自ら苦労を買って出た覚えは無いが、何故だか苦労がついて回るのだった。それはもう、
(やんぬるかな。思えば私の人生は苦労の連続であった……)
仙になったのも苦労が転じただけのこと。
曹佾はかつての
朝廷は腐敗の温床だった。無理が通って道理が通らぬ。
しかし一番の悩みの種は血を分けた弟であった。仙となって久しいが、未だにあれほどの
あれには
その事があって曹佾は『権力など下らぬ』と
──恥だ! もはや狂った世界では生きたくはない。自らを畜生に堕とすことと同義だ。ならばこのまま死んだ方が良い。
餓死するつもりで瞑想を続けた。次第に空腹も便意も尿意も忘れていき、五感すらも
(……ここは)
ふと
そして、少し離れた所に
(まさか私は極楽に来てしまったのだろうか……)
そのように呆然としていると、
『ひどい格好。まるで浮浪者じゃないか』
背後から話しかけられて、曹佾は振り返った。
少女が立っていた。歳は自分よりは歳下だと思う。
『私は死んだのでありましょうか』
問うと少女はうーんと小さく
『よく働いた人間はよく眠れる。よく生きた人間はよく死ねる。君はよく働いたが、残念ながらよく生きてはいない』
『よく生きるとは、何でしょう』
『思うがままに生きるということさ』
曹佾は目を
思うがままに生きるとはどのようなことか。言っている意味は理解できるが、具体的にどう生きるのが『思うがままに生きる』という状態であるのだろう。
生まれてから勉強ばかりに身を
『まずは腹ごしらえでもしたら? ここには桃くらいしかないけれど、丁度良い感じに熟したものが雪の上に落ちていたんだ』
──あの時、
ならば、ここで
鴸は星空を飛ぶ。腹のあたりから不気味に長く伸びた真っ白な人間の手は、曹佾の
そして殺すのに十分な高さまで到達したと考えたのか、鴸はぱっと軽い感じで曹佾を放った。
「……ッ!」
曹佾は刹那に腰の剣を抜いて、鴸の
(運良く落ちずに済んだようだが、この先どうしたものか。いずれは振り落とされるだろう)
体が風に流される感覚、曹佾はほとんど水平になりながら必死に食らい付いていた。
(武芸に
幼少の頃から勉強に次ぐ勉強で剣の腕は鈍い。剣で得意なのはそれを振り回して踊る宴会芸くらいのもので、よよいと披露して鴸が喜んでくれるなら幾らでも舞うが、もちろん踊ったところで見逃してはくれないだろう。
つまり己に出来ることは一つ。根性で耐え続ける、ということだけだ。
(なあに、結局いつもと変わらぬではないか。今日まで粘り腰でやってきたのだから、何とかなろう)
そうして覚悟を決めた時、巨大な虎が夜空を駆けるのを見た。
「あれは
見るのは初めてだが、間違いない。
噂通りに顔は9つ。老人の顔があったり青年の顔があったり女の顔があったり、中には
9つの顔は揃ってぱかりと口を開けた。それぞれの口内から光が漏れて、そこから真っ赤な炎が噴き出す──と思われた時、夏が言った。
「火なんて噴いたら曹佾が焼け落ちるよ」
「ああ!? じゃあどうしろってんだ!」
「爪で切り裂くか、喰らうかだろうね」
鴸は開明獣の接近に気がついて速度を上げ始めたようで、あれよあれよと距離が開く。
「追いつかねえ。やっぱり火を噴こうぜ」
開明獣の炎は万里の先まで届く理外の炎である。
「老君の作った最高傑作が、あんな
「なにぃ?」
「頑張れ」
開明獣は一つ舌打ちをして、力強く空を踏み込んだ。まるで鴸へと続く透明な道でも敷いてあるかのように、まっすぐと、ぐんぐんと、勢いよく猛進、次第にその差が縮まる。
──そして開明獣は鴸に飛びかかった。鋭利な爪でその背を切り裂く。月を撫でるかのような勢いで黒い血飛沫が高く上がった。
夏は開明獣の背から身軽にとんと跳んで鴸へと飛び移ると、後頭部に単刀を深く突き刺した。とどめ、一瞬の早業。
それで鴸は死んだのだろう、突然に浮力を失い、
「
開明獣は即座に反応し、ぐんと空を蹴って夏を回収。
勢いそのままに地上に降り立つ。滑り込んだものだから塊のような
「……城壁の外か。街に落ちて騒ぎにならなくてよかった」
夏がほっと溜息をつくと、癩の首が咥えていた腕を放した。すとんと着地、肩を回す。
「乗り心地はどうだった?」
「ありがとう御座います。夢心地に御座いました」
曹佾が開明獣の背から飛び降りる。激しく揺られてふらふらするのか、軽く頭を抱えた。
「さすが科挙組。世辞が上手い」
「そればかりで科挙を突破して御座います」
開明獣はしゅるしゅると姿を小さくして毛長猫の姿に戻った。あんまり巨体のままでいると腹が減ることに気がついたので。
「一件落着。これで街は落ち着きを取り戻すかな?」
「そのように思います」
夏は鴸の頭から単刀を引き抜き、ひゅんと振り回して血を払った。月光に
「しかし、一度ならず二度も命を助けていただくことになろうとは。この曹佾、恥じております」
「二度も? 前に君を救ったことなんてあったろうか」
「仙となった時のことに御座います」
夏は曹佾に振り返る。
それで曹佾は、普段から感じていた一つの疑問を、つい、口にした。
「不躾ながら。──本当は、あの時、私は死んだのでしょう?」
沈黙の後、夏は目を逸らして、小さく言う。
「……さあ、どうかな」
「時々、私は考えるのです。仙とは何なのでしょう。生きているのでしょうか、死んでいるのでしょうか。なぜ寿命がなく、病気もしないのです。なぜ私の体は死人のように冷たいのです。考えれば考えるほどに、自分の存在が分からなくなります」
「言える事は、ただ一つ。僕は君を救おうと思って仙にしたわけではない」
夏は街道の方へと歩き出す。
「……まさか、もう行かれるのですか。鴸を
「もうじき太陽が昇る。夜明けと同時に府を出るつもりだったから、それでいいんだ」
「お気を悪くしたのなら謝ります。酒宴では西方の珍しい食べ物もたんと用意されましょう。せめて贅沢な香辛料の香りを嗅いでいくだけでも」
小狸は目を輝かせてハッと振り返った。しかし夏が興味を示さなかったので、尾っぽを下げながら彼女を追いかけた。
「
「
「あなたは『自分が無価値に思える』とおっしゃいました」
夏は足を止めて半身を返した。
「言ったね」
「何故そう思うのです」
「いざ問われると困るな。わけもなく自分が無価値な気がしているんだ」
「私には理解できかねます。あなたほどの人が無価値などと」
「同じ仙でも、君には過去がある。でも僕には何もない。何もないまま、僕は存在している」
夏は気を使うように笑って、
「でも、ご飯食べたり、景色を眺めながら歩いている間は、少しばかり無価値な自分から遠のく気がしているんだ」
「……つまり、旅に出て良かったと?」
「そうだね。旅の目的は鬱屈としたものだけれど、旅自体は決して悪いものじゃない。何より、古い友人に会えた」
遠く、横一直線に瑠璃色を頂く山並みから
「曹佾。君は、思うがままに生きられそうかい?」
曹佾は少考して、
「苦労という苦労がこの世から消滅する時が来れば、私も羽を広げる事ができるのではないかと思う次第に御座います」
「きっとすぐ来るよ。苦労が挑戦の色を帯びる時、君の世界は変わると思う」
そして夏は再び歩き出す。猫はその後をとことこと追いかけて行った。
「
夏はするりと手を上げてひらひらと振った。別れの挨拶。
「出来るなら側にお
夏は歩みを止めなかった。
そして曹佾は袖を合わせ、深々と
「あなたさまが
東から薄くなりつつある星空は、
「小狸。老君の言う事は本当なのだろうか。本当に東には、僕が僕を好きになれる何かがあるんだろうか」
猫は何も反応を示さなかった。
「僕はね、思うんだ。そんなものは存在しないんじゃないかって──」
夏は東を見つめた。眩しい。目を細める。
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