景色がゆっくりと流れてゆく。遠くに赤い禿山が見えた。おそらくここは、
伊蓮妮はしばらく景色を懐かしんだ。青空に
まだ父が生きていた頃は、二人でこの街道を通って府城に向かった。祠の裏の坂を降りると湧水があって、そこで冷えた水を汲み、休憩を挟んでいたと思う。
府城には薬の材料を買いに行っていた。街は鉄売りばかりで
懐かしい景色をしばらく眺めてから、簾を降ろして目を閉じる。
──不安だ。
そもそも妾とは何をするべきなのかも分からない。勿論
輿は府城に入ってから、まずは知府の私邸に向かうらしい。そこで簡単な儀礼があって、正妻と使用人に挨拶をする……、とのことである。さて、どのように挨拶をしたらよいのだろう。『お初に
そして輿は府城の門を潜り街へと入る。
輿は大きな橋を渡って
列は大門の前で止まった。ややあって門が開くと、何人かの下役人が出てきて、あまり納得がいってなさそうに首を傾げなら、一言二言ごにょごにょと会話をすると、下僕が持っていたであろう硝子の杯の入った
その後、輿は
(私邸に向かうと聞いていたけれど、予定が変わったのだろうか。それとも妾などは役人がお働きになる場所へは踏み入れられないのかな)
軒の深い建物が並ぶ区画に入った。道は狭く、木々に囲まれて、いずれの建物も古びている。窓は明かり取り程度にしかなく、厚そうな土壁にはひびも入っていた。
「降りなさい」
輿がゆっくりと下ろされる。
(……ここで?)
(倉庫? 妾などはこういう場所で暮らせということなのだろうか)
木戸の前に大きな男が立っていた。軍服姿だった。肌は浅黒く、
(軍中の人が出迎えてくれた)
挨拶をしようすると、その軍人は、
「来い」
と固く言って
「っ……!」
驚いて悲鳴を上げそうになった。だが、妾とはこうした待遇なのだろうと考えて、伊蓮妮は黙った。
下僕も、
分厚い木戸が開かれて、軍漢と
土と鉄の臭いがしている。灯りに照らされているのは無数の武器で、それぞれ刃が火を映して赤く染まっていた。槍や
立てかけられた武器と武器の間を進む。奥へ奥へと進む。勢いよく腕を引っ張りながら進むから足がもつれそうになるが、軍漢は止まってはくれない。
武器庫の最奥はがらんと空いていて、紅の
簾の向こうに人影が見える。女のように思えた。
「今日は寒いのう。ひどく寒い。もっと灯りをともさねばならぬ」
鈴を転がすような声がする。珠簾の奥には
軍漢が『座れ』と強く言って、
「
「金に御座います」
「美しい、美しい、金の髪か」
「はい、そうに御座います」
「どう思う、
「金の髪の人間は人に
「そうか、そうか。わっちもそう思う。金の髪は良くない」
髪のことで
「なっ……。かっ、髪っ。髪でございますか……?」
色々と考えた。
髪? なぜ?
髪がなにかマズかったのだろうか。
妾に相応しくない髪なのだろうか。
いや、それは方便であって、許されぬことをしてしまったのではないか?
たとえば、知らぬうちに悪人を治してしまったことがあったのではないか。
それか、輿に入るまでに何か失礼を働いてしまっていたのではないか。
あらゆる可能性を考えた。
「そう。金の髪は良くない」
「なっ、何故、金の髪は良くないので……?」
「え? 何故? そうなぁ? いざ問われると答えに困るのう……」
考えているのだろう、少しの沈黙があって、
「──わっちは良いことをして仙になるのじゃ」
仙になる……?
「仙になれば、わっちは誰に対しても
女は続ける。
「つまり……、なんと言うか……、これは何となくなのだけれどのう、お前のような異民族は天下泰平を乱そう? 商人として国に押し寄せて、人民に受け入れられているのを良いことに、勝手気儘な振る舞いも増えておろ? すると、つまりは、いずれ太国の常識や太国の美しきを平らげてしまうに違いない。そのように思っておるのじゃ、わっちは。まあ、その、あんまり確証はないのだけれど……。何となくそんな気がしているのだなぁ……。まあ何でも良い。とにかくわっちは世のために良いことをしたいのじゃ」
「うーん、追放か、或いは処刑か……。
ぞっとした。途端に土床から冷気が迫り上がってくるかのような感覚があって、視界がゆっくりと右回りに回転してゆく。耳鳴りがして体も震えた。
──処刑? まさか私は、処刑される可能性があるのか?
「処刑が宜かろうと思いまする。ここに太国の威信を見せましょう」
そして女は無邪気に言う。
「そうさね、そうさねっ。西方の女はぽこぽこと子を産んで、金の髪を増やすからのっ!」
頭の中が焦りに白けてゆく。それでも何かを喋ろうとした。ぱくぱくと口を開け閉めしながら、小さな声で、辛うじて言葉を絞り出す。
「そ、そんな……。わっ、私はっ。何をしたわけでは……!」
珠簾から細く白い手がそっと出てきて、チラリと目が覗いた。赤い目をしていた。
「ああ、なんと美しい髪なこと……」
「髪、髪が良くないのですかっ。草で髪を染めますから……! どうか、命だけはっ」
「顔も良いではないか! ああ、恐ろしや恐ろしや……」
「わ、私っ、何でもやりますからっ、国のために働きますからっ。どうか……、お命だけは……」
「え? 別に何をやらんでもよい。何かを求めておるとかもない。わっちは金の髪が嫌いじゃ。ただ何となく、金の髪の女がいると、ちょいといやな気持ちなる。楽しいはずの日常が
背後で
「やってよいぞ、
「ま、待って下さい、私ほんとうに、何もしていない──」
突如として
意識は闇の中に放り込まれた。不思議と痛みはなかった。
それから夏と李玄は雨降る
首を水で綺麗に洗ってやり、
「初めから妾にするつもりなんかなかったんだろう。金の髪の女を誘き寄せて、殺すことが目的だった」
「
「さあ、どうだろう。そんなような口ぶりだったけど」
李玄はふうんと言って、
「軍人を顎で使えるような女は知府の親族か妾くらいのもんだろう。ざっと調べた感じ、知府には正妻が一人と妾が一人。親族には母親が一人で女の兄弟はいない。女の声が年寄りのものじゃなかったて言うんなら、正妻か妾のどっちかだろうな」
「自分のことをわっちと言っていた」
主に遊女が使う一人称である。
「んじゃ妾か」
李玄はぐんと高く跳んで、大堂の屋根に着地する。四十余尺(約10m)の跳躍。次いで目を細めて
「どうする、
夏も同様に高く跳んで大堂の屋根に着地する。猫も一緒だった。
「いたずらに人の命を奪う者に仙の夢を語る資格があると思う?」
「それでは」
「
夏は冷たく、機械的に言った。
「
李玄は
「
そして猫は自ずから開明獣に戻った。