夏は
まず
なぜ拂菻の女を殺めたのかについては分からない。だが、彼女は死に際に言った。
『わっちは……ただ……。あなたさまのお側にいられなくなるのが……、怖くて……』
本心だろう。死を前にして紡がれる言葉にこそ真実が色濃く宿る。つまり彼女は知府を心から愛していた。
となると拂菻の女を殺めていた理由、併せて『金の髪』を恨んだ理由も見えてこよう。つまり、自分と同じ髪色の女が知府の前に現れたその時──、妾という立場が脅かされてしまう──、そのように考えたのではあるまいか。
妾なるものは、いつ切り捨てられるかもわからない脆い立場である。きっと花街にも何処ぞの役人の元妾なる人物がいたことだろう。
脆い立場を死守するには他者を蹴落とす他ない。
初めは予防策に過ぎなかったろうが、悪事を重ねる内に自身を正当化するための論理を手に入れ、拂菻人は太国を乱すという考えに固執していった……。
ちなみに
もしかしたら知府も薄々勘付いていたのではなかろうか。だが、
一方で
李玄は言う。
「客によく言われていたんだろうよ」
「何と?」
「『
「とにかく
夏は大岩の上で寝転がりながら、淡い
「浮かない顔だな。何か気掛かりでも?」
「僕には分からないんだよ」
「分からない?」
夏は所在なさげに指を
「悲しくないんだ。
続ける。
「僕は冷たいのだと思う。この瞬間『人間ならばどう思うだろう』と考えることは出来るけど、切実な思いは抱いていない。
「だが、
「法が働いただけだよ。自分の意思じゃない、機械仕掛けだ。
夏はひょこりと体を起こし、ぼりぼりと頭を掻く。
「やれやれ。こうして人を罰すると、僕は決まって無力感に
「ええ〜? 何でだよ、カッコいいぜ勧善懲悪」
「そうかしら。薄弱なんだよ、僕の全てが」
「ふうん。俺にゃよくわからんな、英雄の孤独ってやつぁ」
そして夏は背負袋を背負い込んで、猫は弓形になって伸びをした。
「行くのか?」
「うん。助かったよ、ありがとう」
「一件落着でさようならか。あっさりとしたもんだ。風来坊だねぇ、いなせだねぇ」
李玄は
「で。本気で
「うん。本当にあるかどうかは分からないけど」
「そう?」
「老君の法では説明できない土地だもの。実際に誰かが見たわけでもない。誰かが辿り着いたわけでもない。扶桑人がいるわけでもない。そもそも国なのか土地なのか、山なのか島なのかも分からない。理屈で言えば、東の果てには何も無いよ」
「でも老君はあると言った」
「老君だって時たま嘘をつく。おちゃめな人だからね。もし気になるなら、李玄も一緒に来るかい?」
夜明け前の湿った風が吹いた。李玄の体、その指先は、ほろほろと風に流されていった。
「
李玄の肉体は三日三晩程しか保てない。気を失った夏を助ける時に一度元の姿に戻ったから、合わせて丁度三日三晩。灰に戻る時が来た。
かつて李玄は昇仙の時に肉体を失った。その理由はよく分かっていない。
よく見れば辺りには幾つかの廃墟があった。どれも酷く朽ちていて、もしかしたら、崑崙で遥か長い時を過ごしていたのかもしれない。何もかもが分からないし、その真実を調べようもなかった。とにかく李玄は昇仙し、その肉体は失われ、妻も子供も姿はなかった。廃墟から離れた山の斜面に、土饅頭が点々としていた。墓だった。
墓を作ったらしい乞食の老人が土饅頭の側に転がっていた。
「思うに、老君は法の外を見せたかったのだろうよ」
「法の外?」
「そう。法の外ってのは、つまりは可能性だ。崑崙には無いものだろう?」
夏はうーんと唇に指を当てて考える。確かに、崑崙に可能性はない。全てが決められた法則の下に成り立つ世界だった。
「きっと東には、老君が言う通り、夏夏の空白を埋める何かがあるさ」
「だと良いけど」
夏は消えゆく李玄に背を向けて、東へと歩き出す。
李玄は老君の声真似をしながら、ふざけ気味に言った。
「
「神仙なる金母元君を赤子とは強く出たな、李玄!」
夏は振り返って石を投げたが、それは李玄の体をすり抜けて、胸に穴をあけた。
「夏夏は赤子で神さまさ。人間の赤ちゃんだって、生まれた時は誰かにとっての神さまなんだ。そして成長するにつれて何をしたいか、何を為すべきかがわからなくなる。一緒だろ?」
夏は鼻でため息をついて、簡単に手を振った。別れの挨拶。
「雲か風のように大陸を
猫は欠伸をしながら夏の背後を着いて行く。石峰府では美味い料理が食べられなくて退屈だった。
「それにしても
李玄の声が掠れ始める。風に消えようとしている。
「夏夏も、そんな複雑な世界から昇仙したんだよ──」
声が聞こえなくなって、夏夏は
几帳面に折り畳まれたそれを開く。そこには、もし怪我が治りきらなかった時のための化膿止めの作り方と、それから猫の愛くるしかったことが書き記されていた。
そして、まさか夏を仙だとは認識していなかったとは思うが、不思議なことに、手紙は以下の一文で結ばれていた。
──あなたの天下泰平が