思う。

そんなに世の中は甘くはないのだ。優しくさえすればきっと改心するだろうなんて、幼稚な子供の幻想に過ぎない。

 

なのに、あの亜人ときたら……。

 

(あれは、現実が見えていない、ただの子ども―――)

 

……いや、だが。

本当に、そうなのだろうか?

 

彼は、自分も気付けていなかったフーケの正体に気が付いていたのだ。

しかもそれを、未知の魔法を用いたとはいえ自分たちに気付かれる事もなく、一人だけで密かに捕えていた。

先日シルフィードを助けに向かった時も、武器屋などでも、ずいぶん慣れた様子を見せていた。

 

世間知らずな亜人の子だなどと、いまさら本気で信じられるわけがない。

それは、自分を騙しているだけだ。

 

しかも、学院でももっとも人生経験豊かな学院長までが、彼の提案を肯定していた。

 

結局彼には、自分にはまだ見えていないことが見えているのかもしれない。

彼は私よりもいろいろなものが見えていて、賢くて、強い―――。

 

「……違う」

 

タバサは僅かに顔を歪め、その考えを振り払うように首を振ると、そう呟いた。

今の彼女の顔には、キュルケでさえこれまで見たことないくらい、内心の感情がありありと浮き出ていた。

 

彼は鋭く、機知に富み、賢い。それは認めねばならない。

だが無垢で、単純で、すぐに人を信じる甘い面をたびたび見せる。

いくら頭が良くても、そんな純粋な者は、それこそ冒険生活などで生き延びれるとは思えない。

なのに彼は、仲間と共にあちこちを旅してきたという。そして、こうして生きている。

 

何から何まで理にかなっていないように、タバサには思えた。

タバサにとって、無垢さや純粋さは、賢明さや生存の才とは両立しないものなのだ。

それは、自分がガリアの公女シャルロットから『雪風』のタバサになった最初の任務の時に、ある女性から教わったことだった。

 

強さとは、本来は長期間の積み重ねで鍛えるもの。日々の鍛錬の積み重ねがものを言う。

数多くの犠牲を払い、命懸けの実戦を潜り抜ける過酷な日々を送ることだけが、そんな年季の差を埋め合わせてくれる。

彼女自身、強く賢くなるために、そして生き延びるために、僅かな期間の間に驚くほどの早さで、それらを犠牲にしてきたのだ。

 

純粋さ、朗らかさ、平和な日々、満ち足りた生活………。

他にも沢山、もっと沢山。

 

自分が生き延びるために支払わなければならなかった、そんな数多くの代償を、彼は一度も支払ったことなどないように見える。

どこまでも明るく、社交的で、親切で……、今の自分とは正反対だ。

純粋な者が嫌いだというのではないけれど、そんな者が自分よりも賢く、強いなどとは、信じられない。信じたくない。

 

しかも、彼は心底憧れる“英雄”に出会ったのだ、という。そのお陰で、今の自分があるのだと。

自分だって、そんな“英雄”に救われたかった。御伽噺の『イーヴァルディ』のような勇者が自分の元にも来てくれたら、と思っていた。

どうして、彼にばかり。

 

――――もちろん、タバサの中の冷静な部分は、そんなことを考えても埒もないのだと理解している。

ディーキンには何の非があるわけでもないことも、わかっている。

所詮、こんなものはただの醜い妬み、僻みの類ではないか。

彼には恩義もある。そんな相手に対してこんな感情を抱くなんて、貴族にあるまじき賤しい心根……。

 

それでも、どうしても認めたくなかったのだ。

 

彼を見ていると、自分の歩んできたタバサとしての人生を、否定されているようで。

なのに、彼の傍は居心地がよくて、暖かくて。

それに身を委ねきれば、自分はきっと弱くなって……、今までの辛苦も、無駄になってしまいそうで。

 

同じ友人でも、キュルケに対してはこんな気持ちになったことはなかった。

 

キュルケ自身に聞けばきっと、それは私はあなたと同じ女で、彼は男だからよ、とでもいうのだろうが……。

彼女とは、以前に軽い手合わせをした時は互角だったけれど、結局は命懸けの実戦でなら絶対に負けない自信があるのだ。

知識でもずっと上なつもりだ。負けている部分もあるけれど、それは彼女の方が年上なのだから、ある程度は仕方がないだろうとも思う。

 

では彼には、自分は勝てるのだろうか。

 

彼は、生まれつき強い亜人なのかとも思ったけれど、そんなことはないという。むしろコボルドは人間よりも弱い種族だと。

シルフィードと同じく、見た目に反して年長なのかとも思った。けれど、はっきりした年齢は覚えていないが多分大差ないだろうという。

 

自分は、希代の天才メイジと言われた父の子で、父譲りの才があると言われてきた。

事実、これまで同年代の子の誰にも、引けを取ったことはない。

相手は人間ではなく亜人だとはいえ、そういう意味でも、負けたくはなかった。

 

(私は、彼よりも強いはず……!)

 

タバサは自分にそういい聞かせると、父の形見の杖をぐっと握りしめた。

 

こうなったら、明日の朝にでも、彼に一度、勝負を申し込んでやろう。

渋るようなら、脅すようで嫌だが、フーケの話を立ち聞きしたことを仄めかしでもすればいい。彼から話を聞き出すのは、その後だ。

そうだ、負けた方は勝った方の要求をひとつ聞くこと、とでも言ってやれば、頼みごとだってしやすくなるだろう……。

 

頭の中でそんな考えを弄びながら、タバサはひとまず自室の方へ戻っていった。

今の自分が、彼女の従姉妹であるイザベラがしばしば向けてくるのとよく似た目をしていることに、タバサは気が付いているのだろうか。

 

そして、そんなタバサの姿を、ガリアからの伝令である一羽の大烏が、暗闇の中からじっと見つめていた……。

 


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