お待たせしました。
「……宵崎さんは、違うんですね」
尋ねておいて黙ったままのわたしに何を思ったのか、目の前に立つ彼は言った。それはたぶん、問いなのだと思った。わたしの答えを、十六夜さんは知りたがっている。
「わたしは……」
お父さんみたいになりたかった。
作曲を始めた理由はそんな理由で。
でも、あの頃とはもうなにもかもが違う。
「……誰かを救える曲。わたしはそれを作らなくちゃいけない」
わたしにとって、曲を作り続けることは使命だから。
「……宵崎さんになにがあったのかは知らないので、あまり偉そうなことは言いたくありませんけど」
十六夜さんは視線を彷徨わせながら、長い間を空けて口を開いた。それを言葉にするかどうか、まだ迷っているように感じた。それでも結局は純黒の瞳がわたしを見据える。
「誰かって誰ですか?」
「え──」
「宵崎さんは、本当に見知らぬ誰かを救いたいんですか?」
とっさに言葉が出なかった。
わたしの曲がお父さんを傷つけた。それはわたしの曲が誰かを救えるようなものじゃなかったからで。だから、わたしは誰かを救えるように──
「……すみません、勝手なことを言って」
気をつけて帰ってください、と。そう言い残して十六夜さんは歩き去っていった。
一人残されたわたしは立ち上がれずにいた。傾きかけていた日が地平に消えて、夜の帳が降りる。
「……帰らなきゃ」
二十五時が来る。
足取りも覚束ないまま、帰巣本能に任せて歩き出す。
一歩ごとに夜が更けていくような気がした。
穂波と出くわしたのは学校帰りの駅前でのことだった。
「あ、奏多くん」
その手には学校の鞄だけでなく、デフォルメされた柴犬の顔をあしらったエコバッグが握られていた。
「買い物?」
「うん、これからアルバイトなんだ」
穂波のアルバイトは家事代行サービスだったはず。なら買った食材はバイト先のお宅で料理するのだろう。
「これは今日のお夕飯と、作り置き用だね」
「……それにしては意外と少ないような?」
エコバッグの中身を見たところ、それぞれの食材の量はそれほど多くないように思われた。料理はたまにしかしないからあくまで感覚だが。
「わたしがお世話になってるお家は一人暮らしだから。前に少し話したんだけど、覚えてないかな? 中学生の頃、わたしが職業体験に行った時の話」
どちらかといえばお世話になっているのはその人では、というのはさておき。
「あー……確か僕たちのひとつ年上の、女の人だっけ」
まだ咲希が入院していた頃のことだ。派遣先で起きたちょっとしたハプニングがあって、救急車に乗ったと言っていたのが記憶に残っている。その時の人が今の依頼主ということらしかった。
そんな話を思い返していると、淡い青の両目がこちらを覗き込んでいるのに気づく。
「……奏多くん、最近は顔色がよくなってきたよね」
「そう? メイコのおかげかな」
メイコがセカイに現れてから徹夜するのを控えているから、その効果が出ているのかもしれない。
「奏多くんのセカイのメイコさんはどんな人なの?」
「教室のメイコさんが頼れるお姉さんだとすると、うちのメイコは口うるさいお母さんってところかな」
ミクたちへの説教もしかり、作業をしている最中に宿題の話を持ち出すこともあった。真っ当な小言がほとんどだから、大抵の場合は素直に言うことを聞くようにしている。
「ところで、どうして急にバイトの話から僕の話に?」
「実はそのお家の人も毎日夜遅くまで曲を作ったりしてるみたいで……奏多くんも無茶しないようにね」
この間病院送りになったことを、穂波はまだ忘れていないらしかった。
「……ここ?」
「うん」
穂波が足を止めたのはごく一般的な民家の前だった。
仕事に向かう穂波と別れてから、その表札の文字を思い返す。宵崎という苗字に大体の年齢と性別まで一致している。
「世間は狭い、か」
それにしても、十六かそこらの女子高生が一人暮らしとはこれ如何に。両親が共働きで双方出張が多いのだろうか。思考を巡らせて、しかしその可能性はすぐに否定された。
いつか聞いた穂波の話では、職場体験で行った派遣先の家主が倒れていて救急車を呼んだのだという。そして病院に駆けつけた家主の親族は家主の祖母で、両親の話は出てこなかったような気がする。
「……」
『ずいぶん気にしているのね』
どこからともなく響いた声にスマホを取り出せば、思った通りメイコが顔を出した。
『たった二度、顔を合わせただけでしょうに』
「気にもなるよ。あんな顔されたら」
家庭の事情を詮索するのはよくないと思いつつも、脳裏に過るのは先日の光景だった。
沈痛に伏した目に、戒めるように引き結ばれた唇。
心配よりも興味が勝った。どうしてそんな辛そうな顔をするのか。
歪な答えに、思わず口を挟んでしまった。
「……余計なことしたかな」
『別に、間違ったことは言っていないでしょう』
メイコの言葉は少し意外だった。
「さっきはちょっと顔を合わせただけで、とか言ってたのに」
『あなたが見知らぬ相手に興味を持つのが珍しいと思っただけよ』
画面の中のメイコは淡々と腕を組んだ。
『半端に首を突っ込むから悩むことになるの。一度関わったなら、最後までちゃんと向き合いなさい。手伝いくらいはしてあげるから』
「最近、ジャージを着た銀髪の女の子に会わなかった?」
予備校の帰りがけに話しかけてきた朝比奈さんの第一声がそれだった。普段は会釈程度なのでどうしたことかと応じれば思考盗聴を疑うような話題が飛び出してきた。
「……もしかして、宵崎さんと知り合いなんですか」
「うん。一緒に曲を作ってる」
宵崎さんにたどり着く伝手が身近に二つもあるのは意外な事実だ。六次の隔たりなんて考え方があるけれど、世間というのは本当に狭い。
周りに人がいないからなのか、自販機の光に照らし出されたのは前に話した時と同じ能面のような無表情だ。
「名前、知ってたんだね」
「サインを書いたのと、そのあと個人的に少し話す機会があったので」
「『なんのために曲を作るのか』」
「ええ」
「誰か」を救うために曲を作ると宵崎さんは言った。不特定多数の人間を指す「誰か」だった。
そもそも僕の答えを聞いた後から様子がおかしかった。まるで楽しんではいけないと思い込んでいるようで。だからその動機が自然に生まれたものだとはどうしても思えなかった。
「朝比奈さんは心当たりありますか? 宵崎さんが誰かを救おうとしてる理由」
「奏の事情を、私が勝手に話すつもりはないよ」
それは首肯も同然だった。
宵崎さんは過去の出来事に囚われている。その贖いとして誰かを救うことを志している。
仮にそうだとしたら。
見知らぬ誰かを救ったとしても、過去は消えない。
贖罪に終わりはない。
宵崎さんはいつまで経っても救われない。きっと誰かを救える曲を作ることに人生を費やし続ける。
それは、哀れだと思った。
「その時は確証のない想像だったので、説明まではしなかったんですけど」
「……そう」
大通りから外れた薄暗い道を夜気が満たしていく。今夜は厚い雲のせいで星は見えない。
「奏は、私に曲を作り続けてくれるって約束した」
「誰かを救うために曲を作ること自体を否定するつもりはありません」
ただ、せっかくならそれを楽しめた方がいい。結果が同じだとしても、その方が価値があるから。
ふと視線を感じて隣を窺う。感情の読めない夜空のような虹彩に吸い寄せられるように見つめ合う。
「……『誰もいないところへ行きたい』って言ってた人とは思えないね」
「ゔ……そんなことも言いましたね」
今思えばつくづく恥ずかしい。
一緒に居るのが辛いのに、関係を壊すこともできなくて。遥かな輝きに手をかざすだけだったあの日々。できないことを数えるだけでは世界は変わらなかった。
「それよりも、もっとずっと大切な
「……そうなんだ」
また沈黙が降りる。どこからか響く遠吠えのような弾き語りの歌声が辺りに木霊していた。会話を切り上げるタイミングがつかめずになにげなく視線を滑らせた先で屋外ビジョンが目まぐるしく動く。
「奏は今、作曲に身が入ってない」
不意に意識が引き戻される。言葉を呑み込むよりも早く、朝比奈さんは続けた。
「責任をとって、奏を立ち直らせてほしい」
「責任って……」
「十六夜くんが蒔いた種だから」
理詰めで来られるとと返す言葉もない。
こうして柄にもなく他人に説法を垂れることが決定した。
駅前の喧騒から少し外れた裏道の喫茶店。その窓際の席で話し相手を待っている。土曜の昼下がりだというのに席はまばらで、店主は暇そうに豆を挽いていた。
宵崎さんと会う約束を取り付けるのは難しくなかった。
朝比奈さんに連絡をとってもらってもよかったが、別れてから彼女自身の連絡先を知らないことに気がついた。次に予備校で会うまで待つよりは、と穂波に事情を説明して話を通してもらったのだ。
宵崎さんと話がしたいと言った時、穂波は大層驚いていた。それから気を回して同行を申し出てくれたけれど、込み入った話になる可能性を考えて遠慮しておいた。
彼女が出不精なのは道端で倒れ伏していた時からなんとなく察していた。現れた宵崎さんはよろよろと店内を横切って、向かいに腰を下ろす。注文を済ませてもなお、その目は窓から差し込む光を厭うように細められていた。
「まずはすみません。無責任に口出しして、困らせてしまったみたいで」
「いえ……十六夜さんも疑問はもっともだったと思います」
飲み物が揃ったところでそう切り出すと宵崎さんは俯き加減のまま首を振った。はっきりとは見えないが、あの日と同じ表情をしている気がする。
「敬語は必要ないですよ、こちらが年下ですから。──それで」
一度言葉を区切る。
出会って間もない相手と真面目な話をするというシチュエーションがどうにも肌に合わなかった。
「よければ、宵崎さんの話を聞かせてください」
形式的に、そう提案する。
会ってくれたからには話をする気はあるはずだ。
憂いを帯びた端正な顔立ちがこくりと一回上下に揺れた。
「わたしのお父さんは作曲家だったんだ」
ぽつりと。
まるでそこだけ雨が降り始めたかのように思えた。
心があたたかくなるような音を作る人で、宵崎さんもその影響を受けて作曲を始めたのだという。
「お父さんみたいに誰かを幸せにできる曲を作れたらって、そう思ってた──でも」
歯車が狂いだしたのは中学生の頃。
曲作りに頭を悩ませた父親になにげなく提案した一節のメロディ。それがコマーシャルに採用されたのと機を同じくして、父親は身を削るように作業部屋に籠もるようになった。
そんな父親を元気づけようと作った曲。
それが、とどめになった。
「わたしはっ……わたしの曲が、お父さんを……!」
圧倒的な才能への羨望。
生活のかかった仕事と、折り合いのつかない理想。
宵崎さんがそれを知ったのはすべてが終わってからだった。
記憶障害。
娘のことすら忘れて、父親は今も病床に臥せっている。
奏はこれからも、奏の曲を作り続けるんだよ。
そんな言葉を残して。
「それで、誰かを救えるように……ですか」
相槌は打たなかった。
深くうなだれる宵崎さんに、もう一度その言葉を投げかける。
「宵崎さんは本当に見知らぬ誰かを救いたいんですか?」
「っ……」
「見知らぬ誰かを救って、過去を清算できるんですか?」
彼女の背負った十字架の重さは想像することしかできないけれど。
父親の言葉に囚われた彼女が、贖い方を間違っていることだけは確かだ。
「だったら、わたしはどうやって償えば……!」
ジャージの袖に皺が寄る。
大きく開いた瞳は太陽を浴びて揺れていた。
「お父さんの目を覚ましてあげればいいでしょう」
「え──」
「宵崎さんの曲でお父さんの記憶を取り戻す。それが、宵崎さんのすべきことです」
呆けた少女の目尻からあふれた雫が頬を伝って一筋の軌跡を作る。
「そん、なの……」
「無理、ですか? 僕からすれば誰も彼もを救える曲を作るのも、大概難しいと思いますけど」
宵崎さんは何も言わない。
乾いた喉を冷たいコーヒーで潤す。言いたいことは言った。あとは彼女次第だ。
心臓の鼓動を感じながらしばらく様子を見ていると、焦点の合わない両の目に生気が戻る。次いでジャージの袖がそれを拭った。
少しだけ腫れた目の奥には揺るぎない光が宿っていた。
「わたしは……お父さんを、救いたい……!」
絞りだしたように、震える声で。
宵崎さんはその
あと一話で一区切りです。