藤の代にて月を思ふ   作:藤代

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物語の始まり

ざざん、と寄せては、ざざん、と引いていく。

耳の奥を優しく揺らす波の音は、夢の終わりにしては、やけに解像度が高すぎた。

微かに鼻腔をくすぐる、生温かい潮の匂い。その気配に突き動かされるように、私の意識は暗闇からずるずると覚醒していく。

いつもなら、重度の低血圧である私の身体は布団とがっちり強固な同盟を結んでいるはずだった。朝という概念に勝てた試しなど、人生で片手で数えるほども無い。なのに、今日はどういうわけか、羽毛のように妙にすんなりと上体が起き上がった。

 

「……ここ、どこ」

 

視界いっぱいに広がっていたのは、見慣れた天井でも、液晶の光でもなかった。

どこまでも澄み渡る圧倒的な青空。ぽつりと浮かぶ白い雲。肌を優しく撫でていく、リアルな潮風。そして、手のひらにざらりと触れる、湿った砂の感触。

どう見ても、どこかの浜辺だった。地形の雰囲気からして、おそらくは日本のどこか。ただ、人工物が何一つ見当たらない、やけに原始的で古びた風景だった。

 

「いや、なんで?意味が分からないんだけど」

 

記憶を必死に手繰り寄せる。昨日はたしか、深夜にネトフリでお気に入りの作品をダラダラ見ながら、そのまま寝落ちしたはずだ。リビングのソファで力尽きることも多い適当人間なので、ちゃんと布団に入ったかどうかすら怪しいけれど、少なくとも浜辺で野宿するようなアグレッシブな趣味は持ち合わせていない。

パニックを抑えようと立ち上がろうとした瞬間、私は決定的な違和感に直面した。

 

身体が、怖いほどに軽いのだ。

 

寝起き特有のだるさも、デスクワークで軋む関節の重さも、一切無い。それどころか、ほんの少し指先を動かそうとするだけで、神経の伝達が狂気的なスピードで行われる。

肉体が勝手に、最適解を自動で選択して動いてくれるような、不気味なほどスムーズな感覚。

 

「なにこれ……私の体、どうなっちゃってんの……?」

 

漏れ出た自分の声を聞いた瞬間、脳の奥が冷え切った。

寝起きとは思えない、鈴を転がすような澄んだ音。自分の喉から出ているのに、前世の私のくぐもった声とは似ても似つかない。柔らかくて、少し高くて、無自覚にあざといくらいに可愛い美少女の声。

 

最悪の予感が背筋を駆け上がる。私は這いつくばるようにして、近くの潮だまりの水面を必死に覗き込んだ。

そこに映し出されていたのは、見慣れた平凡な顔などでは、断じてなかった。

今風のオシャレなカラーで洗練された髪型。すれ違う人全員が思わず振り返るような、完璧に整った顔立ち。意味深に煌めく左耳のピアス。

画面の向こうで、何度も、何度も繰り返し見た、女の子の顔。

 

「……あ、どうも」

 

あまりの非現実感に、思わず水面に向かってペコリと会釈してしまった。いや、違う。挨拶している場合ではない。

 

「これが……私?嘘でしょ……?」

 

水面に映る美少女は、私の困惑と完全に同期して、お決まりのテンプレみたいな首を傾げる仕草をしてみせた。

間違いない。アニメで、小説で、私の人生を狂わせた推し作品『超かぐや姫!』の登場人物――綾紬芦花の肉体そのものだった。

 

「いや、顔可愛いな……。って違う違う!」

 

状況に対して場違いすぎる感想が口から漏れる。いや、だって可愛いものは可愛いのだから仕方がない。目の前の水面に推し作品の美少女がリアル4K画質で映っているのだ。そこだけ切り取れば極上の眼福である。

ただし、その顔が現実の自分の姿になっているとなると、話の次元が変わってくる。

 

「夢じゃないよね。王道の頬をつねるとかやった方がいい?でも、大抵そういう確認方法、意味ないか……」

 

 ぶつぶつと独り言を呟きながら、思い切り頬をつねってみる。……痛い。

 しかも、その痛いという電気信号を処理する脳の速度まで、怖いくらいに早かった。頭が恐ろしいほどに冴え渡っている。

普段の平凡な自分が、こんな異常事態にここまで冷静でいられるはずがない。もっと混乱して、泣いて叫んで、スマホを探して圏外の文字に絶望するくらいの醜態を晒すはずなのに、この肉体の脳細胞は、冷徹なまでに状況を整理していくのだ。

 

綾紬芦花。作中で、主人公の彩葉と同じ学校に通い、若きインフルエンサーとして活動しながら、ゲームも学業もこなす、ハイスペック女子高生。どうやら、私の意識を受け止めたこの器は、その処理能力まで本人準拠で引き継いでしまっているようだった。

 

「これがハイスペJKの思考速度……?ありがたいけど、状況が絶望的に悪すぎる」

 

ふと右腕を持ち上げた時、手首に妙な違和感があることに気づいた。

 視線を落とすと、そこには鈍い光を放つ金属製の『ブレスレット』が嵌め込まれていた。

 見覚えがある。原作でかぐやと彩葉を繋ぎ止めるための、あまりにも大切なキーアイテム。ただのアクセサリーで済むはずがない、月人由来の超技術アイテムだ。

 

「なんで……なんでこれが、私にくっついてるの……?」

 

ブレスレットの表面に指先が触れた瞬間、脳の最奥に、鋭い閃光のようなヴィジョンが強制介入してきた。

真っ白な、無機質な部屋。壁一面を埋め尽くす、解析不能の数式。

滲む血。青白いエネルギーのスパーク。その中心で、誰かがボロボロに壊れながら、泣き叫んでいる。

 

『――もう一度――』

 

一瞬だけ、狂気にも似た悲痛な声が聞こえた気がした。

 

「……な、に今の。私じゃない。でも……」

 

幻覚とも言い切れないほど、魂の根元がジクジクと熱を帯びるように生々しかった。

それについて深く思考を進めようとしたが、私の新調された優秀な脳細胞が、本能的にそれ以上の割り出しを拒絶した。これ以上の深追いは、自分の精神の崩壊を招くと本能が察したのだ。

 

無人の浜辺。芦花の肉体。そして、謎のブレスレット。

 

「……嫌な予感しかしないんだけど」

 

私は、原作(シナリオ)を知っている。

それは一見、最強の強みのようでいて、その実、取り返しのつかない呪いだった。

物語には、不可侵の流れがある。出会うべき人がいて、起こるべき悲劇があって、積み重なるべき時間がある。そこに、本来存在してはならない異物の私が割り込んでいるのだ。

これ……私は下手をしなくてもこの世界線を秒でバッドエンドに叩き落とす、特大の原作ブレイカーなのではなかろうか。

 

「神様……伏線を張り巡らせすぎでしょ。ちゃんと回収してくれんの、これ……」

 

あまりの現実の重さに耐えかねて、そんな身も蓋もないメタ発言を吐き捨てた、その時だった。

遠くから、ペタ、ペタ、と。砂を這うような、いや、小さな身体で必死に跳ねているような、微かな音が聞こえてきた。

続いて、今にも消え入りそうな、震える声が鼓膜に届く。

 

「……、ぁ……。……芦花……?」

 

弾かれたように振り返った私の視線の先、白砂の上にぽつんといたのは、一匹のウミウシだった。

いや、普通はウミウシが人間の言葉を喋る時点で怪奇現象なのだが、そのウミウシは明らかに異常だった。丸っこくて、妙に表情が豊かで、今にも決壊しそうなほどに涙をためて、必死に私を見上げている。

画面の向こうに何度も涙した作品の、小説の文字でも幾度となく読んだ、愛おしい生き物。

 

「え……喋るウミウシ……ってことは、まさか」

 

 喉がひゅっと鳴り、私の口から、祈るような呟きが溢れた。

 

「……かぐや、なの?」

 

その名前を呼んだ瞬間、ウミウシは限界まで縮めていたバネを弾くようにして、私の胸へと目がけて飛び込んできた。

 

「芦花ぁぁぁぁぁ!!芦花!!芦花ぁぁぁぁ!!」

「うわっとっと、ちょ、待って!?力強っ!?怖い怖い!!」

 

手のひらに収まるほどの小さな身体のどこにそんな力が残っていたのか、ウミウシの彼女は私の服に全力でしがみつき、声を上げて泣きじゃくった。ウミウシのくせに、ちゃんと目から大粒の涙をポロポロと流している。

そんなコメディチックな感想が脳裏をよぎり、一瞬だけクスリと笑いそうになる。……けれど、すぐに胸の奥が締め付けられて、笑えなくなった。

 

私は、この状態の彼女が置かれている地獄を、すべて知っているからだ。

月へ帰還した後、最愛の彩葉のもとへもう一度戻ろうとして。

孤独な宇宙の旅の途中、不運にも隕石と衝突し、時間跳躍(タイムスリップ)のシステムエラー。

現代ではなく、はるか数千年前の、誰もいない古代の地球へと墜落した。

唯一の帰還手段だったもと光る竹(宇宙船)は修復不可能なまでに故障し、肉体を維持するための器として、やっとの思いで構築できたのが、この脆弱なウミウシの身体だったのだ。

そして彼女はこれから、ヤチヨという電子の歌姫になるまで、果てしない孤独の時間を生きることになる。

 

「芦花、芦花……っ。夢じゃない?これ、かぐやの見てる都合のいい夢じゃないよね……っ!?」

 

かぐやは何度も、壊れた機械のように同じ言葉を繰り返した。

出会うはずのない古代の海岸で、見知った唯一の親友の顔に、魂ごと縋り付いている。今のかぐやにとって、目の前にいる私は、未来で自分を支えてくれた大好きな「綾紬芦花」に見えているのだ。

でも、違う。私は、芦花じゃない。私の本質は、ただの部外者だ。

そんな冷徹な思考を巡らせる私を裏切るように、感情と、ハイスペックな芦花の肉体は、あまりにも優しく、自然に言葉を紡いでいた。

 

「夢じゃないよ、かぐや。ちゃんとここにいる」

 

そう答えた瞬間、かぐやは顔をぐしゃぐしゃにして、泣きながら笑った。その小さな笑顔が、あまりにも愛おしくて、あまりにも切なくて、私の胸の奥が激痛を訴える。

 

「よかった……っ、本当によかったぁ……うああん!」

 

どれほどの時間、この寂しい海岸で一人きり、恐怖に震えていたのだろう。もと光る竹(宇宙船)の残骸のそばで、帰れない現実と、愛する人たちに会えない絶望を、この小さな身体で必死に耐え忍んでいたのだ。

画面の向こうの物語として消費していた時は、ただひたすらに、悲しくて泣いていただけだった。

けれど今、私の胸の中で、体温のない身体を震わせて必死に泣いている彼女は、冷厳な現実としてここに存在している。

 

「かぐや……。やっぱり、現代に戻るの、失敗しちゃったんだね」

 

その言葉に、かぐやの身体がぴくりと硬直した。

 

「……うん。そうなの。隕石に当たっちゃって、気がついたらここに落ちてて。もと光る竹(宇宙船)も完全に壊れちゃってて……。私、自分の体も作れなくて、やっと作れたのが、このウミウシだったんだ……」

「そっか……。辛かったね」

「ねぇ、芦花……。なんで芦花がそれを知ってるの?どうしてここにいるの?どうやって来たの?……ねぇ、彩葉は!?真実は!?みんなはどこにいるの……!?」

 

濁流のように浴びせられる純粋な問いに、私はすぐには言葉を返せなかった。分からない。私自身、なぜこの世界に、こんなタイミングで転生させられたのか、何一つ分かっていない。

ただ、一つだけ、今ここで明確に線引きしなければならない残酷な事実があった。このまま優しい嘘をついて彼女の親友のフリを続けることは、いつか彼女を決定的に裏切ることになる。

 

「……かぐや」

「うん?」

「私はね……かぐやの知っている綾紬芦花じゃないんだと思う」

 

かぐやの動きが、ぴたりと止まった。

 

「……え、何言ってるの……?」

「説明するのがすごく難しいんだけど。今のこの肉体は、たしかに芦花のものに見える。でもね、中身の意識というか、魂は、全然別の世界から来ちゃったみたいなの」

「別の、世界……?」

「うん。私のいた世界ではね、かぐやたちの生きているこの世界が……物語として存在してたんだ」

 

混乱させないよう、慎重に、けれどまっすぐに言葉を選んでいく。

 

「アニメとか、小説とか、映画もやっててね。私はそれを見て、読んで、かぐやたちを知ってたんだよ」

 

かぐやはしばらくの間、ウミウシの姿のまま完全にフリーズしていた。膨大な情報をその天才的な脳で処理しているのだろう。そして、突如として目を限界まで丸くした。

 

「私、別の世界だとアニメキャラだったの!?」

「いや、リアクションそこなんだ?ちなみに物語の主人公は酒寄彩葉ね」

「彩葉が主人公!?やっぱり!彩葉なら納得!」

「まあ、厳密にはかぐやとのダブル主人公みたいな立ち位置?だけど」

「よっしゃー!!やっぱりかぐやも主人公だよね!さすが私!」

 

掛け合いと切り替えが早すぎる。さっきまでこの世の終わりみたいに大号泣していた不憫なヒロインが、次の瞬間には目をきらきらと輝かせているのだ。この感情の起伏の激しさと圧倒的な陽のオーラ。間違いなく、私の愛した物語のかぐやそのものだった。

 

「んー、つまりそれって、流行りの『てんせい』ってやつだよね!?じゃあじゃあ、この先の展開も全部知ってるってこと!?」

「知っては、いる」

「え、どうなるの?かぐや、ちゃんと彩葉に会える?」

「……本当に自分の物語のネタバレ、今ここで食らって大丈夫?」

「どぇぇぇ!?や、やっぱり聞くのやめとく!まだ覚悟できてない!」

 

大声ではしゃぎ回るかぐやの無邪気さに、私はつられて小さく吹き出してしまった。

彼女の持つ圧倒的な陽のエネルギーは、異世界に放り出された私の心を、確かに優しく救ってくれた。

けれど、心が救われて冷静さを取り戻したからこそ、同時に冷酷な現実の重みがのしかかってくる。

 

「……あのね、かぐや。私はさ、この世界の物語を壊したくないんだ」

 

私の本心から出た言葉だった。かぐやが動きを止め、まっすぐに私を見つめる。

 

「かぐやが話しやすいから、ついいろいろ喋っちゃったけど。私は本来、この歴史のタイムラインに存在しちゃいけない歪み(バグ)なんだと思う。私がここで余計な動きをしたら、物語も狂って変わっちゃうかもしれない。私が介在した未来が、必ずしもめでたしになるとは限らないんだよ」

「……そっか」

「だから……私はできるだけ、余計なことはしない方がいいんだと思う」

 

そう言って、彼女から少し距離を置こうと身体を引いた、その瞬間。

かぐやは激しく身悶えしながら、さっき以上の勢いで私の胸元へと飛び込んできて、また大粒の涙を流し始めた。

 

「やだ!!!」

「えっ、ちょ、かぐや!?」

「いなくなっちゃうのやだ!置いてかないで!やっと誰かと会えただけで、声を聞けただけで、こんなに嬉しかったのに……また一人ぼっちになるなんて絶対に無理!!ふ、芦花じゃなくても、別の世界の人でも何でもいいから、お願いだから一緒にいてよぉ!!」

 

小さな身体を限界まで震わせ、必死に私に縋り付いて泣き叫ぶウミウシ。

そんな風に、魂の底からの孤独をさらけ出されて、放り出せるわけがなかった。私の胸の奥に、猛烈な罪悪感と、それ以上の愛おしさがこみ上げてくる。それに、彼女の言葉の端に、妙な引っかかりを覚えた。まるで、何かを知っていたかのような――。その瞬間、手首のブレスレットが、ドクンと心臓のように熱を持った。

 

「お願い、かぐやのこと知ってるんでしょ?だったら、一人にしないで……」

 

潤んだ目で、泣きながら、必死に私を見上げてくるその姿は、ウミウシのグラフィックのままであっても、控えめに言って可愛さが天元突破していた。原作の彩葉が、この子を溺愛しておかしくなってた理由が、今なら痛いほどによく分かる。

 

「……はぁ。分かったよ、分かったからもう泣かないで」

「ほんと……?置いていかない?」

「うん。約束する。どこにも行かないし、あなたの側から離れないよ」

「ずっと?何があっても、ずっと一緒?」

「それは……」

 

途端に、私の言葉が詰まってしまった。ずっと。その言葉が持つ、途方もない重さを、私は知っている。

 

「……失敗したかぐやは、このあと、どうなっちゃうの?」

 

かぐやは声を潜めて、ぽつりと訊ねてきた。その怯えた様子を見るに、彼女自身、薄々は気づいているのだろう。彼女は月人の中でもかなり優秀な天才エンジニアなのだ。現状の絶望的なパラメータから、未来を逆算することなど容易いはずだ。

それでも、誰かの口から大丈夫だと否定してほしくて、縋るように聞いてくる。

私は大きく深呼吸をして、覚悟を決めて、真実を告げた。

 

「……たぶん、あと数千年。現代の彩葉に辿り着くまで、果てしない時間を、生きることになると思う」

 

かぐやの顔から、すべての表情が抜け落ちた。

 

「……ぁ、あ……」

 

掠れた小さな声が漏れ、それから、彼女はまた静かに涙をこぼし始めた。

今度の涙は、さっきのような激しい感情の爆発ではない。ただ、目の前に突きつけられた数千年という絶望の質量に押し潰されて、ただ静かに、絶望が形を変えて溢れ出しているようだった。私は衝動的に、その小さなウミウシの身体を両手でそっと包み込み、胸元に抱きしめた。柔らかくて、ちっぽけで、ひどく頼りない命の塊。

 

「……大丈夫、なんて、無責任なことは言えないけれど」

 

かぐやを抱きしめる私の声も、いつの間にか激しく震えていた。

 

「あなたを、独りにはしないよ。その孤独を、私が隣で、一緒に背負うから」

 

それは完璧な衝動のままの、咄嗟の言葉だった。原作を知る歪み(バグ)である私が、そんな大それた約束をしていいはずがない。未来がどう転ぶかも分からないのに。

でも、あの瞬間の私は、そう言うことしかできなかったのだ。目の前で震えるこの愛おしい存在を、どうしても救いたかった。

 

 

───────

 

 

それから私たちは、長い、長い時間を共に過ごすことになった。

生活、という言葉が果たして適切なのかは分からない。私は芦花の姿をした謎の月人(バグ)で、かぐやは喋るウミウシ。文明の初期段階であるこの時代には、当然スマホも無ければ電子機器も、雨風を凌ぐ最低限の住居しかない。

普通なら詰む環境なのだが、私の肉体が意味不明な月人スペック(チート性能)を発揮したため、意外なほど何とかなってしまった。

何日も食べなくても全く餓死しないし、うっかり怪我をしても次の瞬間には細胞レベルで完治している。身体能力もバカみたいに高すぎて、試しに砂浜を全力疾走してみたら、車くらいのスピードが出て身体が軽々と動き、普通に自分自身に引いた。

 

「すご!アニメでしか見た事ない動きしてる!」

「いや、私がすごいんじゃなくて、この身体のフィジカルが異常なだけだから!動かしてる私は一般人だよ」

「でも、現に、その体を乗りこなして危ない動物とかから助けてくれてるのはー?」

「……そういう褒め方するのやめてもらえる?ちょっと、いや、かなり照れるから!」

 

かぐやは、よく笑うようになった。そして、それと同じくらい、よく泣いた。

特に最初の数十年は情緒が不安定で、私が薪を拾うために少し視野から外れるだけで、世界の終わりみたいな不安そうな目でこちらを追ってきた。眠る時も、私の首元や手のひらにぴったりと張り付いて離れようとしない。

ウミウシの姿も相まって、まるで高級なぬいぐるみのような愛らしさで、とてつもなく可愛かった。

けれど、ただ可愛いだけでは済まされない現実が、常に私たちの間に横たわっている。

この子はこの先、数千年にわたって、何世代もの人間の生と死を見届け、夥しい数の出会いと別れを繰り返し、心が摩耗していく運命にあるのだ。目の前で不安そうに震えるかぐやを見るたびに、私の胸は容赦なく抉られた。

 

「ねえ、かぐやは、いつかちゃんと、彩葉のいる場所に帰れるかなぁ」

「……帰れるよ。絶対に帰れる」

 

それは嘘偽りのない真実。原作の通りなら、彼女は必ず未来で彩葉と再会する。

けれどそれは、あまりにも永い旅路の果てで、数え切れないほどのものを失い、自分自身すら月見ヤチヨと成った後の話なのだ。

 

「そっか!なら、かぐや、頑張れるね!」

 

そう言って満面の笑みを浮かべる彼女に、私はそれ以上、何も言えなくなってしまう。

原作を壊したくない。でも、この子の孤独を少しでも和らげてあげたい、ひとりにしたくない。

相反する二つの感情が、私の中で、強く矛盾として火花を散らした瞬間だった。

 

時間の感覚は、百年、二百年と過ぎるうちに、少しずつ順調に狂っていった。

最初は一日、一週間、一ヶ月と、現代人としての暦を必死に数えていた。けれど、悠久に近い時間を前にして、その数字にはだんだん意味がなくなっていった。

 

季節がただ無情に巡る。草木が枯れ果て、また新しい芽が吹く。

出会った集落の人々が生まれて育って、恋をして、老いて死んでいく。そのすべてを見送っても、私たちは何一つ変わらなかった。かぐやのウミウシボディも、私の芦花に似た身体も、細胞の一つすら老いる気配を見せない。

 

「やっぱりさ……この身体、普通じゃないよね。何のために作られたんだろ」

 

ある夕暮れ時、私は沈む夕日に自分の白い手を透かしながら、ぽつりと言った。

 

「月の技術で作られてるのは間違いないと思うよ」

 

かぐやは私の肩の上で、当然のように答えた。

 

「やっぱりそう思う?」

「うん。地球の人間と違って寿命の概念がないし。その手首のブレスレットは、月の多機能装置だもん」

「つけてる経緯も、なんで私がこれを持ってるのかも、全然分かんないんだけどね」

 

私は左手で、右手首のブレスレットに触れた。

その冷たい金属の感触に触れるたび、ときどき、自分の記憶にはない未知の光景がフラッシュバックする。

血の匂いのする研究室。泣き崩れている、顔の見えない誰か。

いや、違う。知らないはずの光景なのに、どうして、こんなに涙が出そうなくらい懐かしいのだろう。

 

「もしかしたら、月人の体に、別の世界の記憶が混入しちゃったのかな?」

 

かぐやが不思議そうに首を傾げる。

 

「……そんな感じのオカルトなのかもね」

 

自分でも笑ってしまうくらい曖昧な返事しかできなかった。そもそも、なぜ数あるキャラの中から、よりにもよって綾紬芦花に酷似した月人ボディなのか。本当の私は、ただの転生者ではなく、もっと別の恐ろしい因果の塊なのではないか?

何も分からない。霧の向こうを歩いている気分だ。

ただ、そんな不透明な世界の中で、たった一つだけ、明確に分かってしまったことがあった。

 

「でもさ、これだけははっきり分かっちゃったね!」

 

私と同じ結論に至ったのだろう。かぐやが私の肩の上で、弾むような、心底嬉しそうな声色で呟いた。

 

「だって、この体が不老不死ってことはさ――これから数千年間、ずっと一緒に生きててくれるんでしょ!?」

 

私は、息を詰まらせたまま、何も言えなくなった。

 

「最初はね、人間と同じで、数十年でかぐやを置いて死んじゃうかもって思ってたから……めーーっちゃ嬉しい!」

 

ウミウシの顔いっぱいに広げられた笑顔は、何の穢れもない、純粋な歓喜に満ち溢れていた。

数千年の孤独の闇に怯えていた少女にとって、同じ時間を並走してくれる変わらない存在がどれほどの救いか。

だから私も、胸の痛みを笑顔の裏に隠して、めいっぱい彼女に笑い返した。

 

数千年を生きる。言葉にするのは容易い。

けれど、現代日本人として人生わずか八十年の感覚しか持ち合わせていない私にとって、数千年間正気を保ち続けるなど、人生を何十回、何百回とループするに等しい精神の阿鼻叫喚である。

膨大な記憶の負荷。見送るだけの出会いと別れの連続。文明の狂おしいほどの移り変わり。そして、世界そのものから完全に取り残される圧倒的な拒絶感。

それに耐えられるのは、月人か、あるいは歴史に名を残すような狂った天才だけ。

 

「……名前、考えたいな」

 

ふいに、途方もない時間の恐怖から逃げるように、私は話題を切り出した。

かぐやは待ってましたとばかりに目を輝かせる。

 

「え!なになに!?名前変えるの!」

「だって、いつまでも芦花って呼ばれるのなんかややこしいし。本物の芦花に申し訳ないっていうか、私が彼女の名前を騙るのも違う気がしてさ」

「うーん、確かにそれは一理あるかも?」

「何か良い案、ないかな?」

「オッケーオッケー!かぐやちゃん命名チャンス、到来ー!」

「う……頼むから、呼びやすくて、変じゃないやつにしてね」

 

私の肩の上でぴょんぴょんと嬉しそうに跳ね回るかぐや。

かぐやのネーミングセンスといえば、作中でもフシだの犬DOGEだの、独特というか直球というか、かなり当たり外れの激しいギャル感性に定評がある。期待と不安が激しく入り交じるが、それでも私のために一生懸命小さな頭をひねってくれている姿は、たまらなく愛おしかった。

やがて、かぐやは凛とした声で、その名前を告げた。

 

「――藤代(ふじよ)!」

「……ふじよ?」

「うん!前に見かけた、藤の花がすっごく綺麗だったからさ、その名前を貰おうと思って!」

 

かぐやの口から飛び出した、思いのほか雅で美しい響きに、私は少しだけ呆気に取られてしまった。

彼女はさらに嬉しそうに、「本当はね、ヤチヨの代の文字も混ぜてるんだけどね!」と付け足す。

私はその名前の重みと響きの美しさを、自分の喉で確かめるように、ゆっくりと何度も繰り返した。

 

「藤代……藤代。うん、すごく、いい名前だよ。ありがとう、かぐや」

「へへん、響きも綺麗だし、古風だけどかわいいでしょ!」

「まあ今は昔、だもんね。ギャルの感覚的にはこれがかわいいの範疇なの?綺麗ではあると思うけど」

「かわいいよ!芦花もかわいいけど、今の藤代も、めーっちゃかわいい!」

「それはまぁ、この見た目が可愛いからであって――」

「違うよ」

 

かぐやは、私の言葉を遮り、ウミウシの姿のまま、どこか酷く真剣な目をした。

 

「今、ここにいて、かぐやの隣で笑ってくれてるのは、他の誰でもない藤代でしょ?」

 

そのまっすぐな一言を食らって、私はまたしても言葉を失った。

私は本物の芦花ではない。けれど、完全に元の世界にいた自分自身でもない。この見知らぬ体で、この過酷な世界で、かぐやの隣にいる謎の歪み(バグ)そんな不確かな存在の私に、彼女は藤代という確かな杭を打ち込んでくれたのだ。ここにいていいのだと、その名前が私の存在を世界に固定してくれたような気がした。

 

「じゃあ、改めて。藤代!」

「……なにさ」

「これからずっと、よろしくね!」

 

 いつも通りの無邪気さで、かぐやは満面の笑みを浮かべた。

その笑顔があまりにも眩しくて、私はつい照れくさくなって視線を斜め下に逸らした。

 

「……こちらこそ、よろしくね。ワガママかぐや姫」

 

 こうして私は、『藤代(ふじよ)』として、かぐやと共に果てしない時を生きることになった。

 数千年単位の、バカみたいに重いディストピアライフ。普通に考えれば重労働もいいところだが、私の手に身体を擦り寄せて嬉しそうに喉を鳴らす彼女を見ていると、まあ、悪くはないか、とつい思わされてしまう。

手首のブレスレットが、また少しだけ、生き物のようにドクンと温かくなった。まるで、私の名前を、記憶に深く刻み込んだかのように。

 そのとき――背後に、言葉にできない奇妙な感覚を感じて、私は思わず振り返った。

 だが、そこにはただ夕日に染まる赤黒い海と、静かな空、そして私の肩の上で眠そうに船を漕いでいるウミウシしかいなかった。

 

「藤代……?どうしたの……?」

「……ううん、何でもない」

 

今はまだ、世界の仕組みも、自分がここにいる意味も何も分からない。ただ、一つだけ心に決めた。この目の前の小さな存在を、絶対に独りにはしない。

いつか、私の存在が致命的に矛盾するような日が来るとしても、私は最後の瞬間まで、藤代としてこの子の隣で悪あがきを続けてやるのだ。

かぐやが泣いて、笑って、私の名前を呼んでくれるこの永遠に等しい愛おしい時間も、いつか紡がれる大団円(ハッピーエンド)のための、大切な伏線の一部なのだと、そう信じたかった。

 

 

───────

 

 

「せっかくだし、藤代も髪色変えてみてよ!」

 

 そんな突拍子もない流れになったのは、ある日のダラダラとした他愛のない世間話の最中だった。

 原作の作中で、かぐや自身が気分転換に髪色を自由に変えていた描写があったことを思い出し、月人スペックのこの体なら、私にも同じことができるんじゃないかという話になり、暇つぶし半分で試してみることになったのだ。

 

 私が自分の長い髪の毛に意識を集中させ、ゆっくりとイメージを流し込んでいくと、驚くほど滑らかに毛先から色が変わっていった。

その時、私の脳裏に浮かんでいたのは、本当に単純な理由だった。かぐやが私のために選んでくれた、近くに咲いていた、凛として綺麗な藤の花の色彩。

 そのイメージを反映してか、私の髪はまたたく間に、淡い光を吸い込んだような、幻想的で美しい藤色へと完全に染め上げられた。

 

 自分でやっておいて何だが、あまりの利便性に「うっ、普通にエイリアンっぽくて引くわ……」と呟いてしまった。便利すぎる。月人テクノロジー、怖。私、理解の範疇超えし宇宙人(うちゅうびと)

 

「うわぁぁぁ!めーーっちゃ似合う!!!」

 

 かぐやが私の肩の上で、壊れたおもちゃのように激しくぴょんぴょんと跳ねて歓声を上げた。

 

「……ほんと?なんか、ちょっと奇抜というか、私の感覚だと完全にコスプレなんだけど」

「何言ってるの!もの凄く綺麗だよ!藤代の完全なトレードマークじゃん!今度からずーっとその髪色にしておきなよ!」

「まあ、確かに名前も藤代だし、見た目と名前が一致して分かりやすいのはいいかもね」

「え〜!かぐやはそういう事務的な意味で言ったんじゃないもーん!」

 

そんな不満げな言葉に続けて、彼女はこれでもかと洪水のような勢いで、私の新しい髪色を大絶賛し始めた。あまりにも純粋に、熱烈に優しい言葉を畳み掛けられるものだから、私は耐えきれずに耳まで真っ赤にして話を逸らすことしかできなかった。

かぐやは本当に、ずるいくらいに褒め上手だ。そんな風にまっすぐな瞳で「綺麗だ」「かわいい」なんて言われたら、どんな人間だって嬉しくないわけがない。

私の、歪み(バグ)だらけの身体。

けれど、この藤色に染まった髪の毛だけは、世界で私だけの、藤代としての証のようで――それは、思っていたよりもずっと、悪くない心地だった。

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