鼓動
上川家之墓。
墓地の一角に、その文字が刻まれた墓石があった。沈んで行く夕日の中で、影を伸ばしながら色濃くその文字を浮かび上がらせる。
神川という本名を隠し、安らかに眠れるよう、神殺しがそう配慮したのだ。
年数が経ったが、神殺しはあれ以来仕事をしていない。
誰かを失わせることも、失うことも、その本質を分かってしまった彼には、簡単に手を出すことはできなかった。
神殺しは逃げるように裏世界から身を潜め、ずっと世界を変えるやり方を考えてきた。
ずっと、考えて考えて、それでも答えは出せなくて。殺す以外の方法を見つけ出せずに、行き止まりで行き詰っていた。
「……凪」
そして、遂に、この時が来てしまった。
「……俺は、また人を殺す」
新たな神化人間の発見。
裏世界を震撼させる新たな情報。その情報が流れた時、神殺しは神の眼に詳しい情報を聞いた。
新しく発見された神化人間は葉山恵。神化人間は神化人間だが、体の質も何もかも、普通の人間と相違ない人間。神化人間とは呼べない、一般人に部類されるべき存在。
だから、彼女自身には何の意味もない。この情報も直ぐに裏世界に知らされることだろう。
「…………」
だが、今確実に、大きく世界が動揺した。
世界の目は葉山恵に注がれている。
それはつまり、ナイフ使いから、シロから、目を逸らしていることに他ならない。
厳重に守られていたシロの監視は、緩んでいる。
来てしまったのだ。
唯一とも言える、シロを殺し得る機会が。
望みながらも、拒絶しようとしていた時が来てしまった。
「……畜生」
……結局、この道しかないのか。殺すことでしか、俺は前に進めないのか。
己の傲慢さに、この無力さに、少しだけ嫌気が刺した。
「…………」
神殺しはずっと立ち続けていた。
辺りはすっかり暗くなり、既に月は登っている。遠くに見える都会の街灯がやけに眩しく感じられた。
今夜、ナイフ使い達が葉山恵を裏組織から奪還する作戦を実行するのは知っていた。
神殺しが跳ぶ。
空気を切り裂き、闇夜の中に紛れ込む。
ナイフ使いに会う為に、彼は跳んだ。
ビルとビルの間で、背を付けて彼を待つ。自身の気配があれば、何か用があると悟ってナイフ使いはやってくるだろう。案の定、此方の気配を感じたであろう異質な気配がこちらに向かってきた。
「よぅ、ナイフ使い」
真横に降り立ったナイフ使いに、神殺しは声を掛けた。顔を合わすことができず、表情も固い。
「何か用か」
相変わらず淡々としたナイフ使いの言葉に、神殺しは付いて来いと歩き出した。ナイフ使いは無言でそれに従い、二人はへ喫茶店へと足を踏み入れる。
夜の遅い時間にはアルコールも出している店で、カウンターに客がちらほらと見える。
離れたテーブル席へ着いた二人は、それぞれ珈琲を注文し、やってくるまで無言のままでいた。
置かれた珈琲を皮切りに、神殺しがナイフ使いに目を合わせる。
「……ナイフ使い」
……俺は。
「……俺は、明日の夜、シロを殺す」
もう、後戻りはできない。
「……シロを殺す、か」
ナイフ使いは目を逸らさずに、当然のように答えた。
「やれよ」
許可の言葉を紡いだ。
「俺は、邪魔をしない」
その答えに、カッと神殺しの頭に血が登る。
「……っ!!」
ガタリと椅子を倒して立ち上がった。周りが何事かと一瞬だけ注目するが、すぐに興味を無くして自身の飲みへと戻った。
神殺しは努めて冷静に声を絞り出す。
「何故、止めない」
「何故、止めなければならない」
ナイフ使いのにべもない返答に、神殺しは声ならない思考で歯噛みした。
……本当に良いのか。
自分を助けてくれた存在を見殺しにするのか。自分を繋ぎ止めてくれた存在なのに。お前が感情を出せるかもしれない唯一の方法を、お前は手放すのか。
神殺しが言葉を発しようとした所で、先にナイフ使いが言葉で塞いだ。
「神殺し」
空虚な瞳は神殺しを鏡のように映し出す。
「お前、止めて欲しいのか」
「……っ」
半分自覚していた図星を突かれ、神殺しは言葉に詰まる。ナイフ使いは視線を外し、小さく息を吐いた。
「何故、俺が止めねばならん」
「……それは」
「俺は俺を殺したい。だが、死を受け入れるわけにはいかん」
ナイフ使いはただ事実だけを積み上げる。
「お前が裏世界を壊したいのならば、シロを殺すのは最良の一手だ。シロの死により、裏世界は混乱するだろう。自滅する組織もあれば潰し合う組織も出てくる。俺をどうにか殺そうと躍起になるところもあるだろう」
何より。
「裏世界全員が、俺を殺す為に動く」
もう後戻りは出来ないのだから。
「世界がどう有ろうとも、俺は死ななくてはならない。俺の死は必須だ。神殺し、お前の意思があろうとなかろうと、それは変わらない」
だからもう一度言おう。
「シロを殺すのは、最善の選択だ」
世界の歯車を止めている彼女を無くせば、否応無しに動く。
「寧ろ、何故今日殺さない。いや、何故俺達が葉山恵を攫っている時に殺さなかった」
「…………」
「何を躊躇う。何を日和っている。迷う余地など無いだろう」
……何故そんなにも簡単に言えるんだ。
何故、そんなにも、お前は。
「……お前は」
神殺しは立ち上がった姿勢のまま、問いた。
「生きたくないのか」
「下らない」
本当に下らないと、紡がれる。
「なぁ、神殺し」
まだ迷いを抱える神殺し。
「俺はな」
だから、ナイフ使いは言う。
迷う必要はないと。選択などないのだと。それは無意味な足掻きなのだと。
今出来る、最大の感情を。
二重人格が出ない限界の感情を。
たった一言に込めて、零した。
「無理なんだよ」
神殺しは動けなかった。
凪と同じだ。
最初から決まっていたことで、決して人の意思や行動でどうにかなるものではない。必死に足掻こうとも、どれだけ抵抗しようとも。
遅かったのではない。
手遅れだったわけではない。
「…………」
最初から、無理だったのだ。
「……分かった」
だから、神殺しはそれを飲み込んだ。
身の中にある様々な感情を全て飲み込み、吐き出さずに、蓋をした。どんな言葉も、想いも、それこそ無意味なのだと悟った。
「……じゃあな」
神殺しは砂糖もミルクも入れていない珈琲を一気に煽る。
甘いのが好きな彼にとって、とても刺激がキツく、苦々しい味が喉を通り、胃に落ちた。飲み物がなくなっても、苦さだけが口の中に残っていた。
神殺しが背を向ける。
「ナイフ使い」
「何だ」
ナイフ使いの言葉は、既に一抹の感情も無かった。
「……珈琲くらい飲んでおけ。そうやって少しくらい人間らしいポーズをしておけば、仕事でも何でも、人と話すのはやり易くなる」
「成程。アドバイスとして受け取っておこう」
机の上にお金を置いた神殺しは、今度こそ去って行った。
外に出た神殺しは夜空を見上げる。人工の光で照らされた街からは星が見えず、月だけがぼんやりとそこに光っていた。見えることができていても、決して掴むことのできぬ光。自身で輝くことは出来ず、太陽の光で映し出されている幻想の光。淡く照らされるそれは、やがて闇か光に飲まれていくのみ。
「どうしてだろうな……」
どうしてこんなにも救われないのか。
ナイフ使いの言葉通りなのだろう。
無理なのだ。
どうしようもなく、無理な事だった。
残されたナイフ使いは、冷めた珈琲を静かに口に運ぶ。冷たい塊が、味気なく感じられた。
「…………」
ふと、シロの言葉を思い出す。
『泣いても良いよ』
感情を動かそうとする言葉。
禁忌の言葉。
心を、壊れたこの心を。
それは、どうしようもなく。
「下らない」
本当に、下らない。
もう止まらない。
もう止められはしない。
今神殺しが動かなければ、本当に世界は動かなくなってしまう。神化人間が新たに見つかるなど、これ以上の衝撃は二度とない。これが最後のチャンス。
「だから」
だから、俺は。