遅くなってすみません。
キーボードを叩く音だけが部屋に響く。
日付はとっくに変わっていて、充分な睡眠時間の確保は望むべくもない。
「〈ニュイ〉、今送ったところなんだけど……」
「ちょっと待ってください。確認します」
つけっぱなしのナイトコード越しに声がかかる。慣れないハンドルネームに戸惑いながら、眠い目を擦った。
「わたしは……お父さんを、救いたい……!」
「……そうですか。頑張ってください」
「え」
「え?」
顔を見合わせる。呆気にとられた様子の宵崎さんからはさっきまでの気炎が嘘のように消えていた。
「その、わたしはてっきり十六夜くんが手伝ってくれるのかと……」
単に方向性を示しただけで他意はなかったのだけれど、宵崎さんのなかではそういうことになっていたらしい。確かに焚きつけるような真似をしておいてあとは無関係というのはいささか薄情だったかもしれない。
「でも、普段は朝比奈さんと曲を作ってるんですよね? なら僕がでしゃばらない方がいいかと思って」
朝比奈さんは宵崎さんの事情を知っているようだし、曲を作ることにもつながるから協力してくれるはずだ。
それに普段から一緒に活動しているなら僕が加わるとかえって邪魔になる気がする。作曲にも慣れてきたとはいえ、他人に口出しできるほどではないのだから。
「それでも、わたしはあなたに力を貸してほしい」
涙が滲んで若干くぐもったままの、けれど確かな決意を秘めた声。無言のままに対面の彼女を見つめる。
「……自信がなくて。お父さんを救うなんて、そんな奇跡みたいなことを、一度お父さんを傷つけたわたしの曲でできるのか」
「でも、十六夜くんが力を貸してくれるなら。もしかしたら、って思えるから」
小さく息をつく。もとはといえば自分が口を挟んだのが原因だ。最後まで付き合うのが責任というものだろう。
「わかりました。僕でよければ協力させてもらいます」
予備校から帰って夕食と風呂を済ませれば、もう日付が変わろうとしている。生活音のしない、寝静まった我が家。薄い微睡みのなかにあって、時を刻む針の音だけが意識に反響する。
『そのままだと寝落ちするわよ』
「わかってる」
返答は思っていたより淀みなく口を衝いた。メイコの唐突な登場で心地よい睡魔の足音は遠ざかり、純粋な一日分の疲労感が残る。久々の夜更かしはなかなかに堪える。約束がなければさっさと寝てしまうところだ。
『……案外、落ち着いているのね。あなたのことだからもっと興奮してるものだと思っていたけれど』
「んー……作りたい曲のビジョンが浮かんでないから、かな」
記憶障害を患った人を快復させる曲。
それが作れたら面白いと思ったのは事実だけれど、具体的な曲のアイデアや構想はおそらく宵崎さんの頭の中からしか生まれない。したがっていつものように好き勝手するわけにもいかない。これは最初に手伝いを断った理由のひとつでもある。
『……』
「メイコ?」
『ひとつ、釘を刺しておくわ』
スリープしているスマホの黒い液晶の上に佇んで、メイコはこちらを見上げていた。憐れむような目だった。
『あなたはいつも、自分の芸術を追求する』
「それが僕の想いだから」
『ただの趣味としてなら、結構なことね。でもあなたはそのために誰かを救うことすら手段にしかねない』
「それは……」
誰かを救える曲を作るために、他者に手を差し伸べる。救うため、ではなく。それは誰かを哀れんで助けたいと思う気持ちより、いい曲を作りたい気持ちの方が強いということ。
失恋の直後に意気揚々と作曲をするのが異常だというのは、初めに顔を合わせた時メイコに言われたことだ。それを正論だとは思っても、行動を変えようとはついぞ考えなかった。
『芸術家である前に人でありなさい。でないと取り返しのつかないことになるわよ』
「……気をつけとく」
『どうだか』
スマホに目を遣ればメイコの姿は既に真っ黒な画面に沈んだ後だった。
「お邪魔します」
『……! 十六夜くん、だよね。来てくれてありがとう』
チャットアプリ『ナイトコード』を立ち上げて指定されたサーバーに入ると聞き覚えのある声がした。アカウントを示すアイコンは自分のものを除いて三つ並んでいる。どうやら一緒に活動しているのは二人だけではなかったようだ。
『ねえK、その人が?』
『うん、十六夜奏多くん。今回の曲作りを手伝ってくれることになってる』
「どうも」
『ふうん……』
顔も見えないのにじろじろ見られているような気配を感じる。
『もー、えななんが自己紹介もしないで黙り込むから怖がってるじゃん』
一瞬張りつめかけた空気を破ったのは時間帯にそぐわぬ、揶揄うような明るい声だった。『はあ?』といきり立つ〈えななん〉を放置して言葉を続けた。
『はじめまして、ボクはAmia。で、さっきの不愛想な
『さっきはナイトコードに私たち以外がいるのが変な感じだなって思って、それでちょっと忘れてただけだから。怖がらせたなら、その……ごめん』
「いえ、大丈夫ですよ。よろしくお願いします」
ここにいる三人に朝比奈さんを加えた四人がこの『25時、ナイトコードで。』というサークルのメンバーだという。朝比奈さんはもう少し遅い時間に参加することが多いらしく、今はオフラインになっている。
『ていうかハンドルネームが〈十六夜〉って、そのまんまだね』
「いきなり心当たりのない名前で入るよりはわかりやすいかと思って」
あとは自分の名前を割と気に入っているというのもあった。一度ペンネームを考えようとしたことがあったけれど、しっくりくるものがなくて結局本名で活動している。
『せっかくなら、今からでもちょっと考えてみなよ。これから一緒に作業するのに一人だけ実名っていうのもアレだしさ』
「うーん」
何もない天井を仰ぐ。
イニシャルは──被るから却下。短く、語感がよく、自分に馴染む言葉。思い浮かんだそれをキーボードに打ち込む。
『〈ニュイ〉……英語?』
「夜って意味の……フランス語、だったはず」
何かで読んだだけな曖昧な知識だからアルファベットの綴りはわからない。多少間の抜けた字面ではあるものの、何度も使う名前でもないから構わないだろう。
そうこうしているうちに朝比奈さん──ここでは〈雪〉と呼ばれているらしい──が合流して、曲作りの話になる。普段は宵崎さんが作曲、朝比奈さんが作詞と編曲を行い、えななんがイラストを描いてAmiaがそれらを編集して動画にしているのだとか。
『十六夜くん──ニュイには作詞をお願いできるかな』
「了解です……ところで、どういう曲にするつもりなんですか?」
曲調についてというよりは、作品に込める想いについて。それを聴く人にどういうことを伝えたいのか。僕の役割に直結する部分だ。
『まだぼんやりとしか思いついてないけど……お父さんを支えられるような曲、かな』
「ふむ」
『お母さんがいなくなってから、お父さんはきっとどこか孤独で。弱音を吐いたりできる相手も、たぶんいなくて。だからお父さんの悩みに寄り添って、励まして。一緒に進んでいく──そんな曲にしたい』
「お母さん、ですか」
前に聞いた話に宵崎さんのお母さんは出てこなかった。今の彼女が一人暮らしであることを考えても、事情は想像に難くない。けれどそれを想像のままにして曲を作るわけにはいかなかった。
「どんな人か、訊いてもいいですか?」
『お母さんは……いつもわたしを見守ってくれた、優しい人だよ。最期までわたしやお父さんのことを想って、笑ってたな』
柔らかな声が紡ぐ言葉を頭のなかで反芻する。最低限の骨子を組み合わせて解像度を上げていく。
「……なるほど。急にすみません。言いづらいことだったかもしれませんけど、確認しておきたくて」
『気にしないで。正直わたしもまだ煮詰まってなくて……他にも訊きたいこととか思いついたことがあったら教えてほしい』
「……」
パソコンの画面から視線を切って、すぐ傍に置いたままのスマホを見遣る。
大体の筋書きはもうある程度浮かんでいる。いい曲が作れるという確信もある。
本当は誰かを救う気なんてなくて、自分が楽しいからそうするだけなのかもしれない。
──それでも。
「……こういうのはどうですか?」
今はこの衝動に身を委ねていたい。
『そろそろ寝ます。明日学校なので』
『あれ、もう? まだ二時間も経ってないよ』
『高校には遅刻って制度があるんだよ。知らなかった?』
そんな軽口を最後に初期設定のアイコンがオフラインを示す。いつの間にか火照っていた体がすうっと冷めて、静かで暗い部屋の中、無機質なコンピュータの光を浴びている自分に気づく。
『いやー、Kや雪を翻弄するだけあってなかなかにマイペースだね』
『学校に間に合うように寝るのは普通のことだと思うけど』
『でもAmiaの言いたいこともわかるかも。マイペースというかペースに乗せられてるというか』
彼を見送った後、みんなの感想が口々にナイトコードに木霊する。
「……ニュイはAmiaには敬語じゃないんだね」
『あ、おかえりK。ずいぶん集中してたね』
イメージが固まってからは早かった。言葉と思い出とが溢れだして、ひとりでに旋律に変わっていった。たった二時間のうちに、いつもの比べ物にならないペースで作業が進んでいた。
『同い年って話をしたのもあるけど、今期のアニメの話で盛り上がっちゃって』
『……それにしても、今日の十六夜くん──ニュイはなんだか機嫌がよかった気がする』
わたしたちのなかで唯一最初から彼と交流があった雪がそう言った。何はともあれ少しは打ち解けてくれたみたいで安心した。
『ニュイってばかわいい幼馴染が四人もいるんだってさ。うらやましいなぁ』
「ああ……望月さんとバンドをしてるっていう」
『そういえばKの家に来る家事代行の人がニュイの知り合いなんだっけ。じゃあその子が?』
「うん」
望月さんを通して言伝があった時はわたしも驚いた。自分自身知り合いが多い方ではないから、望月さんや雪と彼につながりがあるなんて思いもしなかった。
『でも雪が読んだ小説って幼馴染と心中する話だったんでしょ? どういう気持ちで書いたんだか』
えななんの一言にみんなが押し黙った。夜道を照らす明かりが突然ぱったりと消えてしまったような気がした。口にした本人も深く追及するつもりはなかったみたいで、それ以上踏み込むことはなかった。
作業が信じられない速度で進む代わりにわたしは前にも増して時間を忘れるようになった。望月さんに苦言を呈されたのは曲を作り始めて数日が経った頃だ。
「宵崎さんもはもっと体を大切にしてください」
「ごめんなさい……」
慣れた手つきで具材を鍋に放り込みながら、望月さんは言った。わたしはというと彼女の目の届く範囲で体を休めるようにと説得されて、手持ち無沙汰にリビングのソファに腰かけている。望月さんのいるうちは作業を進めるのは難しそうだった。
「奏多くんだって、この前倒れたばかりなのに……」
「倒れた?」
「はい。ずっと夜通し曲を作っていたみたいで」
詳しく聞いてみると十六夜くんはわたしと同じように作曲に没頭して、救急車で運ばれたらしい。
驚いたのは彼に楽器の経験どころか歌うこともままならないほど音楽の才能に欠けているということだった。それなのにあれだけの曲を作り上げた。
「曲を作るようになってからの奏多くんは、とっても楽しそうなんです。だからきっと、宵崎さんにもそうなってほしいんだと思います」
そう言って望月さんが微笑んだとき、火にかけられた鍋がコトコトと音をたてはじめた。
病室は静かで、わたしのほかにお見舞いの人はいなかった。心臓がわたしの歩みを妨げるかのように鳴動する。深呼吸が病室の空気を震わせた。
壁に沿って並んだベッドの間をすり抜けて、とうとうその姿が目に入った。なにをするでもなく、暮れていく空をながめている。わたしが近づくと、くすんだガラス玉のような瞳が向けられた。
「こんにちは。宵崎さん」
「ああ、こんにちは。ええと……すみません、どなたでしょうか」
戸惑うその人に、これまでと同じように奏という名前を告げる。少しでも音楽に触れてくれたら──そんな願いの籠もった名前を。
「申し訳ない。仕事の無理がたたったらしくて、どうにも記憶が曖昧で……」
わたしの原罪が目の前にある。あの日の光景がフラッシュバックして、どうしようもなく脚がすくみそうになる。
視線を逸らした先で、わたしはそれを目にした。
夕闇を裂く一条の光。
瞬きのうちにそれは跡形もなく消えていた。
わたしは生まれてこの方流れ星というものを見たことがなかった。儚くてか細い、刹那のきらめき。けれど、わたしはそれを綺麗だと思った。
両手に持っていた、病室には似合わない二つの機器を差し出す。
「今日は、宵崎さんに曲を聴いてほしくて」
「曲を……?」
わたしの手渡したタブレットとヘッドホンを受け取って、不思議そうにこちらを見る。
「あなたのために作ったんだ。元気に、なってほしくて」
「それは……嬉しいな。ありがたく聴かせてもらいます」
穏やかな笑みとともに、あなたはヘッドホンを装着する。
その姿を見るのは本当に久しぶりのことだった。逸る気持ちを抑えて、わたしはナースコールの位置を確認する。そして、ついに白い指が再生マークに触れた。
暗闇を歩くわたしを月が見ている。
いつの夜も、わたしのそばで幸せを願ってくれている。
その光に抱かれているから、ひとりじゃない。
きっとあなたを見つけられる。
『月の華』は、そんな誰かを偲ぶ曲だ。
曲の再生はもう終わっている。なのにあなたは画面を見つめたまま離さない。
「あの……」
声をかけるとゆるゆると顔が上がって、呆然とした、けれど焦点のはっきりした視線がわたしに注がれる。
「……名前」
「え?」
「あなたの、名前。もう一度……聞かせてもらっても?」
握った拳に力が入る。
わたしの名前。あなたの想い。
それを、もう一度口にした。
「奏、です」
「──そう、ですか」
あの日以来、初めてあなたの瞳にわたしが映った気がした。あなたはタブレットに目を落として、それからもう一度わたしを見る。
「……もし、あなたさえよければ」
優しい、声だった。
「これからも時々、あなたの曲を聴かせてもらえませんか」
「──」
「あなたの曲を、もっと聴いてみたい」
「ぅ……ぁ」
返事の代わりに小さく喉が鳴って。
視界が滲んで、熱いものが溢れる。
大きな手が、ぎこちなく背中をさすってくれた。
お父さんの腕の中で、わたしは泣いた。
「さっきから浮かない顔して、どうしたのさ?」
いつものファミレスでのささやかな打ち上げにて。瑞希は首を傾げてそう尋ねた。一瞬誰のことかわからなかったけれど、その視線は明らかに対面──わたしの隣に向いている。
十六夜くんは自分の頬を指の腹で小さく撫でた。
「……わかりやすかった?」
「喜んでるようには見えなかったね」
頷く瑞希に、十六夜くんは小さく息をついた。
「……正直、調子に乗っていました」
「どういうこと?」
「『曲でお父さんを救えばいい』なんて宵崎さんを焚きつけておきながら、結局快復させるには至らなかったので……すみません」
お父さんはなにもかも思い出したわけじゃなかった。
記憶の混濁は解消されたみたいだけど、わたしのことを含めて覚えていないことは多かった。ただ自分がいろいろなことを忘れていることには気がついていて、担当の先生は少なくともこれからはわたしのことを忘れたりはしないだろうと言った。
奇跡は起きた。けれど十六夜くんは満足していなかった。
「……なら、これからもわたしを手伝ってくれないかな」
黒い目が小さく見開かれて、みんなの間を彷徨う。文句は出るはずもなかった。
「たまになら……」
返ってきた答えは、なぜか歯切れが悪かったけれど。
ファミレスを出る頃にはすっかり日が暮れていた。何年かぶりに見上げた夜空は鮮やかで、思わず足を止める。今夜は綺麗な満月で、大きな暈ができていた。
「宵崎さん?」
前を行く彼がこちらを振り返る。
「……ありがとう」
夜の歩き方を教えてくれて。
「──こちらこそ、ありがとうございます」
月に照らし出されたのは陶然と口元を釣り上げた横顔だった。
次はワンダショ編(真)の予定ですがまた間隔が空くと思います。