現実世界のノイズをすべて遮断したツクヨミの最深部で、私は静かに目を閉じる。
管理コンソールのモニターが発するネオンの微光だけが、私の輪郭をぼんやりと現実から切り離していた
電子の歌姫『月見ヤチヨ』として世界に笑顔を振りまいている私は、その実、過去のすべてを背負いながら、ただ大切な人たちの幸福だけを願って生きていた。
けれど、その綺麗事の裏側――心の最奥の底の底では、途方もない旅路の末に擦り切れてしまった、底の知れない虚無が、泥のように浮かんでは消えていく。
私は、強い
私がこの八千年間、ずっと囚われ続けているものがある。
それは、記憶の霧に覆われ、指先で触れようとすればするほど、煙のように遠ざかっていく『
大昔、月の使者が持ってきたあの冷酷な羽衣を纏った瞬間、私は地球で培ったすべての感情を、愛おしい思い出を、月のシステムによって強制的に忘れさせられた。
大切な、彩葉の歌によって私の魂は再び掬い上げられたのだけれど。
掬いきれなかった何かはこぼれ落ち、私の胸の奥へと沈んだまま。
不思議なもので、その朧気だった記憶の残滓は、物語に近づけば近づくほど、まるで強制的に読み込まれるかのように、鮮明になっていった。
それは、私の傍にいて、気が遠くなるような暗闇の時間を、ずっと一緒にいてくれた
私が知るはずのない、けれど最初から私の中に深く沈んでいた、暖かくて切ない記憶のコード。
これも、世界の因果によるものなのだとしたら、私は一体どう進むのだろうね。
私は再び、深く、深く、記憶の深淵へと魂ごと沈んでいく。
八千年前の、冷たくて、湿った、あの寂れた海岸。私はまだ、月より落ち、運命の軌道を完全に狂わされて、冷たい砂の上に無様に打ち上げられた、ただの小さなウミウシだった。哀れで、無力で、誰にも自分の言葉を理解されず、誰に触れることも許されず、ただ世界の片隅で凍えそうになりながら震え続けていた、孤独の塊。
その時、私の絶望の視界を遮るように、柔らかな影が目の前を横切ったのだ。
私は必死だった。このまま誰にも気づかれず、暗闇のなかで消えていくのが怖くて、震える声で、かすかに、けれど魂のすべてを込めて叫んだ。
貴方は、そんなみすぼらしい私を見つけて――とても複雑で、けれど、どうしようもないくらいに慈しみに満ちた、綺麗な微笑みを浮かべてくれた。
────その
それが、私と藤代の、八千年にわたる長い長い物語の、すべての始まり。
もちろん、ヤッチョにとってこの途方もない旅路のなかで、心に残る人間たちとの出会いはたくさんあったよ〜!
でも……それを語るのは、また今度なのです☆
藤代は、いつだって私の傍に居てくれた。
平安の美しくも儚い桜の木の下で、私がワガママをまき散らして困らせた時、貴方はいつだってしょうがないなぁって困ったように、けれど愛おしそうに微笑んで私に付き合ってくれた。
浮世の喧騒、江戸の華やかな夜のなか、私が現実の寂しさを紛らわせるために拙い歌を紡いだ時、藤代は静かにその耳を傾け、私の小さな身体をそっと包み込んで、一緒に優しい旋律を重ねてくれた。
戦国の紅蓮の炎がすべてを焼き尽くし、世界が滅びるんじゃないかって、大切な人たちとの離別に怯えて私が大号泣した夜。貴方は血と灰にまみれながらも、私の身体を壊れ物を扱うように強く抱き締め、一緒に戦火の中を逃げ回って、その肌から魂の温度を分けてくれた。
近代に入り、技術の深淵に魅せられた私が、狂ったように実験を繰り返して自爆したこともあったね。
貴方は「危ないって言ったじゃん!」なんて呆れながらも、決して私の側から離れず、失敗して落ち込む私を、いつだって優しく励ましてくれた。
度々、私は人間の身勝手さや、繰り返される愚かな歴史に絶望しかけた。
その度に、貴方は私を優しく撫でて、「私が傍に居るよ」って、何度も、何度も私を底なしの虚無から救い上げてくれたんだ。
正倉院の夜は、本当に映画もかくやという立ち回りだったよね!
カーターにみっともなく限界化する、私の知らない
そして、情報の海が世界を飲み込み始めた現代──私は、優しい世界『ツクヨミ』を夢見た。
今でも、貴方に名前を贈った時のことを、昨日のことのように思い出す。
本当に、唐突だったんだよ。
風に揺れる綺麗な藤の花。それを見た瞬間、何となくその名前が脳裏に浮かんで、あぁ、目の前の貴方にピッタリだなって思ったの。
私の言葉に応じて、貴方の髪の毛が綺麗な藤色に染まったとき、私はやっと、本当の
――
私の八千年もの孤独を、静かに、深く、その温度で埋め続けて、共に歩んでくれた絶対の存在。
私は、あなたが思っているよりもずっと、あなたのことを深く、狂おしいほどに想っている。
そして――
私の、大好きな、大切な人。
八千年の旅路の中、心が折れそうになるたびに、幾度となく思い出し、ヤチヨへと変化して出会う運命に気付いてからは、世界を少しずつ作り変えることさえ、私は一切厭わなかった。
この世界の片隅で、ただ笑って息をしてくれるだけで、私の八千年間という地獄のような時間は、すべて美しく報われるのだ。物語を守るためなら、私は喜んで世界を欺く怪物にさえなってみせた。
私は、本当に欲深い。
彩葉との幸せな日々を心の底から願いながら、同時に、藤代がくれるその温もりも、何一つとして手放せはしないのだから。
彩葉への恋慕が純粋で、美しければ美しいほど。
藤代への想いが深くて、優しければ優しいほど。
私は、二つの魂を等しく深く、貪欲に欲して貪ってしまう自分自身の身勝手さに、激しい嫌悪と自責を覚え、責めずにはいられない。
一人だけを愛して、一人のためにすべてを捧げれば、きっと私は「かぐや姫」のままでいられたはずなのになぁ。
私は、二つの輝きを同時に、この泥々に濁った私の愛で満たそうとしている。
藤代が、私の隣にいることに不安を感じて震えていたのだって、全部分かっていた。なのに、私はあなたを解放してあげるどころか、もっと奥深くまで巻き込みたかった。
そんな私に、
……八千年も生きて、こんなに大人になっちゃったのに、相変わらずヤッチョの中身は、タチの悪い
胸の奥が、どよりと甘く疼く。
犯している罪への自責の念が、まるで濃厚な蜜のように魂に絡みつき、私を激しく苛む。
私は、ゆっくりと目を開けた。ツクヨミの仮想の窓の外に浮かぶ鏡の月が、今日は現実のそれよりも、ずっと淡く優しく輝いているように見えた。
藤代。彩葉。
私は、なんて酷くて、強欲な存在なんだろう。
その重みに押し潰されそうになりながらも、私は静かに、しかし確かに、世界に向けて完璧な『月見ヤチヨ』の笑顔を浮かべてみせる。
でもさ。私、八千年かけたんだよ?
この果てしない時間のなかで、色んなことばかり考えて、もうキラキラの無垢なかぐや姫じゃなくなっちゃったけれど。
少しくらいはしゃいだり、羽目を外させてくれたって、いいでしょう?
おばあちゃんだって、たまにはワガママを言って、大騒ぎしたいんだよ。
そうしてさ、私が楽しくなって、その時、私の大好きなみんなも一緒に楽しそうに笑ってくれたら、それ以上に嬉しいことなんてないんだから。
もし、この物語のあと、
私は、私の大切な人たちに、ただ
この美しい仮想の星空に、祈るだけなのでした。
ヤチヨラスボス発言集。
でも心は優しいかぐやのままなんだよね。