伊吹と堀北を潰した翌日。
宝泉和臣の身体には、久しぶりに心地よい熱が残っていた。
筋肉の奥に沈んだ鈍い痛み。
腕を回した時に走る軽い張り。
拳を握った時に、皮膚の下でじわりと蘇る昨日の感触。
悪くねぇ。
やっぱり人間の身体ってのは、使わねぇと腐る。
教室で机に向かって、教師のくだらねぇ説明を聞きながら、
宝泉は心の中でそんなことを考えていた。
特別試験だの、ポイントだの、協調性だの、
どいつもこいつも真面目な顔をして語っているが、
宝泉からすれば、そんなものは全部飾りにすぎない。
最後に相手を黙らせるのは、理屈じゃねぇ。
拳だ。
相手の目の奥に恐怖を叩き込み、二度と逆らう気が起きねぇようにする。
それが一番早い。
それが一番確実だ。
そして昨日、堀北と伊吹を相手にしたことで、その感覚は少しだけ戻ってきた。
だが、まだ足りない。
あの二人は思ったよりは動けたが、
それでも宝泉の中では肩慣らしに過ぎなかった。
もっと重い相手がいる。
もっと殴り甲斐のある相手が。
そう考えた時、次に浮かんだ顔はすぐに決まった。
須藤健。
あの赤髪のデカブツ。
バスケで鍛えた身体。
単純な馬力。
短気で、挑発に弱く、しかも宝泉を分かりやすく敵視している。
最高じゃねぇか。
呼び出す手間すら大していらなかった。
昼休み、廊下で須藤を見かけた宝泉は、わざと肩をぶつけるようにして横を通った。
「おい」
須藤の声が飛ぶ。
宝泉は足を止めず、少しだけ口元を吊り上げた。
「邪魔なんだよ、雑魚」
その一言だけで十分だった。
背後の空気が一気に熱を帯びる。
「てめぇ、今なんつった?」
「聞こえなかったか?耳まで筋肉で詰まってんのかよ」
振り返ると、須藤はすでに拳を握っていた。
いい顔だ。
怒りで真っ赤になった目。
今にも飛びかかってきそうな肩。
だが、それでも校内の廊下だから踏みとどまっている。
そこだけは、昔より少し賢くなったのかもしれない。
宝泉はつまらなそうに鼻で笑った。
「ここじゃ暴れられねぇだろ。校舎裏に来いよ」
「……上等だ」
即答だった。
単純すぎて笑える。
だが、その単純さが今はちょうどいい。
放課後。
校舎裏。
昨日と同じ場所に、今日も夕暮れの光が差し込んでいた。
コンクリートの壁が赤く染まり、室外機の低い唸りが、
妙に静かな空気の中で耳に残る。
宝泉が先に待っていると、しばらくして須藤が現れた。
一人だ。
余計な観客もいない。
いい。
「逃げずに来たか」
「逃げるわけねぇだろ」
須藤は低く言った。
その声には怒りが混じっていたが、昨日の伊吹や堀北とは違う重さがあった。
身体そのものが大きい。
肩幅もある。
足腰も強い。
ただ突っ立っているだけで、そこらの生徒とは圧が違う。
なるほどな。
宝泉は少しだけ嬉しくなった。
「お前、俺のこと気に入らねぇんだろ?」
「当たり前だ。お前みたいに力で周りを脅す奴は大嫌いなんだよ」
「へぇ。正義の味方気取りか?」
「違ぇよ。ただムカつくだけだ」
須藤は一歩踏み出した。
「鈴音たちに何したかは知らねぇ。でも、お前がロクでもねぇことしたのは分かる」
その名前が出た瞬間、宝泉は笑った。
「堀北?ああ、昨日の女か。思ったよりは動いたぜ。
まあ、最後は地面に転がってたけどなァ」
須藤の表情が変わった。
分かりやすく怒りが燃え上がる。
「てめぇ……!」
「来いよ、須藤。女の仇でも取ってみろ」
次の瞬間、須藤が飛び込んできた。
速い。
思ったよりずっと速い。
長い脚で地面を蹴り、距離を一気に潰してくる。
最初の拳は大振りだったが、威力はあった。
宝泉は腕で受ける。
鈍い衝撃が骨に響いた。
「おっ」
思わず声が漏れる。
軽くねぇ。
伊吹や堀北の攻撃とは違う。
体重が乗っている。
真正面から殴られれば、普通の奴ならそれだけで膝をつくだろう。
続けて須藤は左の拳を繰り出してきた。
宝泉は半歩引いて避ける。
風が頬を撫でた。
外れた拳が空気を裂く。
こいつ、ただのバカじゃねぇ。
身体能力だけなら、確かに上級の部類だ。
だが――喧嘩は身体能力だけで決まらない。
宝泉は踏み込む。
須藤の腕の内側へ入り、肩で体勢を崩しながら腹へ拳を打ち込む。
「ぐっ……!」
須藤の呼吸が詰まる。
だが倒れない。
すぐに歯を食いしばり、宝泉の肩を掴んで押し返してきた。
力がある。
宝泉の身体がわずかに後ろへずれる。
「へぇ」
面白い。
宝泉は笑った。
「やるじゃねぇか」
「舐めんな!」
須藤の膝が飛ぶ。
宝泉は身体を捻って避けるが、完全には逃げきれず、太ももに重い衝撃が入った。
痛みが走る。
いい痛みだ。
身体が目を覚ます。
宝泉は反射的に須藤の首元を掴み、力任せに壁へ押しつけた。
「調子乗んなよ」
そのまま拳を振るう。
須藤は腕を上げて防ぐ。
一発。
二発。
三発。
防御の上からでも、衝撃は須藤の身体を削っていく。
だが須藤は退かない。
壁を背にしながらも、足を踏ん張り、逆に宝泉の胸を押し返してくる。
「うおおおおおおおおおっ!」
気合いだけは大したもんだ。
だが、気合いで勝てるなら誰も苦労しねぇ。
宝泉は須藤の押し返しに逆らわず、わざと半歩下がった。
須藤の身体が前へ流れる。
その瞬間、足を払う。
須藤の重心が崩れた。
「なっ――」
宝泉の肘が肩口へ入る。
須藤は地面へ片膝をついた。
だが、そこからが予想外だった。
膝をついた体勢のまま、須藤は宝泉の腹へ拳を突き上げてきた。
完全に不意を突かれた。
「ぐっ……!」
重い。
内臓の奥に響くような衝撃。
思わず宝泉の足が止まる。
その一撃は、ただの根性任せではなかった。
低い姿勢。
体重の乗せ方。
バスケで鍛えた下半身から生まれる爆発力。
こいつの身体能力は、本物だ。
宝泉は腹を押さえることなく、ゆっくり息を吐いた。
痛ぇ。
だが、悪くない。
「……今のは効いたぜ」
須藤は荒い呼吸をしながら立ち上がる。
額には汗。
肩も上下している。
それでも目は折れていない。
「まだ終わってねぇぞ、宝泉」
その言葉に、宝泉は笑った。
さっきまでの軽薄な笑いではない。
少しだけ、本気で面白がる笑いだった。
「いいぜ。お前、堀北たちよりずっと殴り甲斐がある」
宝泉は拳を握り直した。
ここから少しだけ、力を入れてやる。
須藤が再び突っ込んでくる。
今度は真正面ではなく、斜めから。
足運びも変えている。
単純なようで、学習はしているらしい。
だが遅い。
喧嘩の中で相手の変化を見る力。
一瞬の隙を拾う感覚。
相手が痛みを隠した瞬間を見抜く嗅覚。
そういうものは、体育館でボールを追いかけているだけでは身につかない。
須藤の拳を外側へ弾き、宝泉は懐へ入る。
腹。
脇腹。
肩。
連続で打ち込む。
須藤の身体が揺れる。
それでも倒れない。
だから宝泉は、さらに踏み込んだ。
「耐えるだけじゃ勝てねぇぞ」
「分かってる!」
須藤が腕を振るう。
大きい。
当たれば危ない。
だが大きすぎる。
宝泉は身を沈め、須藤の拳の下を潜った。
そして足元を崩す。
須藤の巨体が揺れる。
そこへ肩からぶつかる。
須藤は背中から地面へ倒れ込んだ。
だがすぐに起き上がろうとする。
その根性だけは認めてもいい。
「しつけぇなァ、お前」
宝泉は須藤の胸ぐらを掴み、無理やり引き起こした。
「そういう奴は嫌いじゃねぇ」
そして顔面すれすれに拳を止める。
須藤は一瞬、目を見開いた。
その隙。
宝泉の本命は、腹への膝だった。
「がっ……!」
須藤の身体が折れる。
呼吸が詰まる。
膝から力が抜ける。
それでも須藤は宝泉の腕を掴んだ。
倒れまいとしている。
「まだ……だ……!」
その声は、ほとんど意地だけで出ていた。
宝泉は少しだけ目を細める。
こいつは弱くない。
少なくとも、雑魚ではない。
ただ、足りない。
経験が。
恐怖の使い方が。
相手を壊す覚悟が。
宝泉は須藤の腕を振り払い、最後に胸元を突き飛ばした。
須藤は数歩よろめき、それでも踏ん張ろうとしたが、足がついてこなかった。
そのまま地面へ膝をつき、片手をついて、荒く息を吐く。
もう立てない。
終わりだ。
宝泉は須藤を見下ろした。
「悪くなかったぜ、須藤」
須藤は悔しそうに顔を上げる。
睨みはまだ消えていない。
だが身体が動かない。
その事実が、須藤自身にも分かっているのだろう。
「くそ……っ」
「悔しいか?」
「……当たり前だろ……」
「ならもっと強くなれや。次も俺に潰されたくなけりゃなァ」
宝泉は肩を鳴らした。
腹にはまだ、さっきの一撃の痛みが残っている。
いい痛みだ。
堀北や伊吹の時とは違う。
須藤の一撃には、確かな重さがあった。
自分の身体に、戦いの感覚が戻ってきている。
それが分かる。
胸の奥が熱くなる。
もっとだ。
もっと強い奴とやりてぇ。
須藤でこれなら、次はもっと面白くなる。
七瀬。
龍園。
アルベルト。
天沢。
そして綾小路。
思い浮かべるだけで、口元が勝手に歪んだ。
「ハハ……」
小さく笑いが漏れる。
それはすぐに大きくなった。
「ハハハハハハッ!」
校舎裏に、宝泉の高笑いが響く。
須藤は地面に膝をついたまま、その声を悔しそうに聞いていた。
宝泉はそんな須藤を背にして歩き出す。
勝った。
それも、昨日よりずっと手応えのある相手に。
身体はなまっていない。
むしろ戻ってきている。
自分の暴力はまだ通用する。
この学校でも、自分はまだ上にいる。
そう確信した瞬間、宝泉の中で膨らんでいた自信は、
さらに大きく、さらに歪に膨れ上がっていった。
「次だ」
誰にも聞こえない声で呟く。
「次は、もっと強ぇ奴だ」
この時の宝泉は、まだ知らなかった。
須藤の一撃で感じた痛みが、単なる勝利の余韻ではなく、
これから先に待つ本物の壁への最初の警告だったことを。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。