「ねぇ、ビャク」
夕日に染まる空。
裏政府の庭の中で、ナイフ使いとシロは並んで夕日を眺めていた。沈んでいく太陽はビル群に呑まれていき、地平線さえ見えない。
紅く染まり行く世界の中で、二人はそこにいた。
「何だ」
「……私はね、後悔してないよ」
シロの言葉にナイフ使いは僅かに目を細める。何を言い出すのかと思っていると、シロはナイフ使いより少し前に進んだ。木の陰から出たシロは赤い日に染まり、ナイフ使いは薄暗い中で彼女の背を見る。
改めて見ると、彼女の体は小さい。ずっと車椅子で過ごしてきたシロは当然体を鍛えることもない。神化人間とはいえ、元々戦いも体を作ることすらしてこなかったシロの線はとても細かった。神化人間でなくても、抱きしめてしまえば壊れてしまうような脆さを錯覚させる。その白さは触れてしまえば汚れてしまうような、彼女自身が壊れてしまうような。そんな危うさを感じさせた。
「私は貴方に殺されかけた。貴方に不自由な体にされた。だけど、私はそんなことはどうでも良いの。どうでも良かったの」
「…………」
何が言いたいのか。
そう問い掛ける事は出来たが、不思議と言える雰囲気ではなかった。
だから、彼女の言葉を聞き続ける。
白の独白に耳を傾ける。
「私は、貴方に会えて良かった」
シロが車椅子を反転させて、ナイフ使いに向き合った。
「ビャク」
夕陽の中、赤い紅い世界の中で、シロは微笑んだ。
「笑って」
その微笑みは、とても綺麗で。
綺麗すぎて。
儚すぎて。
あまりにも、眩しすぎて。
「…………」
ナイフ使いは答えなかった。
無理だとも、不可能だとも言わず。出来ないと、どうしようもないと反論することもなく。
下らないの一言も下さずに。
ただ無表情で、無感情に、シロを見つめ返した。いつも通りに、何も変わらずに、一切の変化なく。
静かに、シロを見た。
無音の時が刻まれる。
空気の音も、葉の音も、世界の音が全て消えた様に静かで。
「……ビャク」
シロの口が動く。
その時、一陣の風が吹いた。木々を揺らし、葉を落とす強い風。短い白の髪を揺らし、彼女を攫う様に吹き抜けた。紡がれた言葉は風に運ばれ、それでも、確かにナイフ使いの耳に届いていた。
ありがとう、と。
私はビャクが好き。
多分、これはそういう感情なのだろう。これが男女間による好きなのかは私にも分からない。
だけど、ビャクが私を助けに来た時、ビャクの死を感じさせたあの瞬間、私はそれを拒絶しようとした。ビャクの死を拒んだ。恐らく、私が何も反応を示さなければビャクはあのまま死んでいただろう。彼が私を見た瞬間、赤い瞳の奥に、確かに感情の波があったのだから。だから、これは私の罪。今彼が生きて苦しんでいるのは私の所為。それでも、彼が生きていたことを喜んでいるのは、私のエゴなのだろう。苦しみと痛みしかない生の中で、その生存を喜ぶ私は、あまりにも穢らわしい。
それでも、だとしても。
私の側にいて欲しかった。
感情を殺し続けるビャク。
きっと、彼が感情を出すことができれば私を恨んだことだろう。私を憎むだろう。
無闇に感情を刺激する私を疎ましく思うに違いない。殺したい衝動を秘めたることだろう。
二重人格の暴走。赤い銃や光の槍のように死に損なったわけではなく、彼の意図によって私は生かされた。
私は彼にとって、自分の意思によって唯一失う事の無かった命なのだろう。
故に、愛おしくも大切に思われている。
私の我儘を聞いてくれて、いつも側にいてくれて、それでも感情を出さなくて。
ビャクにとっての私。
愛しい対象であり、憎しみの対象であり、支えであり、依存であり、半身である。
そして、私とビャクは、互いになくてはならない存在なのだ。
だから、私は。
日は沈み、闇夜が支配する時間。
夜の空は雲に隠れ、星も月も見えない。
裏世界を震撼させた葉山恵の存在。丸一日が経過したこの日、彼女の詳細情報は広まり、世界は落ち着きを見せ始めようとしていた。
シロ自身、彼女と話していて表世界の住人であり、裏世界とは全く無関係の一般人であることは強く実感していた。恵には同情するが、裏世界に入ってしまった以上、彼女が神化人間である以上、この世界から逃れることはできないだろう。
裏世界が滅びない限り。
「…………」
シロは書いていた日記を閉じる。
窓に目を向け、そこから来た人物に柔らかく微笑んだ。
気配を殺して入ってきたのは、神殺し。
「何か用?」
「殺しにきた」
シロの問いに、固い声で神殺しは答えた。
自分を殺すと言われても、シロは微笑みを崩さなかった。
「そう」
答えたのは、たった一言。それだけだった。
まるで当たり前のように受け入れる姿に、神殺しはやや憤りを見せた。
「……抵抗しないのか」
「必要なことなんでしょう?」
神殺しは内心で呪詛を吐く。
……ああ、確かに必要だ。必要なことなんだ。考える期限は切れて、時間切れがやってきた。だから、もう無理なのだ。これ以上の選択は既に存在しない。
「…………っ」
だとしても。
なんだその目は。何でそんな安らかな目が出来る。何故笑える。
……どうして。どうして!どうして!!
凪も、シロも!そして、ナイフ使いも!
「抵抗すれば良いだろうが!」
神殺しは叫んだ。自分が侵入者など微塵も考えず、思いの丈をぶつけた。
「生きたくないのか!」
それは子供の癇癪だと、自分で理解している。助からない命だと分かっているから。だから、この怒りも、嘆きも、何もかも無意味なのだろう。
どうしようもなく救われない。どうしても、救えない。
……俺はあと何度、自分の無力さを知れば良いのか。
俯き、歯を食いしばる。
これが、神殺しにとって最後の砦だった。自分を止めてくれる存在は、最早殺す彼女自身しか居なかった。シロが生きたいと言えば、それだけ伝えてくれれば、神殺しはそれで良かったのだ。
でも、そうはならなかった。
「死んでもいいよ」
シロはハッキリとそう答えた。
自分の命などどうでも良いと。そんな物は問題ではないと。
恐らくこれが、シロだけの異質性。
生に執着はなく死を望むこともない。生まれてから今この時まで、一度も生きたいと思っていたことはなかった。死を願ってもいないけれど、死んでも構わないという気持ち。
理由はどうあれ、ナイフ使いを生の糧とした。
神殺しは重々承知していた。
シロが誘拐されたあの日、シロがこういう存在であるのを知った。だから、これは分かりきった答えだった。
分かっていたのだ、こんなことは。この結末は。
しかし、それでも、一抹の希望を掛けて。
それすらも潰されて。
「それでビャクが苦しみから解放されるなら、それで良い」
自分が死ぬことで何か変わるのならば。己の死によって、ナイフ使いが少しでも変われるのなら、少しでも感情を出せるのなら、それで良い。その結果、世界が壊れてしまっても、多くの人が死のうともどうでも良かった。
ナイフ使いがほんの少しでも救われるのなら、それだけで良かった。
本当に、それだけ。
「……奴が二重人格から解放される保証はどこにもない。寧ろ、お前がいなくなることで二重人格に呑まれる可能性が大きい」
ナイフ使いが本当に救われるとしたら、二重人格が消えることだろう。だが、そんな可能性は皆無に等しいし、どんな方法を要しても不可能に思えた。
ナイフ使いは自覚していないだろうが、彼の思う以上に、ナイフ使いがシロに与えられている影響は大きい。思うというより、理解できないと言った方が正しいだろうが、兎も角影響の大きさを自認していない。
シロの死。
そのショックがどれ程ナイフ使いに影響があるのか。
二重人格に完全に乗っ取られるかもしれないし、今度こそ廃人になるかもしれない。感情のトリガーとなり、世界を壊すきっかけにも成り得る。もしかしたら、万が一、この衝撃が二重人格に対抗できる切欠を与えるかもしれない。
でも、どれも単なる可能性に過ぎない。
これは賭けなのだ。
世界は確実に動くだろう。だが、ナイフ使いがどうなるか分からない。下手をすれば二重人格が数分後には世界を壊し始めているかもしれない。それ程危険な賭け。
「……それでも、二重人格に苦しんだまま生きていかせるより、僅かな可能性に賭けたい」
シロにとっての望みは、本当にそれだけだった。
二重人格を抑え込むなどと贅沢なことは言わない。僅かな欠片でも、ナイフ使いが感情を出す切欠となれるなら、それで良かった。
「いつか、彼を受け入れてくれる人と出会えることを祈ってる」
……私はもう死んでしまうから。
もう生きて、貴方の隣にいることは無いから。
だから、ビャクが誰かと幸せになれることを祈ってる。
これが私の選択。
私が死ぬことで、貴方が変われるのなら、それで良い。世界なんてどうでも良い。貴方が救われる可能性があるのなら、それに賭ける。私と一緒に居るだけでは、それは停滞で維持でしかないから。だから、私は貴方の元から消えよう。
私が消えることで、貴方は喜ぶだろうな。悲しむだろうか。憤るだろうか。或いは無気力になるのか。それとも、やはり何も感じないのか。
ねぇ、ビャク。
私は後悔してないよ。貴方に会えて良かった。
笑ってと言って、貴方は何も答えなかった。下らないとも言わず、何も言わなかった。
それはつまり、私に向かい合ってくれたということ。
下らないと感情を殺さずに、私の言葉に向かい合ってくれた。私を見てくれた。だから、私は満足だ。
私は、幸せだ。
ありがとう、ビャク。
さようなら。
「さようなら、ビャク」
貴方の人生が、幸せでありますように。
愛してる。
ナイフ使いはシロの部屋へ向かった。
先程、神殺しの特殊な気配は消えた。彼が如何に気配を殺すのが上手くとも、ナイフ使いだけは誤魔化すことが出来ない。
神殺しはシロの部屋へ居た。つまり、そういう事だ。それが分かっていたから、ナイフ使いは敢えて近付かなかった。彼らを放置した。
神殺しが去ったということは、終わったのだろう。
もう、終わったのだ。
「…………」
ナイフ使いはドアの前に立つ。
ノックをせずに、躊躇いもなくドアを開けた。
シロが、シロだった物が、そこにあった。
彼女の赤い血が絨毯のように広がり、寝転がるように仰向けに横たわっていた。
心臓を一突き。
肋骨の間を綺麗に刺した一撃。
顔を汚さなかったのは、神殺しの配慮か。
雲の切れ目から月光が差し込んできた。淡く儚い白い光が、シロに注がれる。
ドアを閉じれば真っ暗な部屋で、月明かりがやけに眩しく感じられた。
注がれた光はシロだけに降りかかり、まるで幻想の様に、ただ綺麗で。
死体と呼ぶには綺麗過ぎて。
ナイフ使いが見てきた死の中で、それは、あまりにも綺麗過ぎた。
「…………」
ナイフ使いはドアを背に預け、そのまま座り込む。
何故だか体に力が入らなかった。
視線はシロに向けられたまま動かない。
これが、望んだ結果だ。
ナイフ使いが、神殺しが、そしてシロが望んだ結果だった。
ナイフ使いの頭の中で、走馬灯のようにシロの笑顔が過った。ずっとずっと、彼女は笑っていた。唯一、誘拐されたあの時、ナイフ使いが死に直面したあの時だけシロは泣いた。
シロが泣いたのは、後にも先にもあの時だけだった。
そう、もう見ることはないのだ。
シロの笑顔も。
泣き顔も。
もう二度と、ビャクと呼ばれることはない。
彼女だけの名であったビャクは、もうないのだ。
だからこそ。
その笑顔も、その名前も、彼女への想いも。
だからそこ、彼は。
重い口を開き、その一言を、下す。
「下らない」
笑顔を殺した。
記憶を殺した。
想いを殺した。
シロの願いを、殺した。
感情を無に帰す。もう振り返ることもない。シロに対して思うこともない。何も思えない。もう何も感じない。
もう、何もない。
下らない。
下らない。
……下らない。
「下らない」
今この時、シロが死んだ。
「下らない」
そして、彼の心も、ビャクもまた死んだ。
彼はまた、もう一度死んだ。