鼓動が聴こえる。
沈んで行く思考の中で、闇の中へと沈んで行く。一度落ちてしまえば底はない。狭く深く、 果てがない闇の中で、自分の存在も曖昧になっていく。体という器官も感じることができず、僅かな思考が自分を認識出来た。
失敗したのだろう。
何を間違え、何を失敗したのか。判断も原因も理解出来ないが、自分が致命的な何かを犯してしまったのだけは分かる。
誰もいない。
何もいない。
自分以外、何もない。
そのことに感情を抱くこともない。自分の末路には相応しいと、思いはするけれど。きっと、これが俺の果てなのだ。果てであり、望みであり、願いなのだろう。変化もなく、光も届かない。延々と続く深淵。
永久に等しい無の時間。
ふと、誰かの顔が浮かぶ。闇の中で誰かも判別できないが、その人間は、ジッと俺を見ていた。悲しむわけでもなく、嘲笑うわけでもなく、憎まれることもなく、ただ側にいた。
だからだろうか。
余計な、余分な何かを思い出しかけたのは。
深い深い闇の中。
まだ此処にきてはいけない気がした。
やり残したことが、まだあったような。
そんな感覚が、どこかに残っていた。
「奴が目覚めた」
神の杖が立ち上がる。
「……っ」
玲奈が息を呑む前で、背を向けて武器を構えた。既に今までの気配はなく、神化人間としての神の杖がそこにいる。殺す事を厭わず、冷たい気だけを漂わせ、戦場へと一歩踏み出した。
「ナイフ使いの二重人格が、目覚めたと?」
「ああ、だから」
「行かないでください」
神の杖の発言に被せるように、早口で捲し立てる。
「目も見えず、連携も取れない貴方は囮にしかならない。下手をすれば邪魔になるのなら、ここで私と逃げてください」
「強気な発言だ。神殺しに教わったのか?」
玲奈が言う事も尤もである。自分が何が出来るのかと言われれば、囮が精一杯だろう。そんなことは分かりきっている。それでも、奴を相手に少しでも、僅かな時間でも気を削げるのなら、勝てる見込みが少しはあるかもしれない。
希望的観測であるのは自覚している。それでも、少しの希望にかけるしかない。もうそれしかない。
「玲奈、君は逃げろ。即刻に。二重人格が出たのなら、どんなものでも殺して破壊し尽くすぞ」
「なら、逃げた所で同じです」
……ああ違う。そうじゃない。言いたいことは、そんなことじゃない。
行ってしまえば、きっと帰ってこない。予感ではなく、確信。二重人格かどれ程凄いのか分からない。それでも、神の杖の様子から察するに、相応の覚悟が必要な相手なのだろう。
「さようなら、玲奈」
だから、行かせてはならない。ここで手を離してしまえば、もう二度と届かないから。
「行かないで、ください」
玲奈は神の杖の背中に抱き着いた。
「行かないで……」
私と一緒に逃げてと、玲奈は涙を流した。
神の杖に仕替える人間としてではなく、一人の女性として、彼に懇願した。
これは、神殺しからのメッセージでもあるのだ。戦場に来るな。お前には役目も守る人も居ると、そう言っている。ここで出てしまえば後戻りはできない。
背中から感じる暖かな温もりに、神の杖の表情は変わらなかった。
覚悟はできてしまっていた。
これは選択だ。選べなかった運命の中の、数少ない選択。
引くのが良いか、進むのが良いか。
その結果はどう転ぶかは分からない。仮にここで玲奈と逃げた場合、神殺しが二重人格を殺しきれなければ、二重人格を止められるのは神の杖だけになる。
世界中の人間を総動員すれば、相当な被害はあろうが、全滅になることはないだろう。
今ここで出るのなら、確実に神殺しと共に二重人格を殺さなければならない。
「…………」
そして、神の杖は選択する。
知識にある可能な限りの罵倒が頭の中で響く。対象は勿論、自分に対してだ。
青の欠片達はナイフ使いを殺すことだけに固執していた。ならば、あとは裏世界を壊すだけで、彼らの命は残っていても良いのではないか。
その可能性もあったにはあったのだ。確かに存在した。だが、目の前で潰された。目覚めてしまった。
破壊神。
白い姿は返り血を浴びることすらなく、白いままにそこに立つ。
獣の爪、毒の斧、死神の鎌は粉のように消えた。
残っているのは幾つかの骨と千切れた衣服。そして曲がった武器。
分かっていたことだ、これは。
分かっていたんだ。
彼らが死んだ場所は総じて、何もなかったかのように抉り取られている。ぽっかりと空間ごと消えたような光景は夢を見ているようでもあった。
「くそっ!」
鉄の鎖が一歩踏み込んだ。
「動くな!」
神殺しの忠告は遅い。
踏み込んだ瞬間、横に白い存在がいた。鉄の鎖は反射的に鎖で防御したが、まるで意味を成さなかった。武器を超えて衝撃が丸ごと与えられ、鉄の鎖をぐしゃぐしゃの肉片へと変えた。もう一度彼が刃を振るえば、今度こそ跡形もなく消し飛んだ。
聴こえてくるのは、スンッという軽い音だけ。衝撃が通った後には粉しか残らない。音まで奪ったような攻撃に、肉体が完成された破壊神の強さが窺える。音の空気の波さえ攻撃として使用し、何重もの鎌鼬を重ねて、空間を丸ごと消し飛ばす。
どうやっているのか理解が及ばないが、実際に行動として起こしている。
「…………」
岩の拳は動けない。言葉も発せない。
何か一つでも行動を起こせば、それがそのまま二重人格の攻撃対象となりえそうだった。
この段階で、二重人格を目覚めさせた時には、既に青の欠片達の勝ち目はなかった。
武器で防御しても、圧倒的な衝撃は大気を通して身体を容赦なく襲ってくる。防ぐのは不可能だ。
神殺しなら、同じ様に衝撃を操り、相殺はできずとも防御は可能だろう。その為、神殺し以外に出来る事と言えば、精々回避行動を取るくらいだ。
「っ!」
取れれば、の話だ。
瞬きをした瞬間、岩の拳の目の前に、二重人格が居た。
それを理解する前に、やられると思う前に、岩の拳は横に吹き飛ばされた。痛みを感じる。そのことに、岩の拳は驚くと共に、何故まだ意識があるのかと混乱した。
「無事か?」
上から降ってきた声に顔を上げる。
神の杖が、そこにいた。
「お前、何故、俺を」
「戦力は多い方が良いに決まってる」
そう言って、神の杖は神殺しがいる後方へ下がる。岩の拳も口を閉じて、後についていった。
二重人格に動きはない。
不気味に、立ったまま動かない。
「……何故来た」
二重人格から目を離さず、神殺しは苦々しい表情で呟いた。
戦いから離れることも出来たのに。
彼女の手を取って去ることができたのに、彼は此処へと来た。地獄へと来てしまった。
「来るのに、お前の許可が必要か?」
「……いいや」
来てしまった以上はどうしようもない。神の欠片と言えど、二重人格の衝撃を喰らえばタダでは済まないだろう。この場は全て、神殺しの肩に掛かっていた。
「本当に、重いな」
無知のままなら感じもしなかった重圧を感じつつ、双剣を持ち直す。ナイフ使いを助けようなどと思うまい。今は、自分達が生き残ることを第一に考えつつ、目の前の相手を確実に殺さねばならない。
岩の拳も、神の杖も囮。
対抗できるのも、攻撃出来るのも、神殺しだけだ。
「……行くぞ」
死地に向けて、その足を踏み出した。
「…………」
神の杖が飛び出していった窓の側で、玲奈は座り込んで涙を流していた。
もう、彼女に出来ることは何もない。逃げなければと、頭の隅で思うが、足が動かない。
誰に祈れば良いのだろう。
誰に、彼の無事を祈れば良いのだろうか。
神様だろうか、悪魔だろうか。
神の代わりとして造られた人間を、人間のエゴを、一体何が助けてくれるというのだろうか。
きっと、その願いは届かないから。
だから、此処で待ち続けよう。
少しでも、彼の側で。