拂菻(ビザンツ)の女
その日、昼過ぎから降り始めた雨は
夏は
「あっ……」
斗笠は天高く飛ばされていく。夏は目で追った。
そして鉛色の空にきらきらと輝く獣が駆けるのを見た。ずんぐりとした体型で、
夏は顔を引き攣らせる。
「マズいな、
言われて小狸は脚を折り畳んで体を丸めたが、夏は間に合わなかった。坂の上から鋭く冷ややかな風が吹き下ろして、街道を抜ける。辛うじて防御体制を取ったが──。
「うわっ。やられた」
右腕がぱっくりと割れて、ぼたぼたと血が滴った。泥と雨の臭いを押し除けるように鉄の臭いがした。
「
天を駆けていた獣は
窮奇は風を操る獣である。それが天を駆ければ風は刃となり、時として木々や家々、人さえも切り刻むものであった。
また、窮奇は悪しき者に類稀なる強運を授け、善良な者には理不尽なる不幸を授けることから、凶兆の獣ともされた。
「あーあーあー。止まらないぞ、血が。斬られどころが悪かったみたいだ」
猫は雨に流れる血に驚いて、目を丸くして夏を見上げた。猫にとって夏は守るべき主人と天命によって決められているから、目の前で怪我をしてしまったことで気が気でなくなり、おろおろとした。
夏は丹薬を飲んで傷を治してしまおうと、背負い袋を下ろした。だが腕の筋を切られてしまったのか、うまいこと巾着袋を取り出すことが出来ずに、それを落としてしまった。中にはもともと三粒ばかりしか入っていなかったのだが、激しい雨のせいで丹薬が坂の下まで流されてしまった。
「ついてない時には、とことんつきが来ないものだ。こんな日は余計なことをせずじっとしておくのが良いけれど、そういうわけにもいかないよなぁ」
夏はくらくらとして来たので、一先ず道の脇に逸れて座り込んだ。血を流しすぎたらしい。
猫は主人の気弱な姿を見て
「それはダメだ。あんまり目立ちたくない」
いやいや目立つも何も、それで死んでしまったら元も子もなかろう。でも、猫は主人の命には逆らえない。老君にそのように作られている。
「少し休憩しよう。すぐ治る」
夏はうつらうつらとして目を閉じた。
猫はどうしようもなく、その場を行ったり来たりして、時折思いついたように肩に手を乗せてみたり、頬にひたりと触れてみたりした。
一刻ほど経ったろうか、がさり、と辺りの
それも一匹や二匹ではない。群れている。血の臭いに引き寄せられたらしい。
猫は
このままではマズい。主人の命を無視して元の姿に戻るべきか。いやしかし、主人の意思に逆らえば、あってはならぬ矛盾が生まれる。老君が夏と
そして山魈の群れは一斉に夏に襲いかかった──。
夏は夢を見ていた。
いつか見た、記憶にない景色を見ていた。
絶えず
誰かが言った。
『夏のために、いっぱい獲ってくれたよ』
男の声だった。
『
『夏が恥ずかしくないように、お姫様が着るような立派な服も用意しているよ──』
ふと光が差し込んだ。
そこは街道ではなく室内であった。寝台の上で横になっていたらしい。
(ここは……?)
体を起こす。
暗い部屋だった。等間隔で寝台が並べられていて、その上で怪我人や病人らしい者が何人か横になっている。その他、
垢の臭いが立ち込めていて、中々に強烈。身なりも綺麗な者はいないから、殆どが貧民、
「
安済坊は朝廷が管理する医療施設である。大した設備はないが、身寄りのない者や乞食の類でも一文無しで治療を受けることのできる、いわば救済施設だった。
とは言え、叩き土の上に寝台が並べられているような安済坊は田舎くらいにしかないので、恐らくは県城や府城ではなく、城壁外のどこか、集落や農村に作られた安済坊なのかも知れなかった。
夏が目を覚ました事に気がついて、台所の奥から猫がとことこと寄ってきた。
「
猫はぴょんと跳んで寝台の上に乗り、夏に頭を擦り付ける。
「あらあら。にゃあにゃあと嬉しそうに鳴いて」
猫の後を追うようにして或る少女が歩み寄って来た。
室内にいる乞食たちもうっとりとした顔つきになって、その少女を見つめた。
「大切なご主人様なんだねえ。猫が人間に懐くなんて、あんまり聞いたことがないけれど」
「もしかして、あなたがここまで運び出してくれたの?」
夏が問うと、少女はうーんと唸って、
「半分合っていて、半分違っているような?」
少女は
彼女の父は医者で、
後はこの
父
「私は運ぶのをお手伝いしただけで、
夏は目をぱちくりと
表情を見て諸々を察したのか、
「ほら、そこのお方が」
指差す方を見ると、壁際によぼよぼの老人が座っていた。日に焼けた体、顔はしわくちゃ、髪も髭も白く、腰は曲がり、体は痩せこけていた。足が悪いのだろう、鉄杖を握っていて、なんと言うか、風でも吹けば飛んでいきそうな雰囲気があった。
「
夏が呆然と言うが、老人は特に反応を示さず、口をもにもにと動かすばかりであった。
「あら。自ら名乗ったわけではなかったのですか? じゃあ元々お知り合い?」
知り合いというか何と言うか……、夏は答えづらそうに頬を掻く。
「とにかく世話になった。僕がいたら寝台が空かないだろうから、そろそろお
立ちあがろうとして、ふらりと
(こりゃ参った。血が足りなくなると、これほどまで力が入らないものなんだ)
夏の弱々しい姿を見て、乞食たちがわははと笑う。それで夏は鼻からため息、寝台に腰掛けた。
「まだまだ無理は禁物。あと一旬(10日)は横になっていないと」
「一旬!? 冗談じゃない!」
「そんなものですよ。それにあなたは、5日も寝ていたんですから。まずは栄養補給をしないと」
夏はきょとんとして猫を見た。
「そ、そうなの? 五日も寝てた?」
猫はあくびで肯定した。
「とにかく、私がいる間は我慢してもらいます。いなくなったらお好きにして宜しい」
「……ん? いる間は?」
「あと3日で
その話をすると乞食たちは皆揃ってがっくりと肩を落とした。
為妾とはつまり、人の
しかし男たちはやっぱり気に入らないようで、「正室ならまだしも」「こんなに優しい子が」とぶつくさ文句を言い出した。
「知府だなんてすごいことじゃないか。この先、健康的に、平々凡々と暮らせるんだ。良いことだよ」
夏が言うと、壁際の老人──李玄が突然口を開いた。
「知府にはまだ男子がおるまい。沢山夜を共にして、とっとと
おいおい、女子に向かってなんと
2人の反応が滑稽だったのだろう、乞食たちがはははと笑い、安済坊は明るい雰囲気に包まれた。乞食たちはみな伊蓮妮のことが好きであるし、口にこそ出さぬが恋をしているものもいた。
「やれやれ、暫くここで足止めになりそうだ、小狸」
猫は安済坊をそこそこ気に入っているので、それでも良かった。伊蓮妮は優しいし、作ってくれる
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