須藤健を倒した時の感触は、翌日になっても宝泉和臣の身体の奥に残っていた。
腹の内側に沈む鈍い痛み。
拳を受けた腕の重さ。
太ももに残る蹴りの痺れ。
どれも不快ではなかった。
むしろ宝泉にとっては、身体がまともに動き始めた証拠のようなものだった。
堀北と伊吹は肩慣らし。
須藤は少しだけ手応えがあった。
なら、次はもっと面白い相手がいい。
そう考えた時、宝泉の頭に浮かんだのは、同じ一年生の少女だった。
七瀬翼。
普段からどこか真面目で、妙に芯が強く、
宝泉のような人間に対しても簡単には怯えた顔を見せない女。
気に入らねぇ。
ああいう目をしている奴は、昔から嫌いだった。
暴力を見ても目を逸らさない。
自分の正しさを疑わない。
恐怖を感じていても、それを理由に膝を折らない。
そういう奴ほど、一度へし折ってやりたくなる。
だから宝泉は、放課後、七瀬を寮裏へ呼び出した。
人通りの少ない、建物の影になった場所。
夕方の風が吹き抜け、コンクリートの壁に木々の影が揺れている。
先に待っていた宝泉が壁に背を預けていると、七瀬は一人でやってきた。
「宝泉くん。話とは何ですか」
声は落ち着いていた。
警戒はしている。
だが怯えてはいない。
そこがまた腹立たしい。
「随分と冷てぇな。同じクラスの仲間だろうが」
「あなたがそういう言い方をする時は、ろくなことではないと分かっています」
「分かってんなら話が早ぇ」
宝泉は壁から背を離す。
「最近よォ、俺は強ぇ奴を探してんだ」
「……それで、私を呼び出したんですか」
「お前、そこそこ動けんだろ」
七瀬の目が細くなる。
「私は喧嘩をするつもりはありません」
即答だった。
宝泉は鼻で笑う。
「つまんねぇ返事だな」
「力で相手を従わせようとするやり方には賛同できません」
「賛同?」
宝泉はわざとらしく首を傾げた。
「誰がそんなもん求めたよ。
俺はただ、お前がどのくらい殴り甲斐があるか知りてぇだけだ」
「お断りします」
七瀬の声は揺れなかった。
その毅然とした態度が、宝泉の中の苛立ちに火をつける。
正論。
信念。
我慢。
そういう綺麗ごとを並べる奴は、
自分の身体に痛みが走った瞬間、たいてい目の色が変わる。
宝泉はそれを何度も見てきた。
「じゃあ、俺が先に殴ったらどうする?」
「やめてください」
「止めてみろよ」
次の瞬間、宝泉は踏み込んだ。
七瀬の表情が変わる。
反応は速い。
宝泉の拳が届く前に、七瀬は半歩横へ逃げ、腕で軌道を逸らしてきた。
軽い。
だが上手い。
力で受けず、角度を変える。
その動きだけで、宝泉はすぐに理解した。
こいつは須藤とは違う。
須藤は身体能力で突っ込んでくるタイプだった。
だが七瀬は、相手の力をまともに受けない。
位置。
間合い。
重心。
そういうものを見ている。
「へぇ」
宝泉の口元が歪む。
「やっぱり動けるじゃねぇか」
「私はあなたを傷つけたいわけではありません」
「だったら防ぐだけか?」
宝泉はさらに攻めた。
拳。
蹴り。
掴み。
七瀬はそれらを紙一重で捌いていく。
大きく避けすぎない。
必要最低限の動きで、宝泉の攻撃を外し、
時折こちらの肘や手首に鋭い反撃を入れてくる。
痛みは小さい。
だが狙いが嫌らしい。
関節。
筋。
呼吸の切れ目。
急所に近い場所。
本気で壊す気はないくせに、止めるための攻撃は的確だ。
「チッ……!」
宝泉は舌打ちした。
須藤より軽い。
圧倒的に軽い。
だが、やりづらさは須藤以上だ。
女だからといって侮っていい相手ではない。
少なくとも、昨日の須藤より戦い方を知っている。
七瀬の足が低く伸びる。
宝泉の膝裏を狙った蹴り。
少し体勢が崩れる。
そこへ七瀬が踏み込み、肩口を押さえながら宝泉の腕を取ろうとした。
投げる気か。
「舐めんな」
宝泉は腕力だけで振り払った。
七瀬の身体が軽く浮く。
その瞬間、宝泉は腹へ拳を入れた。
「っ……!」
七瀬の表情が歪む。
だが声は大きく上げない。
歯を食いしばり、すぐに後退する。
いい根性だ。
それがまた面白い。
「効いただろ?」
「……まだです」
「そうこなくちゃなぁ」
宝泉は笑った。
さっきまでの苛立ちは、少しずつ高揚へ変わっていく。
七瀬は強い。
ただ腕っぷしが強いわけではない。
暴力を怖がっていないわけでもない。
だが、その上で退かない。
自分の信念を守るために、宝泉の前に立っている。
だからこそ、壊し甲斐がある。
宝泉は再び距離を詰めた。
七瀬は後ろへ下がらず、逆に斜め前へ踏み込んでくる。
宝泉の懐。
一瞬、肘が肋骨の下へ入った。
「ぐっ……」
鋭い痛み。
浅いが、正確。
直後に七瀬は宝泉の腕を絡め、体勢を崩しにかかる。
動きが速い。
判断もいい。
だが――足りない。
体格。
筋力。
一撃の重さ。
その全部が足りない。
宝泉は踏ん張る。
地面を踏み割るように足に力を込め、七瀬の崩しを止めた。
七瀬の目が一瞬だけ揺れる。
その瞬間、宝泉は肩でぶつかった。
七瀬の身体が後ろへ飛ばされる。
壁際まで下がったところへ、宝泉が追う。
「防戦一方じゃねぇか」
「……それでも、あなたの好きにはさせません」
「まだ言うか」
宝泉は拳を振るう。
七瀬は腕で受け流す。
だが今度は完全には逃がさない。
連続で圧をかける。
一発一発を大きく、重く、避けても空気ごと押し潰すように振るう。
七瀬の動きは鋭い。
だが、回避するたびに少しずつ余裕が削れていく。
足が乱れる。
呼吸が浅くなる。
肩が上がる。
宝泉にはそれが見えた。
「どうした、七瀬」
拳が防御の上から叩き込まれる。
「正義感だけじゃ止められねぇぞ」
七瀬は歯を食いしばる。
その目はまだ折れていない。
だから宝泉は、さらに踏み込んだ。
七瀬の蹴りが来る。
低く鋭い。
宝泉は避けずに受けた。
痛い。
だが構わない。
その足を掴む。
七瀬の身体が一瞬止まる。
「捕まえたぜ」
宝泉はそのまま力任せに引いた。
七瀬の体勢が崩れる。
手をついて受け身を取ろうとするが、宝泉は逃がさない。
肩を掴み、地面へ押さえ込む。
七瀬はすぐに腕を差し込んで抜けようとした。
上手い。
だが力が違う。
「……っ!」
七瀬の顔に、初めて明確な苦痛が浮かぶ。
宝泉はその表情を見下ろした。
恐怖だけではない。
悔しさ。
怒り。
それでも諦めない意志。
なるほど。
いい目をしている。
「お前、やっぱり面白ぇな」
「宝泉くん……あなたは……間違っています」
「あ?」
「力で勝っても、人は従いません」
その言葉に、宝泉は思わず笑った。
「従わせる必要なんかねぇよ」
宝泉は低く言った。
「逆らう気を失くせば、それで十分だ」
七瀬の目が鋭くなる。
それでも彼女は諦めず、最後の力で体勢をずらし、宝泉の腕を外そうとした。
その粘りは本物だった。
もし相手が普通の生徒なら、七瀬は勝てただろう。
須藤のような力任せの相手にも、やり方次第では対応できるかもしれない。
だが宝泉は違う。
ただ力が強いだけではない。
喧嘩の場数が違う。
相手がどこで息を吐くか。
どこで力が抜けるか。
どの瞬間に諦めが混じるか。
そういうものを、宝泉は身体で覚えている。
七瀬の抵抗がわずかに鈍った瞬間、宝泉は一気に押し切った。
決着だった。
七瀬は地面に片膝をつき、荒く息を吐いている。
立とうとする気配はある。
だが身体がついてきていない。
宝泉は少し距離を取り、肩を鳴らした。
「終わりだな」
七瀬は悔しそうに唇を噛む。
「……私は、あなたのやり方を認めません」
「好きにしろよ」
宝泉は笑った。
「だが今日勝ったのは俺だ」
七瀬は何も言い返さなかった。
言葉では折れていない。
だが結果は変わらない。
その事実が、宝泉には心地よかった。
須藤とは違う楽しさだった。
須藤は重かった。
七瀬は鋭かった。
身体能力では須藤。
戦闘の技術では七瀬。
そう考えれば、この学校も捨てたもんじゃない。
まだまだ殴り甲斐のある奴がいる。
宝泉の胸の奥で、熱が膨らんでいく。
昨日よりもさらに強い高揚。
自分はまだ勝てる。
自分の暴力は、まだ誰にも止められていない。
堀北も伊吹も。
須藤も。
七瀬も。
全員、最後は地面に沈んだ。
だったら次は誰だ。
龍園か。
アルベルトか。
天沢か。
あるいは、あの綾小路か。
考えるだけで、喉の奥から笑いが込み上げてきた。
「ハ……」
七瀬が顔を上げる。
宝泉は空を見上げた。
夕暮れの色が、寮裏の壁を赤く染めている。
その赤が、まるで次の喧嘩を煽っているように見えた。
「ハハハハハハッ!」
宝泉の高笑いが、寮裏に響いた。
七瀬はその声を、苦しげな息の合間に聞いていた。
宝泉は振り返らず歩き出す。
身体は熱い。
拳は疼いている。
もっとだ。
もっと強い奴を潰す。
この調子で全部ぶっ潰す。
そう思いながら、宝泉和臣はさらに深い暴力の階段を、何の迷いもなく上り始めていた。
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