さて、たとえ
六礼とは
まず第一に
次に
そして最後に
「持参金がわりに、このような品々をお渡ししようかと……」
ある日伊蓮妮は、安済坊の病人に、こっそりと、その品々を見せた。
そっと、
「うわっ。これは見事な代物だ」
匣の中に入っていたのは三つの杯だった。
「父が旅の中で人を治療し、その礼として受け取ったものです」
いわゆる豪商を治療することが多かったのだと
「つまり……、形見を渡してしまうの?」
「私にはもう必要のないものですから。この杯の価値を本当に理解してもらえるような、雅な方の手に渡る方がよろしいかと」
当日の朝は早かった。日の昇らぬ内から、そうしたことに詳しい近所の髪結い婆を呼んで丁寧髪をすいてもらい、化粧を施す。そして、正式な婚礼よりも豪華にはならない程度に見栄えのする
別れ際、
「実は一人一人に手紙を書いてみたんです。読めない人も多いこととは思いますけど、ぜひ伝えたくて」
乞食たちは手紙を受け取る。すぐにその場で中身を見る者もいたが、やはり彼女の言う通り文字は読めなかった。
「
夏は少しばかり照れながら、それを受け取る。
「ありがとう。……じゃあ、達者で」
「はい」
夏は
そして輿は府城へと向かっていった。猫はしょんぼりとして尾っぽを下げ、去り行く
乞食たちの反応は様々であった。
まず、おいおいと泣いているのは
未だに妾になったことにぐちぐちと文句を垂れているのは
他には
その日の午後、安済坊の帳簿をまとめていた
解散と言えども食い
本日、
日差しはあたたかい。春風が砂漠の砂を運んでいるからか、空はやや白く濁っている。
夏と猫も東へ歩いた。傷は大体塞がり、流した分だけの血も作られたので、もうふらふらとすることもない。
夏は途中で立ち止まり、背後を振り返った。遠くに人影、李玄である。鉄杖をつき、よぼよぼと
「……大丈夫だろうか」
猫は興味なさげに顎の下を掻いた。
なんとも危なっかしいので、夏は彼を待ってやる。
「李玄、あれはなかったぞ。ほら、
「へへぇ」
李玄は媚び諂うような笑みを浮かべて、深く首を垂れた。
「それから、僕は今、夏と名乗っているんだ。呼ぶとしたら、
「へぇ、へへぇ」
言い終わる前に
夏は頭を掻きながら『
「軽っ。おいおい、ちゃんと食ってるのかぁ?」
李玄の目の焦点は合っておらず
「僕が獣に囲まれているのを助けてくれたのは李玄だろう。助かったけれど、
「へぇ」
「李玄はどこに行く? とりあえず府の方に行くの?」
ここでいう府とは
石峰府は古くから鉱山で名を得ていた。4つの県を包する府で、戸数は五万を超える。特に名鉄で佳名を轟かせているので、城内には幾つもの職人街が形成されていると夏は聞く。
「府に行ったとして、その後はどこへ行く?」
李玄は黙々と歩く。
「僕は
そして李玄は、ちらりと夏の顔を見た。この時ばかりは笑みも失せていた。
「君は扶桑なんて場所はあると思う?」
口をもにもにとして動かして、李玄は黙って歩き続ける。果たして聞こえたのか聞こえなかったのか、耄碌の一瞬に被さって会話が出来なくなったのか、それとも聞こえないふりをしたのか……。夏にはわからなかった。
「まあ良い。何があろうとなかろうと、やることは変わらないんだ。道が続くまで、東の果てに行ってみる」
府城に近づくほど土は赤みを帯びて、山々もそのように色づいた。山に木々はなく、あったとしても寂しげに佇む雑木で、耕作地も減ってゆく。河岸にはいくつもの鉱山集落が形成されているようで、川も濁り始めた。
夏は李玄の歩みに合わせて街道を行った。亀のような速度ではあったが、李玄がまったく休憩は取らずに歩き続けたので、二晩程度で赤褐色の城壁を見上げることができた。
「これまた目が覚めるような見事な街だ」
石峰府・府城は赤い街である。建物は凡そ赤土で出来ていた。
慌ただしい様子の
「農具が吊るされている」
大陸中部には商品を吊るしておく文化がある。店の軒先に吊るされた農具や金物を農民たちがぼーっと眺めているのが目につく。遠くから農具を買いに来ているのだろう、街の慌ただしさに慣れない様子である。
「まずは丹薬を作り直したい。あんな感じに怪我をして、これ以上歩けませんでしたでは情けないからね」
なので材料を揃えたいと考えていたが──。
「──思うにそういった街ではないのかな。鉄、鉄、鉄、どこもかしこも鉄ばかり。街の何処かには
大街には茶楼や飯屋はあるものの、鉄雑貨を扱う店や鍛冶屋、
「大街から離れても職人街があるだけのようだ。
辰砂は水銀の原料である。肉塊のような見た目の鉱石で、炉で熱し、その蒸気を集めると水銀になる。雄黄は硫化砒素で出来た赤い鉱石で、これも丹薬に使用した。
「李玄がいるうちに丹薬作りを手伝ってもらおうなんて思ってたんだけど、こりゃあ、なかなか難しいかな」
そして猫が鳴く。
「何? 飯? まあ確かにここしばらく病人食ばかりでまともなものは食べていなかったような──」
砂漠を超えた西国の美術品を扱う古董舗だった。店先に並べられているのは遥か西の
開け放たれた扉から中の様子が伺える。質素で狭そうな店内、象牙で出来たであろう置物や見事な柄の編み込まれた絨毯、古い時代の青銅器などに混じって、美しい硝子の杯が飾られていた。
硝子は澄んでいて、回回世界風の精巧な柄が彫られている。
夏がそれを手に取ると、李玄は氷のような冷たい目をして、杯を見た。彼の中からは曖昧さは失せて、手の震えも止まっていた。
黙って硝子の杯を見ていると、盗まれると思ったのだろう、小太りの店主が店の奥から顔を出す。
「やあ、上物だね。この杯はどこで手に入れた?」