藤の代にて月を思ふ   作:藤代

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物語の始まり

波の音が聞こえる。

ざざん、と寄せて、ざざん、と引いていく。

夢の中にしては、やけに解像度の高い音だった。

 

まだ寝ていたい身体を無理やり起こす。

いつもなら、低血圧で布団と友達になっている時間だ。朝に勝てた試しなんてほとんどない。

 

なのに、今日は妙にすんなり起き上がれた。

 

「……ここ、どこ」

 

視界いっぱいに広がっていたのは、見慣れた天井ではなかった。

澄み渡る青空。白い雲。肌に触れる潮風。足元には砂。

どう見ても浜辺だった。

 

「いや、なんで?」

 

昨日はたしか、好きな作品を見返して、そのまま寝落ちしたはずだ。

ちゃんと布団に入ったかどうかは怪しいけれど、少なくとも浜辺で寝た覚えはない。

海辺でキャンプする趣味もないし、そもそもこんな場所に来た記憶がない。

 

立ち上がろうとして、ふと違和感に気づいた。

 

身体が軽い。

軽すぎる。

 

寝起き特有のだるさもない。関節の重さもない。

それどころか、少し動くだけで、体の奥が勝手に最適解を選んでくれるような感覚がある。

 

「なにこれ……」

 

声も違った。

 

普段より柔らかくて、少し高くて、可愛い。

自分の喉から出ているのに、自分の声じゃない。

 

嫌な予感がした。

 

近くの水たまりを覗き込む。

そこに映っていたのは、見慣れた自分の顔ではなかった。

 

今風のオシャレな髪色。

人目を引く整った顔立ち。

画面の向こうで何度も見た、あの子の顔。

 

「……あ、どうも」

 

思わず水面に向かって会釈した。

 

いや、違う。

挨拶している場合ではない。

 

「これが、私なのか……?」

 

そこに映っているのは、超かぐや姫!の綾紬芦花だった。

 

「可愛いな……」

 

自分でも場違いすぎる感想が口から漏れた。

いや、だって可愛いものは可愛い。

目の前の水面に推し作品の美少女が映っているのだから、そこだけ切り取れば普通に眼福である。

 

ただし、その顔が自分の顔になっているとなると話は別だ。

 

「夢じゃないよね。痛覚確認とかした方がいい? いやでもこのタイプの夢ってそういうの意味ない?」

 

ぶつぶつ呟きながら頬をつねる。

普通に痛い。

けれど、痛いという情報を処理する速度まで妙に早い。

 

頭が回る。

怖いくらい回る。

 

普段の自分がこんなに冷静だった覚えはない。

もっと混乱して、泣いて、叫んで、スマホを探して、圏外に絶望するくらいしてもいいはずなのに、脳が勝手に状況を整理していく。

 

綾紬芦花。

彩葉と同じ学校に通い、インフルエンサーとして活動しながら、ゲームも学業もこなしているハイスペック女子。

そんな彼女の身体だからなのか、処理能力まで本人準拠になっている気がする。

 

「これがハイスペJKの脳……」

 

ありがたい。

ありがたいが、状況が最悪すぎる。

 

腕に違和感があった。

視線を落とすと、手首にブレスレットがついていた。

見覚えがある。

ありすぎる。

 

かぐやと彩葉を繋ぐ、あの大切なもの。

ただのアクセサリーで済むはずがない、月由来の何か。

 

「なんでこれが私にくっついてるの……?」

 

その瞬間、頭の奥に何かがかすめた。

 

白い部屋。

解析不能の数式。

青白い光。

誰かが泣きながら、何かを叫んでいる。

 

――もう一度。

 

一瞬だけ、そんな声が聞こえた気がした。

 

「……なに、今の」

 

記憶、か。

少なくとも、自分の記憶としては知らない。

でも完全な幻覚とも言い切れないほど、妙に生々しかった。

 

だが深く考えようとして、やめた。

今は情報が多すぎる。

浜辺。

芦花の身体。

謎のブレスレット。

妙に冴えた頭。

そして、ここがもし本当に超かぐや姫!の世界なら。

 

「嫌な予感しかしないんだけど……」

 

原作を知っている。

それは一見、強みのようでいて、たぶん呪いだ。

 

物語には流れがある。

出会うべき人がいて、起こるべき出来事があって、積み重なるべき時間がある。

そこに本来いないはずの自分がいる。

 

これ、どう考えても原作ブレイカーでは?

 

「伏線とかストーリーとかあるでしょ。回収されないかもだけどさ……」

 

そんなことを呟いた時だった。

 

遠くから、何かが砂を這うような音がした。

ぺた、ぺた、と小さな音。

それから、震える声。

 

「……芦花?」

 

振り返った。

そこにいたのは、ウミウシだった。

 

ただのウミウシではない。

いや、普通はウミウシが喋る時点でただのウミウシではないのだけれど。

 

丸っこくて、妙に表情豊かで、泣きそうな顔でこちらを見上げている。

画面の向こうで見た姿。

小説で読んだ、あの場面。

 

「え、喋るウミウシ……ってことは」

 

喉がひゅっと鳴った。

 

「かぐや?」

 

その名前を呼んだ瞬間、ウミウシは弾かれたようにこちらへ飛びついてきた。

 

「芦花ぁぁぁぁぁ!」

「うわっ、ちょ、待っ、くっつく力つよ!」

 

小さな身体で、全力でしがみついてくる。

泣いている。

ウミウシなのに、ちゃんと泣いている。

そんな現実逃避みたいな感想が浮かんで、少しだけ笑いそうになった。

けれど、すぐに笑えなくなる。

 

この状態のかぐやを、私は知っている。

 

月へ帰った後、彩葉のもとへ戻ろうとして。

タイムスリップに失敗して。

隕石に衝突して。

はるか昔の地球へ落ちて。

もと光る竹――宇宙船は壊れていて。

そして、長い長い時間の果てに、ヤチヨになる運命にいるかぐや。

 

「芦花、芦花、夢じゃない?これ夢じゃないよね?芦花だよね?」

 

かぐやは何度もそう繰り返した。

見知った顔に縋っている。

たぶん、今のかぐやにとって私はそう見えているのだろう。

でも、違う。

私は芦花ではない。

少なくとも、私の意識は。

 

「夢じゃないよ」

 

そう答えると、かぐやは泣きながら笑った。

その顔があまりにも可愛くて、あまりにも切なくて、胸が詰まった。

 

「よかった……よかったぁ……」

 

ずっとひとりだったのだろう。

どれくらいの時間かは分からない。

けれど、この小さな身体で、壊れた宇宙船のそばで、帰れない現実を抱えていた。

 

画面の向こうで見た時は、設定だった。

泣ける場面だった。

綺麗な物語の一部だった。

でも今、目の前で泣いている。

 

「……あのさ、かぐや」

「なに?」

「かぐやは、戻るのに失敗したんだよね?」

 

かぐやの身体がぴくりと震えた。

 

「そうだよ。隕石に当たって、ここにたどり着いたの。もと光る竹……えっと、宇宙船も壊れてて、やっと身体を作れたのが、このウミウシだったんだ」

「そっか」

「芦花は?なんでここにいるの?どうやって来たの?彩葉は?真実は?みんなは?」

 

その問いに、すぐには答えられなかった。

分からない。

私にも何も分からない。

ただ一つ言えるのは、このかぐやが知っている芦花と、私は違うということだけだ。

 

「かぐや」

「うん」

「私は、かぐやの知ってる芦花じゃないんだと思う」

 

かぐやが固まった。

 

「……え?」

「説明がすごく難しいんだけど。今の身体は芦花に見える。でも、中身というか、意識というか、私は別の世界から来たっぽい」

「別の世界?」

「うん。そこでは、かぐやたちの話が……作品として存在してた」

 

少し迷ってから、言葉を選ぶ。

 

「アニメ、というか。映画、というか。小説もあって。私はそれを見て、読んで、かぐやたちのことを知ってた」

 

かぐやはしばらく黙っていた。

そして、目をまん丸にした。

 

「私、アニメキャラだったの!?」

「反応そこなんだ。ちなみに主人公は彩葉ね」

「彩葉が!?」

「まあ、ダブル主人公みたいなところはあるけど」

「やっぱり!かぐやも主人公だよね!」

 

切り替えが早い。

泣いていたかと思えば、次の瞬間には目を輝かせている。

この感情の振れ幅。

間違いなくかぐやだ。

 

「じゃあじゃあ、この先の展開も知ってるってことだよね?」

「知っては、いる」

「どうなるの!?」

「自分の物語ネタバレされていいの?」

「やっぱやめとく!?」

 

大声ではしゃぐかぐやに、つい笑ってしまう。

その笑いが少しだけ救いだった。

けれど、救われた分だけ、現実の重さも戻ってくる。

 

「あのね、かぐや。私はさ、原作を壊したくない」

 

自然と口から出ていた。

かぐやがこちらを見る。

 

「つい話しちゃったけど、私は本来ここにいない存在だと思う。だから、何かしたことで全部変わっちゃうかもしれない。良い方に行くとは限らない」

 

「……そっか」

 

「だから、できるだけ余計なことはしない方がいいのかもって」

 

言いかけた瞬間、かぐやがまた泣き出した。

 

「やだ!」

「え」

「いなくならないで!置いてかないで!やっと誰かと会えただけで、こんなに嬉しいのに、またひとりとか無理!ふ…じゃなくて、芦花じゃなくてもいいから、一緒にいて!」

 

その言葉に、妙な引っかかりを覚えた。

今、かぐやは何かを言いかけた。

手首のブレスレットが一瞬だけ熱を持った気がした。

 

「お願い。かぐやのこと知ってるなら、一緒にいて」

 

上目遣いで、泣きながら、必死に縋ってくる。

ウミウシモードでもその可愛さは天元突破していた。

彩葉の気持ちが少し分かった気がする。

 

「……分かったよ」

「ほんと?」

「うん。どこか行ったりしない」

「ずっと?」

「それは……」

 

言葉が止まった。

ずっと。

その言葉の重さを、私は知っている。

 

「ちなみに、失敗したかぐやって、このあとどうなるの?」

 

かぐやは小さく訊いた。

もう予想はしているのだろう。

それでも、聞かずにはいられないのだろう。

 

私は息を吸った。

 

「たぶん、あと数千年」

 

かぐやの顔から表情が消えた。

 

「……ぁ、ぁ……」

 

小さな声が漏れる。

それから、また静かに泣き始めた。

今度の涙は、さっきみたいな勢いのあるものではなかった。

ただ、絶望が少しずつ形になって、こぼれていくみたいだった。

 

私はかぐやを抱きしめた。

ウミウシの身体は小さくて、柔らかくて、ひどく頼りなかった。

 

「……大丈夫、とは言えないけど」

 

私の声も震えていた。

 

「ひとりにはしないよ」

 

その言葉がどこまで本当になるのか、私には分からなかった。

でも、その時の私は、そう言うしかなかった。

 

それからしばらく、私たちは海辺の近くで生活した。

生活、という言葉が合っているのかは分からない。

私は芦花の姿をした何かで、かぐやはウミウシで、住居も戸籍もスマホもない。

現代日本なら一日で詰む状況なのに、肉体の意味不明なチート性能のおかげで、意外となんとかなってしまった。

 

いや、なんとかなっていいのか。

普通におかしいだろ。

 

食べなくても死なない。

怪我をしても一瞬で治る。

身体能力も高い。高すぎる。

試しに砂浜を走ってみたら、自分の足じゃないみたいに体が軽くて普通に引いた。

 

「芦花すごい!」

「いや、これ私がすごいんじゃなくて体がすごいんだよ」

「でも動かしてるのは芦花だよ?」

「そういう褒め方やめて。ちょっと照れる」

 

かぐやはよく笑った。

そして、よく泣いた。

最初の数年は特にそうだった。

私が少し離れるだけで不安そうにこちらを見る。

眠る時もぴったりくっついてくる。

ウミウシなのに抱き枕みたいな距離感である。

 

いや、可愛い。

めちゃくちゃ可愛い。

でも、可愛いだけでは済まない。

 

私は知っている。

この子はこの先、何千年もひとりで生きて、たくさんの出会いと別れを繰り返して、やがてヤチヨになる。

画面の向こうで見ていた時は、綺麗な物語だった。

泣ける物語だった。

でも目の前で震えているかぐやを見ると、そんな言葉では済ませられなかった。

 

「ねえ、芦花。かぐや、いつかちゃんと帰れるかな」

「……帰れるよ」

 

嘘ではない。

原作通りなら、帰れる。

ただしそれは、あまりにも長い旅の果てで、たくさんのものを失った後の話だ。

 

「そっか。じゃあ頑張れるね」

 

そう言って笑うかぐやに、私は何も言えなかった。

原作を壊したくない。

でも、この子をひとりにしたくない。

その二つが、私の中で初めてはっきり矛盾した。

 

時間の感覚は、少しずつ狂っていった。

最初は一日、一週間、一ヶ月を数えていた。

けれど、数える意味がだんだん薄れていく。

 

季節が巡る。

草木が枯れて、また芽吹く。

人が生まれて、育って、老いて、死んでいく。

 

私たちは変わらない。

かぐやのウミウシボディも、私の芦花に似た身体も、ほとんど老いを見せなかった。

 

「やっぱり、この身体って普通じゃないよね」

 

ある日、私は自分の手を眺めながら言った。

 

「月人の技術で作られてると思う」

 

かぐやは当然のように答えた。

 

「やっぱりそう思う?」

「うん。人と違って歳も取らないし。そのブレスレットも、たぶん月のものだよ」

「つけてる経緯は全然分かんないんだけどね」

 

私は手首のブレスレットに触れた。

 

それに触れるたび、ときどき知らない光景が頭をよぎる。

研究室。

泣きながら笑う、知らないはずの女の子。

 

いや、違う。

知らないはずなのに、どこか懐かしい。

 

「月人に、別の世界の記憶が入ったとか?」

 

かぐやが首を傾げる。

 

「まあ、そういう感じなのかな」

 

自分でも曖昧な答えだった。

 

そもそも、この体は芦花なのか。

芦花に似た月人ボディなのか。

それとも、もっと別の何かなのか。

 

分からない。

分からないことだらけだ。

でも一つだけ、分かってしまったことがある。

 

「これで分かったことがあるね」

 

かぐやが少し明るい声で言った。

 

「なに?」

「芦花も、数千年生きててくれる」

 

私は黙った。

 

「最初は、人と同じ寿命で死んじゃうんだと思ってたから、めーっちゃ嬉しい!」

 

その顔は本当に嬉しそうだった。

だから私は、笑うしかなかった。

 

数千年生きる。

言葉にすると簡単だ。

でも、現代日本人として八十年くらいの人生感覚しか持っていない自分にとって、八千年は人生約百回分である。

正気で耐えられる長さではない。

 

記憶の負荷。

別れの数。

文明の移り変わり。

自分だけが取り残される感覚。

 

耐えられるのは、月人のような存在か、たまに生まれる超担当みたいな外れ値だけだ。

 

私はどう考えても平凡側の人間だった。

少なくとも、心は。

 

「……名前、考えたい」

 

ふいに、会話から逃げるように、私はそう言った。

かぐやが目を輝かせる。

 

「え、なになに?」

「芦花だとややこしいからさ。芦花じゃない私が名乗るのもね」

「うーん確かにそうかも」

「なんかいい名前の案あるかな?」

「オケオケ!かぐやちゃんが考えちゃうよ!」

「う、呼びやすいので頼みます」

 

かぐやってフシとか犬DOGEもそうだし独特のネーミングセンスだから、期待と不安が入り交じるが。

 

「藤代!」

「ふじよ?」

「うん。見かけた藤の花が綺麗だったからさ、名前にもらおうと思って」

 

とても綺麗な名前で私は少し驚く。

かぐやは、代は八千代の名前から貰ってるんだけどね、なんて続けた。

私は、その名前を口の中で転がすように何度か繰り返した。

 

「藤代……藤代。うん、いい名前。ありがとう」

「響きも綺麗だしかわいいでしょ!」

「別にかわいさで決めるわけじゃないけどね」

「でもかわいいよ。芦花もかわいいけど、藤代もかわいい」

「それは体がね」

「違うよ」

 

かぐやは、少しだけ真面目な顔をした。

 

「今ここにいるのは、藤代でしょ?」

 

その一言に、私は妙に言葉を詰まらせた。

 

私は芦花じゃない。

でも、完全に元の自分でもない。

この体で、この世界で、かぐやの隣にいる。

 

名前というのは、思っていたより重い。

借り物の身体に、ようやく小さな杭を打ったような気がした。

 

「じゃあ、藤代」

「なに?」

「これからよろしくね」

 

ウミウシの姿で、かぐやは笑った。

その笑顔があまりにもまっすぐで、私はつい目を逸らした。

 

「……こちらこそ」

 

こうして私は、藤代としてかぐやと生きることになった。

たぶん、数千年単位で。

いや、重すぎるだろ。

 

それでも、かぐやは嬉しそうに私の手首に身体を寄せた。

ブレスレットが、ほんの少しだけ温かくなった気がした。

まるで、その名前を覚えたみたいに。

 

もちろん、そんなはずはない。

そう思ったのに。

後ろに何かを感じて、思わず振り返る。

 

そこには、海と空と、私にくっついて眠そうにしているかぐやしかいなかった。

 

「藤代?」

「……ううん、なんでもない」

 

今はまだ、考えなくていい。

考えても分からないことばかりだ。

ただ、ひとつだけ決めた。

目の前のかぐやをひとりにはしない。

いつか矛盾するとしても。

私は藤代として、この子の隣にいる。

 

ここから始まるのは、私の知っている超かぐや姫ではない。

けれど、かぐやが泣いて、笑って、私の名前を呼ぶこの時間も、きっと物語の一部なのだと思いたかった。




藤代「月人ボディ、髪色変えられるみたいだし、髪の毛も藤色にしてみた」
かぐや「似合う!今度からそれにして!」
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