龍園翔を倒した翌日、宝泉和臣はいつもより少しだけ機嫌が良かった。
身体のあちこちに痛みは残っている。
頬の奥に鈍い痺れがあり、脇腹には龍園の蹴りの名残が沈み、
拳を握ると皮膚の下で熱が疼いた。
だが、それがいい。
痛みがあるということは、喧嘩をしたということだ。
相手が本気でこちらを倒しに来たということだ。
そして、それでも最後に立っていたのは自分だった。
堀北と伊吹。
須藤。
七瀬。
龍園。
全員、宝泉の前に沈んだ。
順番に潰していくたびに、
身体の奥に溜まっていた鈍りが削ぎ落とされていくのが分かる。
暴力の勘が戻ってきている。
攻撃を受ける感覚。
相手の呼吸を読む感覚。
殴った瞬間に、その一撃がどこまで相手に届いたかを測る感覚。
全部が少しずつ鮮明になっていた。
だからこそ、宝泉は次の相手を考えていた。
龍園をもう一度潰すか。
天沢に手を出すか。
それとも、もっと分かりやすくデカい奴を探すか。
そんなことを考えながら、放課後の校舎脇を歩いていた時だった。
前方に、巨大な影が立っていた。
山田アルベルト。
龍園の側近。
この学校の中でも明らかに異質な体格を持つ男。
宝泉よりも大柄で、肩幅も厚く、ただ立っているだけで壁のような圧がある。
しかも須藤に近い身体能力。
いや、単純な威圧感だけなら須藤より上かもしれない。
そして何より、龍園の側で何度も前線に立ってきた男だ。
並の不良とは違う。
宝泉は以前から、一度やってみたいと思っていた。
「……おいおい」
宝泉は笑った。
「まさかテメェの方から来るとはな」
アルベルトは無言だった。
表情は変わらない。
静かにこちらを見ている。
その無言が逆にいい。
龍園のように煽らない。
須藤のように怒鳴らない。
七瀬のように正論を並べない。
ただ、そこに立っている。
それだけで、こいつが軽い相手ではないと分かる。
「龍園の差し金か?」
アルベルトは少しだけ目を細めた。
答えない。
だが、それだけで十分だった。
昨日、龍園は言っていた。
このままじゃ終わらねえ、と。
そして今日、アルベルトが来た。
分かりやすい。
龍園翔は、すでに次の手を打ってきたというわけだ。
「……あいつらしいじゃねえか」
宝泉は肩を鳴らした。
「刺客ってやつか。面白れぇ」
アルベルトはゆっくり拳を握った。
その拳が大きい。
硬そうだ。
当たれば、さすがの宝泉でも無傷では済まない。
久しぶりに、胸の奥が熱くなった。
今までとは違う。
こいつは本気でやらなきゃまずい。
「ずっと一度やってみたかったんだよ、アルベルトパイセン」
宝泉は低く笑う。
「今日は遠慮なしで潰してやる」
次の瞬間、二人は同時に動いた。
先に届いたのは、アルベルトの拳だった。
速い。
大柄な身体からは想像できない鋭さ。
宝泉は腕で受けたが、その瞬間、衝撃が骨まで響いた。
「ぐっ……!」
重い。
須藤の拳とも違う。
龍園の嫌らしい攻撃とも違う。
ただ純粋に、質量がある。
パワーが桁違いだ。
受けただけで腕が痺れる。
宝泉の足が半歩下がった。
それを見たアルベルトが、すぐに踏み込んでくる。
連撃。
拳。
肩。
膝。
一つ一つが重く、速い。
宝泉は受けながら、思わず笑った。
「ハッ……!」
やべぇな。
こいつは今までで一番強い。
それも、分かりやすく強い。
力で押してくる。
体格で潰してくる。
逃げ場を消してくる。
宝泉が好む喧嘩の土俵で、真正面からぶつかってくる。
最高じゃねぇか。
宝泉はアルベルトの拳を弾き、こちらも拳を叩き込んだ。
腹。
硬い。
まるで分厚い壁を殴ったような感触。
アルベルトの身体は揺れたが、倒れない。
すぐに反撃が来る。
宝泉の肩口に重い拳が入った。
鈍い痛みが走る。
体勢が崩れる。
そこへアルベルトの膝が迫る。
宝泉はギリギリで腕を差し込み、直撃を避けた。
それでも衝撃だけで息が詰まる。
「ぐ……っ」
強い。
明らかに強い。
龍園よりはるかに上だ。
須藤とも七瀬とも比較にならない。
こいつは本物の前衛だ。
龍園が前線で頼りにするのも分かる。
だが、だからこそ燃える。
宝泉は足を踏み直し、真正面からアルベルトにぶつかった。
肩と肩が衝突する。
普通なら宝泉の体当たりで吹き飛ぶ。
だがアルベルトは下がらない。
逆に押し返してくる。
「……!」
宝泉の足裏が地面を削る。
力比べ。
それだけで分かった。
純粋な体格とパワーだけなら、こいつは宝泉に匹敵する。
いや、部分的には上かもしれない。
「ハハッ!」
宝泉は笑った。
「いいぜ、アルベルトパイセン!」
アルベルトは答えない。
ただ無言で、拳を振るう。
宝泉はそれを頬に受けた。
視界が揺れる。
口の中に血の味が広がる。
それでも倒れない。
すぐに頭を戻し、アルベルトの脇腹へ拳を突き刺す。
今度は少し深く入った。
アルベルトの呼吸がわずかに乱れる。
見えた。
効いている。
こいつも人間だ。
殴れば削れる。
痛みを感じる。
だったら潰せる。
そこから戦いは、ほとんど拮抗した。
技術ではない。
策でもない。
圧と圧。
力と力。
重さと重さ。
どちらが先に崩れるかだけの、原始的な殴り合いだった。
宝泉の拳がアルベルトの肩を打つ。
アルベルトの拳が宝泉の腹を沈める。
宝泉の蹴りが膝横を削る。
アルベルトの体当たりが宝泉を壁際へ追い込む。
何度も距離が詰まり、何度も弾かれ、何度も呼吸が乱れる。
校舎裏の空気が熱を持つ。
夕方の風など、もう感じなかった。
身体の中で燃えている熱の方が、ずっと強かった。
十分。
二十分。
三十分。
時間の感覚は途中から消えていた。
ただ拳を振るい、受け、返し、踏みとどまる。
それだけだ。
途中でアルベルトの一撃が宝泉の腹に深く入った。
息が完全に止まった。
膝が落ちかける。
その瞬間、宝泉は自分でも分かるほど危なかった。
普通なら倒れている。
いや、少なくとも一度距離を取るべき場面だった。
だが宝泉は下がらなかった。
逆に前へ出た。
「舐めんなよ……!」
声が喉の奥から漏れる。
アルベルトの腕を掴み、額がぶつかるほどの距離まで引き寄せる。
そして、至近距離から拳を連続で叩き込む。
腹。
胸。
肩。
同じ場所へ、執拗に。
一発で倒せないなら、何発でも入れればいい。
壊れるまで打つ。
削れるまで打つ。
それが宝泉和臣の喧嘩だ。
アルベルトも負けていない。
無言のまま、宝泉の背中や脇へ重い反撃を返してくる。
どちらの足もふらつき始めていた。
呼吸は荒い。
汗が額から流れる。
拳は痛みを通り越して熱い。
それでも二人は止まらない。
一時間を越えた頃には、さすがの宝泉も限界が近かった。
肺が焼けるようだった。
腕が鉛のように重い。
足も思うように動かない。
アルベルトも同じだ。
巨体が揺れている。
無言のまま立っているが、呼吸は明らかに乱れていた。
ここまで来れば、どちらが強いかではない。
どちらが最後まで立つかだ。
宝泉は笑った。
息も切れ切れで、口元から血を流しながら、それでも笑った。
「……面白ぇじゃねぇか!」
アルベルトは答えない。
だが、わずかに拳を握り直した。
まだ来る。
なら、こっちも行く。
宝泉は最後の力で踏み込んだ。
アルベルトの拳が迫る。
宝泉はそれを完全には避けられなかった。
肩に衝撃が入る。
だが止まらない。
止まれば負ける。
そのまま懐へ入り、アルベルトの腹へ全力の拳を叩き込んだ。
深く入った。
今までで一番深く。
アルベルトの身体が初めて大きく折れた。
宝泉は逃がさない。
さらに一歩踏み込み、肩からぶつかる。
巨体が揺れる。
それでも倒れない。
だから最後に、もう一発。
顎ではなく、胸。
呼吸を奪う場所。
全体重を乗せた一撃だった。
アルベルトの足がついに崩れた。
巨体がゆっくりと地面へ沈む。
倒れた音は、重かった。
校舎裏に、しばらく何の音もなかった。
宝泉は立っていた。
肩で大きく息をしている。
視界が少し揺れている。
腹も、肩も、腕も、全部痛い。
今すぐ座り込みたいくらいだった。
だが立っていた。
最後に立っていたのは、自分だった。
「……ハ……」
小さく笑いが漏れる。
勝った。
山田アルベルトに勝った。
ぶっちゃけ、負けていてもおかしくなかった。
途中で一度でも気を抜いていたら、たぶん自分が倒れていた。
力でも押された。
耐久でも削られた。
今までの相手とは違った。
本気で危なかった。
それが、たまらなく嬉しかった。
宝泉は拳を握る。
痛みで指が軋む。
それでも握る。
この痛みは勝利の証だ。
自分が本気で戦い、ギリギリのところで相手を上回った証だ。
「……面白れぇ戦いだったぜ」
倒れたアルベルトに向かって、宝泉は低く呟いた。
それは珍しく、嘲笑ではなかった。
少なくともこの瞬間だけは、アルベルトを一人の強敵として認めていた。
龍園が送り込んできた刺客。
その実力は確かだった。
だが、それでも勝った。
宝泉和臣はまだ負けていない。
まだ上へ行ける。
この学校の強者どもを、まだ潰せる。
胸の奥に、これまでとは違う高揚が広がった。
堀北や伊吹を倒した時の軽い優越感ではない。
須藤や七瀬を倒した時の手応えでもない。
龍園を倒した時の愉快さとも違う。
これは、限界に近い相手を倒した喜びだ。
本気を出して、傷を負って、それでも勝ち取った勝利だ。
宝泉は空を見上げた。
夕暮れはすでに濃くなり、校舎裏には夜の気配が降り始めていた。
身体はボロボロだ。
だが、心は笑っていた。
「ハ……ハハ……」
声が漏れる。
今度の笑いは、いつもの高笑いより少し低く、少し熱を帯びていた。
「ハハハハハハッ!」
勝った。
勝ったのだ。
アルベルトに。
龍園よりはるかに強い、あの巨体の怪物に。
その事実が、宝泉の自信をさらに膨らませる。
もう誰にも負けねぇ。
そう思った。
いや、思い込んだ。
ここまで来れば、次に待つ奴らにも手が届くはずだ。
天沢。
八神。
高円寺。
綾小路。
その名前を浮かべても、今の宝泉は恐れなかった。
むしろ、早くやりたくて仕方がなかった。
この拳がどこまで届くのか。
この暴力がどこまで通じるのか。
試したくてたまらなかった。
宝泉はふらつく足で校舎裏を後にする。
背後には、倒れたアルベルトの重い呼吸が残っていた。
勝利の余韻を噛み締めながら歩く宝泉の顔には、凶暴な笑みが浮かんでいた。
この時の宝泉はまだ知らない。
アルベルトとの一時間を越える死闘は、彼の実力が戻った証であると同時に、
ここから先の相手がその実力すら踏み越えてくるという残酷な予告であったことを。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。