独自解釈が入ります。
星を仰いで
最後に夜空を見上げたのはいつのことだっただろう。
カーテンを閉め切った部屋のなか、ふとそんなことを考えた。
「──なた。奏多」
「ん……」
急速に意識が凝華する。奇妙な浮遊感がよみがえってきた。自分が誰でここはどこなのか。記憶が再構築されて、けれど同時に違和感を覚える。その声はこのセカイで聞こえるはずのないものだったから。
「起きたわね。まったく……」
目を開けるとやはりというかメイコさん──メイコの呆れ顔。というか、肩を抱き起こされているせいで思っていたより近い。
「また随分と、急なお出ましだね」
「そんなことはどうでもいいわ」
荒々しい、とまではいかずとも明らかに強い語気。しかし寝起きの身にはなにがなにやらだ。助けを求めてミクたちを探すと四人は正座のような姿勢でぷかぷかと浮いている。
「……どういう状況?」
「いやね、キミが寝ている間にメイコが来たんだけど、どうも作業途中で気絶したキミを放っておいたのが気に食わなかったらしいのさ」
「当然でしょう」
なるほど、ミクとの会話から察するにメイコは他二人に比べて真っ当な性格のようだ。恒例になっていたから気にしていなかったけど、確かに傍から見れば異常な光景かもしれない。
「あなたたちときたら、揃いも揃ってこの子を煽って誑かして……取り返しのつかないことになったらどうするつもり?」
「誑かすとは失礼な。もちろん合意の上だとも」
「むしろ誘ってきたのは奏多の方よね」
「だまらっしゃい」
言い合っている隙にメイコの腕のなかから抜け出す。メイコは西洋風の、牧歌的な民族衣装のようなものを身にまとっていた。ドイツのディアンドルが近いだろうか。これまた宙に溶け込むような黒色だ。
「大体あなたもあなたよ」
観察しているとメイコが唐突にこちらに向き直った。
「好きな子に告白したすぐ後にやることが作曲って、はっきり言って異常よ。毒されてる」
「おっしゃる通り」
今までの口ぶりからもしかしてとは思っていたが、メイコはこのセカイで起きたことを知っているようだ。ルカと同じように「最初からいた」のかもしれない。
「とにかく、早く戻って布団で寝なさい。芸術活動に勤しむのはいいけれど、これからはもう少し節度を弁えること」
そうして半ば追い出されるようにセカイをあとにした。
執筆活動は僕にとって趣味ではあるけれど、いまや作家業の一環なのも事実である。だから小説を書く以外の仕事を頼まれることもたまにはあった。
新刊が発売されるにあたりこうしてサイン会をしているのもそのひとつ。
見ず知らずの相手の熱烈な視線と感想を受け止めて、ひとりひとりに礼儀正しく応対する。自分自身会話を楽しむタイプではないし、愛想がいいわけでもない。それを少なくとも相手を不快にさせない程度にはマシにする必要がある。難しくはないけれど、疲れることは間違いない。それでもまったく人が来ないよりはありがたいことなのだろうけど。
そもそも楷書に慣れきった現代人にはサインを考えること自体が難しい。おまけに小洒落た崩し字を人前で書くのは小学生のようで気恥ずかしさがあった。だから個人的に告知するようなことはしていなかったのに。
「さすがの人気だな! 早く来たつもりだったがこれほど並ぶことになるとは!」
列の向こうから現れた司先輩はそう言って笑う。
「僕がここでサイン会してるってよくわかりましたね」
会場であるこの書店は普段通いするような距離ではないから偶然通りかかったわけでもないだろう。
「この新刊の発売日を調べていた時に偶然知ってな。後輩の晴れ舞台に一番の読者であるオレが駆けつけないわけにはいかないだろう?」
「ありがとうございます」
これを晴れ舞台、と言っていいのかどうか。ともかく新刊の発売を祝おうという意志は伝わってきた。とはいえ顔見知りにサインを見られるとなると精神的負荷は倍増だ。なるべくサインに気が向かないようにペンを動かしながら司先輩に話しかける。
「ちなみに、今日のこと誰かに教えたりしましたか?」
「ああ、咲希はみんなと行くと言っていたな」
あまり話し込むわけにもいかなかったので二、三言葉を交わすと司先輩は帰っていった。そしてその発言の通り、先輩の来訪は序章に過ぎなかった。
次にやってきたのは帽子を目深にかぶった二人組だった。それぞれ眼鏡とサングラスをかけていたが、正面から相対すればさすがに判別できる。
「こんにちは」
「お久しぶりね、十六夜くん」
雫さんと桃井さん。話題のアイドル二人が当然のように立っていた。
「……桃井さんも一緒なんですね」
「雫に誘われてね。この機会に十六夜くんの本を読んでみようと思ったの」
それにしても、と桃井さんは背後の列に意識を向けた。
「十六夜くんって結構な売れっ子なのね。ずっと列が途切れないなんて」
「そうですか?」
「アイドルなら普段から人前でパフォーマンスをするけれど、作家だと露出はそんなに多くないわよね? それなのにこれだけ人が集まるんだから、胸を張っていいんじゃないかしら」
桃井さんの言葉に雫さんも頷いている。
「……ありがとうございます」
賞賛を持て余して手元に視線を落とす。二人の視線を浴びながら表紙の裏にサインを書き入れて新刊を渡すと、それを見た雫さんが柔らかに笑う。
「ありがとう、奏多くん。大切にするわね」
「……どういたしまして」
そんな気のない返答を後悔するまでに時間はかからなかった。イベントに来てくれたことについて、むしろ僕の方が感謝を伝えるべきだったはずなのに。そのことに思い至ったのは二人が立ち去ってからだった。
「十六夜先生、サインください!」
「はいはい。来てくれてありがとう」
芝居がかった口調で進み出た咲希をいなして、四人に挨拶する。
「サイン会なんてあるなら教えてくれればよかったのに」
「だって恥ずかしいし。……というか、四人とも買うんだ」
正当な売買とはいえ、知り合いが払ったお金が最終的に自分の懐に入ることを思うと得も言われぬ罪悪感があった。特に咲希と志歩の家には同じ本が二冊あることになってしまう。
「うん! アタシもサイン欲しいもん!」
「奏多はこういう時じゃないと書いてくれないだろうし、せっかくだから」
志歩までもがそんなことを言うものだから、否も応もない。せっせと四人分のサインを書き上げた。
列が短くなり、時間的にもそろそろ終わりという頃合い。一歩進み出たその姿が引き延ばされた一瞬のうちに網膜に刻まれる。
銀糸のような長い髪に、勿忘草を思わせる淡い青の瞳。そしてジャージ。
「ありがとう、ございます」
身に覚えのない感謝に思わず首を傾げた。
十六夜奏多という名前を初めて耳にしたのはまふゆのために曲を作り続けると約束してからすぐのこと。ミクにデモ音源を聴いてもらおうとセカイを訪ねたのが発端だった。
「奏、いらっしゃい」
「あ、奏! ちょうどよかった。ちょっとこっちに来てよ」
こちらに背を向けて身を寄せ合うように膝立ちになっていたミクと瑞希が振り返ってわたしを迎えた。同時に二人の体で隠れていたものが露わになる。
「それって確か……天球儀?」
丸い針子の模型と、それが嵌め込まれた円形に柱の付いた台座。記憶の引き出しからその名称を引っ張り出す。次に浮かんだのはどうしてそんなものがあるのかという疑問。
「誰かが外から持ち込んだのかな……?」
「それが、ビックリなことにミクが言うにはこのセカイにあったものらしいんだ」
「え……?」
思わず視線をむけるとミクは小さく頷いた。
「一応、奏たちが初めて来た時も置いてあったよ」
そう言われて記憶を手繰る。けれどいろいろあったからか天球儀の存在は見落としていたらしかった。少し間を置いて、ミクは続けた。
「少し前に、まふゆもそれがあることに気がついたみたい」
「うん? ってことは、それまでは気づいてなかったの?」
「うん。まふゆが見ようとしていなかったから」
ミクの言い方に瑞希と二人して首を傾げる。
「えーっと……つまり最初からあったけど、まふゆには見えてなかったってことなのかな?」
瑞希の問いかけにミクはまた小さく頷いた。詳しいことはわからなかったけれど、そういうセカイの仕組みなのかもしれない。
「まあとにかく、ボクが言いたかったのはこれもまふゆのことを知る手がかりになるんじゃないかってこと!」
「それは……そうかもしれないね」
改めて天球儀を見る。何の変哲もない──とまでは実物をしっかり見たことが無いので断言できなかったけれど、現実世界で目にするものと変わらないように見えた。
「……これだけだとよくわからないね」
「なんならまふゆ本人にもわかってないかもしれないしね」
しばらく二人で唸っていると、不意に瑞希がミクに尋ねた。
「そういえば、まふゆにこれが見えるようになったきっかけはなんだったの?」
「……もしかしたら、まふゆが読んでた本が関係してるのかも」
その本の詳細はまふゆ本人に教えてもらった。それはとある短編小説集で、まふゆはその中の一篇を読んでいたらしい。
「──ってことがあったんだ」
「へぇ、セカイでそんなことが……そんなに面白いの? その小説って」
瑞希がミクから聞いたことを伝えると絵名の声は意外そうだった。
「わからない」
「面白くなくても、何も感じなかったわけじゃないのかも」
いつもと変わらない答えにもめげずに瑞希が言った。
「ミクが言うには『これまで見ようとしなかったものと向き合うようになった』からあれが見えるようになったみたいなんだ。それに読書してる雪を見かけたのは一回や二回じゃないとも言ってたし。なにか気になることがあったんじゃない?」
しばらく返事はなかった。その沈黙はわからないと答えるにはあまりに長くて。次の言葉を聞き逃さないように、わたしたちはナイトコードに耳を澄ませていた。
「……『消えたい』って言っても意味がないんだと思う」
「え?」
「それができるなら、私はここにはいないから」
まふゆがそれ以上を語ることはなかったけれど、代わりにその本を貸してくれた。まふゆのものではなく学校の図書室に配架されていたもののようで、まふゆの読んでいた小説を書いた作家は十六夜奏多といった。
主人公は中学生の少年だった。
不登校の少年は幼馴染の少女に心中を持ちかけ、少女はそれを受け入れる。少年が遺書を書いたり身の周りの品を整理する一方で、少女は自然体で日々を過ごす。
そして心中の当日、学校の屋上。ふとした会話の間隙に少女の姿は屋上から消えていた。結局少年が飛び降りることはなかった。
挿絵ひとつない文字の束が像を結んで、そのイメージを刻み込んでくる。映画を一本見終わった後のような、むずむずとした落ち着かない感覚があった。
「私を見つけられないくらいなら、消えてしまいたい──そう思ってた」
でも、とまふゆは続けた。
「飛び降りでも身投げでも、包丁でも首吊りでも。本当に消えたいなら、苦しくても手早く済む方法はいくらでもあったのに」
「私は、そうはしなかった」
「したいのにやらないなら、私にはできないってことなんだと思う」
滔々と語る声が暗い部屋に響く。誰も口を挟まないから、それはほとんど独白に近かった。
「私はたぶん、消えられない。どれほどそれを望んでも。──だから、進むしかない」
まふゆは呪われていた。
迷いを絶つ呪いだった。
「あの、大丈夫ですか?」
隣町まで足を運んだのは本当に久しぶりだった。わたしはある意味浮かれていて、自分の体力のことが頭からすっかり抜けていた。さっき聞いたばかりの声が耳に届いたのはその時だった。
顔を上げると黒曜石にも似た双眸がこちらを覗き込んでいた。
「十六夜、奏多さん……」
「救急車とか、呼んだほうがいいですかね」
「いえ……」
なんとか立ち上がろうとしてうまくいかず、肩を借りて近くの公園のベンチに座る。
「どうぞ」
「あ……ありがとうございます」
ペットボトルの水を受け取って、口に含む。十六夜さんは座らなかった。
「宵崎さん、でしたよね」
「あ、はい」
さっき対面してからまだ一時間も経っていないからか、サインに添えた宛名を覚えていたようだった。
「どうして道端で五体投地を?」
「普段外に出ないから、その、体力が……」
「それは、お礼を言うためにわざわざありがとうございます」
友達が小説を読んで前を向けるようになった。感謝の理由はそう説明していた。
「……なんのために小説や曲を書いているか、訊いてもいいですか?」
短い会話のなかで尋ね忘れていたことだった。
彼の作品の多くは救いがない。あの小説はたまたまいい意味でまふゆを変えたけれど、単純にまふゆを救ったと考えていいものなのかどうか。
それでも訊きたかったのは興味を引かれたから。まふゆのためだけじゃなく、わたし自身が知りたいと思ったから。
黒い瞳がわたしを見下ろした。なにものにも染まらない色からは何色も読み取ることはできない。
「基本的には自分が楽しむこと、ですね。趣味なので」
なんでもないことのように告げられた答えは、忘れかけていた夜空のように眩しかった。
オリ主の(無自覚な)呪いによって本作の朝比奈まふゆは「消えたい」と思いつつもそれ自体に意味はないと考えるようになりました。
諦めることを諦めた感じです。