Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia   作:ローレンシウ

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第九十六話 Ubiquitous

「ちっ……」

 

 ワルドの『遍在』は、ラ・ロシェールのスラムを歩きながら、不快そうに舌打ちした。

 ここはいつ来ても、ごみとアルコールと安煙草の臭いがする。

 もちろん彼自身はつい先程作り出されたばかりで実際にはここに来るのは初めてなのだが、創造された時点での本体の記憶を有しているのだった。

 

 こんな屑どもの吹きだまりのような場所はできれば避けたいところだが、この街に拠点を構える革命軍関連組織の連絡役は、いつもこの場所で待つことになっているのだ。

 拠点の場所を教えてくれれば直接足を運ぶのだが、この街の連中はひどく用心深いらしくワルドのような他所者にはそれを明かそうとしないのである。

 それどころかどうやら拠点の場所自体も、用心のために定期的に変えているらしかった。

 

「どうしようもなく臆病な連中だな」

 

 ワルドは侮蔑心もあらわにそう吐き捨てた。

 

 彼の考えでは実力のある者はそれ相応の振る舞いをするべきで、慎重になることはあっても過剰に臆病になるものではない。

 したがってこの街にいるのは、大方が士気や実力の不足から戦場へお呼びのかからない組織の下っ端、ごくごく下等な連中であろうと踏んでいた。

 事実、ここにいる連中はアルビオンの戦場から逃げてきた傭兵や亡命者、それに街のスラムにたむろする貧民などを相手に麻薬を流すといったような、賤しくいかがわしい商売を行っているようだ。

 それが本業か、あるいは軍から命じられた諜報活動の傍らに利益を貪るために行っている副業かは知らぬが、いずれにせよ下賎の所業には相違あるまい。

 

 その下等な連中のおかげで、自分までこんな臭い場所へ足を運ばねばならぬ羽目になっているのだからいまいましい話だった。

 変装用に持ち歩いている白い仮面をつけていれば多少は臭いを防ぐ役にも立っただろうが、昨日捕まった傭兵どもの口からその容貌は衛視に漏れてしまっているので、さすがに同じ変装のままというわけにはいかない。

 結局、今は適当に調達したみすぼらしいフード付きの長衣を着込んで即席の変装をしていた。

 変装手段としてはスクウェア・スペルである『フェイス・チェンジ』を用いればより確実なのだが、高度な呪文ゆえに消耗が大きく、この程度の用事で使いたくはない。

 

 さっさと用事を済ませておさらばしようと、急ぎ足で取り決め通りの場所……スラムの十字路へ向かうと、そこには薄汚れた格好で壁に寄り掛かった男がいた。

 あたりには他に人影は見えないので、この男が今回の連絡役らしい。

 

「……」

 

 その男はワルドに気が付くと、ゆっくりと顔を上げた。

 ボロに身を包んだ麻薬の売人といった風情の男なのだが、僅かに見えるフードの奥の顔立ちは貴族でもまれに見るほど端正である。

 

 ワルドも黙って自分のフードをずらし、相手に顔を見せてやった。

 

 だが、男はじっとこちらを見ているだけで、自分から口を開く様子はない。

 以前にも顔を合わせた覚えがある男でこちらのことは十分に知っているはずなのだが……外見だけではあてにならないから取り決め通りの合言葉を言え、ということか。

 

(貴様らのような三下ごときが、慎重なのも大概にするがいい!)

 

 ワルドはうんざりして、内心でそう悪態をついた。

 麻薬などをさばいている以上用心深くなるのはまあ理解できるが、まったくもって仰々しいことである。

 

(ごろつきも同然の末端構成員の分際で、そんな手の込んだ罠を誰かに仕掛けられるとでも思っているのか?)

 

 よっぽどはっきり口に出してそう言ってやろうかとも思ったが、これから手を借りる相手の機嫌を無駄に損ねてもいいことはない。

 ワルドは心中の侮蔑を努めて押し隠して、小声で男と雑談のような合言葉を交わし始めた。

 

「……どこかで、『鴉が鳴いた』ようだな」

 

「ほう、聞こえなかったな。何度鳴いたんだ?」

 

「『2度』だ」

 

「そうか、何を狙ってこんなところへ来たのだろうな?」

 

「昔から、『鴉は死者の魂に群がる』と言うではないか。大方、俺と貴様の魂を狙っているのだろうさ」

 

 面倒な一連のやりとりを終えると、男は小さく頷いて壁から身を起こした。

 

「それは剣呑なことだな。見つからぬよう隠れるとするか?」

 

「ああ……」

 

 ワルドは肩をすくめると、フードをかぶり直して男の後に続いた。

 

(まるで子供の暗号ごっこだ。こんな下等な連中といつまでも付き合っているようでは、俺も革命軍の中での出世など到底望めんな……)

 

 なんとしてもルイズと彼女が回収しようとしている手紙とを手中にし、あわよくば王党派の重要人物の首級をあげて手柄を立て、早急に革命軍の中でもっと上の地位に昇らねばならない。

 そのためにこそ、不本意だが今は彼らの助力が必要なのである。

 

 ワルドが自分にそう言い聞かせて黙ってついていくと、男は手近のボロ屋に入り、奥の階段から地下へと向かっていった。

 地下室はごく僅かな家具が置かれているだけの殺風景な場所で、変わっていることといっては古びたコート掛けの上に大鴉がじっととまっていることくらいだった。

 

(奴の使い魔か)

 

 以前に会ったときもそうだったが、この男は目の前の相手が貴族であることを重々承知していながら萎縮した様子もなく、畏敬の念を示す気配もない。

 その賤しい役職や身形などからして貴族だとも思えないが、妙に整った容貌と不敬な態度はただの平民には似つかわしくないものだ。

 そのあたりから推して、おそらくは没落した家系のメイジなのであろうとワルドはあたりをつけていた。

 

 ワルドを中に招き入れて扉を閉めると、男は前置きもせずに不機嫌そうに話し始めた。

 

「……子爵。なぜ我々に無断で、街の外で傭兵などを使って騒ぎを起こした?」

 

 遠慮なくさっさと椅子に腰を下ろしたワルドが、肩をすくめる。

 

「ずいぶんと耳が早いな?」

 

「街の傭兵どもや衛視どもの動きくらいは把握していて当然だろう。胡散臭い仮面の扮装などせずとも我々に仲介を頼めば済んだものを、なぜそうしなかったのかと聞いている」

 

「ふん、貴様らはいわゆる慎重派で、行動が遅かろう? 急な用向きだったのでこちらで手配したのだ。それに、わざわざ頼むほどのことでもあるまいと思ったのでな……」

 

 ワルドの悪びれた風もない返事を聞いた男は、いらいらしたように部屋の中を繰り返し歩き回り始めた。

 ややあって、口を開く。

 

「……それで、結局うまくいかずに我々に話を持ってきたというわけか?」

 

 不躾に咎め立てるような物言いに対して、ワルドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 たかだかこんな連絡役の没落メイジごときにいちいち揶揄されるいわれはない、とでも思っているのだろう。

 その不遜な態度を見て、男はますますいらだちを募らせていた。

 

(貴様は、自分がどういう立ち位置にいるかわかっているのか?)

 

 革命軍側からすれば、ワルドはトリステイン王国内部に潜り込んだスパイ、しかも国の重鎮の傍近くにあって信頼まで得ているというかなり貴重な人材である。

 なればこそ僅かでも疑いを招くような不自然な行動は慎み、情報だけを送って実働はすべてこちらに任せておけばいいものを。

 今回のように関係のない仕事にまで手を伸ばして、不用意に出しゃばってこられては困るのだった。

 

 この男は、確かに有能な駒には違いない。

 だが、なまじ優秀なために与えられた駒の役割だけをただ黙々と果たし続けることに満足せず、他のことにまで手を伸ばして分相応以上の野心を抱いているようだ。

 その目的は直接的には革命軍内での評価を高めることによる地位の向上なのだろうが、背後にはあるいはもっと個人的な目的が隠れているのではないか……。

 

「……まあいい。それでお前の言う急な用向きというのはなんだ、子爵」

 

 連絡役は首を振って詮索を打ち切ると、ワルドの向かいの席に腰を下ろしてそう尋ねた。

 不満は多々あったが、いつまでこうしていても埒があかない。

 

「ああ。それなのだが、一昨日の夜にアンリエッタ王女とマザリーニ枢機卿から特別な任務が与えられてな――」

 

 ワルドは一昨日からの事の次第を、かいつまんで説明していく。

 もっとも、ルイズの『虚無』に関係したことについては触れずにおいた。

 彼はそれを革命軍には引き渡さず、籠絡して自分の手中に収めた後は重要な場面が来るまで秘蔵しておくつもりでいるのだ。

 

「――そう言うわけだ。この好機を逃す手はないことは、貴様にも分かるだろう?」

 

「……ふむ」

 

「俺はこのまま奴らに同行し、手紙を奪うとともに状況に応じて王族らの暗殺や、王城内への軍の引き入れなどの工作を行うつもりだ。だが、同行者の戦力が思ったよりも多いのでな……」

 

「アルビオンへ向かう前にそれを削いでおきたい、ということか」

 

「そうだ。明日出立の予定になっているが、ただの傭兵どもではどうも用が足らんようだ。今夜中に十分な戦力を集めて襲撃を手配してくれれば、俺はそれを食い止めるためと称して同行者の大半をここへ残らせるように話を運ぶ」

 

「……なるほどな……」

 

 連絡役はひとつ頷くと、思案顔でワルドの話を検討し始めた。

 

 確かに、それはなかなかうまい話が転がり込んできてくれたものだ。

 アルビオンの王家はどうあれ早晩落ちるだろうが、ワルドの工作で被害がより少なく速やかに陥落させられるなら無論その方がよい。

 トリステインとゲルマニアの同盟を破談に追い込めるかもしれぬ手紙というのもなかなか魅力的だし、それ以外の使い道が見出せる可能性もある。

 しかもワルドは正式な任務を受けて赴くわけだから、うまく作り話をこしらえて誤魔化してやれば、以後もスパイとしてトリステイン宮廷の内部に留まり続けることは十分可能だろう……。

 

 どうするかは自分が決定することではないが、上に通してやるだけの価値がある話には違いない。

 

「わかった、その話はひとまず“卿”のお耳には入れておこう。あのお方がお認めになったなら、夜までにはなにがしかの戦力を手配して連絡を入れてやろう」

 

「……どうせなら、この機会に俺が直接貴様らの上役に会って話を通すわけにはいかんのか?」

 

 この街の連中はその賤業から推して概ねが末端の下級構成員に違いなかろうが、とはいえここはアルビオンと下界との交通の要でもある。

 ならば、おそらく彼らを取り仕切っている“卿”と呼ばれる上役はそれなりの人物であるはずだ。

 まだ名前は知らないが、察するに王族を見限って革命軍についたアルビオンの上級貴族といったところなのではないか。

 これまでは相手の方が会おうとしてくれなかったが、今はこちらの手元にうまい話があり、向こうも一枚噛んで容易くそのおこぼれにあずかれるという状況である。

 この機会に知り合っておくことは、お互いにとって不利益ではあるまい……。

 

 そのように考えてのワルドの提案だったが、連絡役の男はちょっと眉を動かしただけで、にべもなく頭を振った。

 

(遥かな高座におわすあのお方が、なんで貴様のような地を這うウジ虫にお会いになるか)

 

 連絡役は心の中でそう嘲笑っていた。

 だがもちろん、口や態度にそれを表すことはしない。

 

「お前の話は魅力的だが、卿は用心深く検討した上で行動されるお方だ。取り次いだところで今すぐに会うことは承諾されまい。しかし、お前が拝謁を求めていたことは伝えておこう」

 

「そうか……」

 

 ワルドは俯いて、思わず口元に浮かんできた苦笑いを隠した。

 この街の連中がいちいち七面倒くさい形式にこだわったり分不相応に用心を示したりするのは、どうやらその上役の影響らしい。

 

(拝謁を許すだなどと、王族気取りか。小心者の分際で、自尊心だけは強いらしいな!)

 

 それなりの人物なのだろうと思ったが、この分では家格が高いだけの臆病者でしかないのかもしれぬ。

 そのせいでこのような、重要と言えば重要だがアルビオンの戦場からは離れた僻地へ追いやられたか、もしくは戦火を怖れて自分からそう志願したのか。

 いずれにせよ、慎重が過ぎて降ってわいた好機を自ら掴みに出てくる勇気もないのではおよそ出世のできる人物ではない。

 自分は兵を動かす許可を出しただけで実働はすべて部下がしたというのでは、上から得られる評価もたかが知れているだろうに……。

 

(その程度の人間なら、面識ができなくても惜しくはない)

 

 ワルドはそう結論すると、頷いて立ち上がった。

 

「よし。……では、街の傭兵どもは俺の方で手配しておこう。貴様らには、それ以外の戦力を用意してもらおうか」

 

 それを聞いた連絡役は、たちまち眉をひそめる。

 

「いや、待て。手配はすべてこちらでする、疑いを招くような行為は慎め。街でお前と人相風体の似た男が傭兵を募集して回っていたなどと、夜になる前に同行する連中の耳に入ったらなんとするつもりだ」

 

「……そこまで慎重になることも無いと思うがな。そのようなこと、せいぜい万に一つだろう?」

 

 連絡役はそれを聞いてかぶりを振った。

 

「子爵、例えば失火は万に一つしか起こらぬことだ。人生で一度あるかないかだろう。にもかかわらず、人間はみな寝る前に火元を確かめるべきだという。それは、失火が生涯に一度たりとも起こってはならぬことだからだ。違うか?」

 

 ワルドはその教師めいた訓戒に軽蔑したように小さく鼻を鳴らしたが、結局、肩をすくめて頷いた。

 

「わかったよ、ここでは貴様らの細心なやり方に従おう。では俺は、夜までのんびりさせてもらうぞ。滞在している場所はいつもと同じだからな――」

 

 そう言ったのを最後に、ワルドの姿は不意に薄れ始めて、すうっとかき消えた。

 同時に、地下室だというのに一陣の風が吹き抜ける。

 

「む……?」

 

 連絡役の男は、それを見て怪訝そうに顔をしかめる。

 

 風が止んだ後、ワルドの立っていた場所には彼がまとっていた薄汚れたローブだけが残っていた。

 どうやら『遍在』の呪文を解除したらしいと、男は一瞬遅れて理解する。

 他の着衣や所持品のように見えた物は実際にはすべて呪文によって創造された体の一部で、このローブだけが後から羽織ったものだったのだろう。

 

 確かに用が済んだ以上はこの場で消してしまう方が地下室から出て帰っていく姿を目撃される心配がないのでよいだろうが、そこまで用心深い男ではあるまい。

 大方高度な呪文を使っていたことを誇示して、自分の方が上なのだと示そうとしたといったところだろうか。

 

「……自信があるのは、結構なことだがな」

 

 連絡役のクロトートは、溜息を吐いた。

 

 あの男は確かに高い実力の持ち主ではあるのだろうが、どうも半端な計画や自己顕示欲などに基づいて行動するところがあるようだ。

 そのせいで、こちらの緻密な計画にまで支障を及ぼされなければよいが。

 ああいった手合いは本来ならば味方よりもむしろ獲物として歓迎したいところだが、多少の問題はあるにもせよ有用な駒である者を許可なく餌食として潰したりすれば上からの不興を買うことになるだろう。

 

 とにかく、あの男の要請を上に伝えてこなくてはなるまい。

 この後の予定が少々あったのだが、それは部下に任せておくことにしよう。

 

「イガーム」

 

「キキ……」

 

 名前を呼ぶと、コート掛けの上にとまっていた大鴉はすぐに鳴き声で返事をして彼の下にやってきた。

 クロトートは懐から小さな紙包みを取り出して、イガームに差し出す。

 

「俺は出かけるが、今日は傭兵崩れのボックに薬を届けてやる約束になっている。それを奴の家まで運んでやれ、場所はわかるな?」

 

 大鴉は頷いて、嘴でその包みを受け取った。

 クロトートは愉しげに口元を歪めて、部下に注意を与える。

 

「いつもより濃く作ってある、さぞや喜ぶことだろう。運ぶのが遅れて、痺れを切らした奴が自分で取りに来たのでは困るぞ。十字路に死体が転がっては少々面倒だからな」

 

 イガームもまた、嘴を歪めていやらしい笑みを浮かべて見せた。

 つまり、あの男はとうとう金が尽きて、薬と引き換えに魂を売ることに昨日のうちに同意していたというわけか。

 魂を刈り取る準備ができたならできる限り早期に収穫するのは当然である、魂が地獄に到着しないうちは手柄にはならないし、最悪の場合は後日獲物が改心して地獄行きを免れてしまう可能性すらあるのだから。

 

 これでまたクロトートの手柄が増え、部下である自分にも僅かながら功績の分け前が入ってくるのだ。

 自分があの男を堕とせればなおよかったが、しかし手柄を横取りするような真似をして上司の不興を買えば、かえって悪い結果を招いたかもしれない。

 いつか完全に寝首を掻ける用意が整うまでは、与えられた指示をきっちりとこなせるだけの能力は示しつつも、しかし己の地位を脅かすほどの能力や野心はないと上司に思わせておくのが最上だとイガームは理解していた。

 本来のインプ形態に戻る機会もろくになく、四六時中こんな畜生の姿をしていなくてはならない今の任務にはいささか不満はあったが、将来の出世が掛かっていることを思えば何ほどのことでもない。

 

 もちろんクロトートの方でも、表向きに示しているほど小さな野心しか持っていない部下などいないことはよく知っており、そのことを努々忘れてはならないと常日頃から自分に言い聞かせている。

 彼は短い留守の間にも部下に勝手な行動を取られぬようにと、その他いくつかの細々とした指示を与えていった。

 そうしていよいよ出かける準備が整うと、この機会に一緒に渡しておきたい報告書類などを鞄にまとめ、出口へは向かわずに目を閉じてじっと精神を集中させる……。

 

 次の瞬間、彼の姿はふっとかき消えた。

 その様子は先程ワルドの『遍在』が消えたのにも似ていたが、クロトートは分身体を消したのではない。

 

 内在する魔力を呼び起こすことで、空間を飛び越えたのだった。

 

 

 クロトートは澄み切った銀色の空と明滅する色彩の渦とが彩るアストラル界を通り抜け、物質界の距離を一瞬にして詰めると、自らの上司が現在滞在している拠点の前に到着した。

 

 頑丈な砦のような構造をしているこの拠点は、もちろんラ・ロシェールの街中にあるわけではない。

 ラ・ロシェールに駐留している部隊の指揮官である“卿”は普段はこのような離れた場所にいて、直接的な監視や活動については信任した部下に権限を委譲しているのだ。

 普段から頻繁に定命の存在に関わり合うような卑賤な行為は、矮小な者の義務なのである。

 

 クロトートは砦の入り口で、先程自身がワルドに対して要求したものよりもさらに複雑で緻密な手続きによって入念に身元を確かめられた後に中に入った。

 ようやく人目を気にする必要のない安全な砦の中に入ったことで一息つくと、まとっていた《変装(ディスガイズ・セルフ)》の効果を脱ぎ捨てる。

 人間の姿に偽ったままで貴人の目の前に出ることは無礼にあたるし、こちらの方が自分も落ち着くからだ。

 

 彼の本来の姿は全体的には依然として美しい人間のそれに似ていたが、犬歯は鋭く尖ってきらきらと光り、額からは小さな角が2本生えて、脚の先端は大きな割れた蹄になっていた。

 尻からは真紅の鱗で覆われた、先端が二股に分かれた尾が生えていて、蛇のようにシュルシュルと蠢いている。

 身にまとっていたぼろぼろの長衣は消え失せて、今では退廃的なまでに美しい装身具で飾り立てられた、豪奢な廷臣の衣装を優雅に着こなしていた。

 陰謀を張り巡らせて人々を堕落させ、その魂を刈り集めることから収穫者(ハーヴェスター)の名で呼ばれているデヴィル、ファルズゴンがその正体である。

 

 クロトートは許可が下りて謁見の間に通されると、上司の前に平伏した。

 

「感謝いたします。永久に滅ぶことなき鉄の都において、その名を知らぬものなき高貴なる卿が、卑賤なる私めの請願をお聞き届けくださり、永劫なるお時間の幾許かをお与えくださったことに対して――」

 

「よい」

 

 複雑な地獄の作法に基づいて上位者に対する長い挨拶を続けようとする部下を、卿は短く制した。

 

「大凡の事情は既に聞いた。急ぎの用件なのであれば挨拶はよい。顔を上げて話せ」

 

「はっ……」

 

 クロトートは畏まった様子で顔を上げると、上司の姿を見つめた。

 

 ワルドはこの人物のことを勇気のない臆病者と評したが、もしも間近で姿を見れば、すぐにその考えを改めたことだろう。

 彼は豪奢な衣装を身にまとい、立ち居振る舞いは正しく王族のように威風堂々としていて、一言も発さずとも自身が最も優れた存在だと言う自負を全身で示しているかのようだった。

 手には王錫のような長い槌鉾状の杖を握っており、鋼のような暗い色合いの長身で逞しいその体つきを見ただけで、この人物が優れた戦士であることは一目瞭然である。

 全体的には整った容貌をした壮年の男性のようではあるが、彼の頭部に生えた一対の小さな角と燃えるような赤い瞳がその本性が魔物であることを示していた。

 

「それでは、申し上げます……。つまらぬ人間の話でお耳を汚し、ご不快を与えることを今しばらくお許しください、ディス・パテル卿」

 


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