『needLe』の歌詞は脳内補完でお願いします。
「十六夜くん?」
名前を呼ばれて気体のように際限なく広がっていた意識が収束する。重い瞼に抗いながら声のした方に目を向ければ、そこに立っていたのは朝比奈さんだった。
「おはようございます」
「もう二十二時前だよ」
頭がはたらかない。どうも予備校の廊下で突っ立っていたらしい。朝比奈さんの言う通りの時刻なら授業が終わった直後だけれど、その記憶がまったくない。
「すみません、ちょっと最近寝れてなくて」
「そうなんだ。なにか悩み事があるのかな」
「あー……」
尋ねる朝比奈さんの顔は朗らかで、自習室で時々見かける集中している時の表情とはやはりギャップがあった。
「……ちょっと変なこと言いますけど」
「?」
「イソップ物語に、『酸っぱい葡萄』って話があるんですよ」
そんな切り出しになったのは葛藤があったからだ。相手の方から話を聞いてくれたとしても、重苦しい話題は会話を停滞させ、関係を損なう。第一顔見知り程度の知り合いに込み入った事情を話すというのもおかしな話だ。
一方で、朝比奈さんは同じ予備校に通っているだけの知り合いで、お互いのコミュニティに干渉しづらい立ち位置だ。悩みを打ち明けたとしてもそれが僕の周囲の人間に漏れる可能性は低い。有り体に言えば周りに知られたくないことを吐露するのに都合のいい相手だったのだ。
折り合いをつけてできるだけ迂遠に事情を話そうとした結果、こうなった次第である。
「木に生った葡萄をとろうとして失敗した狐が食べてもいない葡萄が酸っぱかったと決めつけて諦めることを正当化するって話です」
朝比奈さんは口をはさむことなくこちらの話を聞いてくれている。表情が薄いのは真面目に聞いてくれているのか唐突に語り始めた僕を怪訝に思っているのか。どちらにしろ思わせぶりに話し始めて途中でやめるわけにもいくまい。
「でも仮に、葡萄を他の狐が簡単に手に入れて美味しそうに食べているところをその狐が見たら、正当化は破綻するでしょう?」
悔しくて、羨ましくて、でも葡萄のとり方を素直に尋ねることもできない。諦めてしまった自分とその狐を比べて、ただただ惨めな思いをする。
「……十六夜くんは、どうしたいの?」
ほんの少し。
注意して聞いていなければわからないくらいの違い。けれど確かに朝比奈さんの声が低くなった。
「どうしたいと言われても」
僕にできることは何もない。すべて忘れて輪に加われるほど呑気ではないし、かといって四人を傷つけるだけの覚悟もない。精々このままどっちつかずで取り繕いながら過ごすくらいしか。
ふと朝比奈さんと視線が交わる。光の加減のせいか、その瞳は暗いどころか黒く見える。僕の好きな、星の見えない夜の色。
「……誰もいないところ」
言うなれば虚無世界。星明かりの届かない、銀河の狭間の大空洞。そういう場所へ行きたい。きっとそこでならゆっくり眠ることができると思うから。
「──なんて。気を遣って相談に乗ってもらったのに変なことばかり言ってすみません」
思いついたままに口走ったものの、すべては世迷い言に過ぎない。
それに雫さんを通して話が伝わる可能性がないとは言えない以上、本来なら朝比奈さんにだってあまり話しすぎるべきではないのだ。とはいっても内容が内容なので既に朝比奈さんからヤバい奴と認定されることは免れないかもしれないが。
「……救われないね」
「……どういう意味ですか?」
呟いた朝比奈さんの纏う雰囲気にはもう先程までの穏やかさは見当たらなかった。これまで目にしてきた、折り目のないあの顔つき。
「きっと楽になることなんてできないんだろうなって、そう思っただけ。……少なくとも、それを望んでいるうちは」
「それは、わかるような気がします」
その言葉には不思議と共感できた。
早鐘を打つ心臓も、竦みそうになる脚もひた隠しにして歩き続ける。事前に考えた称賛の言葉を頭の中で復唱しながら、口角を上げる練習をする。目も細めて、できるだけ優しい顔に見えるように。
咲希から予定の空いている日を尋ねられたのは月曜日のこと。週明けの登校日だったから覚えている。その日の指定した時間にとある場所に来てほしいと連絡が届いたのはさらに数日経ってから。水曜か木曜か、たぶん火曜ではなかったと思う。
呼び出された場所はライブハウス。用途の決まりきったその建物を指定したのは隠すつもりがなかったのか、隠しようがなかったのか。どうあれ準備する時間があったことは僕にとっては幸いだった。
頭の中でシミュレーションを繰り返した一週間。『十六夜奏多』を天衣無縫に演じきるために充分な猶予だったとは到底言えないけれど、あからさまな無様を晒さないだけの心の準備くらいはしてきた。
馬鹿なことをしているという自覚はある。
バレるにしろそうでないにしろ、ろくな未来にならないことは目に見えていて、いつまで隠すのか──あるいは隠し通せるのか。違いはそれだけしかない。最初から打ち明けるという選択だけは、情けないことにどうしてもできなかったが。
時々地図アプリを開いて道を確認する。目的地が近づくにつれ、気持ちも足どりも重くなる。このままライブハウスを通り過ぎて、どこかへ行ってしまいたかった。仮にそうしたところで結局は知っている場所にしか行けないのだろうけど。
とうとうレンガ造りの雑居ビルたどり着く。潜水をする前のようにひとつ呼吸を整える。外の階段を下って中に入るとニット帽に眼鏡をかけた柔和な雰囲気の男性が大きな扉の前に佇んでいた。
「やあ、君が十六夜くんかな?」
「はい。あなたは?」
「僕はこのライブハウスの店長だよ。よろしくね」
ライブハウスというからにはテンションの高い人が経営しているのかと思っていたけれど、この店長は落ち着いていて一回り以上年下であろう僕に対する振る舞いも親切だ。
「よかったんですか? 昼間とはいえ休日にライブハウスを私用で使わせてもらっても」
「最近買い換えた音響設備の調整をしたかったから、ちょうどよかったんだよ。それに僕も日野森さんたちの音楽を聴いてみたかったから」
やはりここが志歩のバイト先であることは間違いないようだった。
「そうは言っても驚きはしたけどね。日野森さんが急にステージを使わせてほしいなんて言ってきた時は」
どこか生暖かい視線を向けられている気がする。若人の青春の一幕とでも思っているのだろうか。バンドマンなんかは特にそういうのに胸躍らせそうなイメージがある。
「ところで顔色が悪いね。これからフロアで演奏を聴くわけだけど、大丈夫そうかい?」
「ええ、お気になさらず」
倦怠感にはもう慣れた。今日のところは頭痛もめまいもずいぶんマシな方だし、バンドの生演奏を子守歌代わりにできるほど僕は器用ではない。
「……それじゃ、そろそろ入ろうか」
携帯を一瞥した店長さんがこちらに背を向けてエントランスの重厚な扉に手をかけた。乾いた唇を舌で湿らせる。家を出る前に潤したはずの喉に唾が絡んで落ち着かなかった。
フロアは不自然なほど仄暗く静かだった。前を行く店長さんにならってステージがあるであろう方向を見る。
その時になってようやく、彼女たちがどんな歌を演奏するのかという疑問に思い至った。
照明がステージを照らし出す。
ギター、ベース、ドラム、キーボード。それぞれの楽器を構えた四人の瞳が僕を貫く。一体感を表すため、なのだろうか。休日だというのに四人ともが制服を着ていた。
「──聴いてください」
音が爆ぜた。
スピーカーに増幅された音が、僕の体を絶え間なく殴りつける。拍動の制御を奪われたように、刻まれるビートが心臓をでたらめに揺らす。
「────♪」
歌詞が語りかけてくる。四人の想いが伝わってくる。リズムに乗って、メロディに合わせて、美しい言葉が美しく歌い上げられる。
色とりどりの舞台照明はあの日見た夜空を思わせた。黒いだけじゃない、青色で紫色で橙色で桃色の、どこまでも広がっていくような。あれはそう、空というよりは宙だった。
「────♪」
小学生の時、校外学習でプラネタリウムを見に行ったことがあった。星座なんて説明されても、いい加減で無理やりなこじつけにしか思えなくて。あれそれは何座で、なんて言われても、そんな形には見えないのだから。
しし座から星がひとつくらいなくなったとしても、きっとわからない。その星がはじめからなくたって、それはきっとしし座ということになったのだろうと。
「────♪」
歌う。叩く。弾く。かき鳴らす。ラスサビで一段と増していくボルテージ。遥かな空から手を差し伸べるようなその音色。それは綺麗で正しくてまっすぐで。そして身を焦がすほどに熱かった。ステージに立つ四人は実に楽しそうな表情で。
ほら、やっぱりわからない。
そんな言葉は音にはならずかき消される。星の極光に灼かれていく。
演奏が終わる。
四人の視線がこちらに集まるのを感じる。用意した言葉を口にしようとして、異変を覚える。
声が出ない。小さく、けれど忙しなく上下する己の胸。気がつけばびっしょりと汗をかいている。全力疾走した後のように心臓が苦しい。服の上から胸に手を当てようとして、それもできないことに気付く。関節が固定されたように全身が動かない。
なんとか一歩踏み出そうとして、受け身も取れず前のめりに倒れ込んだ。
「奏多⁉︎」
衝撃。
冷たい床が汗を冷やして急速に熱が奪われていく。猛烈な吐き気と、それを意識ごと塗り潰していく閉塞感。
目が覚めたら他人がいい。
そう思った。
久方ぶりに目を覚ますということをした。爽やかさなんてなく、疲労感も大して抜けてはいなかったけど。救急車で運ばれてからそれほど時間は経っていないということを医師に言われた。倒れた原因は精神的な負荷からくる睡眠不足と過呼吸ではないか、とも。あれだけ準備をしてこのザマとは、恥ずかしいばかりか心配してくれた店長さんにも申し訳ない。
ひとまずは安堵の息を吐いた親がなにやら手続きをするために病室を出ていくと、入れ替わりに浮かない顔の四人が現れる。
「……」
「僕は」
刺すような沈黙にも動揺はなくて、自分から口を開く。なぜだか心が凪いでいた。こういうのを捨て鉢になっていると言うのだろうか。
「羨ましかったんだ。僕にはできないやり方で、絆を取り戻していく君たちが」
志歩と穂波の心を溶かし、バンドを通してまたひとつになる。それは僕ではなし得なかったことだ。
「何も知らなかった。歯車はいつの間にか狂っていて、原因もわからなくて。けど、直せないと思ってたそれはあっという間に元通りになった」
僕では直せなかったものが咲希たちには直せた。僕にはないつながりが四人にはあって。それはきっと尊いものなのだろう。
「僕は諦めたから、文句を言える立場じゃない。それはわかってる。これはただの八つ当たりで君たちは何も悪くない」
けれど、敢えて言おう。恥知らずにも、傲慢にも、あるいは愚かにも。
どうして僕では駄目だったのか、と。
「……悪いけど、帰ってほしい。顔を見てると、つらい」
一方的に捲し立てた。自分が正しいと信じてやまない、子供の癇癪のようだった。
誰もいなくなった病室でまたベッドに横になる。純白のシーツの肌触りはいつまでも沈んでいたいくらい優しかった。
週明けの学校では書道担当の教師がようやく戻ってきて、音楽室に出向く必要がなくなった。音楽教師も、他の生徒も、清々していることだろう。
久しぶりの課題は「信念」だった。簡単な漢字とはいえ元々書道が得意なわけじゃない。最初に書き上げたものはいつも通りの出来栄えで、特に語るべきものはなかった。なんにせよさっさと提出して授業終わりまでのんびりとするのが常だったのだけど、今日はそれがどうにも歪に見えた。何度か書き直しても納得はできなくて、そのまま授業は終わった。
「十六夜」
駅を出たところで短く声をかけられる。見れば特徴的な二色の髪色。
「……青柳くんか」
数時間ぶりに発した声はかすれていた。友達がいないというわけではないけれど、用がなければ話すことはそう多くない。青柳くんもまたそんな友人の一人だった。もっとも司先輩が間にいたために、中学時代はよく話すことがあったのだけど。
「司先輩は?」
「生徒指導室に出向かれた」
それは出向いたのではなく呼び出されたのでは……というのはさておき。
「助かるよ、あの人の声は頭に響くから」
あの日から何度かかかってきた電話もメールもすべて無視している。何があったのかと聞かれた時に唯一、八つ当たりをしたと返しただけだ。
「咲希さんから聞いた。……どういうつもりだ」
「どうもこうも、八つ当たりだよ。人間なら誰しもあるだろ、そういう時が」
僕がそういうことをしない人間だと思っていたならそれはただの勘違いだ。理解なんてハナから期待してないけれど。
「それは、聞いている。しかし八つ当たりというのは関係のない相手に不満をぶつけることだ」
青柳くんを見上げる。頭半個分の差はあるだろうか。うらやましいとは思わないけど、いいスタイルをしている。無言を催促ととったのか、青柳くんは勝手に語り始めた。
「お前は自分のしたことが八つ当たりだと言う。だが話を聞いた限りお前は咲希さんたちに不満があったんだろう。なら、それは八つ当たりとは言わない」
大学教授の如く細かいところを一々指摘するものだ。待ち伏せまでしてそんなことが聞きたかったのだろうか。
「実際咲希たちに落ち度みたいなものはなかったから。これはどこまでも僕自身の問題だよ。それで理不尽に当たり散らすんだから、八つ当たり以外のなにものでもないさ」
「俺にはお前がただ逃げているだけに見える。咲希さんたちからも、自分自身からも」
目を閉じて投げかけられた言葉を咀嚼する。青柳くんは逃げることを咎めているのだろう。その瞳にこちらを責めるような色は見当たらなかったけれど、それに近いことを言っているのは間違いない。
「難しいこと言うね、青柳くん」
多分、笑っていたのだと思う。脇をすり抜けても引き留められることはなかった。
相も変わらず眠れない夜、ひとっこひとりいない河川敷を散歩する。耳に着けたイヤホンから流れるのはもう何度も聴いたお気に入り。ふと思い立って口ずさむ。音程もリズムもバラバラでお世辞にも人に聴かせられるものではない。
声量を上げる。
高い音に追いつけずに声がかすれる。音痴であることを置いても女性の歌なのだから、当たり前のことだ。
声量を上げる。
腹式呼吸を使っても声が安定せず、ずっと揺れている。日頃から発声トレーニングなんてしていないのだから、仕方がない。
声量を上げる。
「げほっ……」
喉にひび割れたような痛み。しばらく蹲って咳き込み続ける。
『お前はただ逃げているだけだ。咲希さんたちからも、自分自身からも』
「……ふざけやがって」
歌える奴が。ピアノだって弾けるやつが。人の苦労も知らずに上から目線で説教垂れて。
そんなこと、自分が一番よくわかってる。ひたむきであることの美しさくらい、もう知っている。それでも、誰かが膝を折らなければ挫折なんて言葉は生まれないのだ。
地についた両手を握りしめる。雑草と土が爪の間に入り込んだ。今夜もうんざりするほど星が輝いている。まるで希望を探し求めるように。まだ見放さないとでも言うかのように。
おもむろに立ち上がった時、ポケットのスマホが震えた。誰かからの連絡にしても遅い時間だ。軽く土を落とした手でスマホを開くと、それは動画アプリの通知だった。最近あのアプリで通知をオンにしたことはないはずなのに。
〈『Untitled』の再生〉
その文字を捉えた直後、視界が黒に染まった。
浮遊感。
足場はないのに慣性も感じない。落ちているという感覚がない。明かりなんてひとつもないのに、自分の体だけははっきり見える。
「どこだ、ここ……」
見渡す限り一面の闇。まさか宇宙というわけではないだろう。僕は生身だし呼吸もできている。この浮遊感も無重力っぽくはあるが、宇宙飛行士の訓練なんて受けていない僕がそれに翻弄されることなく自在に動けるのもおかしい。
「ここはセカイ。キミの想いでできた空間さ」
とっさに身を翻す。
そこにいたのは奇抜な洋服の少女。中世ヨーロッパの音楽家が着ているような、丈の長い背広のようなもの──燕尾服、なのだろうか。漆黒ながらどこか派手さを感じるそれに似つかわしくない浅葱色のツインテールが揺れている。
「……初音ミク?」
「そうとも。はじめまして、マスター」
「──?」
「まあ混乱するのも無理はない。ひとまずここは物理法則や質量保存の法則を外れた不思議空間だと思ってくれたまえ……ああ、夢とかではないからそこはあしからず」
そんなことを言われても納得できるわけがない。ただひとつわかることはあの『Untitled』がこの状況を引き起こしたということだ。
「──? ってことは……」
「考えてるところ申し訳ないけど、さっさと話を進めるとしよう。なにしろずいぶん長い間待たされたわけだからね」
「……初音ミクってそういう感じなんだ」
違和感のひとつはそこだ。格好もさることながら、どこか尊大さというか気障さを感じさせるこの態度。初音ミクのパーソナリティに詳しくはないけれど、これはなにか違うんじゃないか。
「ふむ、そこはまあセカイに寄りけりとでも言っておこうか。初音ミクと一口に言ったって、いろんなワタシがいるだろう?」
それは少し理解できる。画風はもちろんコラボやフィギュア化によってデザインすら変わるのが初音ミクだ。とはいえそれはむしろ彼女が特定個人ではないからこその性質なのだが。
「先程も少し触れたが、ここはキミの想いから生まれた空間なのさ」
「納得はできないけど理解はするよ。それで?」
尋ねればミクはとってつけたように一瞬考え込む様子を見せたあと、頬を掻くような仕草をした。
「実を言うとね、ワタシから話すことは特にないんだよ」
「はあ?」
待たされただのなんだの思わせぶりなことを言っておきながらのそんな言葉に思わず声が大きくなった。対してマイペースなミクはやれやれと肩をすくめる。
「重要なのはキミが自分の想いに正直になるか否か、それだけだからね」
「……僕の想い、ね」
「もう自分が出した答えに気付いているはずさ、察しのいいキミのことだからね」
ミクの言葉を受けて、しばし辺りを見回す。行間を読むに、この暗闇は僕の心象風景なのだろう。朝比奈さんにあんなことを語った手前言葉にはしないけれど、なんともまあ面白味のない場所だ。物語なんて始まりようがない終着点。僕が望んでいたはずのもの。
「この宙に星を描いて」。
ふと浮かんだのはそんなおとぎ話のような一節。
それは突拍子もない思いつき。不可思議な出来事に直面したことで、思考がそちらに引き寄せられたのか。
しかしそもそもよく考えればこれは得難い経験だ。夢であれ何であれ、自分のなかになかったアイデアが降りてきたことに変わりはない。
口元が裂けるように歪んだのが自分でも分かった。一刻も早くそれを形にしたいという衝動が抑えきれない。
小説として書き表す──それもいいだろう。
けれど今なら。
否、彼女がいる今だからこそ。
向き合うことで、得てみたい。
「……答え合わせは、するまでもないかな?」
見ればミクも空中で脚を組みながら悪い顔で頬杖をついている。まるで悪魔の甘言だ。あるいはこの歌姫は初めから歌いたかっただけなのかもしれない。どうでもいい。今の僕には。
「ミク、僕に音楽を教えてほしい」
「ふふ、契約成立といったところかな」
そう言ってミクは、演奏を終えた音楽家が観客に向かってそうするように恭しく、そして極めて胡散臭く一礼した。
「さあ、明かりを灯そうか。ワタシたちの道行きに」
ずっと、目を閉じていた。
星の見えない宙は、瞼の裏と変わりなかったから。
それは時間が止まったような世界だった。前後も左右も上下も不覚。前にも後ろにも進めない。進むべき道さえわからない。
これは目を開けるための歌じゃない。
目を閉じたまま前に進むための歌だ。
遥かな夜空にかすかに瞬くような。
光より速く彼方に響くような。
閉ざした瞼の裏、いつも変わらずそこにあるような。
そんな歌がいい。
ただでさえ素人だ、歌姫の協力を得てもなお作曲は難航を極めた。ひたすらインプットを続けながら、浮かんだメロディを書いては消し、書いては消し。
ここにきて眠れないということが大きなアドバンテージになった。文字通り寝る間も惜しんでどうにかメロディを捻り出す。そしてミクにダメ出しを受けて没にされる。
表現したい内容が決まっている分、歌詞の方は驚くほどスムーズだった。というより歌詞の内容があらかじめ固まっていなければもっと苦戦しただろう。それでも曲の方は没にされる。
やるからにはお粗末な作品は作らない。ミクもそれがわかっていたからダメ出しをし続けた。本当に納得するまで彼女は首を横に振りつづけた。
「……できた」
二週間。風呂も食事も睡眠も学校も、極限まで切り詰めた。仮病で数日休んだところで僕に精神的なストレスがあると知っている親はうるさくは言ってこなかった。
「サビだけ、ではあるけどね。しかしまあキミにしてはよくやった方だろうさ。ほら、あそこをご覧」
歌い終えてなんだかんだと言いつつ満足げなミクが虚空を、虚空だったはずの場所を指した。その指の先、砂粒ように小さな光が灯っている。
「はは……」
それを見て、僕は笑った。自然な笑顔だった。
「はは……──え」
全身から力が抜けると同時、ミクの姿が見えなくなった。
「やれやれ、ここで寝るつもりかい?」
そんな声が遠くに聞こえる。どうやら僕自身が目を閉じただけのようだった。それを認識した途端、睡魔が僕の意識を泥濘に引きずり込んだ。
「はてさて、一体どんな楽しい夢を見ているのやら。どれ、早いところ送り返して──む?」
「この気配は……ふふふ」
「ワタシとしてもサビだけというのはちょっと不完全燃焼だったからね。ちょいとばかりその分の意趣返しをしたところで、罰は当たるまいよ」
目を覚ませば慣れた布団の上だった。
慌てて枕元のスマホでを探り当てて日付を確かめる。全部が夢だったなんてことになったら目も当てられない。幸いにも日付は記憶と合致していた。
そして表示されている見慣れない音声ファイル。それには三十秒に満たない音声データがひとつだけ収められている。
「『極星』」
そのタイトルを口に出してみる。ミクが名付けたのだろうか。
「あの……奏多?」
再生しようとして、掛け布団ごと全身が跳び上がった。聞こえるはずのない声が聞こえたから。
ゆっくりと、そうであってほしくないと願いながら体を起こすと、足元の方、散らかった部屋にぽつんと空いたスペースに一歌と咲希と志歩と穂波とが座っていた。
「……なんでいる?」
「奏多と話がしたくて……奏多のお母さんがまだ寝てるから直接部屋に上がって起こして構わないって」
知らず天を仰ぐ。そういえば今日は休日だったような気もする。母親に文句を言おうにも養われている身で強く出るのは躊躇われた。それに母は母なりの善意で彼女たちを通したのだろう。僕のストレスの原因を、母は未だ知らなかった。
「それで……その歌って」
一歌の人差し指の先を視線で追う。そこには僕のスマホがある。……スマホ?
「………聞いた?」
「えっと、うん」
「ど、どうやって」
「部屋に入ったらスマホの画面が点いてたから気になって」
「スマホの音声ファイルはタブを閉じなかったら待ち受けからでも操作できるでしょ。それで……」
志歩の言葉を待たずに布団を頭まで被り直した。すぐさまスマホを手に取りセカイへの逃亡を図る。『極星』を再生しようとして──指を止める。これでは今までと変わらない。
そうしているうちに、恐る恐るといった穂波の声が聞こえた。
「えっと、聴かれたくなかったの……?」
「……誰かに聴かせるつもりじゃなかったんだ。趣味と、ケジメとして作っただけで」
さすがに布団は被ったまま。今の状況で顔を合わせて話す勇気はなかった。
そう思っていたら、いきなり布団を引っ張られる。
「ちょっ」
「しほちゃん⁉︎」
「私は奏多と面と向かって話がしたいの」
その言葉からいくらかの間があった。そして布団を引き剥がす力が四倍になる。男子とはいえもやしっこが女子四人の力に敵うはずもなく、無情にもその視線にさらされる。
「奏多」
膝をついた志歩が、視線の高さをこちらに合わせて口を開いた。逃げたい気持ちと葛藤した結果、凝らしたような薄目で志歩と目を合わせる。
「ごめん」
「え」
「私が奏多に……みんなに甘えてた。みんなを傷つけた私自身から目を逸らしてた」
だからごめん、と。
志歩は頭を下げた。
「わたしも、自分のことで頭がいっぱいで、奏多くんに寄りかかってばっかりで」
「私は奏多の苦しさに気付いてあげられなかった」
「……そんなの僕だって同じだ。みんな自分のことで手一杯で、助け合いなんて口で言うほど簡単なことじゃない」
慰めにすらなっていない、捻くれて青臭い俯瞰したような言い方。そもそも謝るべきなのは彼女たちではないというのに。
「それでも、だよ」
膝と両手を床について、前のめりになりながら咲希が言った。
「それでも……誰とでもはむずかしいかもしれないけど、アタシたち五人なら。きっと特別でいられると思うの」
「……っ」
「だから、ごめん。なーくんの辛さ、まったくわかってなかったんだね、アタシ」
四人の顔を見ていられなくなって顔を伏せる。
いまさら顔向けなんてできるわけがない。自分勝手に傷つけたくせに、そんな顔を見せていいはずがない。
「ごめん」
努めてフラットな声でそう言った。ふとした瞬間に切れてしまいそうな緊張をなんとか繋ぎ止める。
謝りはしても許しは請わない。許されるために謝るわけじゃない。その上で、最後の一歩はこちらが踏み込むべきなのだ。差し伸べられた手を掴むばかりではいられないから。
「また、一緒に居させてほしい」
「──うん!」
笑い方がわからなくて、くしゃりと表情を歪めた。
瞬間、スマホの画面が強く光を放ち始める。
「これって……」
『needLe』
それはいつか手放したもうひとつの想い。
あの夜へ続く歌だった。
星の降る夜は相変わらずため息が出るほど眩しくて、反射的に目をつむる。下ろした瞼の裏、
振り返った時には四人とも楽器を構えて待っていた。星を数えるように一人ずつ目を合わせる。そして教室のなか、その輪の中央に進み出た。
「────」
相変わらず、聴くに耐えない歌声だった。音は外れて、リズムも滅茶苦茶。それでも、歌詞だけは覚えていた。
歌い切って、顔を見合わせて。
ようやく僕らは笑いあえた。
メインストーリーはおしまい。
次回からモモジャン編です。