森が広がっている。
青く生い茂るその場所には獣道すらなく、人の出入りする気配はない。
人を拒むような森の向こうで、小さな草原が広がり、更に向こうに海が広がっていた。高い崖から見下ろせば、波が何度も定期的に打ち付けられている。
雪が一粒ずつ、波の中へと音も無立てずに消えて行く。
その崖から少し外れた所に砂浜が広がっている。
砂浜に打ち付ける波はどこか悲しい音色を奏でながら、水平線の向こうまで存在した。
海の中へと進んで行った。極寒の海の中で震えることもなく、海を掻き分けて進んで行く。
自分の半身が浸かるほどまで来ると、天を仰ぎ見た。
……これが、最後の賭けだ。
二重人格が出る条件は、感情と殺し。シロが死んでから幾度と気絶を繰り返し、その瀬戸際を保ってきた。ここで重要なことがある。感情を出そうになった後、気絶に追い込む猶予があったということだ。感情を出してた後、死なないとは分かっていても、自分を半ば殺すつもりで攻撃した。
つまり、感情と殺しの両立。
その同時行為を行えば、二重人格に入れ替わるまでの猶予が与えられるということだ。
ここから先は賭けである。自分を本気で殺すこと。そして、今まで殺していた長年の感情を一気に暴発させること。半端で終わらせていた二重行為を全開でやることにより、二重人格を出す前に、自らに死を追いやれる可能性。
賭けだからこそ、まだ二重人格に乗っ取られることなく、ここに居る。
これに失敗すれば世界は終わる。
成功すれば、俺が……。
「…………」
殆どの感情は忘れてしまった。今、心の内にある物が何なのかも分からない。
「……っ」
しかし、それでも。
それでも、俺は。
俺は
叫んだ。
引き裂いて。
壊して。
喰らい。
暗く。
全てを。
張り裂けそうな慟哭は、誰もいない世界へ響き渡る。それは怒りか、悲しみが、嘆きか。感情の名前は分からない。そんな物は、知らずに生きてきたから。
何もない。
何も。
何一つさえも。
頰に流れる涙の正体は分からない。
それでも、一つ、理解したことがある。
『泣いていいよ』
それは許可の言葉。
『笑って』
それは、願いの言葉。
自分の叫びを聞きながら、理解した。
……ああ、シロ。
お前は分かっていたんだな。
最後に泣くことを。
最後に泣くのを選択することを。
心の底から泣いたことも、笑ったこともないから。
だから、今泣いても良いのだと言った。
だから、シロは笑って欲しいと願った。
……今更、そんなことに。
ああ、本当に、今更……。
今更、もう。
もう、何も。
もう、良い。
もう、終わる。
剣を手にした。
双剣の片割れは神殺しに渡した。何故そうしたのかは自分でも分からない。そうした方が良いと思ったから、そうしただけだ。
二重人格が出てきそうになるのを自覚する。
自らの首に切っ先を添えた。
見上げた先は雪が降っている。
白く儚く、触れれば溶けてしまう雪が降る。剣の切っ先は、何よりも冷たかった。
死ね。
喉に入り込む異物の感覚。痛みはない。呼吸が割かれ、鮮血が空を舞う。
血が宙にある雪に注ぎ、雪を赤く染め、溶かした。そのまま海面へと落ちて、その赤すら薄く消えていく。
俺はそのまま海へと引きずり込まれた。
海の中で剣を引き抜く。蓋が消えた首からは血が無尽蔵に流れ出た。それも海の中へと消えて行く。
ただ、消えて行く。
波に運ばれ、沖へと体が運ばれていく。
深い海の中に沈んで行く。
暗闇の中へ沈んで行く。
何処にも届きはしない。
いずれは薄暗い光さえ届かなくなる。
それで良い。
これで良い。
死ね。死ね。死ね。
死ね。
死んでしまえ。
揺らぐ視界の中で、赤く混じる波を見る。
それすらどこか他人事のようで。
白く舞い落ちる雪も、もう遠い。
何を望んだのか。
何を思ったのか。
それが本当に自分の望みだったのか。
それすらもう、分からない。
でも、もう終わる。
だから、これで良い。
体が沈んで行く。
何処までも深い海の底へ。
誰の手にも届かないその場所へ。
これは悲劇だったのだろうか。
あるいは喜劇だったのだろうか。
静かに目を閉じた。
もう何も見えない。
でも、記憶の中で、幻想が渦巻く。
瞼の裏に浮かび上がったのは、白い少女の姿。
沈み行く世界の中で、もう二度と変えられぬ過去を思い馳せた。
全てが消えて行く。
全て無くなっていく。
いつしか、シロの姿すら見えなくなった。
どう足掻こうと動かない運命の筋書きを思い描いた。
ああ、と切り裂かれた喉で呟く。
声は血と泡粒となって消えていった。
下らない。
その言葉すら
消えて行く。
深く 深く
空っぽのまま
暗闇の中で
光を見た
その光に
俺は
手を
…………
そして、この世界から、一人の少年が消えた。