ただ少女と猫が旅をするだけ   作:Awaa

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帰りたい場所

 

 自分が(シア)という名であることを知ったのは、崑崙(こんろん)を下りる前幾日(ぜんきじつ)のことだった。

 

 夏は自分がどこから来たのかを知らない。気づいた頃には老君(ろうくん)の教えを受けていて、崑崙で暮らていた。

 

 大陸の遥か西方に位置する崑崙は、霊山の連なる山地である。その場所に辿り着くには幾千幾万の城壁を越えねばならず、そこには無量大数の獣が門番として立ち塞がった。

 

 天を貫く槍のような山々の内、取り分けて巨大な山を崑崙山と言った。壁となって3つの太陽を遮る山であった。

 

 夏は崑崙山の山頂で暮らしていた。(ぎょく)で出来た宮殿に住んだ。

 

 宮殿の外は常に雪が積もっていた。四方、地平線の先まで山々が連なっていた。音はない。楚々(そそ)とした庭園に桃の木が点々としていた。どこまでも寂しく、どこまでも白い世界だった。

 

 幼少の記憶はない。幾千年も今の姿であったように思う。人間が女の股から出てくることは理解しているが、自分はそうではない気がしている。

 

 周囲には産んだ覚えのない夏の娘たちが(つか)えていて、身の回りの世話は彼女たちか、(ある)いは仙女と呼ばれる女たちが行っていた。

 

 人として接せられる人物は老君くらいだった。広い世界に2人だけしか存在していないような気がしていた。しかし老君は親ではないことは理解していた。そして、老君は夏のことを(フイ)という名前で呼んでいた。

 

 時折老君は思い立ったように自らの(いおり)に夏──いや、この頃は回と呼ばれていたから、回としよう。

 

 思い立ったように回を庵に招くと、共に丹薬を作ろうと誘った。何故だかは分からないが、雪がしんしんと降る静かな日に呼ばれることが多かった。

 

「面と向かって会話をしても良いのだがね、何か手を動かしながら話していた方が、なんとなく、意味が生まれる気がするのだ」

 

「意味、とは……」

 

「孤独ではないことを実感できる」

 

 つまり、面と向かって話すのは恥ずかしい。恥ずかしさから逃げて、背を向けて話すという行為が、殊更(ことさら)に孤独から脱していることを実感させる──、と老君は言いたいらしい。

 

 回は老君の正体をあまり知らない。

 

 ただ、老君の存在がある事で、この世の(あら)ゆる法則が成り立っているのは理解している。

 

 世界が混沌であるよりも以前、宇宙が(ただ)一つの卵だった頃から、老君は生きているのだと思った。きっと、その卵も老君自ら孵化させたのだろう。

 

 はっきりと言えることは、老君が髭の長い腰曲がりの老人である、ということだけだった。あと、ごく稀に()に自らの髭を入れてしまって、火がついて、老人らしからぬ素早さで慌てる……、という情けない面もあることも確かだった。

 

「回よ、何人かの籍を剥奪したな」

 

 回は仙籍(せんせき)を管理していた。誰にやれと命じられたわけでもなく、遥か昔からそれが生活になっていた。

 

 仙籍とは仙人の戸籍のことである。人間が昇仙するには幾つかの方法があり、たとえば修行をするとか、丹薬を3つ飲むとかであるが、最も周知されている方法は功徳を積むことであり、その功徳を記録し、仙に値するか否かを判断するのも回の仕事であった。

 

 同時に仙らしからぬ振る舞いを行う者の籍を剥奪しなくてはならいない瞬間もあった。籍を剥奪された仙は転生刑となる。

 

「──老君、回は誰かのお役に立てているのでしょうか」

 

 その日、回は老君の前で初めて泣き言の(たぐい)を口にした。

 

「このところ昇仙する者はおらず、籍を剥奪してばかりに御座います。仙が減れば大陸は荒れましょう」

 

 仙人は(がい)して国家の中枢に()えられるものだった。長寿の中で培った知識は何物にも代え難く、過去に例外はあれども基本的には国も重宝する。

 

(すなわ)ち回は天下泰平(てんかたいへい)を乱しているのではないでしょうか。いない方がよい存在なのではないでしょうか」

 

「ほう?」

 

「自分が無価値な気がしているのです」

 

「お前は仙籍を奪う力を持つが、同時に仙籍を与える力も持つ。それは己にとっての価値にはならぬのか」

 

「それは……」

 

 回は言葉を詰まらせた。

 

「お前の中の悪く見えるものだけが、お前の価値を左右するのか」

 

 老君は炉の上蓋(うわぶた)を開けた。真っ白な煙が立ち昇り、老君はそれをかむって激しく()せた。丹薬が完成したらしい。回は老君の背中をさすってやった。

 

「良いか回よ。一応言うておくが、(わし)はそろそろ()すぞ」

 

 回は眉根を寄せた。

 

「仙は寿命では死にませぬ」

 

「魂は死なぬだろうが、肉体がもう持たぬ。こうしてお前と話すのも最後になろう」

 

「魂が死なぬなら、崑崙(こんろん)に居場所を作ります」

 

「いいや、思うに儂は『意思』となるのだろう」

 

「意思?」

 

「そう、意思であり道となる。自分でも何を言うとるのか分からん、ついに耄碌(もうろく)したかな。ほっほっほっ……」

 

 回は仙が死なないことはよくよく理解していたし、老君も朗らかに笑っていたので、召すなどは悪い冗談だろうと考えていたが、幾日かの後、本当に老君は弱っていった。

 

 ある日老君は、庵の土の上で敷物もなく寝そべり始めた。()えたようだった。

 

 それで回は丹薬を飲ませようとしたが、老君がその手を止めた。

 

「なぜ止めるのです。老君がいなくなれば、回はどうしたら良いかわかりませぬ。回はまだ老君に教えを乞いたく存じます。回1人に世界は背負えませぬ」

 

「どうだろうか。儂は回に対し、何かを手解きをした覚えはない。回とて、気がついた頃には己の仕事を淡々と(こな)していたろう? 決められた役目を果たしているに過ぎぬ」

 

「それでも回には老君が必要に御座います」

 

「では回よ。お前は儂がどのような人物か知っているか?」

 

 回は目を丸くした。

 

「何故儂が老君と呼ばれているのか、儂は実際に何をしているのか、そして儂はどこから来てどこへ消えてゆくのか、そもそも儂は何者なのか──、それを考えたことがあるか?」

 

 答えられなかった。

 

「お前はまだ自分を無価値と思うか」

 

「……え?」

 

 少考して、

 

「まさか、弱音を口にした日のことを覚えておいででしょうか。あれは、ただ一時の迷いを口にしただけに御座います。ご心配いただくほどの事ではありませぬ」

 

「いいや、儂はお前の孤独を見抜いておった。幾千年も前から、お前はずっと孤独を感じていた。儂がお前のために沢山の娘を作っても、(ある)いは友人たる美しい仙女たちを(はべ)らせても、お前はずっと孤独だった。寂しい目がそう語っていた。儂はそれが気なっておった」

 

「孤独など感じたことはありませぬ。回には老君がおりました」

 

 老君はゆっくりと体を起こすと、そばの木架(たな)から単刀を取り、回に手渡した。

 

「これを主人(あるじ)に返すのだ」

 

 重い単刀だった。み空色の(さや)には美しい紋様が描かれている。

 

「お前の身元を儂に預けた者が、『迷惑をかけるから』と謝礼として渡してくれたものだが、回は存分に良い働きをした。天下泰平は回の働きによるものである」

 

「しかし……」

 

「遥かなる扶桑(ふそう)に行け。そこゆけば、お前はお前を好きになれる」

 

「回が崑崙から下りれば、天の執務が滞りまする」

 

「構うな。東へ行け。太清(たいせい)道徳(どうとく)天尊(てんそん)の遺言と心得よ。荏苒(じんぜん)と過ごすな」

 

 回はじっと単刀を見つめた。たしかに見事な代物ではあるが、それ以上の感想は思いつかない。

 

「回よ。──お前の本当の名前は、(シア)だよ」

 

 それから4日が経って老君は召した。回は片時も目を離す事はなかったが、ある時の(まばた)きで、老君は忽然と消えた。

 

 その日、回は仙となって初めて眠りに落ち、夢を見た……。

 

 下界だった。

 場所は漁村のように思える。

 坂道の多い漁村だった。

 

 海は真っ青だ。

 渺渺(びょうびょう)たる海、地平線は淡く霞んでいる。

 遠く、空に入道雲が浮かんでいた。

 汗ばんだ額を風が触れた。

 三つの太陽はそれぞれ強い光を放っている。

 振り返れば白土、温められた地面が逃げ水を作っている。

 

 竹竿に吊られた無数の干魚。

 並ぶ蝦醤(えびしょうゆ)(かめ)

 波の音がする。

 汗が口に入る。味がする。

 鮮やかな世界で、誰かが『夏』と名前を呼んでいる。

 おおい、おおい、と子どもたちが呼んでいる。

 

 目が覚めて、夢の情景を反芻(はんすう)した。

 わけもなく目頭が熱くなって涙が流れた。

 これが泣くということなのか、と呆然とした。

 涙を流したのは初めてだった。

 だが、鼻の奥の痛みも、喉から込み上げてくる熱い塊も、口の中に広がる涙の味も、確かに知っていた。

 

『遥か東にある扶桑(ふそう)に行け。そこゆけば、お前はお前を好きになれる』

 

 扶桑は幻の土地である。民草(たみぐさ)の間で広がる伝説の類で、東の果てにあるとされていた。

 

 扶桑の存在は老君の生んだ法則からは逸脱している。扶桑なる場所は存在しない。ただの伝説だ。

 

 しかし(シア)は、夢で見た、あの訪れたことのない場所に、帰りたいと思った。

 

 熱い胸だけが教えてくれる。

 夢では、人々が山の声を聞き、風の色を見ていた。

 海の広がる意味を知っていて、空の青さと共に歌っていた。

 

 夏は知りたい。自分が誰なのかを。

 夏は帰りたい。見たことのない場所へ──。

 

 霓裳羽衣(げいしょううい)を脱いで身支度をし、下山した。数多の城壁を越えて、やがて崑崙と俗世を(へだ)てる城門に到達した時、その門番が声をかけた。

 

「カッカッカッ! そんな格好でどこへ行く! 奴婢(げにん)の格好ではないか!」

 

 一(じょう)(約3メートル)はある巨大な虎であった。顔と尾っぽが9つ、人面や虎面の入り混じる凶面の獣で、名を開明獣(かいめいじゅう)と言った。老君が造った崑崙で最も強い獣だった。

 

「無礼な門番だね」

 

「この俺様が崑崙を守ってやってるんだ。守られる側のお前は、実のところ俺よりも立場は下だ」

 

「なら、今日から僕たちは同格だ。僕は崑崙を下りる。君を必要としない」

 

「何ぃ……? じゃあ俺はどうなる! 俺はお前を守るために造られたんだ!! 俺は何をしていればいい!!」

 

「好きに生きたら良い」

 

「勝手な事を言うなっ!」

 

 夏は無視をして巨大な門を潜った。

 

「おい、本当に行くつもりかっ!! お前、誰のおかげで気儘に崑崙で暮らせたと思っているっ!! 何人の人間を喰らってやったと思っているっ!! おい、今なら間に合うぞっ!! 早く戻れっ!! 俺にはお前を守るという役目があるんだ!! 言う事を聞かないと喰うぞッ!」

 

 開明獣は追い縋った。

 

「着いてくる気かい?」

 

「何だって!? お、お前が自由に生きろと言ったんだろうっ! 俺の行動に口出しするなっ!!」

 

「構わないけれど、その格好は良くない。無害そうな見た目になってくれなきゃ困る」

 

「気に入らん言い草だ……。まさか俺が着いていくと思っているんじゃねえだろうなっ!! 崑崙は俺の棲家だっ!! 離れるものかっ!!」

 

「そうか。じゃあ、達者で」

 

 夏は凍った荒地の坂を下りてゆく。

 

 その背中を見て、開明獣は眉を八の字にした。

 

「なんだよ、それ……っ! お、俺にはお前を守るって、すっ、すんごく大事な役目がっ……、あるんだぞ……っ」

 

 そうして泣きそうな声を出して(はな)(すす)ると、しゅるしゅると体を小さくして、3本の尾っぽを持つ毛長猫となった。

 

 開明獣は高く(そび)える崑崙山を振り返りながら、とことこと小走りで夏の後ろを着いて行った。

 

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