Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia   作:ローレンシウ

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第八十五話 Welcome party

「天使……とな。はてさて、確かに当学院では最近、そのような噂が流れておるようですのう……」

 

学院長オールド・オスマンは、長い白髭をさすりながらゆっくりと頷いた。

 

「……しかし、よもや日々の政務に忙しいお二方が、そのような噂話を聞いたと言うだけで当学院にわざわざ足を運ばれたという訳でもありますまいな?」

 

アンリエッタ王女とマザリーニ枢機卿との顔を交互に見つめながら、さりげなく質問をして探りを入れてみる。

 

仮に2人が本当にゲルマニア帰りに学院へ何気なく巡幸に立ち寄っただけで、この質問が純粋に興味本位のものであるならば、適当にごまかしてもなんとかなるだろうと思えた。

しかし、もしもこちらの方が本来の目的で、巡幸がついでだったとするならば……。

 

はたして、アンリエッタ王女は首を横に振った。

 

「いいえ、オールド・オスマン。この際、何もかも正直に申し上げますわ。

 私は、その天使にお会いしたいのです」

 

マザリーニもそっけなく頷いて、彼女の言葉を肯定する。

 

「さよう……、まことにお恥ずかしい話だが。

 トリステインが現在アルビオンのけしからぬ革命家気取りどもによって苦しい立場に置かれていることは、あなたもご存じだろう。

 それゆえに我々は今、真剣に始祖の助けを必要としているのだよ」

 

枢機卿はそう言ってから一息おいて、最後に付け加えた。

 

「とはいえ……、もちろん天恵がないのであれば、諦めて人事を尽くすより他にないでしょうがな」

 

「ははあ、なるほど……」

 

オスマンはそういって頷きを返しながら、胸の内で思案を巡らせていた。

 

確かに天使は神の御遣いとして始祖ブリミルがハルケギニアの地へ降臨するのを見守り、支えた存在とされている。

そうであるならば、今まさに窮地に陥っている始祖の末裔たちを救いにきてくれるのではないかと、希望をかけているというわけか。

 

(さて……、どうしたものかの?)

 

オスマンは、どのように返答したものかと悩んだ。

 

確かに、ここにはラヴォエラという名で呼ばれる天使が滞在している。

あいにくと彼女は始祖ブリミルとは縁もゆかりもなさそうだが、しかし人助けを頼めば、快く力を貸してくれそうな人物ではある。

 

しかし……、はたしてそれを、正直に伝えてよいものかどうか。

 

(姫殿下が天使に求めそうなのは……。

 アルビオンに向かって始祖の加護は未だ王室の側にありと示し、革命軍を叩き潰してアルビオン王家を救って欲しい、とでもいったところか?)

 

確かに天使は伝説上の存在なわけだから、それだけの力を持っている可能性も絶対にないとは言い切れまい。

 

だが、ごく当たり前に考えれば、それはいささか望み過ぎというものであろう。

仮に天使とやらに最強の妖魔と呼ばれるエルフの数倍の力があるものとしても、単身で数万の軍勢を打ち破って戦に勝つことなどおよそできようはずもない。

 

とはいえ、世間知らずな姫殿下はいざ知らず、枢機卿ともあろう者ならば無論そのくらいのことは分かっていよう。

そうなると、より現実的な線としては……。

 

(敵軍の前で天使の存在を示してその大義を揺るがせ、アルビオン王家の亡命を助けて欲しい、といったあたりが妥当か?)

 

単身で軍の打倒はできずとも、確かに天使だと思える存在が王家を助けたとなれば、始祖の加護は自分たちの側にあると主張しているレコン・キスタ革命軍の大義は根底から揺らぐことになる。

 

しかもそうなれば、滅びかかっているアルビオン王家の亡命者を受け入れて助けてやるだけの価値もでてこようというものだ。

現状では内憂も払えぬような衰えた王家の生き残りなどは受け容れたところで厄介事の種にしかなるまいが、そのような状況になれば話は俄然変わってくるだろう。

 

(……ふむ。始祖の導きによって難を逃れたアルビオンの王家とトリステインの王家とが、手を取り合って反乱者どもに挑む、か……)

 

なかなか悪くない筋書だ。

 

もしそうなれば、敵軍の士気は目に見えて衰え、自軍のそれは大いに高まるはず。

姫殿下にしても、縁戚関係にあるアルビオン王家をなんとかして救ってやりたいと考えていることだろうし……。

 

(といってもまあ、鳥の骨の方はそもそも、最初からあまり本気で期待してはおらんようだがの)

 

確かに、天使だのなんだのと突拍子もない、都合のいい噂話を、一国の国政を担う枢機卿ともあろうものがそうそう信じられるものではあるまい。

それがごく当たり前の、現実的な判断というものであろう。

 

もっとも今回ばかりは、その都合のいい夢想の方が正しかったというわけだが……。

 

「……こちらの事情はそういったわけで、わかっていただけたかと思うが。

 それで、実際のところはどうなのですかな?」

 

考え込んでなかなか答えを返してこないオスマンに、枢機卿が訝しげな様子で声をかけた。

 

「ん? ああ……、失礼。

 よい陽気なのでな、ついうとうととしておりましたわい。ほっほ……」

 

とぼけて暢気そうにそう返しながらも、オスマンは忙しく頭を働かせていた。

あまり長く引き延ばして、変に勘繰られるのも拙い。

 

勿論オスマンとて、革命軍によってアルビオンが滅ぼされ、トリステインが追い詰められることなどを望んではいない。

もしもあの天使が本当に彼らの期待通りの活躍をしてくれるのならば、それはそれで結構なことである。

 

しかし、とはいえ……。

2人らをあの純粋で隠しごとをしようとしない天使などに会わせようものなら、彼女の口から何が漏れるか知れたものではない。

 

ことによっては、この学院には天使ばかりかそれを召喚した未知の亜人がいることや、その亜人の召喚者が名門ヴァリエール家の末娘であること……。

それにその末娘であるルイズの系統が『虚無』であることまでも、王宮の内部に知れわたってしまうかもしれない。

 

そのようなことになれば、「我が国には始祖の御使いたる天使と、始祖の再来たる『虚無』の担い手がいる!」などと調子に乗った王室の取り巻きのボンクラどもが、有頂天になって何をしでかすことか。

下手をすれば、かえってこの国が戦争に巻き込まれるきっかけを作ってしまうようなことになるかもしれない。

 

そうなると兵力不足のトリステインのこと、メイジの数を増やすために学徒動員の声がかかって、若い生徒らの多くが戦場で若い命を散らす、などということにも……。

 

(……そのような事態は、なんとしても避けなくてはならん)

 

そういうことになると王室は決まって、非常事態だからとか、大義がどうのとか、責任がどうのとか、今は戦う以外に道はないのだとか……。

あれやこれやとご立派な理屈を並べ立てて、批判や反論を許さないのである。

もうずいぶんと長いこと人生を歩んできたオールド・オスマンには、何度か覚えがあった。

 

だが、そんなものはくそくらえである。

 

オスマンにとっては、貴族としての戦場での名誉だのなんだのといったことや王室のありがたい理屈よりも、生徒たちの方がずっと大事だった。

この学院のかわいい教え子たちに、どうして人を殺して自分も死んで来いなどといえようか。

 

それに、迂闊なことをしてルイズが戦場に駆り出されるような事態にでもなれば、エレオノールをはじめヴァリエール家の者たちから恨みを買うことにもなりかねないのだし。

 

(うーむ……)

 

となるとここはひとつ、天使など知らぬ存ぜぬ、単なる噂話だろうと、とぼけ通して帰ってもらうべきだろうか?

 

しかしオスマンはすぐに、それはあまり良い考えではないだろうと思い直した。

確かにそれで、この場はしのげるかもしれない。

だが、既に天使の噂話がかなり広まってしまっている以上は、いつまでも隠しおおせるとは思えない。

 

いざ露見すれば、「アルビオンとトリステインの危機だというのになぜ姫殿下に嘘をつき、事実を隠していたのか」と、問い詰められることは避けられまい。

そうなれば、最悪自分は反逆者扱いされてしまうかもしれないし、長期的に見れば事態がますます悪い方向にも進みかねない。

 

となると、結局教えるしかなさそうだが……、さて。

 

オスマンは、とりあえずラヴォエラにいきなり会わせるのは避けたほうがよいだろうと考えた。

彼女の方はこのハルケギニアの事情に疎いし、王女らの方では天使という存在に対する幻想が先立っている。

下手をすれば話がとんでもない方向に広がっていきかねず、危険だと思えた。

それにオスマン自身、彼女がどういった存在なのか本当によく知っているわけではないのだ。

 

元を辿っていくならば、ラヴォエラはディーキンが召喚した存在であり、そのディーキンはルイズが召喚したものである。

となると、まずは大本である彼女に話を持っていくというのも、またひとつの筋の通ったやり方として考えられるが……。

 

それもまた、大いに危険なことだと思われた。

 

ルイズはトリステインの貴族であり、王室には忠義を尽くさねばならない立場にあるのだ。

それに、長年魔法が使えずに悩んでいたところへ、先日『虚無』という伝説の系統に目覚めたばかりときている。

迂闊にそのことを漏らすなと先日彼女の姉からも釘を刺されたばかりではあるが、とはいえ彼女はまだ若いし、貴族としての自負心も強い。

王女と枢機卿が自ら足を運んで助けを求めにきたとなれば、舞い上がって自分の力のことを明かし、それを王室のために捧げようなどと言ってしまうことも十分考えられる。

とにかく、現状では王宮の連中に天使だの『虚無』だのといったことをあまり不用意に漏らして、下手に刺激したくはなかった。

 

そうなると、そのあたりの事情を理解してくれて、うまく話をまとめてくれそうなのは……。

 

(やはり、彼しかおらんかの……)

 

オスマンはそこまで考えて、不意におかしな気分になった。

 

よりにもよって、得体の知れない亜人の使い魔などを王女に会わせるとは!

よく知らないものが聞けば、いくらなんでもおふざけが過ぎる、貴人に対する侮辱だと責められてもおかしくない。

 

(……ほっほ。いやはや、我ながらありえん選択をしておるものよのう……)

 

いまさらながら、客観的に見た自分の選択の珍妙さに気がついて苦笑する。

 

確かに、彼は容姿といい立場といい、普通に考えれば王女や枢機卿などといった面々に会わせるのにはまったくふさわしくないといえるだろう。

ところが、3人の中で一番安心して任せられる、こちらの考えを理解してうまく話を運んでくれそうだと思えるのは断然彼だというのだから、なんとも奇妙なことだった。

 

「……オールド・オスマン? どうしたのですか?」

 

アンリエッタ王女が、一向に話の続きをせずに妙な表情を浮かべているオスマンに、怪訝そうに声をかけた。

 

「ん……。おお、これは失礼しましたわい。

 いやはや、年をとると、考えをまとめて口に出すのにまで時間がかかるようになりましてな――――」

 

オスマンはそれから2人に、天使にすぐ会えるかどうかはわからないが、まずは自分が話を伺ってきましょう、と伝えた。

それを聞いたマザリーニは、いささか驚いた顔をしていたが……。

 

オスマンはそうして2人を待たせて退出すると、その足でディーキンがいそうな場所を探し始めた。

 

 

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その夜、アンリエッタ王女とマザリーニ枢機卿は、オスマンに連れられて学院の一角にある部屋に向かった。

ディーキンがいろいろな作業をするために、学院側から借りている部屋だ。

 

夜まで待ったのは、内密な話になるだろうからなるべく人目に付きにくいようにしたい、ということで双方の意見が一致したからである。

 

「オールド・オスマン。本当に、こちらの方に、その……、天使を呼び出したという方が?」

 

王女は、自分を案内してくれたオールド・オスマンの方を振り返って確認した。

その表情や声には、幾分当惑したような様子が感じられる。

 

「そのはずですな、彼はこちらで待つと言っておったので」

 

オスマンは、そういって頷いた。

 

そこは学院内でもごくみすぼらしい、使用人用の区画にある部屋だった。

 

作業の内容によっては部屋が汚れたり傷ついたりするかもしれないので豪奢な内装などは無用で、ある程度の広ささえあればそれでいい……とディーキンが注文したので、この部屋になったのである。

そのような事情を知らない王女からすれば、天使を呼び出すような『偉大な存在』には到底似つかわしくないと思うのも無理はあるまい。

 

オスマンは昼間の内にディーキンに話を通して、天使を召喚したのが自分であることは明かしてくれて構わない、という返事を既に受けていた。

あとは、向こうからの質問や要望にはこちらの方で考えて、その都度臨機応変に、いいと思うように対応してみるから……というのだ。

それ以上の細かな打ち合わせや取り決めなどは何もしていなかったが、オスマンは彼を信頼して任せようと決めていた。

 

「ふむ、謙虚な方なのでしょうな?」

 

マザリーニはそうひとりごちた。

聖人はあえて、貧しき者たちと共に荒ら屋に住まうという。

 

「何はともあれ、話してみぬことには……」

 

進み出て扉をノックすると、すぐに中から返事が返ってくる。

 

「アア、いらっしゃい。今開けるから、ちょっと待っててね……」

 

ややあって扉が開き、ディーキンが姿を現した。

客人たちにぺこりと御辞儀をする。

 

「お待たせして申し訳ないの、ディーキンはお客さんが来てくれてうれしいよ」

 

しかし、オスマン以外の客人は、彼の姿を見てたじろいだ。

 

「えっ……?」

 

「む……」

 

なにせ、人懐っこい奇妙な話し方をする上に、幼児のごとく小さいトカゲめいた姿の亜人である。

 

あまりにも意外で頼りになりそうもない相手が出て来たことに、アンリエッタはぎょっとした顔になった。

マザリーニもまた、眉を顰めてディーキンの姿を見つめている。

そんな2人の様子を後ろから眺めながら、オスマンは内心少し面白がっていた。

 

ディーキンは客人たちの困惑した様子を見て、ちょっと首を傾げる。

 

「ンー……、どうしたの? 入らないの?

 アア、もしかして、ディーキンの態度がお気に召さなかったとか?」

 

もちろん、自分の外見に困惑したという部分も大きいのであろうことくらいは承知している。

あらかじめ呪文で変装なり変身なりをしておくことも考えたが、それはやめにした。

そう言うごまかしは、後で露見した時にかえって印象を悪くしたり疑いを持たれたりする原因になりかねない。

 

要は、見た目が天使みたいな愛らしい少年でなくても、ちっちゃなトカゲの亜人だって捨てたもんじゃないということをわかってもらえばいいのだ。

 

ディーキンはコホンと咳払いをすると、その場に跪いて深々と頭を下げた。

そうして顔を伏せたまま、唐突に恭しい態度と口調になって、畏まった歓待の口上を述べていく。

 

「これは、大変失礼をいたしました。ようこそ、姫殿下、枢機卿猊下。

 今宵、高貴なる御二方にこうしてお運びいただきましたこと、ディーキン・スケイルシンガーはまことに光栄にございます――――」

 

ディーキンのそんな振る舞いを見て、オスマンは思わず吹き出しそうになった。

 

相手が一国の王女ともなれば、普通の者ならば緊張して、とにかく歓心を買いたい、不興を買いたくないと、何度も受け答えのシミュレーションや挨拶の練習をして備えておくところだろう。

あるいは権威に反発して、必要以上にぶっきらぼうで不敬な態度を取るような若者も、中にはいるかもしれない。

 

しかし彼ときたら、まるで気負いもなく普段通りといった感じではないか!

まあ、彼は人間ではないのだから、相手が王女だろうが侍女だろうが大して気負いも思うところもないのは当然なのかもしれないが……。

 

案の定、王女はどう反応してよいものかわからずにきょとんとしている。

 

「え? そ、その……」

 

枢機卿もしばし目を丸くしていたが、じきに立ち直るとディーキンの前に進み出て御辞儀を返した。

 

「おほん……。丁重なご挨拶、痛み入る。

 だが、本来頭を下げて頼みごとをせねばならんのはこちらの方なのです」

 

「はい、枢機卿猊下。願わくば、どうか、お訊ねすることをお許しくださいますよう――――」

 

ディーキンはまだ恭しい態度を維持したまま、顔を上げることなく、むしろますます深く頭を下げて尋ねた。

 

「姫殿下、並びに枢機卿猊下。

 今宵、わたくしはなにゆえに、かくも高貴なる方々の御来訪を賜るような光栄にあずかれたのでございましょうか?」

 

当然ながらディーキンは、こんな口調にはまったく慣れていないのだが……。

すらすらとよどみなく話している。

 

昔竜の主人に仕えていて、目上の者に対して這いつくばるのには慣れているから……というのもあるが、ディーキンはなにせ優秀なバードである。

要するに、お芝居の演技のつもりでやればいいだけなのだった。

 

ちなみに作法に関しては、主にアンダーダーク滞在中にナシーラから教わったドロウ社会のそれを参考にしている。

かの社会では、身分に劣る者は勝る者の前では決して許しなく顔を上げてはならないのだという。

ドロウの社会は野蛮で無慈悲な社会だが、外見的にはエルフの一族らしく洗練されているので、通じる部分も多いだろうと思ったのだ。

 

素直にここトリステインの宮廷作法に従うのが一番良いのかもしれないが、さすがにこちらに来て間もないので、しっかりとは把握していなかった。

まあ、なにせ自分は『異郷から来た亜人』なのだから、多少奇妙な部分があっても大目に見てもらえることだろう。

 

「あ……、ええ」

 

アンリエッタは我に返ると、こほん、と小さく咳ばらいをした。

それから、ドレスの裾を少し持ち上げて、ディーキンに向かって丁寧に頭を下げる。

 

「その……、大変失礼いたしました。

 紳士でいらっしゃるのですね、亜人のお方」

 

トリステインの宮廷における作法とはいろいろと異なってはいたが、明らかに礼儀正しくしようとしているのはわかる。

 

見たこともない異様な外見に思わず怯んでしまったが、マザリーニも言ったように、頼みごとがあるのはこちらの方ではないか。

まあ、この小さな亜人に、それを叶えるだけの力が本当にあるのかどうかは疑わしく思えるが……。

だからといって、相手が失礼のないようにしているというのにこちらが非礼を働くなどという法はあるまい。

 

「どうぞ、そんなに畏まらずに。お顔を上げてくださいな、ジェントルマン」

 

そう言ってディーキンの傍に跪くと、彼に向けてすっと左手を差し出した。

 

ディーキンはそれを聞いて顔を上げると、にっとした無邪気そうな笑みを浮かべてアンリエッタの顔を正面から見つめた。

それから、彼女の手を取ってぶんぶんと元気に握手する。

 

「あっ……?」

 

アンリエッタは、予想外な行動をされてまた少し驚いていた。

 

貴族なら、こういう時は恭しく手を取って手の甲に軽く接吻してから、そろそろと顔を上げて立ち上がるものだ。

しかし、ディーキンはハルケギニア人でもなければ人間でもないのだから、そんな作法は知らない。

 

というよりも、彼は今しがた『畏まらずに』といわれたのを言葉通りに受け取って、普段の態度に戻してよいものと解釈していた。

堅苦しいお芝居を続けるのも別に苦ではないし、それで相手に対して礼儀正しく振る舞うことになるのならそうする。

とはいえ、人と付き合う時にはなるべく自然体で振る舞いたいと思っているので、アンリエッタが畏まらなくていいと言ってくれたのはありがたかった。

 

「ありがとう、枢機卿のおじさんもお姫さまもいい人なの。

 それじゃ、どうぞ部屋に入って。

 お食事も用意してあるから、よかったら食べながらお話を聞かせてくれる?」

 

ディーキンはまだ少し困惑気味な2人の背を押すようにして、室内へ案内した。

微笑ましげに目を細めたオスマンが、その後に続く。

 

「……まあ!」

 

「ほう……」

 

「なんと」

 

勧められるままに室内へ入って、そこに広がる光景を見た3人から、またしても感嘆の溜息が漏れた。

 

部屋の作り自体は、ただ広いというだけでごく簡素なものでしかなかった。

しかし、そこにはどんな貴族の邸宅にも存在し得ない天上の歓待が用意されていたのだ。

 

軽く20人近くは座れそうなほど大きなテーブルと、そのまわりにずらりと並べられた椅子。

いずれも見事な彫刻や彫金、素晴らしい宝石、豪奢な絹などで美しく飾り立てられており、比べれば王宮の晩餐会用の品々でさえ見劣りするほどだった。

しかもそのテーブルの上には、これまた王族でさえ見とれてしまうような美酒美食の類が溢れんばかりに用意されている。

その傍らには給仕のお仕着せに身を包んだ女性が一人、行儀よく控えていた。

これがまた、貴族の一員だといっても通りそうなほどに凛々しく美しい、神々しささえ感じさせるような雰囲気を醸し出した少女である。

おまけに周囲の空間には、やわらかな温かみのある輝きを放ついくつかの不思議な光球がゆっくりと漂い、どこからともなく澄んだ音楽的な音色が流れている。

 

もちろんこれらはすべて、ディーキンが《英雄達の饗宴(ヒーローズ・フィースト)》の呪文や、幻術系統の呪文などを用いて用意したものである。

贅を尽くした御馳走と室内の神秘的な雰囲気とが相俟って、王女らにはまるで自分たちが天上界の神格・英霊たちが楽しむ饗宴の席にでも来たかのように感じられた。

さらに食事中には、部屋の主であるディーキン自身が楽器を手に取って美しい音楽を奏で、それに合わせて素晴らしい英雄の物語を歌った。

 

アンリエッタははじめ、ディーキンの姿に戸惑い、いささか失望を感じていた。

そんな彼女も、この幻想的な室内で寛ぎ、この世のものとも思えぬ最高の美食に舌鼓をうち、ネクタル(神酒)のような美酒を味わううちに、すっかり考えを変えていた。

現実主義者で、この度の訪問には初めから消極的だったマザリーニでさえも信じる気になった。

 

目の前のこの亜人には、確かに天上界の諸力と通じられるような何かがあるに違いない、と――――。

 


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