夢を見た。
あの時の夢を見た。
周りには何もない。見渡す限り水平線しか見えない海の中央。
星明かりしか光源がない中で、静かで絶え間ない波音だけが聴こえる。
小さな手漕ぎの船の中、ナイフ使いは白の遺体を見下ろした。服装は刺された時のあのままだった。違う点は、彼女の手足に付けられた重し。神の眼から情報を得て貰った特殊な重しだ。これなら確実に深海まで導いてくれるだろう。
誰の手も届かない所へと、沈めてくれる。
「…………」
ナイフ使いは双剣を取り出し、白の髪を一房だけ切り取った。鋏よりも鋭いそれは、髪を傷めることなく、すんなりと切り落とす。手に握った白い髪束を小さな木箱に入れ、懐へとしまった。
本当なら、この髪さえ残さない方が良いのだろう。だが、ナイフ使いは何となく残しておこうと思った。
シロが生きていた証。
それを残さない為に此処まで来たのに、彼女の遺物を残す矛盾。その矛盾に気付きつつ、ナイフ使いは敢えて無視をした。感情も理屈もなく、ただそうしたいからそうした。それだけだと、無理矢理自分を納得させた。この誤魔化しが後々に自分を苦しめるだけだと分かりながらも譲れなかった。感情を出さない為に深く考えようとはせず、下らないと小さく呟いた。
「…………」
息を吐く。
長く深い息を吐いた。
ナイフ使いは白を横抱きに抱える。
重しがある分、彼女の体は普段よりも重い。その手には、死の重さがのし掛かっていた。それは、余りにも重く実感させる。
シロの死を。
風が吹き抜ける。
シロの髪がナイフ使いの頬を撫でた。絹糸のように柔らかく、綺麗な髪が感触として伝わる。シロは細い。神化人間でありながら、こんなにも脆い。腕の中の彼女は小さく、冷たく、そして重く。
そして、あまりにも軽かった。
人に限らず、命は軽過ぎる。命は平等だ。
命は重いと、価値があると言うが、自らの手で幾つもの命を奪ってきたナイフ使いには到底そうは思えなかった。恐らく、人が重要性を見出しているのは人間性であり、命そのものではない。
その人間の行動や功績や結果が、命の価値と混ざり合っているのだ。そしてそれは、マイナスの価値としても同様となる。命に着いた付加価値が様々な錯覚を引き起こす。
シロだって傍目から見れば二重人格のストッパーでしかなく、ナイフ使いは破壊と殺人を齎す必要のない命として認定されるのだから。
人は金とは違う価値観で、命に値段をつけるのだ。
きっと、シロの価値もこの世には殆ど無かったのだろう。
命は軽く、死は重い。
「……当たり前だ」
……俺の側にいるだけの人生など、何も無い。
「シロ」
自然と呟いた言葉は風に攫われた。
呼び掛けてもシロが目覚めることはない。閉じられた瞼は二度と開かない。口は二度と開かず、呼吸をすることもなければ、名を呼ばれることもない。鼓動はない。体は冷たく、その手で握られることもない。
彼女の顔を見た。
最後の表情から変わってはいなかった。
シロは、笑っていた。
安らかな笑顔で、静かに微笑んでいた。
「…………」
ナイフ使いに抱き抱えられた彼女の姿は、まるで幸せそうに、彼に寄り添って見えた。
ナイフ使いは屈み込む。
シロの体を水面につけた。
伝わってきた水の冷たい感触に、ほんの一瞬だけ手が止まる。
しかし、すぐに動く。
静かに横たえるように海へと浮かべ、そして手を離した。
重しでシロが海へと沈んでいく。
暗い海の底へと沈んでいく。
誰の手も届かない場所へと、消えていく。
もう、シロを呼ぶことも、ビャクと呼ばれることもない。
彼は、白を、手離した。
シロの笑顔が見えなくなっていく。
見えなくなって、暗闇に染まっていき、そして、
彼は
「…………」
小さな、小さな
呟くような
囁くような
本当に
小さな
声で
ただ、小さく
その手を
伸ばして
……いかないで
「……っ!」
瞬間、ナイフ使いの体が強張る。
片方の眼が白に染まりつつあった。ナイフ使いは即座に自分の心臓の位置に手を当てる。全力で、微塵の躊躇いもなく衝撃を放った。
静かだった海上を衝撃音が走る。
穿たれた己の心臓は一時停止し、ナイフ使いは意識を手放して船の上へと倒れた。
消えゆく意識の中で思う。
シロの笑顔を思い出す。
もう届かない彼女を見る。
……なぁ、シロ。
俺は、お前を
ナイフ使いは目を覚ました。
自分の心臓を止めてから数分の時間も経っていないだろう。この程度では死ねないのは自覚していた。だから、自らの体に攻撃できたのだ。本当に死ぬならば、それこそシロのように心臓を穿つしかない。もっとも、死のうとする行動は二重人格に乗っ取られて、実行するのは不可能だろう。
体を起こして海を覗く。
もう白い体を見ることはできなかった。
もう感情が揺れることは無かった。
正に間一髪だった。あと一瞬でも遅れていれば、二重人格に呑まれていただろう。咄嗟の対処とはいえ、上手くいった。次は成功するかも分からない。
……しかし、これは。
「……成程」
ナイフ使いは一つ理解した。
その可能性を胸にしまい、船を動かす。静かにそこから離れていく。
これはただの死体処理だと、自分に言い聞かせながら。
彼はまた、自分を殺した。
ナイフ使いは今度こそ本当に目を覚まし、現実へと帰ってきた。
シロを処理したあの日の夢を見た。
夢を見るなど、寝るなど、いつ以来だろうか。
外はすっかり暗くなっており、シロの部屋であった場所で、眠った時と同じ姿勢のままそこにいた。
夢により極僅かに、本当に少しだけの感情が揺らめいたが、二重人格を出す程ではなかった。
下らないと小さく呟き、感情を潰す。
「…………」
目が覚めた理由はすぐに分かった。危険が迫ったわけではなく、神殺しの気配を感じたからだ。
ナイフ使いの気配は異質であり、それにより注目を浴びる。逆に異質さを増せば、それにより人は本能的にナイフ使いを認識しなくなる。
逆に神殺しは気配を殺すことに特化しており、気配の技術面は彼は誰よりも優れているだろう。それでも気配を察知できるのはナイフ使いだからこそである。
再び裏政府に侵入してくる意図は分からなかったが、少なくとも近付いて来ないという事はナイフ使いに会いに来たわけではなさそうだ。
だから、ナイフ使いは放って置いた。
そのまま動かず、一人孤独にそこにいた。
恵は寝込んでいた。
ナイフ使いの話を聞かされた後、熱を出して倒れたのだ。いきなりの話で脳が限界を超えたのだと自分で思った。時折、サフィアが診断にやってきた。
「大丈夫?」
「はい」
「ナイフ使いに聞いたんですってね。倒れるのも仕方ないわ」
恵はサフィアの顔色を窺う。僅かだが、少しだけ暗いように思えた。
「……サフィアさんも体調が悪いのですか?」
恵の質問に、サフィアは少しだけ微笑んで首を振った。
「いえ、私のは精神的な不調かしら」
「…………」
大方の予想は着いていた。
シロが亡くなった今、ナイフ使いの二重人格を抑える者は存在しない。だから不安なのだろう。そして、ナイフ使いが恐ろしいのだ。
殺されるかもしれない存在が近くに居て、平気でいる方が可笑しい。例えそれが仲間であったとしても。
「私達は、ナイフ使いを殺す方法を探しているの」
それはそうだろうと思う。必然の事だ。
「別に人の生き死にに否を唱えるなんてことはないけれど、人の殺し方を真剣に話し合うなんて、どっちが狂っているのか分からないわね」
今までシロが居たから平気だった。
少しばかり抵抗はあっても顔を合わせることも、普通に話す事だって出来立た。
だが、今はただ怖い。
いつ彼が殺しに来るのか。
それが、ただ怖い。
「ごめんなさい、愚痴を言ったわ」
「いえ……」
何も出来ない自分が情けなかった。
その後、夜になれば恵の熱も少しだけ引き、身を起こすまで回復した。
そんな時、扉をノックする音が響いた。
「どうぞ」
またサフィアさんかと思い返事をするが、何となく違和感を感じた。
開いたドアから、黒い姿が見えた。
少しだけ伸ばし、後ろに纏めた髪。右目の傷跡。
「葉山恵か?」
神殺しが、そこにいた。