最初の百年は、正直かなりしんどかった。
百年。さらっと言っているけれど、人間ならほとんど一生である。
その一生分の時間を過ごしてなお、私たちの旅はまだ始まったばかりだった。
季節が巡る。
草木が枯れて、また芽吹く。
人が生まれて、育って、老いて、死んでいく。
私は、何度もその流れを見た。
最初はただ、怖かった。
人間の人生は短い。
知っていたはずなのに、実際に目の前で見ると、知識とはまるで重みが違う。
昨日まで走り回っていた子どもが、いつの間にか親になり、皺を増やし、やがていなくなる。
名前を覚えた人が、声を覚えた人が、手の温度を覚えた人が、当たり前みたいにこの世界から退場していく。
そのたびに、かぐやは泣いた。
「藤代、人間ってすぐ死んじゃうね」
ある日、かぐやがぽつりと言った。
「すぐ死んじゃうのに、すごくいっぱい残していく。かぐやは、ちゃんと覚えてたいな」
その横顔に、私は未来のヤチヨを見た気がした。
明るくて、わがままで、寂しがりで。
誰よりも出会いを愛して、誰よりも別れを抱え込む存在。
ああ、そうか。
ヤチヨは、急にヤチヨになったわけじゃない。
時間の全部が、彼女をあの電子の歌姫にしていくのだ。
そう思った瞬間、胸の奥が重くなった。
私は未来を知っている。
かぐやがどんなふうに歌うのか。
ヤチヨとしてどんなふうに笑うのか。
彩葉と出会って、どれほど強く惹かれたのか。
知っている。
けれど、全て知っているからといって、耐えられるわけではなかった。
かぐやと過ごしている間、本当にたくさんのことがあった。
月人の擬態ボディは、かなり高性能だった。
高性能という言葉で済ませていいのか分からないくらい、何でもできた。
危険な目に遭っても、だいたい身体が何とかしてくれる。
崖から落ちても、着地できる。
獣に襲われても、普通に避けられる。
刃物を向けられても、動体視力が意味の分からない速度で最適解を叩き出す。
つまり、現実世界でKASSENの動きができるようなものだった。
「いやこれ、普通にバランス崩壊では?」
「藤代すごーい!」
「だから私がすごいんじゃなくて、身体がすごいんだって!」
「でも使いこなしてるのは藤代だよ?」
「そういう純粋な褒め方、心に来るからやめて」
かぐやは笑う。
私は苦笑する。
そんな日々が積み重なっていった。
私はできる限り、原作をなぞった。
アニメと小説で把握している流れ。
かぐやが出会う人や経験する出来事。
心を動かされる瞬間。
私が関わることで何かが変わるのが怖かったから、なるべく余計なことはしないようにした。
ただ、不思議なこともあった。
原作で詳しく描かれていない出来事でも、何となく分かる時があったのだ。
ここでこの人に会う。
この道を進めば、あの出来事が起きる。
この言葉を聞いたかぐやは、こういう反応をする。
既視感、というには妙に鮮明で。
記憶、というにはあまりにも自分のものではなかった。
運命。
あるいは、どこか別の。
頭をよぎるたび、手首のブレスレットがほんの少し熱を帯びる。
その度私は、深く考えないようにした。
考えたところで、答えは出ない。
答えが出たとして、それが救いになるとも限らない。
今の私にできるのは、かぐやのそばにいることだけだった。
現代に至るまでの人間は、本当に儚かった。
寿命もそうだ。
戦いの歴史もそうだ。
争いが起こって、土地が奪われる。
誰かが誰かを守るために立ち上がり、その誰かもまた失われる。
かぐやは、大切な人たちと出会い、別れ、そのたびに涙しては感情を零した。
私はその隣にいた。
泣くかぐやのそばで、ただ背中を撫でることしかできない日もあった。
何も言えない日もあった。
それでも、ひとりで泣かせるよりはましだと思いたかった。
時間が経つにつれて、かぐやの会話の節々から、少しずつヤチヨが滲み出るようになった。
明るさの中にある寂しさ。
軽口の奥にある祈り。
人を好きになる速度と、失う痛みを抱え込む深さ。
私はそれを、嬉しいような、怖いような気持ちで見ていた。
「ねえ藤代、歌ってさ、すごいね」
ある夜、かぐやが言った。
「急にどうしたの」
「言葉だけだと届かないものも、歌だと残る気がする」
焚き火の向こうで、かぐやは空を見上げていた。
「誰かがいなくなっても、その人が好きだった歌は残るでしょ。口ずさめば、ちょっとだけ会える気がする」
「……かぐやらしいね」
「そうかな?どっちかというとヤチヨぽくない?悩み相談とかのときの」
私は言葉に詰まった。
「確かにちょっとヤチヨっぽかったかも」
そう言うと、かぐやは照れたように笑った。
「じゃあ、いつかすごい歌姫になるかもね」
「なるよ」
「言い切るじゃん」
「だって、藤代がそういう顔してるから」
そう言って太陽みたいに笑う。
この子は、時々妙なところで鋭い。
私は未来を知っている。
そのことを、かぐやは責めない。
けれど、私が隠しているものの重さだけは、ちゃんと感じ取っているのだと思う。
「藤代はその時も隣で聞いててね」
「……うん」
約束ばかりが増えていく。
守れるか分からない約束ばかりが。
私自身も、数千年という時間を平然と受け入れられたわけではない。
当たり前だ。
私は月人ではない。体はなんの因果か特別なものになってしまったけど。
少なくとも心は、どうしようもなく人間のままだった。
何百年目だったか、もう覚えていない。
一度だけ、本気で海に沈もうとしたことがある。
馬鹿みたいな話だ。
死ねないかもしれないと分かっていて、それでも試さずにはいられなかった。
夜の海は黒くて、波の音だけがやけに優しかった。
このまま沈んで、何も考えなくてよくなればいい。
そう思った。
けれど、何も変わらなかった。
肺が苦しくなる前に、勝手に呼吸の仕組みが切り替わるような感覚があった。
水圧も、冷たさも、死に至るほどの脅威にはならなかった。
月人ボディ、便利すぎ。そして最悪だ。
死にたい時にまで有能でいなくていい。
どれくらいそうしていたのか分からない。
しばらく海の底でぼーっとしていた。
浜辺に戻ると、かぐやが泣きながら待っていた。
「藤代のばか」
「……ごめん」
「置いてかないでって言った」
「ごめん」
「かぐや、藤代までいなくなったら本当に無理だよ」
その時、私は初めて少し怖くなった。
私はこの子を少しでも支えられていればと思っていた。
でも違う。
私もまた、この子に支えられていた。
ふたりでいないと、たぶんどちらも壊れる。
そういう関係になってしまっていた。
「藤代」
「うん」
「もしここが、誰かが書いた物語なら」
かぐやは泣きながら笑った。
「本当は藤代がいないなら。藤代は今、かぐやのためにいるのかもしれないんだよね」
そんなことを言わせたくなかった。
「ありがとうだし、ごめんね」
そんな顔をさせたくなかった。
私はあなたたちが好きで。
何度も何度も涙を流しながら見て。
アクスタを飾って。
缶バッジを買って。
物語の余白さえ全部知りたくて。
それで、私も救われていた。
画面の向こうにいた皆に、私は確かに救われていた。
だから今ここにいることが、ただ誰かに用意された役割だなんて思いたくなかった。
「私は、かぐやと出会えて本当に良かったよ」
声が震えた。
「私は平凡な人間だから、度々死にたくなったりするけど。それでもここにいられるのは、かぐやがいてくれるから」
そう言うと、かぐやがそっと寄り添ってくれた。
小さな身体。
でも、それだけで、私はまだここに繋ぎ止められる。
泣きたくないのに涙が出て、言葉も震える。
そうか。
これが、八千年なんだ。
もしヤチヨのライブが始まったら、嬉しすぎて正気じゃいられないかもしれない。
記憶の中のヤチヨをなぞって、少しだけ笑った。
「藤代」
「なに?」
「物語が始まっても、ずっと一緒にいてね」
その言葉がどれだけ重いのか、かぐやは分かっているのだろうか。
いや、分かっているのかもしれない。
それでも、私は頷いた。
「もちろん。約束だよ」
「ほんと?」
「うん」
「彩葉に会っても?」
胸が、少しだけ痛んだ。
それでも私は笑った。
「うん」
かぐやは安心したように目を細めた。
私は、その顔を見ながら思った。
かぐやには幸せになってもらわないと。
それが、私がここにいる理由なのだと。
問題が起きたのは、かなり後の時代だった。
もと光る竹。
つまり、かぐやが乗ってきた宇宙船の残骸。
これだけは絶対に手元に置いておくべきだった。
原作を知っているならなおさらだ。
なのに、長すぎる時間と油断と、あと普通に私の確認不足によって、よりにもよって歴史的にめちゃくちゃ面倒な場所へ流れていた。正倉院である。
「藤代」
「はい」
「ヤッチョ怒ってないよ」
「その声は怒ってる時の声なんだよ」
「怒ってないよ。ちょっとだけ、もと光る竹が国家レベルの宝物扱いされててウケるなって思ってるだけ」
「ウケてる場合じゃないんだよなあ」
かぐやはもう、自分のことを半分冗談みたいにヤッチョと呼ぶことが増えていた。
壊れそうなのか、気付いているのか、真意は分からなかった。
まだ完全にヤチヨではない。
けれど、かぐやだけでもない。
八千年の途中で生まれた、変化途中。
私はそれも、少し好きだった。
それはともかく、正倉院である。
どう考えても面倒だった。
そして実際、めちゃくちゃ面倒だった。
持ち歩いていたらそんなことにはならなかったのだけれど、やらかしてしまったものは仕方がない。
そもそもでかいタケノコを常に持ち歩くのはちょっと不審者すぎるだろ。
結果的に、私たちはもと光る竹を奪還するため、八千年の中でもかなり色濃い記憶になるミッションに挑むことになった。
「これ別の映画なのでは?」
侵入経路を確認しながら、私は真顔で呟いた。
「スピンオフだね!」
「明るく言えば何とかなると思ってる?」
「なる!」
「ならないんだよなあ」
しかも、ただ忍び込んで終わりではなかった。
明らかに訓練された動きをする人間がいた。
守衛とかそういうレベルではない。
どう考えても、もと光る竹がただの宝物ではないと理解している側の人間だった。
やはり重要なオーパーツであることは間違いない。
私ひとりではどう考えてもこなせない任務だった。
でも何とかなった。
何故なら、計画前にどうするどうするバーで騒いでいたときに、原作と同じく最高の聖人であるワインニキに出会えたからだ。
いや、本当にワインニキだった。
私は内心で叫んだ。
ファンです。
本当にファンです。
あなたの存在だけで映画一本作ってください。
いや、作るべきです。
必要です。
人類にはワインニキ成分が必要。
もちろんそんなことを本人に言えるはずもなく、私はできるだけ平静を装った。
装えていたかは知らない。
「藤代、顔が変」
「推しを目の前にしたオタクの理性を舐めないでほしい」
「舐めてないよ。顔が変」
「やめて」
ワインニキと一緒にミッションをコンプリートした時、私は普通に泣いていた。
かぐやも泣いていた。
たぶん感動の理由は少し違ったけれど、泣いていることは同じだったので問題ないことにした。
ミッション後、かぐやだけでなく、私も月人ボディの有能さを見込まれて、CIAに勧誘された。
「いや、急に現実の組織名出てくるの怖すぎる」
「藤代、向いてそうだもんね」
「向いてたとしても嫌すぎ」
私は断った。
理由は簡単だった。
かぐやのそばにいる。
それ以上でも以下でもなかった。
私たちを引き止めることもなく、笑顔で去っていったワインニキの後ろ姿を見て、私はまた泣いた。
それからまた、時代は進んだ。
文明は加速していった。
電気。
通信。
コンピューター。
インターネット。
人間はすごい。
何度も滅茶苦茶になりかけて、それでも積み上げる。
壊して、直して、争って、繋がって、また新しいものを作る。
かぐやは、その変化を食い入るように見つめていた。
そして、インターネットが普及してしばらくした頃、かぐやはようやく自分自身に辿り着いた。
ヤチヨ。
未来の電子の歌姫。
かぐや自身が、いつかなる姿。
「……私なんだ」
画面に映る情報を見ながら、かぐやは呟いた。
その声は、思っていたより静かだった。
「藤代は、知ってたんだよね。ヤッチョ、すごいね」
「うん」
「かぐやは、こんなふうになるんだ」
「……うん」
かぐやはしばらく黙っていた。
泣くかと思った。
笑うかと思った。
怒るかもしれないとも思った。
でも、そのどれでもなかった。
かぐやは画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
「じゃあ、ちゃんとならなきゃ」
「ならなきゃ?」
「だって、未来のかぐやが頑張ったんでしょ。だったら、頑張らないと」
その日から、かぐやは少しずつヤチヨとして振る舞うようになった。
もちろん、急に完璧な電子の歌姫になったわけではない。
「ねーえー藤代〜。ヤッチョ謝るからさ〜。ごめんて〜。PC返して〜」
「レスバトルするのやめなって言ったよね?」
「だってこいつらなんも分かってないんだもん!言い負かすまで止まれないよヤッチョは!」
「ここだけ見たら、あんま変わってない気するんだけどな……」
「変わってるし!進化ヤチヨだし!」
「進化先がレスバ強者でいいの?」
「勝てば官軍!」
「その方向の知識をどこで覚えた?」
ヤチヨは、インターネットとの相性が良すぎた。
そして悪すぎた。
吸収が早くて好奇心が強い。
感情のまま突撃する負けず嫌いな部分。
つまり、まあ、燃えやすい。
私は何度もPCを没収した。
そのたびにヤチヨはくっついてきて、泣き落としと甘えと屁理屈の全部を駆使して取り返そうとした。
正直、かなり負けそうになった。
だって推しが目の前で「ごめんて〜」とか言ってくるのだ。
耐えられる人間がいるなら連れてきてほしい。
でも、黒歴史は止めなければならない。
それもまた、隣にいる者の役目である。
そんなこんなで、長い歴史の中で暇な時にヤチヨから月由来のプログラミングを教わったり。人間の科学の発展も、私たちは二人で吸収していった。
ヤチヨの理解速度は尋常ではなかった。
月人という存在のスペックなのか、本人の才能なのか、その両方なのかは分からない。
私は私で、月人ボディとブレスレットの影響なのか、普通なら理解できないはずの概念をどうにか噛み砕けてしまう瞬間があった。
けれど、そのたびに頭の奥で白い研究室がちらついた。
誰かが端末を覗き込み、何かを解析している。
知らないはずのものが時々、記憶の底から浮かび上がる。
でも、掴もうとすると崩れる。
ノイズのように。バグったデータのように。
「藤代、また遠い顔してる」
「そう?」
「してる。ヤッチョには分かります」
ヤチヨはそう言って、私の顔を覗き込んだ。
「無理しないでね」
「それ、ヤチヨにだけは言われたくないかも」
「えー?ヤッチョはいつも無理してないよ?」
「今の発言、後世に残したいくらい嘘」
「ひどい!」
笑いながら、私たちは進んだ。
最後の百年くらいで、人類は劇的に進化した。デバイスの進化に助けられ、なんとかスマコンとツクヨミが完成した。
完成したと言っていいのかは分からない。
原作で見たものに近い形まで辿り着いた、という方が正しいのかもしれない。
それでも、本来の歴史とそう大きくは変わっていないだろう。
つまり原作のヤチヨは、ほとんど一人でここまで来たということだ。
そう考えると、胸が苦しくなった。
私がいても、こんなに大変だった。
こんなに時間がかかった。何度も折れそうになった。
本来のヤチヨは、どれほど無理をしていたのだろう。
「ついに来たね。ここまで」
完成したツクヨミを前に、ヤチヨは呟いた。
「ヤチヨが頑張ったからだよ」
「謙遜はよくないのです!」
ヤチヨがこちらを振り返る。
電子の歌姫。
私の記憶の中にいた彼女と、同じ姿で笑った。
「藤代がいたから、ここまで来れたんだよ」
「その言葉は、彩葉に言うことでしょ」
自然に出た言葉だった。
私にとって、彩葉は主人公だった。
かぐやが八千年かけて会いたかった子。
ヤチヨが歌を届けたかった子。
この物語の中心にいるべき子。
だから、私がその場所を奪ってはいけない。
そう思っていた。
ヤチヨは、少しだけ目を細めた。
「自分なんて、とか思ってたら、ヤッチョは怒るよ〜」
そう言って、プンプン怒る電子の歌姫。
隣にいる私は、原作の芦花のアバターを少し大人っぽく改変した姿。
髪色は、藤色。
芦花に似ているけれど、芦花ではない。
そんな私に、ヤチヨはいつも通りくっついてきた。
「実はヤッチョがかぐやだった頃にね」
「うん」
「結構、藤代が関わってくれてたな〜って、アバター見て思い出したの」
「それって……」
嫌な予感がした。
ヤチヨはにこにこ笑っている。
「藤代も輪廻に組み込まれてるね」
「……」
しばらく、本当に言葉が出なかった。
輪廻に組み込まれている。
つまり、私はただの異物ではない。
少なくともこの世界は、私がいる形で一度どこかに辿り着いている。
それは安心できる話のはずだった。
存在が、輪廻を壊しているわけではない。
むしろ私がいることも含めて、何かの流れになっている。
でも同時に、それは逃げ道がなくなったということでもある。
私はもう、始まったら隠居するつもりの外野ではいられない。
かぐやの物語を遠くから見守るだけのオタクではいられない。
この世界の中に、藤代という存在が刻まれている。
「藤代?」
「……なんか、すごい嫌な汗かいてる気がする」
「だいじょぶ?」
「だいじょばない」
「ヤッチョ的には嬉しいけどな」
「何で?」
「藤代がいてもいいって、世界に言われたみたいで」
そう言われて、私はまた黙った。
いてもいい。
その言葉は、思っていたよりずっと深く刺さった。
私はずっと、自分のことを余計なものだと思っていた。
本来いない存在。
原作を壊すかもしれないバグ。
そばにいる資格なんて、本当はないのかもしれないと。
でもヤチヨは、そんな私を当たり前みたいに隣に置く。
「……ヤチヨはさ、私がいて、本当に良かったの?」
「良かったよ」
「即答じゃん」
「だって八千年分の答えだもん」
重い。
あまりにも重い言葉だ。
でも、その重さが少しだけ嬉しかった。
「ヤッチョからすると、原作っていうのはよく分かんない」
ヤチヨは私の隣に腰を下ろすように、ふわりと寄り添った。
「未来には藤代もいたんだもん」
「……ホントに私込みの歴史ってことになってるのか」
私は自分の腕輪を見つめた。
「まあ、それの方がブレイクしなくてありがたいけどさ」
正直、原作中は隠居しようかと思ってたし…
そう言いかけた瞬間、ヤチヨが静かに圧を滲ませた。
「藤代〜?」
「…はい」
「ヤッチョは藤代がいないと、もうダメなんだよ?」
そう言って、後ろから寄り添ってくる。
電子の姿に、現実の体温はない。
それでも、その存在感は確かだった。
「ヤチヨさん……?」
「またよしよししてよ〜」
「いいよ、よしよし」
後ろから前になだれかかってきて、そのまま膝枕みたいな状態になる。
いつもの、である。
私がある程度話もできて、話題も共有できると分かると、ヤチヨ、その頃はかぐやだけど。はすぐに私に懐いた。
言い方はあれだけど、その天性の人たらし力を存分に発揮してくれたのだ。
結果、八千年の間にこのやり取りはいつものになって、ヤチヨは暇さえあれば私にくっついて過ごすことが多くなった。
私自身も、箱推しではある。
箱推しではあるけれど、誰が一番好きかと言われたら、かぐや。
てか、ヤチヨ。
なので、満更ではない。
というか正直、眼福すぎるし、全部。
こんな日々が、ずっと続けばいいと思った。
八千年も生きておいて、今さら永遠なんてものを信じているわけじゃない。
出会いがあれば別れがある。
始まりがあれば終わりがある。
そんなことは、嫌というほど見てきた。
それでも、この電子の海の片隅で、ヤチヨがくだらないことで騒いで、私がそれをなだめて、たまにふたりで昔話をして。
そういう時間が、もう少しだけ続けばいいと思ってしまった。
けれど、私は知っている。
もうすぐ物語が始まる。
かぐやが運命の相手に出会う、本当の物語が。
「藤代?」
ヤチヨが私を見上げる。
「なに難しい顔してるの?」
「してた?」
「してた。八千年見てるから分かる」
「それ言われると何も反論できないな」
私はヤチヨの髪を撫でるような仕草をした。
感覚はないはずだ。
けれど、ヤチヨは嬉しそうに目を細める。
「ねえ、ヤチヨ」
「んー?」
「彩葉に会うの、楽しみ?」
ヤチヨは一瞬、黙った。
それから、ふわりと笑った。
「楽しみ」
その答えは、あまりにもまっすぐだった。
「ずっと会いたかったから」
「……そっか」
よかった。
ちゃんと原作通りだ。
そう思ったのに、胸の奥が少しだけ痛かった。
最低だと思った。
かぐやが、ヤチヨが、八千年かけて会いたかった人に会える。
それは喜ばしいことのはずだ。
私だって、それを望んでいたはずだ。
なのに。
ほんの少しだけ、怖かった。
彩葉が来たら、私はどこに立てばいいのだろう。
かぐやにとっての主人公は彩葉だ。
ヤチヨが歌を届ける相手も彩葉だ。
物語の中心にいるのも彩葉だ。
私は何なのだろう。
八千年隣にいた人。
かぐやをひとりにしなかった人。
ヤチヨがここまで歩いてきたことを覚えている人。
それで十分なはずなのに。
「藤代」
ヤチヨが私の名前を呼んだ。
「なに?」
「ヤッチョはね、彩葉に会いたい」
「うん」
「でも、藤代にもいてほしい」
その言葉に、息が止まるような気がした。
「どっちも本当だよ」
ヤチヨは、少し困ったように笑った。
「かぐやは彩葉に会いたかった」
そして、私の手に自分の手を重ねるように触れる。
「でもヤチヨは藤代と生きてきたよ」
声が出なかった。
そんな言い方をされたら、私はもう逃げられない。
「だから、隠居とか言ったら怒るからね」
「……言ってない」
「言いかけた」
「洞察力やめて」
「やめなーい☆」
ヤチヨは得意げに笑った。
その笑顔を見て、私は思う。
ああ、やっぱりこの子を幸せにしたい。
かぐやを月に帰すとか、止めるとか。
原作を守るとか、壊すとか。
きっと、この先何度も悩む。
でも大事なのはそこだけじゃない。
彩葉に会いたいなら、会わせてあげたい。
でも。
ヤチヨとして生きた八千年を、なかったことにはしたくない。
もし彩葉がかぐやを未来に連れていく人なら、
私はヤチヨの過去に寄り添う人でありたい。
そう思った時、ブレスレットがまた熱を持った。
――もう一度。
その声が、はっきり聞こえた。
私は目を閉じた。
誰の声なのかは、まだ分からない。
私の声なのか。
それとも、もっと別の誰かの祈りなのか。
でも今は、それでいい。
私は藤代だ。
八千年、かぐやの隣にいた。
ヤチヨがここまで歩いてきたことを知っている。
それだけは、誰にも奪わせない。
「藤代、今度は泣きそうな顔してる」
「してないって」
「じゃあ、よしよししてあげる」
「立場逆じゃない?」
「たまにはいいのです☆」
ヤチヨはそう言って、笑った。
電子の歌姫は、八千年分の寂しさを抱えたまま、誰よりも明るく笑っていた。
私はその笑顔を見ながら、心の中で小さく呟く。
物語は、もうすぐ始まる。
私の知っている通りに進むのか、それとも、私がいることで変わるのか。
何もかも分からない。
でも、ひとつだけ決めた。
私はただの観測者ではいられない。
彩葉がかぐやを救うとしても、
私はヤチヨをひとりにしない。
そうして、ツクヨミの光が静かに瞬いた。
まるで長い長い夜明けの前触れみたいに。
ご覧いただきありがとうございます
超無理限界ギリのときに勢いで書きなぐったので至らない点もあるかと思いますが、物語の結びまでご覧いただけますと幸いです
感想も気軽にお待ちしております