スマコンが人類史に登場するまで、八千年かかった。
嘘、私達調べである。正確にはどこから数えるかにもよる。
私たちがこの世界に来た頃には、すでに縄文と呼ばれる時間は始まっていたし、人類の歩みそのものはもっとずっと前から続いていた。
石を握り、火を扱い、土を焼き、鉄を打ち、文字を刻み、海を渡り、国を作り、壊し、また作り直す。
人類は何度も失敗した。
何度も取り返しのつかないことをして、それでも気が狂うほどしぶとく積み上げてきた。
その果てに、ようやく辿り着いたのだ。
掌の上に、小さな月を持つ時代へ。
スマコン。
スマートコンタクト。
コンタクトレンズ型のVRデバイス。
VRといえば、でっかいゴーグルを頭に装着するものだと思っていた私にとっては、正直ほとんどオーバーテクノロジーだった。
というか、原作を見るまで、VRをコンタクトで実現するなんて発想自体がなかった。
月人技術と現代科学の合わせ技。
浪漫と狂気と資本主義の結晶。
その利便性の高さは、一度触れた人間の常識を塗り替えた。
発売初日、即完売。追加生産分も即完売。
SNSでは購入報告と落選報告が入り乱れ、転売価格は倫理観を置き去りにして跳ね上がり、世間は一気に次世代デバイスの名前を覚えた。
前世で散々見てきたのを思い出した。モノ売るってレベルじゃねえぞ!
スマコンは、完全に次の地位を手に入れた。
人類に新しい歴史が増えたことは確かだった。
現実の上に、もうひとつの現実を重ねる窓。
そしてそこから、その世界へと入り込む
仮想空間ツクヨミ。
夢と希望の集まる場所。
……なんて言うと、少し綺麗すぎ。
実際の開発画面は超泥臭かった。
てかだいたい地獄だ。
そもそも、もと光る竹なんていうオーパーツを現代のデバイスに繋げようとしているのだ。
数世紀どころか、この世界でも数千年先、むしろ人類が繁栄している間にたどり着くかさえ分からない技術を、現代の半導体と規格に根性だけで無理やり噛み合わせているようなものである。
元が最強でも、現代の機械側がついて行くのが精一杯だった。
これ原作でも相当無茶してただろうなぁ。
同期ズレ。
アバターの一部欠損。
意味の分からない場所に湧くオブジェクト。
バグ。バグ。バグ。
なぜか増殖するフシ。
「フシが十二体いる……」
管理コンソールの前で、私は呆然と呟いた。
画面の向こうでは、十二体のフシがぷるぷる震えながら、円陣を組むように並んでいた。
何をしているのかは分からない。
たぶん本人たちも分かっていない。
「縁起いいしかわいいのです!」
隣からヤチヨが明るく言った。
「まあ、確かにかわいいけどさぁ」
「じゃあ残す?」
「残さない。ローンチ初日に謎のフシ十二神将を実装する勇気は私にはない」
「えー!」
そんな猛烈な準備を重ねて、ようやく今日まで来た。
ツクヨミのローンチ。
そして、月見ヤチヨのファーストライブ。
「藤代、チェック終わった?」
耳に入るのは鈴の音のような声。
八千年聞いてきた呼びかけである。
「終わった。多分ね」
「たーぶーんー?」
「ヤチヨ、本番直前のシステムに絶対はないんだよ?」
「むむ。運営っぽいこと言ってる」
「一応運営だからね」
一応、なんて言ったけれど、実際はがっつり運営である。
表に出るつもりはなかった。あくまで裏方。
開発補助とバグ取り。ヤチヨの無茶振り処理係。
ついでに、八千年分の思い出の保管係。
それが私。
ステージ中央には、ヤチヨが立っている。
月見ヤチヨ。
仮想空間ツクヨミの管理人。
これから先、トップライバーになる存在。
歌って、踊って、分身もできる。
八千歳のミステリアスなAI。
設定ではない。
始まりからここまでを見てきた。
浜辺で泣いていたウミウシが、人に出会い、別れを覚え、歌を知り、インターネットでいらないレスバを覚え、何度も感情を揺らしながら、ここまで来た。
旅路の果てに、彼女はようやくここに立っている。
「緊張してる?」
私が訊くと、ヤチヨはふふんと胸を張った。
「ヤッチョが緊張するとでもー?」
「するでしょ」
「ヨヨヨ、実はするのです……」
「即落ちやめて?」
ヤチヨはステージの上でくるりと回った。
光でできた袖が、空気を含むようにふわりと広がる。
水槽の中のような円形ステージ。
足元には、透明な海面を思わせる光。
頭上にまだ誰も知らない仮想の夜空。
近くには、無数の小さな星。
ローンチ初日の観客席は、まだまばらだった。
招待されたユーザーの多くは、開発協力者や、もの好きなクリエイターたち。
同時接続数は、世界全体で見れば笑ってしまうほど少ない。
それでも、ヤチヨにとっては初めての観客だった。
「ねえ、藤代」
「なに?」
「変じゃない?」
私は手を止めた。
ヤチヨにしては珍しい言い方だ。
この子はいつも明るい。
いや、明るくあろうとしている。
八千年分の寂しさを、ふざけた口調と笑顔で包むのが上手くなりすぎている。
だからこそ、こんなふうに真正面から不安を見せるのは珍しかった。
「変じゃないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「ヤッチョかわいい?」
「超かわいい〜」
「世界一超かわいいヤッチョです☆」
「はいはい」
軽く返すと、ヤチヨは満足そうに笑った。
でも、その笑顔はすぐに少しだけ陰った。
「誰も聴いてくれなかったらどうしよう」
その声は、小さかった。
果てしない時を生きても、怖いものは怖いのだ。
誰かに届かないこと。
見つけてもらえないこと。
自分がここにいると叫んでも、反響が返ってこないこと。
彼女が本当に恐れていることを、私は知っている。
「私が聴くよ」
そう言うと、ヤチヨはすぐに唇を尖らせた。
「藤代はカウント外なのです」
「なんで!?」
「だって藤代は八千年聴いてくれたもん!」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
八千年聴いてきた。
泣き言も、くだらない話も、拙い歌も、悔しさも、寂しさも、全部。
それでも、私だけでは足りない。
ヤチヨは、本当は、たったひとりに届けばよかった。
彩葉。
これからツクヨミでヤチヨを見つける女の子。
かぐやが八千年かけて会いたかった人。
歌の、本当の行き先。
けれど、その前にヤチヨは世界へ歌わなければならない。
彩葉が見つけられるくらい、遠くまで。
彩葉の耳に届くくらい、強く。
彩葉が現実の苦しさから逃げ込める場所を作るために。
だったら私は、そのためにできることをする。
「大丈夫」
私は言った。
「ヤチヨの歌は届くよ」
「どこまで?」
「過去から未来まで、全部。なんなら別の世界にだって」
だって私、ヤチヨの歌で救われたんだよ、なんて続ければ、ヤチヨは少し間を置いて目を丸くする。
それから、少しだけ照れたように笑った。
「藤代ってさ、たまにずるいこと言うよね」
「お手本が隣にいますから」
「なぬ!心外なのです!」
コミカルな表情でアニメのようなリアクション。
ヤチヨはそこから、小さな声で呟いた。
「元気出たよ。ありがと」
─────。
開演五分前。
システム通知が流れる。
ステージ周辺の光量が落ちた。
ツクヨミの夜が、初めて観客の前に広がっていく。
私は裏方用の管理エリアから、ステージを見つめていた。
コンソールには、ありとあらゆる数値が並んでいる。
全部見なければならない。
それでも、視線はどうしてもヤチヨへ吸い寄せられる。
まあ私も月人みたいなものだから、多少の並列処理は問題ないけど。
「藤代」
ステージ上のヤチヨが、通信越しに私を呼んだ。
「私を見ててね」
推しのファンサの破壊力が高すぎる。
胸が詰まる。
泣くな。
本番前だ。
泣いている場合ではない。
「もちろん」
私はできるだけ平静な声で答えた。
「最後まで見てる」
ヤチヨは笑った。
八千年を歩いてきた、電子の歌姫。
カウントダウンが始まる。
観客席のアバターたちがざわめき始めた。
『月見ヤチヨ?』
『管理AIが歌うってマジ?』
『モデルすご』
『これ無料で見ていいやつ?』
『ツクヨミ、思ったより雰囲気あるな』
私はコンソールに手を置いたまま、祈るように息を止める。
光が爆ぜた。
ツクヨミに、水の花が咲く。
足元の海が淡く広がり、夜空に銀色の粒子が舞い上がる。
その中心に、ヤチヨが立っていた。
「はじめまして、みんな」
その声は、驚くほど柔らかかった。
「月見ヤチヨです」
まばらな歓声が上がる。
小さな波みたいな歓声。
でも、確かにそこにあった。
ヤチヨはゆっくりと客席を見渡した。
「ここはツクヨミ。誰でも自分の分身で、好きなものを作って、好きな姿でいられる場所です」
声はちゃんと届いている。
「まだ生まれたばかりだけど、ヤッチョはここが大好きです」
私は奥歯を噛んだ。
この場所を作るために、どれだけの夜を越えたか。
どれだけ失敗して、どれだけ笑って誤魔化してきたか。
全部知っている。
「だから今日は、最初の歌を歌います」
ヤチヨの手が少し震えた。
本当に少しだけ。
気づいた人は、たぶん私しかいない。
その震えを見た瞬間、涙が止まらなくなる。
「夢みたいな場所だけど、夢で終わらせないための歌です」
最初の一音が鳴る。
その瞬間、空気が変わった。
観客のコメントが止まる。
ステージの光が、ヤチヨの呼吸に合わせるように揺れる。
彼女の声が、ツクヨミの夜にまっすぐ伸びていく。
八千年分の記憶が、歌になっていた。
浜辺で泣いた夜。
ふたりで暮らし始めた日々。
初めての人との出会い。
大切な人を見送った夕暮れ。
戦火を逃げた暗い道。
正倉院に忍び込んだ、馬鹿みたいな作戦。
インターネットに夢中でかじりついている横顔も浮かぶ。
泣いた日も、怒った日も、笑った日も。
馬鹿みたいな日も、苦しくてどうしようもなかった日も。
全部、歌になっていた。
これは、ただのライブじゃない。
ヤチヨがここまで生きてきたことの証明だった。
私はコンソールの前で普通に号泣していた。
「ヤチヨ、よかったね……」
声が震えてしまう。
通信をミュートにしていて本当によかった。
ヤチヨは笑いながら歌っていた。
歌声は、静かに、けれど確実に観客を掴んでいく。
感動は波紋のように広がり、招待リンクがリアルタイムで共有され、誰かが誰かを呼び、同時接続数が跳ね始めた。
「泣いてる場合じゃないな!?これ!?」
私は涙を拭いながら手を動かす。
想定より早い。
嬉しい悲鳴、という言葉の意味を、私はこの時かなり物理的に理解した。
めちゃくちゃ忙しい。
でも、嬉しかった。
ヤチヨの歌に、人が集まってくる。
この世界が、彼女を見つけ始めている。
曲が終わった時、ツクヨミは大歓声で埋まっていた。
『泣いた』
『ほんとに管理AIなの?』
『声やば!』
『月見ヤチヨ推す』
『今の曲なに?』
『ツクヨミ入れてよかった』
『これから毎回見る』
ヤチヨは胸に手を当てた。
本当は、息なんて必要ない。
それでもその仕草は、あまりにも人間らしくて。
「ありがとう」
ヤチヨは言った。
「見つけてくれて」
その瞬間、瞬きが見える。
月見ヤチヨは、この夜から始まったのだ。
誰かのために作った場所。
まだ見ぬ彩葉へ届くための歌。
八千年を、世界へ差し出す最初の夜。
ツクヨミのファーストライブは終わった。
伝説は、ここから始まる。
─────。
ライブ終了後。
控室代わりの非公開エリアで、ヤチヨはしばらく放心していた。
私はログを確認しながら、そっと声をかける。
「お疲れ」
返事はない。
「ヤチヨ?」
次の瞬間、ヤチヨがものすごい勢いで突っ込んできた。
「藤代〜〜〜〜!」
「うわっ」
抱きつかれる。
感覚はないはずなのに、なぜか重い。
いつもより感情が乗っている気がする。
物理演算より重い。
「見てた!? ねえ見てた!? みんな聴いてくれた!」
「見てた!すごくよかったよ」
「コメントすごかった!」
「サーバーもすごかった!死ぬかと思った!」
「ヤッチョ、ちゃんとできてた?」
「できてたよ」
そう言うと、ヤチヨは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「藤代、私、届くかな」
誰に、とは訊かなかった。
「届くよ」
「まだ会ったことないのに?」
「会えるよ」
「藤代も未来を知ってるから?」
「それもあるけど」
私は少し考えてから、言った。
「ヤチヨはここまで来れたんだから。ヤチヨなら」
ヤチヨは黙った。
それから、少しだけ強くしがみついた。
「じゃあ、もっと遠くまで届くように」
言葉を紡ぐ、歌うように。
「いつか見つけられるように」
胸の奥が少し痛む。
でも、痛みから目を逸らすのはやめた。
かぐやは彩葉に会いたかった。
ヤチヨは私とここまで生きてくれた。
どちらも本当で大切なこと。
それにもう私は部外者ではない。
ただの一オタクとして、適当な振る舞いばかりしていられない。
ヤチヨにかけられた言葉を大切にするんだ。
私はヤチヨの頭に手を置いた。
「歌おう。彩葉に届くまで」
ヤチヨが顔を上げる。
「それから、その先まで」
ステージのログには、初めてヤチヨを見つけた人たちのコメントが、まだ流れ続けていた。
「誰かが現実で疲れて、逃げ場がなくて、それでもここに来たら少し息ができる。そういう場所にするんでしょ?」
ヤチヨは目を丸くした。
「藤代」
「なに?」
「それ、ヤッチョの夢みたい!」
「知ってる」
「なんで?」
「推しだから?」
ヤチヨは少しむくれて、それから笑った。
「じゃあ、藤代も手伝ってね」
「今さら?」
「今さらじゃなくて、これからも」
「……うん」
「あと、藤代もいつか一緒にステージに立ってね」
私は固まった。
「はい?」
「ヤッチョだけだと寂しいのです」
「いやいやいや、私は運営。裏方。黒子。バグ取り係」
「歌えるし踊れるでしょ。平安の時とかも一緒に歌って踊ったじゃん」
そんなこともあったな。雅な時代だった。あれは。
そも歌と踊りは人類史において欠かせないものなので、二人で舞ったことは数しれない。だがしかし。
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何の問題?」
私は言葉に詰まった。
歴史に刻まれているのはまあいいけれど、それは私が表に出すぎていいという訳では無い。
パラレル的な展開だってあるかもしれないし。
ヤチヨは大事な部分は話してくれるけれど、曖昧に濁す部分もあるため、油断できないのだ。
かく言う私自身も、大事なところで話していない部分はあるので何も言えないが。
ただ、もしハッピーエンドになると伝えて、そうならなかったら?
手に入れたと思ったものが、泡沫になる瞬間、絶望は生まれる。
未来変化もそうだし、様々な思いがある。
理解しているため、お互いに追求もしない。
彩葉がヤチヨを見つける。
かぐやと出会う。
物語が流れていく
その流れに、私は余計な影を落とすべきではない。
「私はここで見てるよ」
そう答えると、ヤチヨは不満そうに頬を膨らませた。
「藤代って、すぐそうやって遠くに行こうとする。まあいいけど〜」
ヤチヨはいじけながらふっと笑う。
「今日は許してあげる」
「今日は?」
「うん。今日は」
その言い方、すごく嫌な予感がする。
そして実際、その予感は当たったりするのだった。