藤の代にて月を思ふ   作:藤代

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八千年、隣にいた

最初の百年は、正直に言って、肉体が優れていても、脳の処理速度がハイスペック化していようが関係なく、精神が軽く崩壊するほどしんどかった。

 

百年。現代日本の感覚なら、人間が生まれてから老衰して大往生を遂げるまでの、ほぼ一生物の途方もない時間だ。

その一生分の時間を、何もない原始的な日本の片隅で過ごしてなお、私たちの終わりの見えない旅路はまだ始まったばかりという絶望的な事実に、吐き気がするほどの眩暈を覚えた。

私は、周囲の風景が様変わりし、人間の短い一生が砂時計の砂のようにあっけなく流れ落ちていくその様を、幾度となくその特等席で見届けることになった。

 

ただ、ただ、怖かった。

人間の人生はあまりにも短い。知識として、文字としては知っていたはずなのに、実際にその営みを現実で目の当たりにすると、質量が、重みがまるで違った。

昨日まで私の周りを無邪気に走り回って泥を投げつけてきた子供が、いつの間にか親になり、顔に深い皺を刻み、やがて冷たい土へと還って、いなくなる。

ようやく名前を覚えた人が、耳に馴染んだ声を持った人が、その優しさや温もりを覚えた人が、当たり前のような顔をしてこの世界の舞台から退場させられていく。

取り残されるのは、いつも変わらない形の私と、かぐやだけ。その残酷な境界線に直面するたびに、私も、かぐやも、子供のように声を上げて泣いた。

 

「ねぇ、藤代……。人間って、本当にすぐ死んじゃうね」

 

ある日、色褪せた夕日を見つめながら、ウミウシの姿のかぐやがぽつりと、掠れた声で呟いた。

 

「すぐ死んじゃうのに、すごくいっぱい生きた証を残していくの。……かぐやはね、その全部を、ちゃんと覚えててあげたいな」

 

その寂しげで、けれどどこか達観した横顔を見た瞬間、私の胸にドクンと強い衝撃が走った。そこに、未来の月見ヤチヨの輪郭を見た気がしたからだ。

明るくて、あざとくて、寂しがり屋で。誰よりも人との出会いを愛して、その後に訪れる別れの痛みを一人で抱え込もうとする、電子の歌姫。

 

ああ、そうか。歴史の必然か。

ヤチヨは、ある日突然、あの完成された電子の歌姫に変貌したわけじゃないんだ。

この何百年、何千年という果てしない時間のすべての摩耗が、彼女の涙が、彼女の祈りが、ゆっくりと彼女をあの月見ヤチヨという美しい存在に仕立て上げていくのだ。そう理解するほどに、私の体は重くなる。

 

私は未来を知っている。かぐやがどんな風にツクヨミで歌ったのか。ヤチヨとしてどれほど楽しそうに振る舞うのか。現代で彩葉と出会って、どれほど狂おしく惹かれ合ったのか。全部、全部知っている。けれど、結末を知っているからといって、その途中に横たわる地獄を、平然と耐えられるわけではなかった。

 

かぐやと過ごした長い時間の中では、本当に沢山のことがあった。

私はタイムラインを狂わせないよう、できる限り原作の歴史の流れを忠実になぞろうとした。アニメと小説で脳内に叩き込んだ公式のシナリオ。かぐやがいつ、誰と出会い、どんな出来事を経験し、いかにして心を動かされるのか。

私が異物として関わることで、未来の出会いが消滅するのが何よりも怖かったから、なるべく余計な主張はせず、歴史の観測者に徹しようとしていた。

まあ、かぐやはそれを許さず、結局いくつかは私も関わることになってしまったけれど……。

正直、とても楽しかった。日々がかけがえのないものにもなってしまっていた。

そんな生活の中で、いくつか不思議なことが起きた。

原作もメディアミックスでも詳しく描かれていないような細かい歴史の空白の出来事でも、なぜか何が起きるか何となく直感で分かってしまう瞬間が多々あったのだ。

既視感(デジャブ)というにはあまりにも鮮明すぎた。けれど、記憶というには前世の私のものではない。

運命。あるいは、どこかで。すでに経験しているかのような、不気味な感覚。その答えのない歪み(ノイズ)が頭をよぎるたび、決まって右手首のブレスレットが、不気味な熱を帯びるのだった。

 

けれど、いくら贅沢な脳細胞で考えたところで、明確な答えなど出るはずもない。

それに、もし答えが出たとして、それが私たちにとっての救いになるとも限らない。今の私にできる唯一の、そして最大の抵抗は、ウミウシの姿で私の服にしがみつくかぐやの傍に、ただただ寄り添い続けることだけだった。

 

現代の科学水準に至るまでの地球の人間は、信じられないほどに儚く、暴力に満ちていた。寿命による自然死だけでなく、愚かな戦争の歴史が、常に私たちの周りで血の匂いを振りまいていた。

人類のマス目は赤で埋まっている、それは平和な世で生きる私が百聞していた事であったが、一見なんてものではないほど繰り返し、刻み込まれた。

絶え間なく争いが起こり、昨日まで綺麗だった田畑が奪われ、炎に包まれる。誰かが大切な誰かを守るために剣を取って立ち上がり、そしてその誰かもまた、あっけなく戦火に消えていく。

 

かぐやはその都度、新しく出来た大切な人たちと出会っては引き裂かれ、そのたびに人間の儚さに涙を流し、血を吐くような感情を零した。私はその隣に居続けた。

 

あまりの悲惨さに大号泣するかぐやの横で、何も気の利いた言葉をかけてあげられず、ただただ小さくて柔らかい背中を優しく撫でることしかできない無力な日もあった。けれど、それでも――彼女を一人きりで、暗闇のなかで泣かせるよりは、何百倍もマシなはずだと、自分に言い聞かせるように思いたかったのだ。

 

そして数百年、数千年と時間が経過するにつれて、かぐやの会話の節々から、少しずつ、確実にヤチヨの輪郭が滲み出るようになっていった。

天真爛漫な明るさの裏に見え隠れする、底知れない寂しさ。あざとい軽口の奥に隠された、悲痛なまでの祈り。

人を無邪気に好きになる可愛さと、それを失う痛みをあらかじめ抱え込む、老練した達観。

私は彼女のその変化を、歴史通りに進んでいるという安堵と、彼女が壊れていくのを見ているような恐怖が綯い交ぜになった、複雑な心境で見つめていた。

 

「ねぇ藤代。かぐやさ、最近思うんだけど……歌って本当に凄いよね」

 

ある満月の夜、焚き火のパチパチという音をBGMにしながら、かぐやが言った。

 

「言葉だけだと、時間の流れに消されちゃうことが多いけど。歌にすると、ずっっっと残るんだよね」

 

火の粉が舞い上がる向こう側で、ウミウシから少しだけ本来の月人の神々しさを見せながら、かぐやは、遠い夜空を見上げていた。

 

「誰かが死んじゃってこの世界からいなくなっても、その人が大好きだった歌は、他の誰かに残るでしょ?それを誰かが口ずさめば、それだけで、死んじゃった人とも会えるんだ」

「……かぐやらしいね」

「そうかなぁ?えへへ、どっちかっていうとヤチヨっぽくない?ツクヨミの悩み相談配信のときとかの!」

 

あまりにもナチュラルに名前を出されて、私は一瞬、息を詰まらせた。

 

「……確かに。ちょっと今のヤチヨっぽかったかも?」

 

そう誤魔化すように言うと、かぐやは照れたように、けれどどこかすべてを見透かしたような目で嬉しそうに笑った。

 

「この一瞬を、最高の、パーティにしよ〜」

 

ずっと流れている思い出のメロディをご機嫌に歌いながら、こちらを振り向く。

 

「じゃあかぐや、いつか未来で、歴史に名を残すレベルのすごい歌姫になっちゃうかもね!」

「イメージに一点の曇りもないな……」

「だって、藤代がいつも、そうだねって顔でかぐやのことを見てるからじゃん?」

 

そう言って、彼女は太陽のように眩しく笑った。

この子は、時々こういう妙なところで恐ろしいほどに鋭い。

私は世界の未来を、彼女のこの先を知っている。その傲慢な秘密を、かぐやは決して責めようとはしない。けれど、私が隠している重さを、彼女はちゃんと繊細に感じ取り、こうして救い上げようとしてくれるのだ。

 

「だからさ、藤代。私がそのすごい歌姫になった時も、ちゃーんと一番近いとこで、私の歌を聞いててね?」

「……うん。約束」

 

時間の経過と共に、守れるかも分からない約束ばかりが、二人の間にどんどん増えていった。

重さに、私の心が耐えきれなくなるかもしれないのに。

 

 

───────

 

 

私自身、現代日本人として数千年という永遠に近い時間を、平然と受け入れられたわけでは決してない。

当たり前だ。私は本物の神でも月人でもない、中身はただの一般人なのだから。

肉体と細胞だけは、なんの因果か食事も睡眠も不要な化け物スペックになってしまったけれど、内面の心は、どうしようもないくらい矮小で脆い、人間のまま置いてけぼりだった。

それがいつの出来事だったのかは、もう記憶の彼方に霞んでしまって覚えていない。

一度だけ、精神の摩耗が限界を迎え、本気で深夜の海に沈もうとしたことがある。

今考えれば、本当に馬鹿みたいな自傷行為だ。月人ボディの特性上、溺死などできないかもしれないと分かっていて、それでも、この果てしない時間の牢獄と自責から逃げ出したくて、試さずにはいられなかった。

夜の海は、世界中のすべての絶望を溶かし込んだように真っ黒で、波の音だけが、やけに優しく私の身体を誘っていた。

 

(このまま光の届かない海の底に深く沈んで、何も考えなくてよくなれば、どんなに楽だろう……)

 

そう思いながら、私はただ重力に身を任せて、冷たい海水の中へと身体を沈めていった。

 

――けれど、世界は、どこまでも冷酷に私を生存させた。

肺が苦しくなる直前、感覚器官が勝手に作動し、呼吸の仕組みが皮膚呼吸か何かの未知の状態へカチリと切り替わる不気味な感覚があった。どれだけ深く潜ろうとも、凄まじい水圧も、骨を凍らせる冷たさも、私の肉体を破壊するほどの脅威にはなり得なかったのだ。

 

最悪だよ、本当に。死にたい時にまで、このクソチートボディを発揮しなくていいじゃん。なんでこんなに無敵なんだよ。

どれくらいの時間、そうして海の底に横たわっていたのかは分からない。

そういえば国民的漫画で、秘密の道具を使って深海を歩いて海を横断してたなーなんて思い出したら、少し笑えた。

私の周りを魚たちが泳ぐ度に、かぐやも同じ景色を見たのかななんて、くだらないことを考えていた。

その後は、冷たい砂泥に背中を預け、ただ泡が上へ昇っていくのをぼーっと見つめていた。頭が冴え渡っているせいで、悲しいかな、意識が混濁することすら許されない。

ようやく諦めて絶望の塊のまま浜辺へと這い上がると、そこには、全身を小刻みに震わせ、大粒の涙を流しながら私を待っているかぐやの姿があった。

 

「藤代の、ばか……っ!!!大ばか……っ!!!」

「……ごめん」

「かぐや、言ったじゃん……!置いてかないでって、絶対に一人にしないでって、何度も言ったじゃん……っ!!」

「……ごめんね、かぐや」

「やだ……やだよ……。かぐや、彩葉たちともみんなとも離れ離れになって、もしこれで、藤代までいなくなっちゃったら……もう本当に、完全に壊れちゃうよぉ……ッ!!」

 

泣き叫びながら私の足元に猛烈な勢いでしがみついてくる彼女を見た瞬間、私はどうしようもない恐怖と、それ以上の猛烈な愛おしさに襲われた。

私はずっと、原作知識を持つ歪み(バグ)として、この孤独なかぐやを少しでも支えてあげたい、彼女の避難所になってあげたいと思って隣にいた。

でも、違ったのだ。違っていた。

長い時間の中で、私たちはもうふたりで一つの塊になっていたのだ。どちらか片方が欠ければ、もう片方も連鎖的に崩壊する。そんな、共依存という名の、逃げ場のない美しくも悍ましい関係に、私たちは成り果てていた。

 

「藤代……。もし、ここが誰かの『物語』の世界でさ……」

 

かぐやは私の濡れた服に顔を埋めたまま、泣きながら、けれど酷く哀しそうに微笑んだ。

 

「本当の歴史には藤代なんていなかったとして……。きっと、藤代は今、かぐやが一人で壊れないために、神様がかぐやのためにここに置いてくれたんだよ……」

 

――そんな悲しいことを、この子に言わせたくなかった。

 

「だから……かぐやを助けてくれて、ありがとう。……そして、こんな辛い数千年に巻き込んじゃって、ごめんなさい……」

 

――そんな、すべてを諦めたような顔を、大好きな彼女にさせたくなかった。

 

私は、あなたたちのことが、この作品のことが、魂が擦り切れるほど大好きだったんだ。

画面の向こうのあなたたちを、何度も何度も涙を流しながらアニメを見て。グッズを買い漁って、アクスタを部屋に飾って、缶バッジを大切に集めて。

公式が描かない物語の余白さえ、そのすべてを知りたくて考察サイトも貪り読んで。

 

そうやって、前世の何の特徴もない平凡な私の人生は、確かにあなたたちに救われていたんだよ。彩られていたんだよ。

画面の向こうの推しに、私は確かに生かされていた。

だから、今ここに私がいる現実が、ただ誰かに都合よく用意された役割(バグ)だなんて、そんな悲しい風には思いたくもなかった。私は、私の意志で、あなたを愛してここにいるんだと叫びたかった。

 

「……私はね、かぐや。あなたとこの世界で出会えて、本当に良かったって、心の底から思ってるよ」

 

感情が高ぶりすぎて、声が激しく震えた。

 

「私は中身がただの平凡な人間だから、時々こうやって頭がおかしくなって死にたくなったりもするけれど。それでも、私がここにいられるのは、かぐやが、あなたという存在が、私の隣にいてくれるからだよ」

 

そう告げると、かぐやは私の震える言葉をすべて包み込むように、そっと寄り添ってくれた。

まだ小さくて、頼りないウミウシの身体。

でも、その微かな気配だけで、私のバラバラになりそうだった精神は、確かにこの世界へと繋ぎ止められた。泣きたくないのに、大粒の涙が頬を伝って砂浜に落ちていく。

そうか。この激しい感情の往復こそが、私たちが歩む『八千代』の、道中なんだ。

 

「藤代、もし未来で私のライブ見たらさ、嬉しすぎて、正気じゃいられなくなっちゃうかもよ?」

 

そんなふうに泣きながら明るく振る舞うかぐや。私の記憶の中にある電子の歌姫としての、ヤチヨの完璧なステージパフォーマンスを脳裏になぞって、私は涙を拭いながら少しだけ笑った。

 

「藤代。物語が始まっても、ずっと、ずっと一緒にいてね」

 

その言葉がどれほど狂気的な重さを含んでいるのか、かぐやは分かって言っているのだろうか。

いや、彼女はすべてを分かった上で、私の魂に呪いをかけているのかもしれない。私は、彼女のあの絶望に満ちた悲しい顔を二度と見たくなくて、何度も頷いた。

 

「もちろん。一緒にいるよ」

「ほんと?現代に戻って、かぐやが彩葉に会っちゃっても?」

「うん。かぐやと彩葉の、最高のめでたし(ハッピーエンド)、私もこの目で見届けたいからね」

 

それは、私が前世からずっと願っていた、オタクとしての究極の祈り。

そして、これから訪れる、私が何回も繰り返し画面の向こうで見た、願いの答え。

 

かぐやは安心したように目を細めて微笑む。私はその愛おしい笑顔を見つめながら、強く心に誓った。何があろうと、絶対に幸せにするんだ。

それだけが、私がここに存在する本当の理由なのだと。

 

 

 

───────

 

 

 

 ――そして、一番の問題が発生したのは、それから遥か後、歴史が随分と進んだ時代のことだった。

 

 もと光る竹。

 つまり、かぐやが地球に戻るために乗ってきた、そして衝突の衝撃で壊れてしまった宇宙船。

 知っているなら、これだけは絶対に何が何でも手元から離さず管理しておくべき最重要キーアイテムであることは一目瞭然だった。

 なのに、あまりにも長すぎる時間の経過による油断と、私の致命的な確認不足によって、そのオーパーツは、よりにもよって日本の歴史上、最高峰にセキュリティが厳重で、めちゃくちゃ面倒な場所へと回収され、保管されてしまっていた。

 

 そう。あの――『正倉院』である。

 

「ねぇ〜藤代〜?」

「……はい、何でしょうか」

「ぜんっぜん怒ってないのです☆」

「笑顔なのに威圧感やばくて、声のトーンやけに高いのは、ガチギレしてるでしょ……」

「怒ってないってば!ただね、私たちの大切な物が、地球の人間たちの間で国家レベルの超お宝☆として、厳重に奉納されてる状況が、あまりにもシュールすぎてウケる〜って思ってるだけだよ?」

「ウケてる場合じゃなくて完全なる大ポカ……あーもうどうしよ……」

 

この頃のかぐやは、ヤチヨのような雰囲気で喋ることも多くなった。

八千年ですり減った心に仮面を被り始めたのか、あの頃の思い出で必死に取り繕っているのか、彼女の真意は分からなかった。

まだ完全に完成された月見ヤチヨではない。けれど、昔の純粋なかぐやだけでもない。八千年の長い旅路の途中でしか見られない、あまりにも愛おしい変化の途中。

不謹慎ながら、私は彼女のその絶妙なグラデーションの時期も、たまらなく好きだった。

 

それはともかくとして、問題は正倉院であった。

原作の歴史通りといえばそうなのだが、正直他の出来事と比べてこれだけは深刻度が違うので、事前に対処しようと思っていたのだ。

まあ登場人物に会うなら普通に出来ると思うし、奪還に失敗した時が怖すぎるから。

 

文字面だけでもどう考えても面倒極まりないこの一件は、実際に現地に潜入してみると、原作の描写を遥かに超えてめちゃくちゃに面倒で危険なデッド・オア・アライブだった。

最初から肌身離さず持ち歩いていればこんな大騒ぎにはならなかったのだが、やらかしてしまったものは今更悔やんでも仕方がない。そもそも、常に巨大なメタリックタケノコを背負って古びた日本を放浪するなど、どう考えても不審者極まりない不審物なので、当時の私に持ち歩くという選択肢はなかったのだ。

結果として、私たちはもと光る竹・奪還作戦という、八千年の歴史の中でも、指折りに色濃く、スリリングな記憶になる極秘ミッションへ文字通り命がけで挑むことになった。

 

「……いや、これ完全に『超かぐや姫!』じゃなくて、ハリウッド系のスパイアクション映画なのでは?」

 

厳重な正倉院の警備陣形と赤外線(センサー)の配置を確認しながら、私はあまりの場違い感に真顔で呟いた。

てかこの世界の正倉院って普通じゃないだろ。なんでこんなことになってるんだよ。国宝だし宝庫だけど、どう考えても過剰防衛過ぎる。

 

「いいじゃんスパイ映画!外伝だね!スピンオフ!」

「そういう明るいノリで言えば、この最高峰のセキュリティが何とかなると思っておられる?」

「なるなる!かぐやにかかれば勝ち確〜☆」

「ならないんだよね!胃に穴が空きそう!」

 

 しかも、というかやっぱり、いざ潜入してみると、ただ守衛の目を盗んでコソコソ忍び込んで終わり、という生易しい難易度ではなかった。

 明らかに常人の域を超えた、訓練され尽くした無駄のない動きで私たちを迎撃してくる謎の集団がいたのだ。

ただの守衛とか、そういうレベルではない。彼らはどう考えても、もと光る竹がただの骨董品ではなく、この世界の理を狂わせかねない超常のオーパーツ(地球外の技術)であることを明確に理解し、管理している側の組織の人間だった。というか他にも保管されてる重要なオーパーツがあるぽいし、え、この世界の裏でなんか巻き起こってたりする?

原作の裏には、こんな不気味な勢力も潜んでいたのかと戦慄してしまった。

 

 そこからは、息をもつかせぬ怒涛の肉弾戦(バトル・アンド・バトル)だった。前世がただの一般人である私のヘタレ精神では、どう考えても一瞬で脳がキャパオーバーして処理しきれない無理ゲー任務だった。……けれど、結果から言えば、何とかなってしまったのだ。

 

 その最大の成功要因は、作戦決行の前夜、あまりのプレッシャーに耐えかねて、とあるバーで私が「あー!無理!正倉院とかガチ詰みじゃん!」と頭を抱えて騒いでいた時――。

原作でも最高の聖人、作中最強(予想)にして最大のチート級の頼れる兄貴分である、あのワインニキ(カーターさん)と奇跡の邂逅を果たし、なんやかんやで協力関係を結べたことにあった。

 

いや、本当に、本物の生ワインニキだった。バーのカウンターの向こうで不敵にグラスを傾ける彼の姿を見た瞬間、私の脳内オタク全細胞が総立ちになり、スタンディングオベーションで大絶叫した。

 

(本物だ……ッ!!ワインニキだ……ッ!!ガチのファンでっ!!本当に本当に大好きです!!!)

 

実際に彼の圧倒的な戦闘能力と、大人の余裕に満ちた華麗な活躍を目撃して、私は確信した。この人の主役のスピンオフ映画を今すぐハリウッドで一本制作してください。いや、絶対に作るべき。必要です。現代人類のメンタルヘルスには、圧倒的にワインニキの成分が足りていない。

 

もちろん、そんな限界オタクの妄想の濁流を本人の前で口に出せるはずもなく、私は脳の演算速度をフル稼働させて、必死に「協力感謝します」と冷静沈着なハイスペックエージェントを装い続けた。……まあ、装えていたかどうかは、甚だ怪しいけれど。

 

「藤代〜?さっきからワインの人を見るたびに、顔の筋肉がピクピクしてて凄く変だよ?」

「……黙っててかぐや。推しを至近距離で浴びせられたオタクの、必死のポーカーフェイスを舐めないでほしい」

「舐めてないってば!でも、やっぱり顔が変!キモい!」

「やめて!!心が大ダメージを受けてるから分かってて言わないで!?」

 

激しい銃撃戦と格闘の末、ワインニキと共にミッションを完全コンプリートした瞬間、背後で派手な大爆発(お約束)が巻き起こる中、私は興奮と感動のあまり普通に号泣していた。深夜の正倉院で、爆風に髪を揺らせながら涙を流す女エージェント。どういうカオスな状況だよ。てか建物は無事なんかい!自分でも最後まで自分の情緒が本当によく分からなかった。

ちなみに、私の隣で、ウミウシの姿のかぐやも「うぉぉぉおぉ!」と一緒に大号泣していた。

彼女が泣いている理由はもと光る竹が戻ったのとなんかアクション映画みたいな出来事への感動であり、私の理由はワインニキが尊すぎるというオタクの限界突破だったので、感動のベクトルは180度違ったけれど、まぁ泣いているという結果自体は同じだったので、すべて問題なしということにした。

ミッション終了後、あまりにも鮮やかすぎる私たちの身のこなし、主に月人ボディの有能さを見込まれて、なんと私だけでなくかぐやまで、「……君たち、私の組織、CIAに来ないか?」と大真面目にスカウトされてしまった。

 

「いや、ここで急に世界規模のガチガチの組織名が出てくるの怖すぎるでしょ!!」

「いいじゃん藤代!向いてそうだし、エージェント・フジヨって響き、なんかカッコいい!」

「どれだけ向いていたとしても八千年の途中でCIAの社畜になるなんて嫌すぎなんですけど!?」

 

私は食い気味に、全力でその誘いを秒でお断りした。断った理由は、考えるまでもなくシンプルだ。

かぐやの側にいる。彼女を絶対に一人にしない。私の行動原理は、最初から今まで、それ以上でも以下でもないのだから。

断られたアプローチに対しても特に執着せず、「まぁ、気が変わったら連絡してくれ」と映画のワンシーンのような極上の笑顔でかぐやへ熱い眼差しを向けたまま、去る前に例の名言を放ったワインニキの後ろ姿を見送る時、私はその尊さにまたしても涙を流したのだった。

やっぱ、かぐやのこと好きだったのかな……ウミウシ状態でこの人たらしなの、ほんとに恐ろしすぎるなと思った。

 

───────

 

 

それからまた、怒涛の勢いで時代は進み、地球の文明は私たちの想像を超えるスピードで加速していった。

電気の普及。通信網の発達。コンピューターの誕生。そして、世界を革命するインターネットの到来。

人間という生き物は、本当に、凄まじいバイタリティを持っていた。何度も戦争で世界を滅茶茶苦茶に破壊しかけて、それでも、その度に瓦礫の中から新しい何かを積み上げていく。核とか使いはじめた時はもう本当に終わりだと思ったけれど、壊して直して争い合って、それでも繋がりたいと願ってネットワークを構築し、また誰も見たことのない新しい概念を作り出す。

かぐやはその人類の目覚ましい進化の歴史を、ガラスケースを覗き込む子供のように、瞬きも忘れて食い入るように見つめ続けていた。

そして、インターネットが一般家庭にまで普及し始めてしばらくした頃――彼女はデジタル世界の奔流のなかで、ようやく、自分自身の真実へと辿り着いた。

 

月見ヤチヨ。

彼女がいつか必ずなるべき、完成された姿。

 

「……私なんだね」

 

モニターに映し出される、ツクヨミの初期プロトタイプのデータ構造と、未来の自分のアバターの設計図を見つめながら、かぐやはぽつりと呟いた。

その声は、私が予想していたよりも、ずっと、ずっと静かで、深い響きを湛えていた。

 

「藤代は、最初から全部……知ってたんだ」

「……うん。……それが、輪廻なんだって事も」

「かぐやは、ヤチヨになって……彩葉とまた会うんだね」

 

かぐやは、しばらくの間、じっと画面を見つめたまま黙り込んでいた。

未来の自分の姿を知って、大号泣するかもしれないと思った。最悪の場合、私に「何で今まで黙ってたの!」と怒るかもしれないとすら覚悟していた。

でも、そのどれでもなかった。

かぐやは青白いモニターの光にその顔を照らされたまま、ゆっくりと、八千年分の重みを含む深い息を吐き出した。

 

「――じゃあ、ちゃんとならなきゃ」

「ならなきゃって……」

「だって、未来のヤチヨが、彩葉のためにこんなに一生懸命頑張ってたんでしょ?だったら、今の私も、その未来の私に負けないくらい、もっともっと頑張って準備しないとね!」

 

その日を境に、彼女は少しずつ、自覚的にヤチヨとして振る舞うようになっていった。

もちろん、そう決意したからといって、ある日突然、非の打ち所がない電子の歌姫になれたわけでは決してない。中身は相変わらず、私の大好きな不憫でワガママなかぐやのままなのだから。

 

「ねぇーーーぇぇぇ!!!藤代ぉぉぉ!!!ヤッチョ本気で謝るからさぁ!!ごめんて!本当にごめんなさいなのです☆ だから、お願いだからそのPC返してよぉぉぉ!!」

「ダメです。絶対に返しません。ネットの掲示板で、一般ユーザー相手に匿名で本気のレスバトルを繰り広げるのをやめなさいって、私は何度も言ったよね!?」

「だって!! あいつらヤッチョのこと何にも分かってないんだもん!! カス全員を論破して、言い負かすまで画面の前から動けない病気なの、今のヤッチョは!!」

「ここだけ見たら、電子の歌姫への進化の過程というより、ただのネット中毒の廃人にしか見えないんだよなぁ……」

「廃人じゃないし!! これも未来のためのヤチヨへの進化プロセスだし!!」

「進化先がレスバ最強の荒らしとか、ネットの歌姫としてイメージが最悪すぎるでしょ!?」

「勝てば官軍! 論破すれば大正義なのです☆」

「そのろくでもない方向のスラングと知識を、一体どこのスレッドで覚えてきたんだよ……」

 

ヤチヨという生命体は、悲しいかな、インターネットという広大で歪んだ仮想世界との相性が、あまりにも良すぎた。

月人としての尋常ではない情報吸収速度と旺盛な好奇心、そして何より、感情のまま遮二無二突撃していく負けず嫌いな部分が最悪の化学反応を起こした結果、つまり、まぁ……信じられないほど頻繁にネットで炎上しかけていた。

てか何考えて昔の日本の食事の話なんてしてるんだよ……食べられないのに……。

たまにスレッドに闇の部分が見える度に、私は彼女とのスキンシップが多くなったりした。

私は彼女の黒歴史を阻止するため、保護者よろしく何度もPCの電源プラグを引っこ抜いては本体を没収したのだが。

そのたびにヤチヨは、私の腰や腕に全力でしがみついてきて、涙を浮かべたウルウルの上目遣いと、あざとい甘え声、そして天才特有の屁理屈のすべてをフル稼働させてPCを取り返そうと画策した。

正直に白状すると、私は毎回、精神が消し飛ぶレベルで敗北しかけていた。だって、画面の向こうの最推しが、リアルの至近距離で、潤んだ瞳で自分におねだりしてくるのだ。これに耐えられるオタクが存在するなら、今すぐ連れてきてギネスに申請してほしい。

でも、未来の私の大好きな月見ヤチヨの黒歴史(デジタルタトゥー)は、何が何でも私が未然に防がなければならない。それもまた、八千年間、彼女の隣にいる者の最も重要な役目なのだから。

そんなドタバタした日常の合間、あまりにも退屈で暇な時間には、ヤチヨから月人由来の超高度なプログラミングや、異星の演算概念を教えてもらうこともあった。これから訪れるツクヨミという未来のために、私たちは二人三脚で、発展していく人間の最新科学を狂ったように吸収し続けた。

ヤチヨの脳の理解速度は、文字通り尋常ではなかった。

月人という存在の基本スペックなのか、あるいは彼女自身が持つ天才的なプログラマーとしての才能なのか。おそらくはその両方なのだろうけれど、彼女は数万行のコードを数秒で理解して改変してみせた。そして私自身も、この月人ボディとブレスレットの影響なのか、本来の平凡な私の脳みそでは絶対に理解できるはずのない量子力学や、仮想空間の構築概念が、どういうわけか感覚的に噛み砕けて理解できてしまう瞬間が多々あった。

けれど、その超技術のコードを書き換えるたび、決まって頭の奥で、あの不気味な白い研究室のヴィジョンが激しくちらつくのだった。

顔の見えない誰かが、血の滲むような指先で端末を覗き込み、何かを必死に解析している。

私の前世の記憶には絶対に存在しないはずの光景が、時折、脳細胞の底からノイズのように鮮明に浮かび上がっては消えていく。

 

「……藤代? 顔色が真っ白だよ。無理しちゃ、絶対にダメなのです」

 

キーボードを叩く私の手が止まった瞬間、ヤチヨが心配そうに私の顔を覗き込んできた。

 

「……あはは、ありがと。でもそれ、この八千年間で一番無理をしてるヤチヨにだけは、絶対に言われたくないセリフかも」

「えー? ヤッチョはいつでも、1ミリも無理なんてしてない、元気いっぱいの電子の歌姫なのです☆」

「今のヤチヨの発言、ツクヨミのアーカイブに永久保存して人類全員に晒しあげたいくらい、特大の嘘だね」

「ひどいっ! 藤代のいじわるー!」

 

そうやってお互いに笑い合いながら、私たちは時間の濁流を突き進んだ。最後の百年ほどで、人類の科学技術は文字通り爆発的な劇的進化を遂げた。

そして、スマートデバイスの進化という時代の風にも助けられ、私たちはついに、八千年前から計画していたスマコンとツクヨミのプロトタイプを、完璧な形で現実世界に具現化させることに成功したのだ。

これが真の意味での完成と言っていいのかは、私には分からない。原作で見た、あのきらびやかな仮想空間に近い形にようやく辿り着いた、という表現の方が正しいのかもしれない。それでも、私たちが血と涙で作り上げたこの場所は、本来の歴史のツクヨミと何一つ遜色のない、完璧なものだった。

――ツクヨミの輝くコンソールを前にして、私は、思考の海へと落ちる。

私が隣にいて、一緒に作業を分担して、愚痴を言い合って、メンタルを支え合ってすら、ここまで辿り着くのに八千年間、これほどまでに過酷で、大変で、何度も心が折れそうになったのだ。

もし、本来の原作通りだったら……。

藤代という存在がいない本来の世界線で、月見ヤチヨは、たった一人きりで、この八千年間という気が狂いそうな孤独の闇を歩み続け、この膨大なツクヨミのシステムを独力で組み上げたというのか。

そう考えた瞬間、私は彼女の背負った孤独の悍ましさに、胸が潰れそうになるほど苦しくなった。本来のヤチヨは、一体どれほど、ボロボロに壊れながら無理を重ねていたのだろう。

 

「ついに……ついに来たね、藤代。ここまで、やっと辿り着いたんだよ……」

 

完成したツクヨミの街並みを見つめながら、ヤチヨが静かに、本当に静かに呟いた。

 

「……うん。ヤチヨが、八千年間あきらめずに、死ぬほど頑張ったからだよ」

「謙遜は健康に良くないのです!」

 

ヤチヨがふわりと振り返る。

そこにいたのは、前世の私が画面の向こうで何度も見て、その美しさと愛の深さに魂を救われた、あの完璧な『電子の歌姫』――私の記憶の中にいた月見ヤチヨと、全く同じ神々しい姿で、彼女は私に向かって笑っていた。

 

「藤代が、あの日からずーっと、私の隣にいてくれたから……。だからヤッチョは、壊れずにここまで来れたんだよ?」

「……ううん。その感謝の言葉はさ、私じゃなくて、未来で出会う彩葉に言ってあげてよ」

 

自嘲気味な笑みと共に、私の口から、淀みなく自然にその言葉が出た。

私にとって、酒寄彩葉という少女は、この世界における絶対無二の主人公だ。

かぐやが八千年の地獄を生き延びてでも、どうしても会いたかった最愛の相手。

ヤチヨがその魂のすべてを込めて、歌を届けたかった唯一無二の光。

この美しい物語の中心(センター)に座るべき存在は、私のような居候ではなく、彼女たちなのだから。

 

すると、ヤチヨは私の言葉を聞いた瞬間、少しだけ寂しそうに目を細めた。けれど次の瞬間には、いつものように大袈裟なジェスチャーで、プンプンと両手を頬に当てて怒るリアクションをしてみせた。

 

「もーーー! そうやって藤代がすぐに自分なんてみたいな顔をするからヤッチョは本気で怒るのです! プンプンなのです☆」

 

誇張されたリアクション。それが、今の私には、不器用なほどに優しく、愛おしく見えた。

ツクヨミの空間のなかに立つ私の姿も、現在はツクヨミ仕様のアバターへと同期している。

原作の綾紬芦花のアバターをベースにしながら、八千年の歳月を経て少しだけ大人っぽく、洗練されたシルエットに改変した姿。そして髪色は、あの日の海岸からずっと変わらない、淡く光る藤色。芦花に似ているけれど、芦花ではない、世界で私だけの、藤代としての大切な色(アイデンティティ)

そんな私の元へ、ヤチヨはいつものように境界をゼロにする距離感で、背中からふわりと抱きつくようにくっついてきた。

 

「実はね、藤代。このツクヨミのアバターの姿を見て、魂の深いとこで、思い出しちゃったんだ」

「え……? それって、どういう……?」

 

途端に、心臓の奥で嫌な予感が激しく警告(アラート)を鳴らし始めた。

ヤチヨは私の背中に顔を埋めたまま、にこにこと、逃がさないとばかりに妖しく笑っている。

 

「――藤代もね、この世界の輪廻のなかに、がっちり組み込まれてるみたい」

「……」

 

輪廻に、組み込まれている。

その言葉の持つ意味を、ハイスペックな脳細胞が瞬時に演算し、一つの恐るべき結論を導き出す。

つまり、少なくともこの世界線は、私という存在が最初からタイムラインに介在している形で、一度どこかの結末へと辿り着き、そしてループの中で――今の私に繋がっているということだ。

それは、本来であれば、自分の存在理由を全肯定されるような、何よりも安心できる救いの話のはずだった。私の存在は原作を破壊するバグではない。むしろ、私がここで藤代として生きること自体が、この世界線の正しい流れの一部なのだと。

でも、同時にそれは――私にとって、最大の逃げ道が、完全に消滅したことを意味していた。

私はもう、ただの外野ではいられなくなったのだ。物語を画面の向こうから遠くで見守って「尊いなぁ」と涙を流すだけのオタクではいられない。この世界の歴史の地層に、滲むような藤代という存在の楔が、すでに深く刻み込まれてしまっているのなら。

 

「藤代〜?だいじょぶ?システムエラーの顔になってる」

「……なんか、前世を含めて人生で一番、嫌な冷や汗をかいてる気がする。全然、だいじょばない……」

「えへへ、ヤッチョ的には、藤代が逃げられなくなってめーーっちゃ嬉しいんだけどな〜♪」

「何でそんな怖いこと言うのさ……」

「だって、藤代がいてもいいって世界に言われたみたいで、素敵なのです☆」

 

ここに、いてもいい。

その言葉は、自分の存在をずっと罪悪感のように捉えていた私の心の最奥に、思っていたよりもずっと、深く、深く突き刺さって抜けなくなった。

私は八千年間ずっと、自分のことをバグだと思っていた。本来の綺麗な原作を歪めてしまうかもしれない、ただの癌だと。

だから、隣にいる資格なんて、本当は私にはないのかもしれないと、心のどこかでずっと怯えていたのだ。

でもヤチヨは、そんな私のヘタレな心の傷を見透かすように、当たり前のような顔をして、私の手を握り、隣に居座り続けてくれた。

 

「……ねぇ、ヤチヨ。私はさ……本当に、私が隣にいて、良かったの? 本物の芦花じゃなくて、彩葉じゃなくて、こんな中身の私で、本当に良かったの……?」

「良かったよ。そんなの、決まってる」

「即答じゃん。……少しは迷ってよ」

「迷うわけないでしょ? だってこれが、私の八千年分の答えなんだもん」

 

重い。あまりにも、魂が圧し潰されそうなほどに重い言葉だった。

でも、その底なしの重さが、今の私には、泣きたくなるほど嬉しかった。

 

「ヤッチョはさ、藤代がいつも言ってる原作とかいうの、なーんにも分からないのです☆」

 

ヤチヨは私の隣に滑り込むようにして、その華奢な身体をふわりと完全に預けてきた。

 

「だって、私の知っている未来(セカイ)のなかにはさ――最初から、藤代がいたんだ。あなたがいない未来(セカイ)なんて、ヤッチョは認めないのです」

 

私は、手首のブレスレットをそっと指先で見つめた。

 

「……まぁ、ヤチヨにそこまで言ってもらえるなら、これ以上の光栄はないけどさ。正直、物語が始まったら、私はお邪魔虫だし、邪魔しないようにどこかの田舎で隠居しようかと思ってたし……」

 

私がそう口にした瞬間、ツクヨミの空間の空気が、一瞬で凍りついた。

ヤチヨの身体から、ゾクッとするような、底知れないドス黒い圧がハッキリと滲み出てきたのだ。

 

「――藤代〜?」

「……は、はい。何でしょうか、ヤチヨさん」

「ヤッチョはね、藤代が隣にいないと、もう、ダメになっちゃうんだよ……?」

 

そう言って、彼女は後ろから私の首筋にその細い腕を回し、絶対に離さないとばかりに強く、強く抱きしめてきた。

電子のグラフィックの姿には、現実の肉体のような確かな体温はないはずだった。それなのに、彼女から伝わってくるその存在感と情念は、どんな現実の人間よりも熱く、重く、私の魂を束縛していた。

 

「……ヤチヨ?」

「もーー! 難しい話は終わりなのです! また、いつものみたいにヤッチョのこと、よしよししてよ〜!」

「……はいはい、了解。よしよし、偉いねヤチヨは」

 

彼女は私の背中からぐるりと前になだれ込んでくると、流れるような手慣れた動きで、私の太ももの上にその白い頭を乗せ、膝枕の体勢をとった。

八千年間で何千回と繰り返してきた、二人の間のいつものやつである。

私がある程度ネットの知識も共有できて、前世の作品の思い出話もできるオタクだと理解するや否や、ヤチヨ――いや、当時のかぐやは、秒の速さで私に限界まで懐いてくれた。

言い方はかなりアレだが、彼女は持ち前の天性の人たらし力(愛されギャルパワー)を、私に対して遺憾なく存分に発揮してくれたのだ。

結果として、果てしない八千年の旅路の中で、この膝枕のやり取りは二人の最大の心の安全基地となり、暇さえあれば、こうして私にぴったりとくっついて甘えて過ごすことが日常になっていた。

私自身も、作品全体を愛する箱推しのオタクではある。箱推しではあるけれど、もし誰が好きかと閻魔大王に魂を突きつけられて尋ねられたら、迷わず「かぐやとヤチヨ」と即答する自信があった。

あ、やっぱり彩葉も好きです。芦花も真実も帝も乃依も雷も好きです。オタ公も乙事照も好き。なんなら紅葉さんも好きです。話が逸れた。

なので、この至高の甘えられタイムは、オタクとしては全くもって満更ではない。

というか正直に言って、眼福の極みだし、私の全人生のご褒美がここに詰まっていると言っても過言ではなかった。

こんな他愛のない、けれど温かい日々が、電子の海の片隅でずっと、ずっと続けばいいのにと、心の底から思ってしまう。

八千年もこの世界を生きておいて、今更永遠なんていう青臭い幻想を信じているわけではない。

出会いがあれば、必ず悲しい別れがある。始まりの鐘が鳴れば、いつか終わりの幕が降りる。

そんな当たり前の諸行無常は、何百世代もの人間の生と死を見送る中で、嫌というほど痛感させられてきた。

この隔離されたツクヨミの片隅で、ヤチヨがくだらないネットのレスバやワガママで大騒ぎして、私が「はいはい」とそれを優しくなだめて、たまに二人で大昔の思い出話に花を咲かせて。

そんな愛おしい時間が、あとほんの少しだけ続いてほしいと、願わずにはいられない。

けれど――刻一刻と、その運命の、始まりの時は近づいている。

かぐやが彩葉と出会うための、物語。

 

「ねぇ、藤代」

 

ヤチヨが私の膝の上でゴロゴロと頭を動かしながら、長い睫毛に縁取られた瞳で、じっと私を見上げてきた。

 

「また難しい顔してる。何考えてるの?」

「……あはは、顔に出てた?」

「出てたのです! ヤッチョは藤代の顔をね、もう八千年間も隣で見続けてるんだよ? 分からないわけがないのです☆」

「う……その圧倒的な年月の暴力を引き合いに出されると、何も反論できないな……」

 

私は降伏の証として、彼女のサラサラとした美しい白髪に指を入れ、ゆっくりと、愛おしさを込めて優しく撫でた。

ヤチヨは猫のように気持ち良さそうに目を細める。その彼女の無防備な表情を見つめていると、私の喉の奥から、抑えきれなかった本音の言葉が不意にこぼれ落ちてしまった。

 

「……ヤチヨ。彩葉に会えるの、楽しみ?」

 

その名前を口にした瞬間、ヤチヨの身体が一瞬だけ、静かに張り詰めた。

それから彼女は、いつものあざとい歌姫の仮面を外し、はるか遠い過去を愛おしむような、ふわりとした、本当に綺麗な少女の笑みを浮かべた。

 

「――うん。めーーっちゃ、楽しみ」

 

その答えには、一切の迷いも、濁りもない、あまりにもまっすぐで純粋な愛が満ちていた。

 

「だって……ずっと、ずっと、八千年間も会いたくて、生きてきたんだもん」

 

(……良かった。本当に、良かったな)

 

心の底から、そう思った。

かぐやが、ヤチヨが、この地獄のような八千年の孤独を生き抜いて、ようやく会いたかった最愛の人に会える。

それは一人のファンとして、何よりも喜ばしいことであり、祝福すべき大団円(ハッピーエンド)への一歩のはずだ。

私だって、ずっとその未来のために彼女の隣で戦ってきたはずだった。……なのに、どうしてだろう。私の心の奥底は、冷たい包丁で抉られるような、悍ましい恐怖に支配されていた。

いざ、本物の主人公である酒寄彩葉がこのツクヨミにやってきた時――私は、一体どこに立てばいいのだろう。

かぐやにとっての絶対の光は彩葉だ。ヤチヨがその命を賭して歌を届けるべき相手も彩葉だ。この美しい『超かぐや姫!』という物語の中心で輝くべきなのは、彩葉なのだ。

じゃあ……私は、何なのだろう。

八千年間、歴史の空白期間の隣にいた人。かぐやを一人で寂しく泣かせなかった人。

ヤチヨがここまで歩んできた血と涙の歴史を、知っている、役割の終わった観測者。

それで十分なはず。それ以上の贅沢など望むべくもない。……頭では分かっているはずなのに、どうして、こんなにも胸が痛くて、涙が止まりそうにないのだろう。

 

「――藤代」

 

私の心の決壊を察知したかのように、ヤチヨが私の名前を、強く、強く呼んだ。

 

「私はね、彩葉に会いたい。それは、絶対に譲れない私の八千年の祈りだよ」

「……うん、分かってるよ」

「でもね――それと同じくらい、藤代にも、私の隣にずーーーっといてほしいの」

 

そのあまりにも強欲で、あまりにも優しい言葉を食らって、私の呼吸が完全に停止した。

 

「かぐやのワガママだけじゃなくて、ヤチヨとしての、今の私の本当の本音。どっちも、真実なのです」

 

ヤチヨは私の膝の上から起き上がると、少し困ったように、けれど絶対に私を逃がさないという強い執着を瞳に宿して微笑んだ。

 

「かぐやはね、彩葉に会いたかった」

 

そして、私の右手を取り、その冷たい金属のブレスレットを包み込むように、自分の両手でギュッと力強く重ね合わせていく。

 

「でもね……今の月見ヤチヨという存在を形作って、一緒に泣いて、一緒に笑って、今日まで一緒に生きてきてくれたのは――他でもない、藤代、あなたなんだよ?」

 

 

「ヤチヨは、ずっと藤代と生きてきたよ」

 

 

――そんな、そんなずるい言い方をされたらさ。私はもう、隠れることすら許されないじゃん。

 

「だからさ、物語が始まったからって『やっぱ隠居します』なんて言ったら、ヤッチョ本気でツクヨミの全データを使ってでも怒っちゃうからね?何するかわかんないよ?」

「その恐ろしい能力今すぐアンインストールしてほしい……」

「やーめーなーい☆ずっと藤代のことハッキングし続けてあげるのです☆」

 

ヤチヨは勝ち誇ったように、いつものあざとい、最高に可愛い笑顔でいたずらっぽく笑った。

その無邪気な笑顔の裏に隠された、八千年の孤独に耐え抜いた彼女の圧倒的な感情を見つめながら、私は覚悟を決めるように深く息を吐いた。

やっぱり、何があろうと、世界を敵に回そうと、私はこの子を幸せにしたい。

きっと、これから原作のシナリオが始まれば、私は自分の存在の不確かさに何度も悩み、苦しむことになるのだろう。

でも、大事なのはそんな高尚なものなんかじゃない。

もし、主人公である酒寄彩葉が、かぐやを眩しい未来へと連れて行ってくれる人なのだとしたら――。

私は、ヤチヨが歩んできた果てしない過去の孤独に寄り添ってきた。肯定してあげるための存在でありたい。

 

そう心の中で強く誓った瞬間、まるでここにいる経緯をすべて肯定するかのように、手首のブレスレットが、ドクン、とこれまでで一番激しく、熱い拍動を上げた。

 

『――もう一度。今度こそ、最高のめでたしを――』

 

脳の最奥で、あの知らないはずの、けれど愛おしい誰かの叫びが、今度ははっきりと鼓膜に響いた。私はその祈りを受け止めるように、静かに両目を閉じた。

これが一体誰の声なのか、その因果の全貌はまだ今の私には分からない。

狂おしいほどの祈りなのか。それとも、時空を超えた執念の歪み(バグ)なのか。

でも、今は、そんな答え合わせはどうでもよかった。

私は藤代だ。八千年間、どんな時も隣にいて、その背中を支え続けた存在。

月見ヤチヨがどれほどボロボロになりながらここまで歩んできたのかを、世界で一番よく知っている、彼女の守護者(オタク)

共に歩んだ日々、それだけは誰にも絶対に奪わせはしない。

 

「あ〜!藤代、今にも泣き出しそうな、エモーショナルな顔してるのです!」

「してないってば。私涙腺の管理も完璧だから」

「嘘つき!じゃあ、今度はヤッチョが、藤代のことをいーっぱいよしよししてあげる!」

「立場が完全に逆でしょ。私が保護者のはずなんだけど……」

「たまには甘やかされる側になってもいいの☆八千年分♪」

 

ヤチヨはそう言って、私の胸元に顔を寄せ、世界で一番眩しく、明るく笑った。

電子の海の偉大なる歌姫は、その内側に八千年分の底知れない孤独と喪失を抱えたまま、誰よりも、私のために明るく笑ってくれていた。

私はその愛おしい笑顔をこの目に焼き付けるように見つめながら、心の中で、静かに始まりの鐘の音を聞いていた。

私たちの歩む物語は、これから一体、どんな風に進んでいくのだろう。

ツクヨミの光の粒子が、長い長い夜明けの訪れを告げるように、静かに、けれど力強く瞬いた。




ご覧いただきありがとうございます
超無理限界ギリのときに勢いで書きなぐったので至らない点もあるかと思いますが、物語の結びまでご覧いただけますと幸いです
感想も気軽にお待ちしております。

追記、改稿いたしました。
ちょっと描きにくかったのと、プロットを練り直して改めて書きます。旧版の雰囲気が好きな方はごめんなさい!
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